文化祭までは、まだ少しある。 そのはずなのに、凪先輩の中ではたぶんもう全然「まだ」じゃない。
放課後、駅前のハンバーガー屋。 窓際の奥の席に向かい合って座りながら、俺はそれをじわじわ実感していた。
「文化祭って、身内以外もいるだろ」
凪先輩はネタ帳を開いたまま言う。
「だから、内輪ノリだけだと弱いんだよな。先生とか、あんまお笑い見ないやつにも分かる入りにしたい」
「へえ」
「最初の一分で空気つかみたいし、サクのツッコミも早めに見せたい。で、一回ちゃんと跳ねて、最後はもう一段上げる感じ」
「ちゃんと考えてるんすね」
「ちゃんとやるからな」
その言い方がやけにまっすぐで、俺は一瞬だけ顔を上げた。 でもちょうどその時、レジ横を通った店員の子が目に入って、意識がそっちへ流れた。
同じくらいの年かなと思う。 バイトの制服にポニーテールが似合っていて、笑ったらたぶんかわいい。
「サク、聞いてる?」
顔を戻すと、凪先輩がネタ帳の向こうからこっちを見ていた。
「聞いてるっすよ」
「ほんとか?」
「文化祭は分かりやすい入りがいいって話でしょ」
「そこは合ってるけど、そのあとは?」
「……最初の一分?」
「いや、それさっき言ったやつ」
図星だった。 凪先輩はため息こそつかなかったけど、ページをめくる指が少しだけ雑になる。
「じゃあ、ドライブスルーのやつやるぞ」
「今?」
「今。俺が店員」
「また急っすね」
凪先輩は咳払いをひとつして、急に営業スマイルみたいな顔を作った。
「いらっしゃいませ! こんにちは! マイクに向かってこんにちは!」
勢いに押されて、俺は反射で口を開いた。
「こんにちは!……じゃなくて、ご注文をどうぞ、だろ!」
言った瞬間、凪先輩がぱっと笑った。 完全に狙っていた顔だった。
「今のいい」
「うわ、誘導された」
「ちゃんと引っかかってくれた」
「引っかけるなよ」
「でもノリツッコミになったじゃん」
「それはまあ、そうっすけど」
凪先輩はすぐネタ帳へ何かを書き込む。
「この入り、やっぱ強いな。で、そのあと俺がねぎらい入れて」
「運転お疲れさまでした、でしたっけ」
「そう。そこからサクが」
「ねぎらいから入る店員いるか、ね」
「そうそう。で、その次に飲み物聞くくだりなんだけど」
凪先輩が顔を上げる。
「安心感のあるものになさいますか、ってやつ、どう思う?」
また、店員の子が近くを通る。 ついそっちを見そうになって、でも見たらまずい気がして、慌てて視線を戻す。
たぶん、その一瞬でばれた。
「……あのさ」
凪先輩がポテトを一本つまむ。
「別に、ずっと全力出せとは言わないけど」
「はい」
「ネタやってる時くらい、こっち見てほしいんだよな」
思ったより、真っすぐだった。 冗談っぽく言うのかと思ったのに、そうじゃなかったから少し困る。
「見てますって」
「いや、見てない」
「……」
「サク、モテたいのは分かるよ」
凪先輩は少し苦笑いみたいに言う。
「でも文化祭のネタ作ってる時に、あの店員かわいいからあとで声かけようかなって考えてるの、顔に出すぎ」
「出てました?」
「出てた」
「うわ」
恥ずかしい。 思わず顔をしかめると、凪先輩は小さく笑った。 けど、その笑いもいつもみたいな軽さじゃない。
「俺、文化祭、ちゃんとウケたいんだよ」
「……はい」
「せっかく組んだし、サクと最初の舞台だし」
その言い方はずるい。 最初の舞台とか言われると、こっちだけ雑にしてるみたいになる。
「すみません」
思わずそう言うと、凪先輩は少しだけ目を丸くした。
「いや、謝らせたいわけじゃなくて」
「でも、まあ」
「うん」
「……次、ちゃんとやります」
「じゃあ、今やって」
「今かよ」
そこは即か。 ついそう返したら、凪先輩がやっといつもの顔で笑った。
「ほら、そういうの」
「どれっすか」
「返し早いとこ」
その日は結局、最後まで少しぎこちなかった。
翌日、部室に着くと、まだ凪先輩は来ていなかった。
引き戸を開けると、八坂先輩が床にしゃがみ込んで段ボールに何か貼っている。 櫻葉先輩はその横でカッターを持ちながら、それを見ていた。
「あ、サク」
