厚木の言葉のあと、部室の中はしん……と静まり返った。
凪先輩はネタ帳を閉じると、小さく息を吐いた。
「……今日はここまでにするか」
その声は、いつもより少しだけ硬かった。
「え、もう終わりですか?」
厚木がきょとんとする。
「うん。一回仕切り直したい」
「そうですか……すみません、僕なんか変なこと」
「いや、厚木は悪くないよ」
俺はすぐにそう言った。
「気にしなくていいから」
反射的に返したけれど、自分の声も少しだけ上ずっていた気がする。
厚木はまだ納得しきれていない顔だったけれど、それ以上は何も言わなかった。結局その日は、なんとなくそのまま解散になった。
帰り支度をしながら、凪先輩はほとんどこっちを見なかった。
怒っているわけではない。たぶん。けれど、いつもみたいに「店行くぞ」とも言わない。その事実が、針のように胸に刺さった。
「……凪先輩」
声をかけると、凪先輩は鞄を肩にかけたまま振り返った。
「ん?」
「今日、ハンバーガー屋……行かないんすか」
一瞬だけ言葉に迷い、それでも食い下がる。凪先輩は少しだけ黙った。
「今日はいいかな。ごめん、ちょっと考えたい」
その言い方が、ひどく静かだった。
それ以上引き止めることができず、俺もそこで口をつぐむ。凪先輩は小さく「また明日」とだけ言って、先に部室を出て行った。
閉まった引き戸の向こうで足音が遠ざかるのを、俺はしばらく棒立ちで聞いていた。
四月の夕方はまだ少し冷える。けれど、胸の中のほうがよっぽど落ち着かなかった。
部室を出ると、厚木が廊下の端で待っていた。
「先輩」
「ん?」
「やっぱり僕、余計なこと言いましたよね」
「いや」
反射で否定する。でも、うまく笑えなかった。
「ほんとに、厚木のせいじゃないから」
「でも、空気変わりました。先輩、凪先輩と喧嘩したんですか?」
「してない」
即答した。したくせに――というより、喧嘩と呼べるほどちゃんとぶつかれてさえいない。
「じゃあ、何ですか。だって、さっきの放課後バーガー、いつもと違いました。僕、まだ入ったばっかりですけど、それでも分かるくらい」
痛いところをまた突かれて、俺は思わず視線を逸らした。
「……別に、大したことじゃない」
「そう見えないです。先輩」
「……厚木」
「はい」
「一年のくせに、変に鋭いな」
「褒めてます?」
「微妙」
そう返したら、厚木が少しだけ笑った。でもすぐに真顔に戻る。
「先輩。僕、ほんとに思っただけなんですけど……先輩、最近ちょっと元気ないですよね」
「……そう見える?」
「見えます。凪先輩といる時、たぶんすごく嬉しそうなのに。でも今日みたいに、噛み合ってないとすぐ分かるっていうか」
「お前、本当に一年かよ」
「一応そうです」
厚木は首を傾げる。その顔は何も企んでいないぶん、余計に真っ直ぐだった。
「先輩、凪先輩のこと好きすぎて、逆に変になってませんか?」
その言葉に、足が止まった。
好きすぎて。
それは、たぶんそうだ。でも他人にそんなふうに言われると、急にごまかせなくなる。
「……何それ」
「違います?」
「……」
「やっぱりそうなんだ」
「お前なあ……」
呆れたふりをしながらも、否定はできなかった。厚木はそこで、少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、喧嘩じゃないですね。好きだからうまくいってないだけなら、たぶんちゃんと話せば戻るかなって」
一年のくせに、と思う。でもその言葉が、妙に胸に残った。
好きだからうまくいってない。それはたぶん、かなり正確な指摘だった。
漫才が嫌いになったわけじゃない。凪先輩が嫌になったわけでもない。
むしろ逆で、好きだから、今のままじゃ足りなくなっているだけだ。
そこまで考えて、俺は小さく息を吐いた。
「……ありがとな」
「え」
「いや、何か。余計なこと言うわりに、たまにまともだなって」
「たまに!? ひどいです」
