放課後バーガー

 入学して二週間くらい経つと、高校にもなんとなく色があることが分かってくる。  教室でいつも真ん中にいるやつ。昼休みに購買へ走るやつ。放課後になった途端、部活の空気に切り替わるやつ。  そういうのを見てると、自分がどのへんにいるのかも自然と見えてくる。
 俺は別に浮いてるわけじゃなかった。  話しかけられれば普通に話すし、席が近い連中とはそこそこ笑う。  でも、中心でもない。  悪く言えば、まあまあ埋もれる位置だ。
 それはそれで楽だけど、せっかく高校に入ったんだから、もうちょっと分かりやすく華やかな側にいてもいいんじゃないかとも思った。
 で、思いついたのが、女子にモテそうな部活に入ることだった。
 単純だなとは自分でも思う。  でも単純なほうが早い。  サッカー部とか、いかにもそうだ。走ってるだけでそれっぽいし、グラウンドで声出してれば青春感もある。顔がよければなおさらだ。  そこに少しでも寄れたら、高校生活もだいぶ楽しくなる気がしていた。
 その日も放課後のチャイムが鳴ったあと、俺はそのつもりで席を立った。  スマホをポケットに入れて、教科書を雑に鞄へ突っ込み、廊下に出る。  窓の外はまだ少し明るくて、グラウンドの土がぼんやり白く見えていた。
 昇降口まで来ると、スパイクの音やボールを蹴る乾いた音が外から響いてくる。  いい時間だなと思った。  たぶん今見に行けば、ちょうど練習も見やすい。
 そのまま外へ出ようとして、俺は声をかけられた。
「ちょっと待って」
 知らない声だった。  振り向くと、そこにいたのは茶髪に眼鏡の先輩だった。
 背はわりと高い。  制服の着方は普通。むしろきっちりしてるほうに見えるのに、目だけが妙に落ち着きなくこっちを見ている。  手にはチラシの束。昇降口の壁際には、簡単な手書きポスターまで立てかけてある。
「部活、もう決めた?」
 いきなり本題だった。  俺は上履きのかかとを踏み直しながら首をかしげた。
「まだっすけど」
「じゃあちょうどいい。見学来ない?」
 差し出されたチラシを見下ろす。  でかでかと、お笑い研究部と書いてあった。
「……お笑い研究部?」
「そう」
 先輩は迷いなくうなずいた。  なんでそんなに自信満々なんだ。
「いや、俺これからサッカー部見に行くんで」
「サッカー部かあ」
 引くかと思ったのに、その先輩はなぜか少し考える顔をしただけだった。
「いいよ。じゃあそのあと来て」
「いや、行くって言ってないっす」
「今言って」
「怖」
 思わず出た。  初対面で怖いは失礼かもしれないけど、実際ちょっと怖かった。距離の詰め方が早い。しかも、まったく気にしてない顔をしている。
「大丈夫。見学だけでいいから」
「いや、でもなんで俺なんすか」
「なんとなく」
「なんとなくで勧誘される側の身にもなってくださいよ」
「ちゃんと考えてるよ」
 先輩は平然とチラシをもう一歩分押しつけてくる。
「君、絶対おもしろいから」
「は?」
「いや、なんかさ、返し速そう」
 そこで俺は一回、本気で意味が分からなくなった。
「まだほぼ喋ってないっすけど」
「今ので確信した」
「今ので?」
「うん。たぶんツッコミ向き」
「いや、勝手に役割まで決めないでくださいよ」
「ほら」
「何がっすか」
「今の」
 この人、だめだ。  話が通じてるのか通じてないのか、すごく微妙だ。  しかも楽しそうだし。
 どうやら本気で俺を逃がす気がないらしい。  チラシを受け取らない限り終わらなそうな気配がして、俺は小さくため息をついた。
「……じゃあ、サッカー部見たあとで時間あったら」
「ほんと?」
「時間あったら、っすよ」
「わかった。待ってる」
 なぜかそこで満面の笑みを返された。  軽く受け流しただけのつもりだったのに、えらく嬉しそうでちょっと引く。
