次の日の放課後、俺は少しだけ後悔していた。 なんで昨日、あんな流れで明日の約束までしてしまったんだろう。 入部した翌日に、いきなり打ち合わせ。しかも駅前のハンバーガー屋。 意味が分からない。
教室の窓から外を見ると、まだ夕方の明るさが残っていた。 五月の空は思ったより高くて、グラウンドの端ではサッカー部の影が動いている。 見ていると、ちょっとだけあっちに行っていたかもしれない自分を考えた。
「雪代、帰んの?」
後ろの席のやつに声をかけられて、俺は振り返る。
「今日は部活?」
「まあ、そんなとこ」
「サッカー部?」
「いや」
少しだけ答えに詰まる。
「……別のとこ」
「へえ」
それ以上は聞かれなかった。 助かったような気分のまま、鞄を肩にかける。
昇降口を出て駅前に向かう道は、部活帰りの生徒や買い物帰りの人でそこそこ混んでいた。 昼間のぬくさが少し残っていて、風だけが夕方らしい。
駅前のハンバーガー屋は、ガラス越しに見える店内が妙に明るかった。 制服姿の高校生が多くて、店内にはポテトの匂いと油の熱気が混ざっている。
その奥、窓際の四人席に、もう凪先輩はいた。
トレーの上には、ハンバーガーとポテトとドリンク。 ネタ帳まで広げられている。 眼鏡の奥の目がこっちを見つけて、すぐに明るくなった。
「サク、こっち」
当然みたいに呼ばれて、俺は小さく息を吐いた。 昨日ついたばっかの呼び名なのに、もうだいぶ板についているのが腹立つ。
「早いっすね」
「十分前にはいた」
「気合い入りすぎでしょ」
「打ち合わせだからな」
そんなに真顔で言うことか。 俺は席の横に立った。
「とりあえず注文してきます」
「おう。何にする?」
「普通に食いたいやつですけど」
「いや、お前が何頼むのか知っときたい」
「なんでですか」
「相方の好みは大事だから」
その言い方に、少しだけ足が止まる。
相方。 まだ慣れない言葉なのに、やたら自然に使ってくるから調子が狂う。
「……じゃあ、てりやき」
「へえ」
「何その反応」
「もっと顔のいいやつが頼みそうなメニューあるかと思って」
「顔のいいやつが頼みそうなメニューって何っすか」
「アボカドとか」
「偏見ひどいな」
凪先輩はけらっと笑って、ポテトを一本口に放り込んだ。
注文を済ませて戻ると、凪先輩は当然みたいに向かいの席を顎で示した。
「そこ」
「どうも」
トレーを置いて座る。 窓の外はまだうっすら明るくて、通りを歩く人の影がゆっくり流れていた。 店内の冷房はちょうどいい。
「ここ、ほんとに定位置なんすね」
「そう。いちばん落ち着く」
「なんで」
「窓際で、人の流れ見えるし、端だから周りの音がちょうどいい」
「細か」
「あと、ポテトが冷めにくい」
「最後ちょっとよく分かんないっす」
そう返すと、凪先輩はまた楽しそうに笑った。
「で」
凪先輩がネタ帳を開き直す。
「まずはコンビ名決めよう」
「まだそこなんすか」
「最初がそこ」
「ネタじゃなくて?」
「名前があると本物っぽくなる」
気持ちは分からなくもない。 でも早すぎるだろ、とも思う。
「じゃあ、もう考えてるんすか」
「ある」
「やっぱり」
「あるよ」
凪先輩は一拍置いて言った。
「放課後バーガー」
俺は思わず顔を上げた。
「そのまますぎるだろ」
「いいじゃん。覚えやすい」
「店入って五秒で決めた感すごいっすよ」
「実際そうだし」
「開き直るなよ」
凪先輩は平然とポテトをつまんだ。
「でもさ、俺らっぽくない?」
「どこが」
「放課後で、高校生で、ハンバーガー屋で、ちょっと安っぽいけど親しみやすい」
「自分で安っぽいって言った」
「褒め言葉だよ」
「どこがっすか」