そう言いながらも、厚木はちょっと嬉しそうだった。
「じゃあ先輩、ちゃんと話してくださいね。気になるんで」
「野次馬かよ」
「おせっかいなんで」
その返しに、少しだけ笑ってしまった。その時ようやく、肩に入っていた力がほんの少しだけ抜けた気がした。
その頃、凪は一人で駅前まで歩いていた。
春の夕方は、昼間よりずっと冷える。
校舎を出た時は気づかなかったけれど、制服の袖口から入る風が妙に冷たかった。
ハンバーガー屋へ向かう道を、今日は無意識に避けていた。
いつもなら当たり前のように行く場所なのに、今日はその流れに乗るのが少し怖かった。
厚木の言葉が、ずっと頭の中でリフレインしている。
『普段もっとぴったり合ってる感じでしたよね』 『今日、ちょっとだけ違う感じしました』
あれは、他人が見ても分かるくらいだったんだろう。
サクが上の空なのも、自分がそれを過剰に気にしているのも。
駅前の信号で立ち止まりながら、凪は小さく息を吐いた。
「……何やってんだろ、俺」
言葉にした途端、情けなさがこみ上げる。
最近のサクは、確かに少し変だった。ネタの最中にぼんやりすることがあるし、前ならすぐ返してきたところで一拍遅れることもある。
最初は疲れているのかと思った。けれど、厚木の言葉で別の考えが頭を離れなくなった。
もしかしたらサクは、もう前ほど自分との漫才に気持ちが向いていないんじゃないか。
引退が現実味を帯びてきたからこそ、その不安は重い。
さらに、厚木奏汰という存在。サクが自分で連れてきた、距離の近い後輩。
『凪先輩が引退したら、僕とコンビ組んでください』
あの無邪気な言葉が、今は呪文みたいに耳にこびりついている。
サクが自分以外と並んで漫才をする未来なんて、考えたくもなかった。
恋人になってもなお、コンビのことでこんなに臆病になるとは思わなかった。
サクに何も聞けないまま、勝手に不安になって引いてしまう自分が、ひどく格好悪く思えた。
翌日の放課後。
部室の空気は、表面上はいつも通りだった。
八坂先輩が騒ぎ、櫻葉先輩が毒を吐き、厚木がそれを眺めている。俺と凪先輩も普通に話し、ネタの相談もした。
けれど、どこか薄い膜が挟まっているような感覚が拭えない。
ハンバーガー屋にも行った。
窓際の席に座り、ネタの修正をする。それなのに、やっぱり少しずつ噛み合わない。
「その『待てぇ!』、昨日よりちょっと弱くないですか」
俺が言うと、凪先輩はネタ帳から顔を上げた。
「そう?」
「うん。なんか、勢い足りない」
「サクも、返し遅かったけど」
その言い方が思ったより静かで、逆に刺さった。俺もすぐに言い返せなかった。
前ならこんな空気にならなかった。ズレても、もっと軽く修正できたはずなのに。
不自然な沈黙が、卓上に落ちる。
周りには賑やかな高校生たちの声が溢れているのに、俺たちの席だけが、ひどく息苦しかった。
先に口を開いたのは、凪先輩だった。
「サク。最近、何かある?」
心臓が一瞬だけ跳ねる。
「漫才に、集中できてないっていうか」
その指摘に、胸の奥が少しだけ冷えた。
「……それ、今聞くんですか」
「今だから聞くんだろ」
「そうですか」
返事が思ったより冷たくなった。自分でも分かるのに、止められなかった。
「俺は、別に……何でもないです」
「何でもないように見えないから聞いてる」
「凪先輩だって、最近変でしょ」
言ったあとで、凪先輩の顔が強張るのが分かった。でも、もう引けなかった。
「俺がぼーっとしてるのは分かるくせに、自分のことは何も言わないじゃないですか。この前からずっと、変に距離あるし」
言葉が止まらない。ここ数日、溜め込んできたものが一気に溢れ出す。
「俺、漫才が嫌なわけじゃないです。でも凪先輩、何かあるたび、すぐ漫才の話に持っていくでしょ」
凪先輩が黙る。
俺はコーラのカップを握りしめたまま、荒くなった息を整えようとした。
