放課後バーガー

 休日の午後、朔人の部屋には、エアコンの低い音とページをめくる音だけが流れていた。
 ベッドの上では、凪が枕を背にして漫画を読んでいる。眼鏡をかけたまま、片膝を立てて、すっかりくつろいだ顔だ。朔人は床に座ってスマホをいじっていたけれど、しばらく見ているうちに、なんとなくその余裕しゃくしゃくな顔が腹立たしくなってきた。
「凪先輩」
「んー?」
「さっきから全然こっち見ないじゃないですか」
「漫画読んでるからな」
「それは見れば分かります」
「じゃあ聞くなよ」
 淡々と返されて、余計にむっとする。
 朔人はベッドに膝をつくと、そのまま凪の脇腹に指を伸ばした。
「うわ」
 凪の肩が跳ねる。
「ちょ、何」
「いや、反応いいなと思って」
「くすぐるなって」
「弱点見つけたかも」
「サク」
「はい」
「やめろ」
「やです」
 もう一度指先を滑り込ませると、凪はさすがに漫画を閉じた。少し乱れた前髪の下で、眼鏡の奥の目が細くなる。
「煽るなあ」
「いや、だって凪先輩が余裕そうだから」
「ふうん」
「何ですか」
「あとで後悔しても知らないよ」
「それ、脅しですか」
「忠告」
 言った次の瞬間、手首を掴まれた。
 軽く引かれて体勢が崩れる。朔人がうわ、と声を上げた時には、いつの間にか立場が逆転していた。
「ちょ、待っ」
「待たない」
「さっきまで漫画読んでたくせに」
「読んでたけど、今は別」
 そう言いながら、凪の指先が朔人の脇腹に入る。
「っ、うわ、やめ、ほんと無理!」
「へえ、サクもちゃんと弱いとこあるんだ」
「あるに決まってるでしょ!」
「でも仕掛けたのそっちだよな」
「それはそうですけど!」
 笑いながらじゃれ合って、ベッドの上でぐしゃぐしゃになる。枕が落ちて、シーツが寄って、漫画が端へ追いやられる。
 最初はただのふざけ合いだったのに、気づけば距離が妙に近かった。
 朔人の手が、ふと凪の顔に触れる。
 その拍子に眼鏡が少しずれた。
「あ、ごめん」
「ん」
 凪は短く答えて、眼鏡を外した。
 その瞬間、朔人の胸が妙にうるさくなる。
 見慣れているはずなのに、眼鏡がないだけで印象が変わる。目元が思っていたよりはっきり見えて、笑っていた空気が少しだけ静かになる。
 近い。近すぎる。なのに目が逸らせない。
「……何」
 凪が言う。
「いや」
 朔人は喉が少し詰まりながら答えた。
「ずるいなって」
「何が」
「その顔」
 凪は一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑った。
「今さら?」
「今さらですけど」
「サクって、たまにそういうの真正面から言うよな」
「思ったから」
「そっか」
 その声がやわらかく落ちる。
 凪の手が、朔人の頬にそっと触れた。
「俺も、今のサクかわいいと思ってた」
「それはやめてください」
「なんで」
「調子狂うんで」
 そう返した朔人の声が、自分でも少し弱かった。
 凪はその変化に気づいたらしい。笑わずに、そのまま近づいてくる。
 唇が触れた。
 短くて、静かなキスだった。
 何度かしてきたはずなのに、今日はやけに熱い。朔人は目を閉じたまま、凪のシャツを少し掴んだ。凪の手が背中を撫でる。そのやさしさに、少しずつ肩の力が抜けていく。
 シャツの裾がわずかにずれて、そこで朔人の指先がふと止まった。
「……凪先輩」
「ん?」
「これ」
 腹部に、細く残った傷痕が見えた。
 大きいわけじゃない。けれど、白い線が肌の上にうっすら残っていて、そこだけ少し違う時間を持っているみたいだった。
 凪は一瞬だけ黙った。
 それから、少し視線を逸らす。
「……昔の」
「うん」
「別に大したやつじゃないんだけど」
 そう言ってから、少しだけ困ったように笑う。
「コンプレックスなんだよね」
 その言い方が、予想よりずっと静かで、朔人は胸の奥がきゅっとなった。
 いつも飄々としていて、何でも軽く言うくせに、こういう時だけほんの少しだけ本音が見える。
 朔人は、その傷のすぐ近くにそっと指を置いた。触れ方を間違えたくなくて、かなり慎重になる。
「俺」
「うん」
「これ、嫌だとか全然思わないです」
 凪が黙って聞いている。
 朔人は少しだけ息を吸って、まっすぐ続けた。
「むしろ、俺がチャームポイントって思えるようにします」
「……何それ」
「だって本気なんで」
「本気で言ってる?」