「じゃあ」
 先輩はチラシの端を指で叩いた。
「ここ。三階の旧視聴覚準備室」
「地味な部屋っすね」
「いいだろ、秘密基地感あって」
「秘密基地感で人集まると思ってんすか」
「集まるかはこれから」
 そう言って、またすぐ笑う。  眼鏡の奥の目がきらきらしていて、変な人だな、と改めて思った。
「俺、一ノ瀬」
「……雪代っす」
「雪代ね。待ってる」
 待ってる待ってるって、そんな念押しされると逆に行きづらい。  俺はチラシを受け取るだけ受け取って、さっさと外へ出た。
 グラウンドは思った通りだった。  広くて、声が大きくて、分かりやすく青春している。サッカー部の連中はみんなよく動くし、先輩たちの指示にも勢いがある。見学の一年も何人か来ていて、その中に女子の姿も見えた。
 悪くないと思った。  むしろ、かなり正解寄りだ。  ここに入ればそれなりに楽しくやれる気がする。見た目も部活の雰囲気も、たぶん俺が思い描いてた高校っぽい。
 でも見学を終えて昇降口へ戻るころになっても、頭の片隅にさっきの眼鏡の先輩が残っていた。
 絶対おもしろい。  返し速そう。  ツッコミ向き。
 意味は分からない。  分からないけど、まっすぐ言われると変に残る。
 行かなくてもいい。  約束なんてほぼ口約束だし、しかも相手は変な先輩だ。  普通ならここで帰る。
 なのに俺は、昇降口を抜けたあと一度足を止めた。
「……一応、約束したしな」
 誰に聞かせるでもなく呟いて、チラシを開く。  手書きの矢印と、妙に丸い字で書かれた案内。三階、旧視聴覚準備室。  正直、地味すぎる。サッカー部のまぶしさとは真逆だ。
 それでも階段を上り始めた時点で、たぶん少しだけ面白がっていたんだと思う。
 三階の突き当たりは静かだった。  使われていない教室が多いのか、人の気配も少ない。その中で、旧視聴覚準備室の引き戸だけが少し開いていて、内側からごそごそ物音がする。
「だからここ、もっと厚紙で補強しないと!」
「だからって羽まで付ける必要ある?」
「ある! 世界観!」
「何の世界観」
 なんかもう、入る前から不安だ。
 帰るなら今だと思った。  でもその直後、中から飛び出してきたのは、段ボール箱を両腕に抱えた男子だった。
「うわっ」
「わっ」
 ぶつかりかけて、二人同時に止まる。  相手は目を丸くして、そのまま俺の顔を見た。
「誰!?」
「あ、いや」
「新入部員!?」
 声がでかい。  しかも話が早い。
「違います」
 俺は反射で否定した。
 けれど相手はもう半分聞いていなかった。
「やった! しかも背ぇ高い! 絶対舞台映えするじゃん!」
「八坂、人の話最後まで聞きなよ」
 部屋の奥から、落ち着いた声が飛んでくる。
 中をのぞくと、机の横に立っていたもう一人がこっちを見ていた。少し眠そうな顔なのに、周りはちゃんと見えている感じの人だ。
「見学でしょ、たぶん」
「たぶんって何」
「雰囲気」
 そんな会話のあと、さらにその奥から、さっきの眼鏡の先輩――一ノ瀬先輩が顔を出した。
「来たじゃん」
 その一言が、なんか妙に嬉しそうだった。
「いや、一応っすよ」
「一応でも来た」
「念押しすごかったんで」
「効いたな」
 なんで勝ち誇るんだ。
 部室は思っていた以上に雑多だった。  机の上にはネタ帳らしきノート、油性ペン、ガムテープ、使いかけのカッター。壁際には段ボールで作りかけらしい何かが立てかけてある。教室というより、文化祭準備室みたいだ。
「一応、見学」
 一ノ瀬先輩が言うと、さっきの段ボール男子が、あからさまに肩を落とした。
「あ、見学かあ……」
「まあ、そううまくはいかないでしょ」
 机のところにいた、少し眠そうな顔の先輩も、小さく息をつく。
 なんだこの空気。  俺、そんな悪いこと言ったか?