ここまで言ったら、もう引き返せない気がした。
凪先輩はネタ帳を閉じると、小さく息を吐いた。
「……今日はここまでにするか」
その声は、いつもより少しだけ硬かった。
「え、もう終わりですか?」
厚木がきょとんとする。
「うん。一回仕切り直したい」
「そうですか……すみません、僕なんか変なこと」
「いや、厚木は悪くないよ」
俺はすぐにそう言った。
「気にしなくていいから」
反射的に返したけれど、自分の声も少しだけ上ずっていた気がする。
厚木はまだ納得しきれていない顔だったけれど、それ以上は何も言わなかった。結局その日は、なんとなくそのまま解散になった。
帰り支度をしながら、凪先輩はほとんどこっちを見なかった。
怒っているわけではない。たぶん。けれど、いつもみたいに「店行くぞ」とも言わない。その事実が、針のように胸に刺さった。
「……凪先輩」
声をかけると、凪先輩は鞄を肩にかけたまま振り返った。
「ん?」
「今日、ハンバーガー屋……行かないんすか」
一瞬だけ言葉に迷い、それでも食い下がる。凪先輩は少しだけ黙った。
「今日はいいかな。ごめん、ちょっと考えたい」
その言い方が、ひどく静かだった。
それ以上引き止めることができず、俺もそこで口をつぐむ。凪先輩は小さく「また明日」とだけ言って、先に部室を出て行った。
閉まった引き戸の向こうで足音が遠ざかるのを、俺はしばらく棒立ちで聞いていた。
四月の夕方はまだ少し冷える。けれど、胸の中のほうがよっぽど落ち着かなかった。
部室を出ると、厚木が廊下の端で待っていた。
「先輩」
「ん?」
「やっぱり僕、余計なこと言いましたよね」
「いや」
反射で否定する。でも、うまく笑えなかった。
「ほんとに、厚木のせいじゃないから」
「でも、空気変わりました。先輩、凪先輩と喧嘩したんですか?」
「してない」
即答した。したくせに――というより、喧嘩と呼べるほどちゃんとぶつかれてさえいない。
「じゃあ、何ですか。だって、さっきの放課後バーガー、いつもと違いました。僕、まだ入ったばっかりですけど、それでも分かるくらい」
痛いところをまた突かれて、俺は思わず視線を逸らした。
「……別に、大したことじゃない」
「そう見えないです。先輩」
「……厚木」
「はい」
「一年のくせに、変に鋭いな」
「褒めてます?」
「微妙」
そう返したら、厚木が少しだけ笑った。でもすぐに真顔に戻る。
「先輩。僕、ほんとに思っただけなんですけど……先輩、最近ちょっと元気ないですよね」
「……そう見える?」
「見えます。凪先輩といる時、たぶんすごく嬉しそうなのに。でも今日みたいに、噛み合ってないとすぐ分かるっていうか」
「お前、本当に一年かよ」
「一応そうです」
厚木は首を傾げる。その顔は何も企んでいないぶん、余計に真っ直ぐだった。
「先輩、凪先輩のこと好きすぎて、逆に変になってませんか?」
その言葉に、足が止まった。
好きすぎて。
それは、たぶんそうだ。でも他人にそんなふうに言われると、急にごまかせなくなる。
「……何それ」
「違います?」
「……」
「やっぱりそうなんだ」
「お前なあ……」
呆れたふりをしながらも、否定はできなかった。厚木はそこで、少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、喧嘩じゃないですね。好きだからうまくいってないだけなら、たぶんちゃんと話せば戻るかなって」
一年のくせに、と思う。でもその言葉が、妙に胸に残った。
好きだからうまくいってない。それはたぶん、かなり正確な指摘だった。
漫才が嫌いになったわけじゃない。凪先輩が嫌になったわけでもない。
むしろ逆で、好きだから、今のままじゃ足りなくなっているだけだ。
そこまで考えて、俺は小さく息を吐いた。
「……ありがとな」
「え」
「いや、何か。余計なこと言うわりに、たまにまともだなって」
「たまに!? ひどいです」