ハンバーガーを開きながらため息をつく。 でも、言われてみれば耳には残る。 ダサいのに覚えやすい。そういうところが少しずるい。
「他の候補は」
「ない」
「即答かよ」
「昨日の夜ちょっと考えたけど、結局これがよかった」
「考えたんだ」
「考えるだろ。相方できたんだから」
またその言い方だ。 あまりにも自然で、こっちだけ変に意識してるみたいになる。
「……じゃあ、まあ」
「うん」
「別に、それでいいっす」
「ほんと?」
「でもそのまますぎるとは思ってます」
「思ってていいよ。あとで絶対好きになるから」
「ならないっす」
「なるって」
凪先輩はそう言って、ネタ帳に大きく書いた。
放課後バーガー
その文字を見ていると、なんとなく実感が湧く。 まだ漫才らしい漫才もしてないのに、名前だけ先にできる。 そういう雑さが、たぶんこの人らしい。
「じゃあ次」
「まだあるんすか」
「ある。どっちがボケでどっちがツッコミか」
「いや、それはもうほぼ決まってるでしょ」
「一ノ瀬先輩がボケ、俺がツッコミ」
「正解」
そこは満足そうに頷くんだなと思う。
「でもさ」
凪先輩がコーラを一口飲む。
「サクって、普段はそこまで口数多くないのに、返す時だけ温度上がるよな」
「そうっすか?」
「うん。だから向いてる」
「またそれ」
「大事なんだって、温度差」
「知らないっすよ、そんな理論」
「今知ったじゃん」
ほんと、この人は何でも自分ルールに持っていく。 でも嫌かと言われると微妙だった。
凪先輩の言葉には軽さがあるのに、見てるところは変にちゃんとしている。 昨日だってそうだ。適当に返したつもりの言葉を、ちゃんと拾って面白がって、本気で喜んでいた。
「で、ネタの話なんだけど」
凪先輩がネタ帳をこっちに向ける。
「最初は文化祭向けに、分かりやすいやつがいいと思う」
「へえ」
「高校生でも先生でも笑えるやつ。勢いがあって、ちょっとキャラ立つやつ」
「具体的には?」
「たとえば無人島」
「急だな」
「遭難した時どうするかって設定だと、ツッコミいっぱい入れられるし」
「なんで遭難前提なんすか」
「そこはもう始まってるから」
「雑だなあ」
ネタ帳に書かれた断片を見せられる。 まだ形にはなってないけど、たしかにツッコミどころは多い。 変なやつに振り回される形だ。 俺に向いてると言われたのも、なんとなく分からなくはなかった。
「これ、凪先輩がボケるんすか」
「いや、そこちょっと迷ってる」
「え」
「俺、サクのほうが真顔で変なこと言うタイプだと思うんだよね」
「初日で何言ってんすか」
「だってお前、昨日の返し、全部素で変だったし」
「変なのはそっちでしょ」
「ほら今の」
「もうそれいいっす」
そう言いながら、俺は少し笑ってしまった。 凪先輩はすぐそこを見逃さない。
「今の顔いいな」
「何がっすか」
「ちょっと乗ってきた顔」
「乗ってないっす」
「乗ってる」
「決めつけがすごい」
向こうで凪先輩が嬉しそうに笑っている。 その顔を見ると、なんか言い返したくなる。言い返すと、もっと楽しそうにする。 そういうのが少しずつ出来上がってる感じがして、妙に落ち着かない。
「ねえサク」
「なんすか」
「一回やってみよう」
「今?」
「今」
「店の中っすよ」
「小声でいいじゃん」
「嫌だって」
「なんで」
「普通に恥ずい」
「昨日はできたのに」
「部室だからっす」
「ここもほぼ部室みたいなもんだろ」
「違うでしょ。ハンバーガー屋でしょ」
「放課後バーガーのホームだよ」
「今うまいこと言ったみたいな顔してるけど、全然っすよ」
凪先輩はテーブルに肘をついて、俺を見た。
「じゃあさ、練習」
「だから嫌だって」
「小さくでいいから」
「凪先輩が先やってくださいよ」
「いいよ」