八坂先輩が顔を上げる。
「早いじゃん」
「まあ」
「凪まだ来てないよ」
「見れば分かります」
鞄を机の横に置く。部室の空気は相変わらず段ボールくさい。
「珍しいね」
櫻葉先輩がこっちを見る。
「雪代が凪より先に来るの」
「たまたまっす」
「ふうん」
その一言が妙に意味深に聞こえて、少し居心地が悪い。
櫻葉先輩は、カッターの刃をしまいながら机にもたれた。
「昨日、ネタ合わせしてたんでしょ」
「まあ」
「どうだった」
どう、って聞かれると困る。
「普通っす」
「普通じゃなさそうだけど」
「……そんな顔してます?」
「ちょっと」
櫻葉先輩は、少しだけ視線を落として、それからこっちを見る。
「凪って、ネタになるとわりと本気だから」
「それはまあ、昨日ちょっと思いました」
「ちょっと、じゃなくて、たぶん思ってるよりずっと」
櫻葉先輩は少しだけ間を置いて続けた。
「前に組んでた三年の先輩、いたでしょ」
「はい」
「別に仲悪くなったわけじゃないよ。受験あるし、しょうがなかった」
「うん」
「でも、最後のほうちょっとしんどそうだった」
八坂先輩の手も、いつの間にか止まっていた。 部室が少しだけ静かになる。
「凪はまだやりたかったし、先輩はもう勉強に切り替えてたから。熱量がずれてたんだよね」
櫻葉先輩は淡々と続ける。
「だからまあ、相方とネタ作ってる時間そのものを、結構大事にしてると思う」
昨日の凪先輩の顔が、そのまま浮かんだ。
ネタやってる時くらい、こっち見てほしい。
あれ、ただの不機嫌じゃなかったのか。
俺は昨日、ただちょっと気が散っていただけのつもりだった。 でも凪先輩にとっては、やっとできた相方との時間を、俺が片手間で流していたように見えても仕方なかった。
「……別に、店員の子見てたのばれてたしな」
ぼそっと言うと、櫻葉先輩が目を細めた。
「うわ、ほんとに何かあったんだ」
「いや、何かってほどじゃ」
「最低だな、サク!」
八坂先輩が楽しそうに食いつく。
「凪とネタ作りながら、店員の子見てたの!?」
「声でかいっす」
ちょっと恥ずかしくなって視線をそらした、その時だった。 引き戸ががらっと開く。
「おはよー」
凪先輩だった。 いつも通りの声。いつも通りの眼鏡。 でも、こっちはさっきの話を聞いたばかりだから、少しだけ見え方が違う。
「サク、早いじゃん」
「まあ」
「今日やる気ある?」
「あります」
自分でも思ってたより即答だった。 凪先輩が少しだけ目を丸くして、それから笑う。
「へえ」
「何すか」
「いや、ちゃんと返ってきたなと思って」
「昨日も返してたでしょ」
「昨日より前向き」
そういうの、やっぱりすぐ気づくんだなと思う。
「じゃあ行くか。ハンバーガー屋」
凪先輩は俺のほうを見る。
「サク、今日は逃げない?」
「逃げませんよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ信じる」
その言い方が、昨日より少し軽い。 たぶん、それだけで十分だった。
ハンバーガー屋は今日も混んでいた。
昨日と同じ窓際の席に座ると、凪先輩はネタ帳を開く前にこっちを見た。
「サク」
「なんすか」
「今日はちゃんとこっち見てるじゃん」
言われて、少しだけ気まずくなる。 でも、凪先輩の顔が意地悪じゃなかったから、逃げずに返せた。
「昨日は、すみませんでした」
「お、珍しく素直」
「たまには」
「いいよ。今日はちゃんとやろ」
その一言で、妙に肩の力が抜けた。
「じゃあ一回通すぞ」
凪先輩が姿勢を正す。 その顔を見て、俺も背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ! こんにちは! マイクに向かってこんにちは!」
「こんにちは!……じゃなくて、ご注文をどうぞ、だろ!」
「失礼しました。では改めまして、ようこそドライブスルーへ。ご注文の前に、運転お疲れさまでした」
「ねぎらいから入る店員いるか!」
「心のケアもサービスの一環です」
「いらねえんだよ! ここファストフードだろ!」
そのまま何往復かしたところで、凪先輩が急に吹き出した。
