放課後バーガー

 四月に入って、校舎の空気は少しだけ浮き足立っていた。
 クラス替え、新しい教科書、新入生。春休みの名残がまだ薄く残っているくせに、どこを歩いても「もう新学期です」という顔をしたものばかりが目につく。
 その中で、放課後バーガーだけはあまり変わらなかった。
 放課後になれば部室へ行く。
 凪先輩がいて、ネタ帳があって、八坂先輩がうるさくて、櫻葉先輩が呆れている。
 そこまでは去年までと同じだ。
 違うのは、俺が二年になったことと、凪先輩が三年になったこと。
 それから、もうひとつ。
「先輩、ここでいいですか?」
 部室の引き戸のところから、遠慮がちに声がした。
 振り向くと、細身で中性的な顔立ちの一年生が立っている。黒髪が少し長めで、目元の雰囲気もやわらかい。ぱっと見は、運動部より文化部にいそうな感じだった。
「ああ、いいよ。入って」
 そう声をかけると、その一年――厚木奏汰(あつぎかなた)は小さく会釈して中へ入ってきた。
 春休み明け、昇降口でたまたま見かけて、何となく声をかけたのが始まりだった。
 自分でもよく分からない。ただ、一年前に凪先輩にしつこく声をかけられた時のことを思い出して、ちょっとだけ放っておけなかったのだ。
「見学だけでも」と言ったら、本当に来た。
 来たと思ったら、そのまま入部までしてしまった。
「サク、お前ほんとに勧誘する側になったんだな」
 部屋の奥でネタ帳を見ていた凪先輩が、少しだけ笑いながら言う。
「……凪先輩にだけは言われたくないです」
「何で」
「去年の自分思い出してくださいよ」
「熱心な勧誘だっただろ」
「言い方変えただけで中身一緒なんすよ」
 そう返すと、凪先輩は面白そうに笑った。
 その笑い方を見るたび、胸のどこかがまだ少しだけざわつく。付き合い始めてからしばらく経っても、それは案外なくならないらしい。
「厚木くんだっけ?」
 八坂先輩が机に肘をついて、顔をのぞき込む。
「はい」
「好きな食べ物は?」
「えっと、オムライスです」
「いいね! 採用!」
「何の採用だよ」
 櫻葉先輩が即座にツッコむ。
「ていうか、まだ何も見てないだろ。芸風とか」
「でもオムライス好きに悪いやついなくない?」
「その基準で部活回すな」
 相変わらずだな、と思う。
 けれど、その相変わらずの中に自分がいることが、最近はちゃんと嬉しい。
 厚木は最初こそ緊張していたけれど、何度か部室に来るうちにだいぶ慣れてきたらしい。特に俺には距離が近かった。
「先輩、ここっていつもこうなんですか」
「こう、って」
「思ったよりにぎやかで……」
「八坂先輩がいる時はこんなもん」
「いない時は?」
「もうちょい静か」
「もうちょいってことは、静かではないんですね」
「凪先輩がいるんで」
 その答えに、厚木が少しだけ笑う。
「分かる気がします」
「何が?」
「先輩、凪先輩のことになると、ちょっと言い方変わりますよね」
「は?」
「え、違います?」
「違う」
 即答したら、横から凪先輩の声が飛んできた。
「いや、ちょっと分かる」
「凪先輩まで何言ってんすか」
「だって、俺の時だけ反応ちょっと早いし」
「知らないっす」
 そう言い返しながら、耳のあたりが少し熱くなる。厚木はきょとんとして、それから妙に納得した顔をした。
 その日の部活は、新歓らしく軽い自己紹介と、百均前線のコント動画を見せるところで終わった。けれど凪先輩の頭の中は、それだけじゃ終わっていなかったらしい。
「サク」
 帰り支度をしていたところで呼ばれる。
「はい」
「明日、部室で一本通すぞ。――犯人と刑事」
 その言葉に、俺は少しだけ目を上げた。
 春休みの終わり頃から、俺たちは次の目標を決めていた。
 H-1に出るためのエントリー動画を撮ろうと、あの「犯人と刑事」のネタを一本の漫才としてちゃんと仕上げるつもりでいた。
 もともとはふざけ半分みたいに生まれたネタだったのに、凪先輩が本気で整え始めると、案外ちゃんと形になってきた。そこに俺が足した返しも混ざって、今の放課後バーガーらしい一本になりつつある。
「明日?」
「明日。ハンバーガー屋で流れも詰めたし、熱いうちにやりたい」
「出たな、それ」
「ファストフードだからな」
「その例え気に入ってますね」
「気に入ってる」
 凪先輩はそう言って笑った。その顔を見ていると、やっぱり断れない。
「分かりましたよ」
「よし」
「でもその前に、新入生置いて帰るのかわいそうじゃないですか」
「あ」
「今気づいたんですか」
 凪先輩が厚木のほうを見ると、厚木は慌てて首を振った。
「僕は大丈夫です。今日は見学だけでも十分楽しかったので」
「ならよかった」
「また来ます」
 その言い方が素直で、去年の自分を少しだけ思い出した。