あっさり言って、凪先輩はほんとに身を乗り出した。 そして、周りに聞こえないくらいの声で妙に真面目な顔を作る。
「もし無人島に流されたらどうする?」
なんでそんな顔でその台詞なんだ。 意味が分からないけど、何も返さないのも悔しい。
「まず凪先輩がうるさいから海に返す」
「ひどくない?」
「遭難してまでテンション高いのしんどいでしょ」
「いいね」
「何がっすか」
「その返し。そのまま使える」
「使わないっすよ」
でも凪先輩はもうネタ帳に書き込んでいる。 ほんとに早い。適当に返しただけなのに、こうやって形にされると少しだけ気分が変わる。 俺の言葉が、この人の中ではちゃんと材料として扱われている。
「サク」
「はい」
「お前、思ってたよりちゃんと相方かも」
「思ってたよりって何っすか」
「いや、もっと流されるだけかと思ってた」
「失礼だな」
「でもちゃんと返してくる」
「そりゃ返すでしょ」
「だからいいんだって」
そこで、俺はハンバーガーを一口かじった。 向かいでは、凪先輩がいつもの顔でポテトをつまんでいる。
窓の外は日がだいぶ傾いていて、薄青かった空が少しずつやわらかい色に変わっていた。 いつの間にか、ここに来る前に感じていた面倒くささは薄れていた。
「そういえば」
ふと思い出して、俺は顔を上げた。
「凪先輩、前もここで打ち合わせしてたんすか」
その瞬間、凪先輩の手が少しだけ止まった。
「……してたよ」
「前の相方と?」
「うん」
答えは軽かった。 でも、その一拍だけでなんとなく聞きすぎた気がした。
「別に、気にすんな」
凪先輩はすぐにいつもの調子に戻る。
「今はサクといるし」
さらっと言う。 重くしないくせに、妙に残る言い方をする。
「……別に、気にしてないっす」
「ほんとか?」
「ほんと」
「ならよかった」
凪先輩はそう言って笑って、またネタ帳に目を落とした。
でも俺は少しだけその横顔を見てしまった。 昨日、部室で「相方探し」って言った時みたいに、ほんの少しだけ違う顔をした気がしたからだ。
「サク」
「なんすか」
「次、お前ボケやってみて」
「また急だな」
「いいから。無人島に流されたらどうする?」
「……鳥見る」
「いいね」
「で、うまそうって言う」
「最高」
「なんでだよ」
凪先輩が笑う。 つられて、俺も少し笑う。
たぶんこの時にはもう、昨日よりはっきりしていた。 俺は思っていたより、この変な先輩といる時間を気に入り始めている。
もちろん、そんなことは口にしないけど。
帰り道、店を出た時の空気は思ったよりやわらかかった。 昼の熱が少しだけアスファルトに残っていて、そこへ夕方の風が混ざる。
店の前で、凪先輩が鞄を肩にかけ直す。
「今日、けっこうよかったな」
「何がっすか」
「最初の打ち合わせ」
「まだ何も決まってないでしょ」
「コンビ名決まった」
「それだけじゃないっすか」
「十分だろ」
「雑だなあ」
そう言うと、凪先輩はまた笑った。
「じゃあまた明日」
「また?」
「ネタ、温かいうちにやったほうがいいから」
「料理みたいに言うな」
「ハンバーガーだし」
「そこに戻すんすね」
ほんとに、なんでもこの人の中でつながっている。 呆れるのに、嫌じゃない。
「まあ」
俺はポケットに手を入れながら、少しだけ肩をすくめた。
「一応、空いてたら」
「来るじゃん」
「勝手に決めるなって」
それでも凪先輩は満足そうに頷いて、先に歩き出した。 その背中を見ながら、俺は小さく息を吐く。
サッカー部を見に行くつもりだったはずなのに。 女子にモテる高校生活を考えていたはずなのに。 気づけば俺は、ハンバーガー屋で変な先輩とコンビ名を決めて、無人島ネタの相談をしている。