「本気です」
 凪はしばらく何も言わなかった。
 それから、困ったように、でも嬉しそうに笑った。
「ほんと、そういうとこだよな」
「どこですか」
「こっちが弱くなるとこついてくる」
「凪先輩が勝手に弱くなってるだけでしょ」
「ひど」
「でも本当です」
「……うん」
 凪は小さく頷いた。
「ありがと」
 その声がやけに近くて、また胸がざわつく。
 朔人が何か返そうとした、その時だった。
 玄関のほうから、ガチャッと音がした。
「やば」
 朔人が飛び起きる。
「弟」
「帰ってきた?」
「部活!」
 さっきまでの空気が一気に吹き飛ぶ。
 凪も素早く眼鏡を探す。朔人は慌てて枕を直し、落ちた漫画を拾い、シーツの乱れを雑に整えた。
「ちょ、眼鏡どこ」
「そこ、漫画の下!」
「見えない」
「今それ言ってる場合!?」
 廊下を歩く音が近づく。
 朔人は勢いで凪の肩を押してベッドに座らせ、自分も少し離れて机の前に移動した。
 次の瞬間、ノックもそこそこにドアが開く。
「兄ちゃん、スポドリある?」
 弟が顔をのぞかせる。
 朔人は一瞬だけ固まりかけたけれど、どうにか平然を装った。
「冷蔵庫見て」
「あ、先輩来てたんだ」
 弟は凪を見て言う。
「どうも」
 凪が、信じられないくらい普通の声で返す。
「漫画読んでた」
「へえ」
 弟はそれ以上深く気にした様子もなく肩をすくめた。
「じゃ、もらうわ」
「どうぞ」
「兄ちゃん部屋暑い」
「うるさい、早く行け」
 ぱたぱたと足音が遠ざかって、ドアが閉まる。
 数秒、ふたりともそのまま動かなかった。
 それから、ほとんど同時に息を吐く。
「……危な」
「心臓に悪い」
「凪先輩、よくそんな平然としてられましたね」
「平然としてるふりだよ」
「俺、絶対顔やばかった」
「うん、やばかった」
「ひど」
「でもかわいかった」
「今それ言います?」
 さっきまでの熱とは少し違う、変にくすぐったい空気が戻ってくる。
 朔人はベッドの端に座り直し、少しだけ肩の力を抜いた。凪もその隣に腰を下ろす。
 部屋はまた静かになった。
 でも、さっきまでの勢いとは違う。もっとやわらかくて、あたたかい沈黙だった。
「俺」
 朔人が小さく言う。
「こんなふうに思える日が来るなんて、前は全然思ってなかったです」
「どんなふうに?」
「誰かといて、ずっとこのままでいたいとか」
 少しだけ照れながら続ける。
「触れたいとか、触れられて嬉しいとか。そういうの」
 凪は少し黙って、それからやさしく笑った。
「俺も」
「ほんとに?」
「ほんとに」
 その返事のあと、凪の手がそっと朔人の後頭部に触れた。逃がさないみたいに、でもやさしく引き寄せられる。
「サク」
「なんすか」
「さっきの続き、してもいい?」
 朔人は少しだけ目を見開いて、それから小さく頷いた。
「……はい」
 キスは、今度はもう少し長かった。
 あわてるようなものじゃなくて、確かめるみたいにゆっくり重なる。朔人は目を閉じて、凪の肩に手を置いた。凪の指先が髪を梳く。背中を撫でる。そのたびに、少しずつ力が抜けていく。
 強引じゃないのに、もう離れたくないと思わされる。心臓はうるさいのに、不思議と怖くない。
 唇が離れたあとも、距離はほとんどそのままだった。
「今日はこのへんでやめとく?」
 凪が低く聞く。
 その声に、朔人はまた少し熱くなる。
「……それ、確認なんですか」
「確認」
「ずるいなあ」
「大事だから」
「じゃあ」
 朔人は少しだけ笑った。
「今日は、それで」
 凪も笑って、朔人の額に軽く口づけた。
「えらい」
「子ども扱いしないでください」
「してないよ」
「してます」
「じゃあ恋人扱い」
「それも照れるんでやめてください」
「注文多いな」
「凪先輩が言う?」
 そう言い合って、また少し笑う。
 外では、夕方に近づいた風が網戸を小さく鳴らしていた。
 夏の終わりの部屋の中で、ふたりの距離だけがゆっくり変わっていく。まだ知らないことも、これから触れていく気持ちもたくさんある。
 それでも今は、隣にいるこの人と同じ気持ちでいられることだけで十分だった。
 凪はもう一度、朔人の手を取った。
 今度はくすぐりでも、ふざけてでもなく、ただ恋人として自然に。
 朔人はその手を握り返しながら、胸の奥で小さく思った。
 放課後の続きみたいなこの時間が、きっとこれからも少しずつ増えていくのだろうと。