 部室を出たあと、結局いつもの流れで駅前のハンバーガー屋へ向かった。
 窓際のいつもの席。トレーの上のポテト。ネタ帳。もう何度も繰り返してきた、放課後の風景だ。
「で、ここなんだけど」
 凪先輩がネタ帳を開く。
「刑事が『待てぇ!』って入るの、もうちょい早いほうがいいかも」
「でもあんまり早いと、俺がまだ何もしてないのに捕まえられてる感強くないですか」
「そこはそれでおもろい」
「雑だなあ」
「サクの『まだ何もしてないです!』が好きなんだよ」
「そこ基準で組んでるでしょ」
「もちろん」
 そんなやり取りをしながら、俺たちはポテトをつまみ、ネタ帳に赤を入れていく。
 けれどその日、俺は少しだけ上の空だった。
 凪先輩の横顔を見てしまう。眼鏡の奥の目がネタ帳を追うたび、その集中した顔に見入ってしまう。
 真面目に漫才のことを考えている時の凪先輩は、昔からずっと好きだ。
 好きだけど、その「好き」が、今は前とは少し違う形になっている。
 ネタの話をしているはずなのに、頭のどこかで別のことを考えていた。
 今度の休み、普通に出かけたいな、とか。
 漫才とか撮影とかじゃなくて、ただ私服で待ち合わせして、どこか歩いたりしたい。その時の凪先輩は、今みたいな顔じゃなくて、もっとこっちを見てくれるのかな、とか。
「サク、聞いてる?」
 はっとして顔を上げる。凪先輩がネタ帳の向こうからこっちを見ていた。
「聞いてますよ」
「ほんとか?」
「刑事が飛び降り止めるとこの前に、もう一回だけ間を作る話でしょ」
「そこは合ってる」
「じゃあ合ってるじゃないですか」
「でも、今ちょっとぼーっとしてたろ」
 図星で、言葉が一瞬詰まった。
 凪先輩はそれ以上追及しなかったけれど、ネタ帳を閉じる手だけが少し静かだった。
 その変化に気づいたくせに、俺はうまく言えなかった。
 漫才に飽きたわけじゃない。むしろ逆だ。凪先輩といる時間が好きだから、そのぶん、漫才以外の時間まで欲しくなっているだけだった。
 でも、そんなの今ここで言うことじゃない気がした。
 H-1のことを考え始めた凪先輩は、もうかなり本気だ。こういう時のこの人は、漫才のことしか見えなくなる。
 それを知っているからこそ、俺はコーラを飲んでごまかした。
「じゃあ明日、部室で通すぞ」
 凪先輩が言う。
「動画の形も一回見たいし」
「はい」
「あと厚木の前で、ちょっとだけ先輩らしいとこ見せたい」
「そこ気にするんだ」
「するだろ。新入生いるんだぞ」
「へえ」
 そう返したら、凪先輩が少しだけ目を細めた。
「何」
「いや、凪先輩もそういうのあるんだなって」
「あるよ」
「ずっと自分のことしか考えてない人かと」
「ひど」
「でも漫才入るとだいたいそうでしょ」
「否定はしない」
 そこで二人とも少し笑う。笑うけれど、その奥にある小さなズレは消えなかった。
 翌日の放課後、部室ではさっそく「犯人と刑事」ネタの通しが始まった。厚木も端の椅子に座って見ている。
 凪先輩はやっぱり、始まった瞬間に空気が変わる。
 さっきまで普通に話していたのに、立ち位置についた途端、もう完全に漫才の顔になる。
「どうも〜!! 放課後バーガーです!」
 その一声だけで、俺の背筋も勝手に伸びる。
 それなのに今日は、うまく集中しきれなかった。
 目の前で刑事をやっている凪先輩を見ながら、別のことを考えてしまう。
 休日もこんなふうに俺のこと見てくれたらいいのに。今すぐネタじゃなくて、もっと近くで名前呼んでほしい。
「サク?」
 名前を呼ばれて、少し遅れて我に返る。通しの途中だった。
「……あ、すみません」
 凪先輩の表情が、一瞬だけ止まる。
「今のとこ、返し遅れた」
「分かってます」
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
 そう答えたけれど、自分でも説得力はなかった。
 部屋の隅で見ていた厚木が、小さく首を傾げているのが見える。
 八坂先輩と櫻葉先輩はいない。今この空気をごまかせる人は、たぶん誰もいなかった。
 通しは一度止まった。凪先輩はネタ帳を開いたまま、少しだけ黙る。
 その沈黙が、妙に重い。
 四月の風はまだ少し冷たいのに、部室の中だけがやけに息苦しかった。
 その時、厚木が遠慮がちに手を上げた。
「すみません」
「ん?」
 俺と凪先輩が同時にそっちを見る。
「放課後バーガーって、普段もっとぴったり合ってる感じでしたよね」
 真っ直ぐすぎる一言だった。
 悪気なんてひとかけらもない顔で、厚木は続ける。
「今日、ちょっとだけ違う感じしました」
 ぐさっと来る。凪先輩も、たぶん同じだった。
 部室の空気がまた少し変わる。
 春の始まりみたいにふわついていたはずの放課後が、そこから少しずつ、別の色へ変わり始めていた。