放課後バーガー

 凪先輩は、しばらく何も言わなかった。
 ハンバーガー屋の店内はいつも通り明るい。レジの前には制服姿の高校生が並び、奥の席では小さな子どもが親に叱られている。そんな日常のノイズばかりが耳に届くのに、俺たちの席だけが妙に静かだった。
 先に目を逸らしたのは、俺のほうだった。
 言いすぎたかもしれない。けれど、ここでまた誤魔化せば、きっと同じことを繰り返してしまう。
「……俺」
 小さく呟いてから、一度深く息を吸う。
「漫才が嫌になったわけじゃないんです」
 凪先輩が、ようやく顔を上げた。
「……それは、分かっているつもりだった」
「分かってないです」
 思ったよりきっぱりと言えて、自分でも少し驚いた。
「だって凪先輩、俺がちょっと上の空なだけで、すぐ漫才に結びつけるじゃないですか。そうじゃなくて……」
 言葉が詰まる。どう言えばいいのか、まだ正解は分からない。
 でも、分からないなりに、今日はちゃんと言葉にしなきゃいけない気がした。
「俺、凪先輩といる時間が好きなんです」
 凪先輩の指先が、カップの縁でぴたりと止まる。
「漫才をやってる時も、ネタ帳を見てる横顔も、ここでくだらない話をしてるのも全部好きで。……だから、最近、その……」
「うん」
「漫才だけじゃ、足りなくなってて」
 凪先輩の瞳が、微かに揺れた。
「たまには普通にデートしたいとか、もっと恋人っぽいことしたいとか、そういうことを考えてて。凪先輩がH-1に本気なの分かってるから、邪魔したくなくて言えなかったんです。でも、言えないまま一緒にいると、俺だけ勝手に欲張りになって……ネタの最中まで、ぼーっとしちゃって」
 凪先輩は何も言わない。けれど、逸らさずに俺を見ている。
「だから、飽きたんじゃなくて、逆です。好きだから、変になってました」
 言い切ったあと、喉の奥が熱くなった。
 凪先輩はしばらく黙ったあと、小さく、長く息を吐き出した。
「……そういうことか」
 その声は、思っていたよりずっと低かった。
「何ですか、その反応」
「いや……」
 凪先輩は苦笑いのような表情を浮かべる。
「俺、完全に勘違いしてたなと思って」
「何をですか」
「サクが、もう前ほど俺との漫才に気持ちが向いてないのかもって。……それに、厚木のこともあったしな」
 その名前が出て、俺は思わず眉を寄せた。
「厚木? なんであいつが」
「お前が連れてきた一年だろ。やたら懐いてるし。それに……俺が引退したらサクと組みたい、なんて言ってたしな」
 そこまで聞いて、ようやく点と線が繋がった。
 ああ、そうか。この人、そんなことまで気にしていたのか。
 少しだけ呆れて、それと同じくらい、変に嬉しかった。
「……凪先輩。厚木のこと、気にしてたんですか?」
「してないとは言わない」
「めちゃくちゃしてるじゃないですか」
「うるさいな」
 言い返す声が、少しだけ弱い。その珍しい弱さが、胸の奥をじわじわと温める。
「別に俺、厚木と組むなんて一回も言ってないですけど」
「分かってるよ。分かってるけど、考えるだろ。……俺は、三年なんだし」
 その一言で、空気がふっと静かになる。
 引退、という言葉。分かっていたはずなのに、輪郭を持って突きつけられると少し重い。
「引退したあと、お前が別のやつと並んでるのを想像したら、普通に嫌だった。相方としても、恋人としても。……我ながら、だいぶ面倒くさいなと思うけど」
 はにかむようなその言い方は、ひどくこの人らしかった。
「……凪先輩。それ、先に言ってくださいよ」
「サクだって先に言ってないだろ」
「俺は言いましたよ、今!」
「じゃあ、俺も今言った」
 そう返されて、思わず笑ってしまった。
 あんなに息苦しかった空気が、嘘みたいに緩んでいく。
「じゃあ」
 俺は改めて、真っ直ぐに彼を見た。
「デート、してください」
「……そんな真っ直ぐ来る?」
「来ますよ。今の流れなら、ちゃんと言っとかないと」
 凪先輩は口元を手で押さえ、観念したように笑った。
「ほんと、お前そういうとこだよな。逃げ道なくしてくるとこ」
「凪先輩が変に察して黙るからですよ」
「ひど……。最近ほんと強いな、お前」
 そう言いながら、凪先輩はポテトを一本つまんだ。けれど口に運ぶ前に、ふっと真剣な目でこちらを見る。