ほんとに、何がどうしてこうなったんだろう。 でも不思議と、悪くないと思ってしまう。
それがたぶん、いちばんまずい。
教室の窓から外を見ると、まだ夕方の明るさが残っていた。 五月の空は思ったより高くて、グラウンドの端ではサッカー部の影が動いている。 見ていると、ちょっとだけあっちに行っていたかもしれない自分を考えた。
「雪代、帰んの?」
後ろの席のやつに声をかけられて、俺は振り返る。
「今日は部活?」
「まあ、そんなとこ」
「サッカー部?」
「いや」
少しだけ答えに詰まる。
「……別のとこ」
「へえ」
それ以上は聞かれなかった。 助かったような気分のまま、鞄を肩にかける。
昇降口を出て駅前に向かう道は、部活帰りの生徒や買い物帰りの人でそこそこ混んでいた。 昼間のぬくさが少し残っていて、風だけが夕方らしい。
駅前のハンバーガー屋は、ガラス越しに見える店内が妙に明るかった。 制服姿の高校生が多くて、店内にはポテトの匂いと油の熱気が混ざっている。
その奥、窓際の四人席に、もう凪先輩はいた。
トレーの上には、ハンバーガーとポテトとドリンク。 ネタ帳まで広げられている。 眼鏡の奥の目がこっちを見つけて、すぐに明るくなった。
「サク、こっち」
当然みたいに呼ばれて、俺は小さく息を吐いた。 昨日ついたばっかの呼び名なのに、もうだいぶ板についているのが腹立つ。
「早いっすね」
「十分前にはいた」
「気合い入りすぎでしょ」
「打ち合わせだからな」
そんなに真顔で言うことか。 俺は席の横に立った。
「とりあえず注文してきます」
「おう。何にする?」
「普通に食いたいやつですけど」
「いや、お前が何頼むのか知っときたい」
「なんでですか」
「相方の好みは大事だから」
その言い方に、少しだけ足が止まる。
相方。 まだ慣れない言葉なのに、やたら自然に使ってくるから調子が狂う。
「……じゃあ、てりやき」
「へえ」
「何その反応」
「もっと顔のいいやつが頼みそうなメニューあるかと思って」
「顔のいいやつが頼みそうなメニューって何っすか」
「アボカドとか」
「偏見ひどいな」
凪先輩はけらっと笑って、ポテトを一本口に放り込んだ。
注文を済ませて戻ると、凪先輩は当然みたいに向かいの席を顎で示した。
「そこ」
「どうも」
トレーを置いて座る。 窓の外はまだうっすら明るくて、通りを歩く人の影がゆっくり流れていた。 店内の冷房はちょうどいい。
「ここ、ほんとに定位置なんすね」
「そう。いちばん落ち着く」
「なんで」
「窓際で、人の流れ見えるし、端だから周りの音がちょうどいい」
「細か」
「あと、ポテトが冷めにくい」
「最後ちょっとよく分かんないっす」
そう返すと、凪先輩はまた楽しそうに笑った。
「で」
凪先輩がネタ帳を開き直す。
「まずはコンビ名決めよう」
「まだそこなんすか」
「最初がそこ」
「ネタじゃなくて?」
「名前があると本物っぽくなる」
気持ちは分からなくもない。 でも早すぎるだろ、とも思う。
「じゃあ、もう考えてるんすか」
「ある」
「やっぱり」
「あるよ」
凪先輩は一拍置いて言った。
「放課後バーガー」
俺は思わず顔を上げた。
「そのまますぎるだろ」
「いいじゃん。覚えやすい」
「店入って五秒で決めた感すごいっすよ」
「実際そうだし」
「開き直るなよ」
凪先輩は平然とポテトをつまんだ。
「でもさ、俺らっぽくない?」
「どこが」
「放課後で、高校生で、ハンバーガー屋で、ちょっと安っぽいけど親しみやすい」
「自分で安っぽいって言った」
「褒め言葉だよ」
「どこがっすか」
ハンバーガーを開きながらため息をつく。 でも、言われてみれば耳には残る。 ダサいのに覚えやすい。そういうところが少しずるい。
「他の候補は」