「やっぱそこいいな」
「どこっすか」
「『いらねえんだよ』のとこ。普通がちょうどいい」
凪先輩はネタ帳に何か書き込みながら顔を上げた。 たぶん昨日よりちゃんと面白かった。 少なくとも、凪先輩が楽しそうなのが分かるし、俺もそれにつられて集中している。
「サク」
「なんすか」
「彼女ができたら退部、って言ってたじゃん」
「はい」
「できるまで、ちゃんとやれよ」
「それ、期限付きのやる気みたいで嫌なんすけど」
「だって期間限定かもしれないし」
「自分で言ってへこまないでくださいよ」
ほんとに少しだけしょんぼりした顔をするから、笑ってしまう。 こういうとこ、ずるい。
でも昨日みたいに、ちゃんと見ていれば分かる。 この人はたぶん、思ってる以上に真面目で、雑に扱われるのが嫌なんだ。
「……まあ」
俺はコーラを一口飲んでから言った。
「文化祭までは、ちゃんとやりますよ」
凪先輩が止まる。 目だけがこっちを見て、それから少しだけ口元が上がる。
「うん」
「何すか、その顔」
「いや。嬉しいなって思っただけ」
それだけなのに、なんか急にむずがゆい。 俺はごまかすようにポテトをつかんだ。
「じゃあ続きやるぞ」
凪先輩が言う。
「そのままの勢いでいいから」
「どの勢いだよ」
「今の感じ」
「雑すぎるって」
「でも分かるだろ」
「出た、それ」
そう返したら、凪先輩は嬉しそうに笑った。
女子にモテたい気持ちがなくなったわけじゃない。 相変わらずかわいい子は気になる。
でも少なくとも今この時間だけは、そっちより凪先輩のネタ帳のほうを見ていた。
店を出た時、五月の空はもうやわらかい紺色に変わっていた。
「文化祭、絶対ウケような」
「急に熱いな」
「急じゃない。ずっと熱い」
「それは知ってます」
そう返すと、凪先輩は少しだけ笑った。
「じゃあよかった。サクにも、ちょっと伝わってるなら」
その言葉に、すぐ返事はできなかった。 でも、黙ったままでも嫌じゃなかった。
俺たちはそのまま駅まで並んで歩いた。 たいして長くない道なのに、昨日より少しだけ距離が近い気がした。
放課後、駅前のハンバーガー屋。 窓際の奥の席に向かい合って座りながら、俺はそれをじわじわ実感していた。
「文化祭って、身内以外もいるだろ」
凪先輩はネタ帳を開いたまま言う。
「だから、内輪ノリだけだと弱いんだよな。先生とか、あんまお笑い見ないやつにも分かる入りにしたい」
「へえ」
「最初の一分で空気つかみたいし、サクのツッコミも早めに見せたい。で、一回ちゃんと跳ねて、最後はもう一段上げる感じ」
「ちゃんと考えてるんすね」
「ちゃんとやるからな」
その言い方がやけにまっすぐで、俺は一瞬だけ顔を上げた。 でもちょうどその時、レジ横を通った店員の子が目に入って、意識がそっちへ流れた。
同じくらいの年かなと思う。 バイトの制服にポニーテールが似合っていて、笑ったらたぶんかわいい。
「サク、聞いてる?」
顔を戻すと、凪先輩がネタ帳の向こうからこっちを見ていた。
「聞いてるっすよ」
「ほんとか?」
「文化祭は分かりやすい入りがいいって話でしょ」
「そこは合ってるけど、そのあとは?」
「……最初の一分?」
「いや、それさっき言ったやつ」
図星だった。 凪先輩はため息こそつかなかったけど、ページをめくる指が少しだけ雑になる。
「じゃあ、ドライブスルーのやつやるぞ」
「今?」
「今。俺が店員」
「また急っすね」
凪先輩は咳払いをひとつして、急に営業スマイルみたいな顔を作った。
「いらっしゃいませ! こんにちは! マイクに向かってこんにちは!」
勢いに押されて、俺は反射で口を開いた。
「こんにちは!……じゃなくて、ご注文をどうぞ、だろ!」
言った瞬間、凪先輩がぱっと笑った。 完全に狙っていた顔だった。
「今のいい」
「うわ、誘導された」
「ちゃんと引っかかってくれた」
「引っかけるなよ」
「でもノリツッコミになったじゃん」
「それはまあ、そうっすけど」
凪先輩はすぐネタ帳へ何かを書き込む。
「この入り、やっぱ強いな。で、そのあと俺がねぎらい入れて」
「運転お疲れさまでした、でしたっけ」