「……したいよ。デート。普通に、俺だってしたい」
「え」
「ただ、春になってからH-1のことばかりで、そこまで頭が回ってなかった。悪かったな」
「……それは、知ってます」
「じゃあ、動画を撮り終えたら、どこか行くか」
「……本当に? ネタ帳なしで?」
「そこ重要?」
「重要です!」
「分かった。ネタ帳なしだ」
 その答えだけで、視界がぱっと明るくなった。
 自分でも単純だと思うけれど、嬉しいものは、嬉しい。
「約束ですからね。途中でボケをメモし始めてもダメですよ」
「そこまで信用ないか?」
「わりと、ないです。前科が多いんで」
 そう言うと、凪先輩は不服そうに唇を尖らせた。けれどすぐに、穏やかな笑みを浮かべる。
「でもまあ。サクがそう言ってくれて、よかった。言われなかったら、もっと変な方向に考えてたから」
「サクが厚木と新コンビを組む未来、とかですか?」
「即答だな」
「そこは即答します」
 凪先輩が、心底安心したように息をつく。その顔を見て、俺もようやく、心の底から笑うことができた。
 翌週、エントリー動画の撮影本番。
 部室には簡易的な三脚が置かれ、八坂先輩が「映え」を気にしてスマホを調整し、櫻葉先輩が冷静に構図を指示していた。
 厚木は端っこで、目を輝かせてその様子を見守っている。
「先輩たち、なんか今日すごいです」
「何がだよ」
 俺が聞くと、厚木は俺と凪先輩を見比べた。
「ぴったりです。……完璧」
 その一言に、俺と凪先輩は少しだけ顔を見合わせる。
 この前の「ちょっと違う」と同じ口で言われると、妙にくすぐったかった。
「そりゃそうだろ。放課後バーガーなんだからな」
 凪先輩が自信満々に言う。
「急に堂々としてますね」
「今日は、調子がいいんだ」
 その理由が痛いほど分かるから、俺も少しだけ胸を張った。
 撮影は、見事な一発撮りで終わった。
 犯人と刑事のテンポも、間も、ツッコミのキレも。今の俺たちの全てが詰まった一本になった。
 八坂先輩が大騒ぎし、櫻葉先輩が満足げに頷いた時、ようやく本当の意味で肩の力が抜けた。
 帰り際、厚木が俺に寄ってくる。
「先輩。やっぱり僕、凪先輩が引退しても、すぐ『組んでください』って言うのやめます」
「何でだよ」
「今日見て、分かったんで。放課後バーガーって、簡単に間に入れないやつですね」
 少し生意気で、けれど確かな敬意がこもった言葉だった。
「まあ、そうかもな」
 そう返すと、厚木は「ですよね」と嬉しそうに笑った。
 駅へと向かう帰り道。街灯の光は春の夜らしく、どこかやわらかい。
 校舎の中よりも、外のほうが少しだけ暖かく感じられた。
「サク」
 隣を歩く凪先輩が、前を向いたまま言う。
「なんすか」
「次の休み……ネタ帳なしな」
 心臓が跳ねた。ちゃんと、覚えていてくれたんだ。
「……本当に行くんですね。ちょっとだけ疑ってました」
「ひどいな。行くって言っただろ。……その代わり、どこに行きたいか考えておけよ」
「え、俺が決めるんですか?」
「だって、普通のデートがしたいんだろ?」
 そう言われると、急に照れくささが込み上げる。
「……考えてなかったです。約束を取り付けるので精一杯だったんで」
「なんだそれ。じゃあ、俺も考える」
 凪先輩は少しだけ歩く速度を緩めた。俺もそれに合わせて、歩幅を合わせる。
 春の夜風はまだ冷たいけれど、隣にある距離は、確かな温度を持ってそこにあった。
 漫才の相方で、恋人で、たぶんこれからもずっと放課後を共にしていく相手。
 全部が完璧に両立するわけじゃない。すれ違うことも、勘違いで遠回りすることもある。
 それでも、言葉にすれば戻れるのだと、今日はちゃんと分かった。
 不意に、凪先輩が俺の制服の袖を、指先で軽く引いた。
 ほんの少しの、けれど確かな合図。
「何ですか」
「いや。……次の休み、楽しみだなと思って」
 不意打ちすぎる言葉に、胸の奥が熱くなる。俺は誤魔化すように前を向いたまま、けれどしっかりと言葉を返した。
「……俺もです、凪先輩」
 その声だけで、凪先輩は満足したらしい。それ以上は何も言わず、ただ静かに隣を歩いた。
 春の放課後は、今日も続いていく。
 部室でも、ハンバーガー屋でもない場所へ向かう約束を、たったひとつ増やしながら。