そう言いながらも、厚木はちょっと嬉しそうだった。
「じゃあ先輩、ちゃんと話してくださいね。気になるんで」
「野次馬かよ」
「おせっかいなんで」
その返しに、少しだけ笑ってしまった。その時ようやく、肩に入っていた力がほんの少しだけ抜けた気がした。
その頃、凪は一人で駅前まで歩いていた。
春の夕方は、昼間よりずっと冷える。
校舎を出た時は気づかなかったけれど、制服の袖口から入る風が妙に冷たかった。
ハンバーガー屋へ向かう道を、今日は無意識に避けていた。
いつもなら当たり前のように行く場所なのに、今日はその流れに乗るのが少し怖かった。
厚木の言葉が、ずっと頭の中でリフレインしている。
『普段もっとぴったり合ってる感じでしたよね』 『今日、ちょっとだけ違う感じしました』
あれは、他人が見ても分かるくらいだったんだろう。
サクが上の空なのも、自分がそれを過剰に気にしているのも。
駅前の信号で立ち止まりながら、凪は小さく息を吐いた。
「……何やってんだろ、俺」
言葉にした途端、情けなさがこみ上げる。
最近のサクは、確かに少し変だった。ネタの最中にぼんやりすることがあるし、前ならすぐ返してきたところで一拍遅れることもある。
最初は疲れているのかと思った。けれど、厚木の言葉で別の考えが頭を離れなくなった。
もしかしたらサクは、もう前ほど自分との漫才に気持ちが向いていないんじゃないか。
引退が現実味を帯びてきたからこそ、その不安は重い。
さらに、厚木奏汰という存在。サクが自分で連れてきた、距離の近い後輩。
『凪先輩が引退したら、僕とコンビ組んでください』
あの無邪気な言葉が、今は呪文みたいに耳にこびりついている。
サクが自分以外と並んで漫才をする未来なんて、考えたくもなかった。
恋人になってもなお、コンビのことでこんなに臆病になるとは思わなかった。
サクに何も聞けないまま、勝手に不安になって引いてしまう自分が、ひどく格好悪く思えた。
翌日の放課後。
部室の空気は、表面上はいつも通りだった。
八坂先輩が騒ぎ、櫻葉先輩が毒を吐き、厚木がそれを眺めている。俺と凪先輩も普通に話し、ネタの相談もした。
けれど、どこか薄い膜が挟まっているような感覚が拭えない。
ハンバーガー屋にも行った。
窓際の席に座り、ネタの修正をする。それなのに、やっぱり少しずつ噛み合わない。
「その『待てぇ!』、昨日よりちょっと弱くないですか」
俺が言うと、凪先輩はネタ帳から顔を上げた。
「そう?」
「うん。なんか、勢い足りない」
「サクも、返し遅かったけど」
その言い方が思ったより静かで、逆に刺さった。俺もすぐに言い返せなかった。
前ならこんな空気にならなかった。ズレても、もっと軽く修正できたはずなのに。
不自然な沈黙が、卓上に落ちる。
周りには賑やかな高校生たちの声が溢れているのに、俺たちの席だけが、ひどく息苦しかった。
先に口を開いたのは、凪先輩だった。
「サク。最近、何かある?」
心臓が一瞬だけ跳ねる。
「漫才に、集中できてないっていうか」
その指摘に、胸の奥が少しだけ冷えた。
「……それ、今聞くんですか」
「今だから聞くんだろ」
「そうですか」
返事が思ったより冷たくなった。自分でも分かるのに、止められなかった。
「俺は、別に……何でもないです」
「何でもないように見えないから聞いてる」
「凪先輩だって、最近変でしょ」
言ったあとで、凪先輩の顔が強張るのが分かった。でも、もう引けなかった。
「俺がぼーっとしてるのは分かるくせに、自分のことは何も言わないじゃないですか。この前からずっと、変に距離あるし」
言葉が止まらない。ここ数日、溜め込んできたものが一気に溢れ出す。
「俺、漫才が嫌なわけじゃないです。でも凪先輩、何かあるたび、すぐ漫才の話に持っていくでしょ」
凪先輩が黙る。
俺はコーラのカップを握りしめたまま、荒くなった息を整えようとした。
ここまで言ったら、もう引き返せない気がした。