「ない」
「即答かよ」
「昨日の夜ちょっと考えたけど、結局これがよかった」
「考えたんだ」
「考えるだろ。相方できたんだから」
またその言い方だ。 あまりにも自然で、こっちだけ変に意識してるみたいになる。
「……じゃあ、まあ」
「うん」
「別に、それでいいっす」
「ほんと?」
「でもそのまますぎるとは思ってます」
「思ってていいよ。あとで絶対好きになるから」
「ならないっす」
「なるって」
凪先輩はそう言って、ネタ帳に大きく書いた。
放課後バーガー
その文字を見ていると、なんとなく実感が湧く。 まだ漫才らしい漫才もしてないのに、名前だけ先にできる。 そういう雑さが、たぶんこの人らしい。
「じゃあ次」
「まだあるんすか」
「ある。どっちがボケでどっちがツッコミか」
「いや、それはもうほぼ決まってるでしょ」
「一ノ瀬先輩がボケ、俺がツッコミ」
「正解」
そこは満足そうに頷くんだなと思う。
「でもさ」
凪先輩がコーラを一口飲む。
「サクって、普段はそこまで口数多くないのに、返す時だけ温度上がるよな」
「そうっすか?」
「うん。だから向いてる」
「またそれ」
「大事なんだって、温度差」
「知らないっすよ、そんな理論」
「今知ったじゃん」
ほんと、この人は何でも自分ルールに持っていく。 でも嫌かと言われると微妙だった。
凪先輩の言葉には軽さがあるのに、見てるところは変にちゃんとしている。 昨日だってそうだ。適当に返したつもりの言葉を、ちゃんと拾って面白がって、本気で喜んでいた。
「で、ネタの話なんだけど」
凪先輩がネタ帳をこっちに向ける。
「最初は文化祭向けに、分かりやすいやつがいいと思う」
「へえ」
「高校生でも先生でも笑えるやつ。勢いがあって、ちょっとキャラ立つやつ」
「具体的には?」
「たとえば無人島」
「急だな」
「遭難した時どうするかって設定だと、ツッコミいっぱい入れられるし」
「なんで遭難前提なんすか」
「そこはもう始まってるから」
「雑だなあ」
ネタ帳に書かれた断片を見せられる。 まだ形にはなってないけど、たしかにツッコミどころは多い。 変なやつに振り回される形だ。 俺に向いてると言われたのも、なんとなく分からなくはなかった。
「これ、凪先輩がボケるんすか」
「いや、そこちょっと迷ってる」
「え」
「俺、サクのほうが真顔で変なこと言うタイプだと思うんだよね」
「初日で何言ってんすか」
「だってお前、昨日の返し、全部素で変だったし」
「変なのはそっちでしょ」
「ほら今の」
「もうそれいいっす」
そう言いながら、俺は少し笑ってしまった。 凪先輩はすぐそこを見逃さない。
「今の顔いいな」
「何がっすか」
「ちょっと乗ってきた顔」
「乗ってないっす」
「乗ってる」
「決めつけがすごい」
向こうで凪先輩が嬉しそうに笑っている。 その顔を見ると、なんか言い返したくなる。言い返すと、もっと楽しそうにする。 そういうのが少しずつ出来上がってる感じがして、妙に落ち着かない。
「ねえサク」
「なんすか」
「一回やってみよう」
「今?」
「今」
「店の中っすよ」
「小声でいいじゃん」
「嫌だって」
「なんで」
「普通に恥ずい」
「昨日はできたのに」
「部室だからっす」
「ここもほぼ部室みたいなもんだろ」
「違うでしょ。ハンバーガー屋でしょ」
「放課後バーガーのホームだよ」
「今うまいこと言ったみたいな顔してるけど、全然っすよ」
凪先輩はテーブルに肘をついて、俺を見た。
「じゃあさ、練習」
「だから嫌だって」
「小さくでいいから」
「凪先輩が先やってくださいよ」
「いいよ」
あっさり言って、凪先輩はほんとに身を乗り出した。 そして、周りに聞こえないくらいの声で妙に真面目な顔を作る。