 すると一ノ瀬先輩が、俺のほうを振り返って手を上げた。
「あ、先に紹介しとくな。こっちは八坂慎太郎(やさかしんたろう)
「どうも!」
 段ボールを抱えたまま、八坂慎太郎は元気よく頭を下げた。
「コント担当!」
「で、こっちが櫻葉佳々実(さくらばかがみ、)
「どうも」
 櫻葉佳々実は、八坂ほど大げさじゃないけど、軽く会釈してくる。
「見ての通り、ツッコミ兼ストッパーやってます」
「何それ」
「八坂相手だとだいたいそうなるから」
「ひどくない!?」
 それから一ノ瀬先輩が、自分の胸を軽く指した。
「俺は一ノ瀬凪(いちのせなぎ)
「……雪代です」
「うん、さっき聞いた」
 名前を言い合っただけなのに、さっきまでより少しだけその場に立ちやすくなる。  たぶん、こういうのは大事なんだろう。
 でも俺は、そこで一応言っておくことにした。
「見学には来ましたけど、たぶん入らないっすよ。俺、サッカー部入る予定なんで」
 言った瞬間、部屋の空気が少しだけしゅんとした。
 でも次の瞬間、一ノ瀬先輩――凪先輩は、大げさに机に突っ伏した。
「俺、立ち直れないかも」
「早すぎ」
 櫻葉先輩が淡々と返す。
「ショックすぎてテスト勉に集中できなくなった……」
「それはいつもでしょうが」
「ひど」
「事実」
「せっかく来たのに……」
 凪先輩はそう言いながら、ちら、と俺を見る。
「しかも絶対おもしろいのに……」
「露骨すぎません?」
 思わず口に出た。
「だって本気だし」
「まだ何もしてないっすよ、俺」
「でも分かる」
「またなんとなくですか」
「うん」
「適当すぎるでしょ」
 横から八坂先輩まで便乗してきた。
「えー、入ろうよー! 人増えると楽しいし! しかもツッコミっぽいし!」
「八坂、また最後の一言で圧かけてる」
「え、圧? これ圧?」
「だいぶ」
 部室全体が、わちゃわちゃとうるさい。  サッカー部みたいな分かりやすい華やかさじゃない。地味だし、狭いし、なんなら段ボール臭い。  でも、思ったより居心地が悪くなかった。
 凪先輩がまたちらっとこっちを見る。  なんなんだ、その目は。  ちょっとだけ困った顔をしてるくせに、期待だけはまっすぐで、妙に断りづらい。
 俺は頭をかいて、ため息をついた。
「……わかりましたよ」
 その瞬間、部室の空気がぴたりと止まった。
「入ります」
「え」
 凪先輩が顔を上げる。
「だから、入るって言ってるじゃないっすか」
 八坂先輩が先に飛び上がった。
「やったー!」
「うるさ」
 櫻葉先輩は呆れた顔でそう言いながらも、少し笑っていた。
 凪先輩だけが、一拍遅れてから口元を緩めた。  本気で意外だったみたいに、少しだけ目を丸くしている。
「いいの?」
「そこまで落ち込まれると、なんか俺が悪いみたいなんで」
「悪いとは言ってない」
「顔が言ってました」
「じゃあ責任取って」
「入ったじゃないっすか」
 そのやり取りのあと、俺は小さく息をついた。
「ただし、条件あります」
 凪先輩の目が、また分かりやすく動く。
「条件?」
「俺に彼女ができた時は、退部するんで」
 一瞬、部室が静かになった。
 そのあと真っ先に吹き出したのは八坂先輩だった。
「動機ぶれなさすぎだろ!」
「そこは一貫してるんだ」
 櫻葉先輩も笑いをこらえるみたいに口元を押さえる。
 凪先輩だけが、少し遅れて顔をしかめた。
「……うわ、感じ悪」
「先にしつこかったの凪先輩でしょ」
「でもへこむ」
「じゃあやめます?」
「それはだめ」
 即答だった。
 あまりに間髪入れずだったから、思わず笑いそうになる。  この人、ほんとに分かりやすい。
「じゃあこれ」
 櫻葉先輩が机の端から紙を一枚抜いて、こっちに差し出してくる。
「入部届。とりあえず名前書いて」
「ちゃんとそういうのあるんすね」
「部活なんだからあるでしょ」
「八坂が前に三枚なくしたけどね」
「なくしてない! 一回どっか行っただけ!」
「それをなくしたって言うんだよ」
 言われるまま紙を受け取って、近くの机に置く。  備え付けのボールペンを借りて、自分の名前を書いた。