「そう。そこからサクが」
「ねぎらいから入る店員いるか、ね」
「そうそう。で、その次に飲み物聞くくだりなんだけど」
凪先輩が顔を上げる。
「安心感のあるものになさいますか、ってやつ、どう思う?」
また、店員の子が近くを通る。 ついそっちを見そうになって、でも見たらまずい気がして、慌てて視線を戻す。
たぶん、その一瞬でばれた。
「……あのさ」
凪先輩がポテトを一本つまむ。
「別に、ずっと全力出せとは言わないけど」
「はい」
「ネタやってる時くらい、こっち見てほしいんだよな」
思ったより、真っすぐだった。 冗談っぽく言うのかと思ったのに、そうじゃなかったから少し困る。
「見てますって」
「いや、見てない」
「……」
「サク、モテたいのは分かるよ」
凪先輩は少し苦笑いみたいに言う。
「でも文化祭のネタ作ってる時に、あの店員かわいいからあとで声かけようかなって考えてるの、顔に出すぎ」
「出てました?」
「出てた」
「うわ」
恥ずかしい。 思わず顔をしかめると、凪先輩は小さく笑った。 けど、その笑いもいつもみたいな軽さじゃない。
「俺、文化祭、ちゃんとウケたいんだよ」
「……はい」
「せっかく組んだし、サクと最初の舞台だし」
その言い方はずるい。 最初の舞台とか言われると、こっちだけ雑にしてるみたいになる。
「すみません」
思わずそう言うと、凪先輩は少しだけ目を丸くした。
「いや、謝らせたいわけじゃなくて」
「でも、まあ」
「うん」
「……次、ちゃんとやります」
「じゃあ、今やって」
「今かよ」
そこは即か。 ついそう返したら、凪先輩がやっといつもの顔で笑った。
「ほら、そういうの」
「どれっすか」
「返し早いとこ」
その日は結局、最後まで少しぎこちなかった。
翌日、部室に着くと、まだ凪先輩は来ていなかった。
引き戸を開けると、八坂先輩が床にしゃがみ込んで段ボールに何か貼っている。 櫻葉先輩はその横でカッターを持ちながら、それを見ていた。
「あ、サク」
八坂先輩が顔を上げる。
「早いじゃん」
「まあ」
「凪まだ来てないよ」
「見れば分かります」
鞄を机の横に置く。部室の空気は相変わらず段ボールくさい。
「珍しいね」
櫻葉先輩がこっちを見る。
「雪代が凪より先に来るの」
「たまたまっす」
「ふうん」
その一言が妙に意味深に聞こえて、少し居心地が悪い。
櫻葉先輩は、カッターの刃をしまいながら机にもたれた。
「昨日、ネタ合わせしてたんでしょ」
「まあ」
「どうだった」
どう、って聞かれると困る。
「普通っす」
「普通じゃなさそうだけど」
「……そんな顔してます?」
「ちょっと」
櫻葉先輩は、少しだけ視線を落として、それからこっちを見る。
「凪って、ネタになるとわりと本気だから」
「それはまあ、昨日ちょっと思いました」
「ちょっと、じゃなくて、たぶん思ってるよりずっと」
櫻葉先輩は少しだけ間を置いて続けた。
「前に組んでた三年の先輩、いたでしょ」
「はい」
「別に仲悪くなったわけじゃないよ。受験あるし、しょうがなかった」
「うん」
「でも、最後のほうちょっとしんどそうだった」
八坂先輩の手も、いつの間にか止まっていた。 部室が少しだけ静かになる。
「凪はまだやりたかったし、先輩はもう勉強に切り替えてたから。熱量がずれてたんだよね」
櫻葉先輩は淡々と続ける。
「だからまあ、相方とネタ作ってる時間そのものを、結構大事にしてると思う」
昨日の凪先輩の顔が、そのまま浮かんだ。
ネタやってる時くらい、こっち見てほしい。
あれ、ただの不機嫌じゃなかったのか。
俺は昨日、ただちょっと気が散っていただけのつもりだった。 でも凪先輩にとっては、やっとできた相方との時間を、俺が片手間で流していたように見えても仕方なかった。
「……別に、店員の子見てたのばれてたしな」
ぼそっと言うと、櫻葉先輩が目を細めた。
「うわ、ほんとに何かあったんだ」
「いや、何かってほどじゃ」
「最低だな、サク!」
八坂先輩が楽しそうに食いつく。
「凪とネタ作りながら、店員の子見てたの!?」
「声でかいっす」