「もし無人島に流されたらどうする?」
なんでそんな顔でその台詞なんだ。 意味が分からないけど、何も返さないのも悔しい。
「まず凪先輩がうるさいから海に返す」
「ひどくない?」
「遭難してまでテンション高いのしんどいでしょ」
「いいね」
「何がっすか」
「その返し。そのまま使える」
「使わないっすよ」
でも凪先輩はもうネタ帳に書き込んでいる。 ほんとに早い。適当に返しただけなのに、こうやって形にされると少しだけ気分が変わる。 俺の言葉が、この人の中ではちゃんと材料として扱われている。
「サク」
「はい」
「お前、思ってたよりちゃんと相方かも」
「思ってたよりって何っすか」
「いや、もっと流されるだけかと思ってた」
「失礼だな」
「でもちゃんと返してくる」
「そりゃ返すでしょ」
「だからいいんだって」
そこで、俺はハンバーガーを一口かじった。 向かいでは、凪先輩がいつもの顔でポテトをつまんでいる。
窓の外は日がだいぶ傾いていて、薄青かった空が少しずつやわらかい色に変わっていた。 いつの間にか、ここに来る前に感じていた面倒くささは薄れていた。
「そういえば」
ふと思い出して、俺は顔を上げた。
「凪先輩、前もここで打ち合わせしてたんすか」
その瞬間、凪先輩の手が少しだけ止まった。
「……してたよ」
「前の相方と?」
「うん」
答えは軽かった。 でも、その一拍だけでなんとなく聞きすぎた気がした。
「別に、気にすんな」
凪先輩はすぐにいつもの調子に戻る。
「今はサクといるし」
さらっと言う。 重くしないくせに、妙に残る言い方をする。
「……別に、気にしてないっす」
「ほんとか?」
「ほんと」
「ならよかった」
凪先輩はそう言って笑って、またネタ帳に目を落とした。
でも俺は少しだけその横顔を見てしまった。 昨日、部室で「相方探し」って言った時みたいに、ほんの少しだけ違う顔をした気がしたからだ。
「サク」
「なんすか」
「次、お前ボケやってみて」
「また急だな」
「いいから。無人島に流されたらどうする?」
「……鳥見る」
「いいね」
「で、うまそうって言う」
「最高」
「なんでだよ」
凪先輩が笑う。 つられて、俺も少し笑う。
たぶんこの時にはもう、昨日よりはっきりしていた。 俺は思っていたより、この変な先輩といる時間を気に入り始めている。
もちろん、そんなことは口にしないけど。
帰り道、店を出た時の空気は思ったよりやわらかかった。 昼の熱が少しだけアスファルトに残っていて、そこへ夕方の風が混ざる。
店の前で、凪先輩が鞄を肩にかけ直す。
「今日、けっこうよかったな」
「何がっすか」
「最初の打ち合わせ」
「まだ何も決まってないでしょ」
「コンビ名決まった」
「それだけじゃないっすか」
「十分だろ」
「雑だなあ」
そう言うと、凪先輩はまた笑った。
「じゃあまた明日」
「また?」
「ネタ、温かいうちにやったほうがいいから」
「料理みたいに言うな」
「ハンバーガーだし」
「そこに戻すんすね」
ほんとに、なんでもこの人の中でつながっている。 呆れるのに、嫌じゃない。
「まあ」
俺はポケットに手を入れながら、少しだけ肩をすくめた。
「一応、空いてたら」
「来るじゃん」
「勝手に決めるなって」
それでも凪先輩は満足そうに頷いて、先に歩き出した。 その背中を見ながら、俺は小さく息を吐く。
サッカー部を見に行くつもりだったはずなのに。 女子にモテる高校生活を考えていたはずなのに。 気づけば俺は、ハンバーガー屋で変な先輩とコンビ名を決めて、無人島ネタの相談をしている。
ほんとに、何がどうしてこうなったんだろう。 でも不思議と、悪くないと思ってしまう。
それがたぶん、いちばんまずい。