ちょっと恥ずかしくなって視線をそらした、その時だった。 引き戸ががらっと開く。
「おはよー」
凪先輩だった。 いつも通りの声。いつも通りの眼鏡。 でも、こっちはさっきの話を聞いたばかりだから、少しだけ見え方が違う。
「サク、早いじゃん」
「まあ」
「今日やる気ある?」
「あります」
自分でも思ってたより即答だった。 凪先輩が少しだけ目を丸くして、それから笑う。
「へえ」
「何すか」
「いや、ちゃんと返ってきたなと思って」
「昨日も返してたでしょ」
「昨日より前向き」
そういうの、やっぱりすぐ気づくんだなと思う。
「じゃあ行くか。ハンバーガー屋」
凪先輩は俺のほうを見る。
「サク、今日は逃げない?」
「逃げませんよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ信じる」
その言い方が、昨日より少し軽い。 たぶん、それだけで十分だった。
ハンバーガー屋は今日も混んでいた。
昨日と同じ窓際の席に座ると、凪先輩はネタ帳を開く前にこっちを見た。
「サク」
「なんすか」
「今日はちゃんとこっち見てるじゃん」
言われて、少しだけ気まずくなる。 でも、凪先輩の顔が意地悪じゃなかったから、逃げずに返せた。
「昨日は、すみませんでした」
「お、珍しく素直」
「たまには」
「いいよ。今日はちゃんとやろ」
その一言で、妙に肩の力が抜けた。
「じゃあ一回通すぞ」
凪先輩が姿勢を正す。 その顔を見て、俺も背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ! こんにちは! マイクに向かってこんにちは!」
「こんにちは!……じゃなくて、ご注文をどうぞ、だろ!」
「失礼しました。では改めまして、ようこそドライブスルーへ。ご注文の前に、運転お疲れさまでした」
「ねぎらいから入る店員いるか!」
「心のケアもサービスの一環です」
「いらねえんだよ! ここファストフードだろ!」
そのまま何往復かしたところで、凪先輩が急に吹き出した。
「やっぱそこいいな」
「どこっすか」
「『いらねえんだよ』のとこ。普通がちょうどいい」
凪先輩はネタ帳に何か書き込みながら顔を上げた。 たぶん昨日よりちゃんと面白かった。 少なくとも、凪先輩が楽しそうなのが分かるし、俺もそれにつられて集中している。
「サク」
「なんすか」
「彼女ができたら退部、って言ってたじゃん」
「はい」
「できるまで、ちゃんとやれよ」
「それ、期限付きのやる気みたいで嫌なんすけど」
「だって期間限定かもしれないし」
「自分で言ってへこまないでくださいよ」
ほんとに少しだけしょんぼりした顔をするから、笑ってしまう。 こういうとこ、ずるい。
でも昨日みたいに、ちゃんと見ていれば分かる。 この人はたぶん、思ってる以上に真面目で、雑に扱われるのが嫌なんだ。
「……まあ」
俺はコーラを一口飲んでから言った。
「文化祭までは、ちゃんとやりますよ」
凪先輩が止まる。 目だけがこっちを見て、それから少しだけ口元が上がる。
「うん」
「何すか、その顔」
「いや。嬉しいなって思っただけ」
それだけなのに、なんか急にむずがゆい。 俺はごまかすようにポテトをつかんだ。
「じゃあ続きやるぞ」
凪先輩が言う。
「そのままの勢いでいいから」
「どの勢いだよ」
「今の感じ」
「雑すぎるって」
「でも分かるだろ」
「出た、それ」
そう返したら、凪先輩は嬉しそうに笑った。
女子にモテたい気持ちがなくなったわけじゃない。 相変わらずかわいい子は気になる。
でも少なくとも今この時間だけは、そっちより凪先輩のネタ帳のほうを見ていた。
店を出た時、五月の空はもうやわらかい紺色に変わっていた。
「文化祭、絶対ウケような」
「急に熱いな」
「急じゃない。ずっと熱い」
「それは知ってます」
そう返すと、凪先輩は少しだけ笑った。
「じゃあよかった。サクにも、ちょっと伝わってるなら」
その言葉に、すぐ返事はできなかった。 でも、黙ったままでも嫌じゃなかった。
俺たちはそのまま駅まで並んで歩いた。 たいして長くない道なのに、昨日より少しだけ距離が近い気がした。