 その紙を、凪先輩が横からのぞきこむ。
雪代(ゆきしろ)……朔人(さくと)
 下の名前まで読み上げられて、俺は少しだけ顔を上げた。
「へえ。さくとって読むんだ」
「そうっすけど」
「いい名前じゃん」
 なんか、その言い方はずるい。  大したこと言ってないのに、まっすぐだから妙に残る。
 凪先輩は入部届を見たまま、すぐに頷いた。
「じゃあサクだな」
「いや、なんでそうなるんすか」
「朔人でサク。呼びやすい」
「今決めるんすか」
「今決めた」
「雑すぎるでしょ」
「いいじゃん。似合ってるし」
「何がっすか、それ」
 八坂先輩が横から身を乗り出してくる。
「サク、いいじゃん!」
「もう増えた」
「じゃあ俺もサクって呼ぼうかな」
「やめてください。凪先輩だけで十分うざいんで」
「うわ、ひど」
 凪先輩が口を尖らせる。
「でももう決定」
「いや決定権ないでしょ」
「あるよ。勧誘した先輩だから」
「初めて聞いたっす、そんな権利」
 櫻葉先輩が小さく笑った。
「まあ、呼びやすいのは確かかも」
「櫻葉先輩まで」
「諦めたほうが早いよ、たぶん」
 そう言われて、凪先輩を見る。  本人はもう完全に満足した顔で、俺の入部届を持ったまま頷いていた。
「よろしくな、サク」
「……勝手だなあ」
 文句を言いながらも、そこまで嫌じゃなかったのが少し悔しかった。
 この部室は地味だ。  段ボールは散らかってるし、机は傷だらけだし、グラウンドみたいな華やかさはない。  でも、そのぶん変に居心地が悪くなかった。
 八坂先輩は段ボールを抱えたままにこにこしてるし、櫻葉先輩はやる気なさそうに見えてちゃんと場を見てる。  そして凪先輩は、俺を見つけた時からずっと、妙に楽しそうだ。
「じゃあ入部記念にさ」
 凪先輩が立ち上がる。
「ちょっとだけやろう」
「何を」
「漫才」
 俺は眉をひそめた。
「いやいや、無理でしょ」
「無理じゃない。軽くでいいから」
「入ったばっかなんすけど」
「入ったばっかだからだろ」
 その理屈はよく分からない。  でも、凪先輩はもうやる気だった。
「俺が適当に話振るから、思ったこと返してみて」
「そんな雑な」
「いいから。はい、立って」
 半ば押し出されるみたいに部室の前へ立たされる。  八坂先輩が「おー」と拍手して、櫻葉先輩が「見世物じゃないから」と言いながら椅子を引いた。
 凪先輩が俺の横に立つ。  思ってたより背が近い。  眼鏡の奥の目だけ、やけに楽しそうだった。
「じゃあいくぞ」
「いや心の準備」
「サクって、モテたいんだよな」
「いきなりそこから入るんすか」
「大事だろ」
「まあ、そうっすけど」
「なんで?」
「いや普通に、モテたら嬉しいじゃないっすか」
「へえ。でもお前、そのままでもそこそこいけそうだけど」
「それ、先輩に言われても全然嬉しくないっす」
「なんでだよ」
「男じゃないっすか」
「じゃあ女子に言われたら嬉しい?」
「そりゃまあ」
「でもさ、女子って顔だけのやつ、意外とすぐ飽きるじゃん」
「偏見強いな」
「だから面白いやつの方が最終的に勝つ」
「その理論でお笑い研究部勧誘してたんすか」
「そう」
「必死すぎるでしょ」
「でもお前、今ちょっと納得したろ」
「してないっす」
「いやした」
「してない」
「強がるなよ」
「強がってないっす。ていうか凪先輩の方が必死じゃないっすか」
「何に」
「相方探し」
 言った瞬間、部室の空気が少しだけ止まった気がした。
 しまった、と思う。  俺はまだ、この人のことをほとんど知らない。  さっき櫻葉先輩が何か言いかけて、やめた顔をしていたのも思い出した。
 でも凪先輩は、少し目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「今の、いい」
「え」
「そこ、ちゃんと刺してくる感じ」
「いや、別に刺したつもりじゃ」
「でも刺さった。いいツッコミ」
 その言い方が妙に嬉しそうで、俺は言葉を失った。
 八坂先輩がぱん、と手を叩く。
「やっぱいけるじゃん!」
「返し速いね、サク」
 櫻葉先輩も、少し感心したみたいに言った。
 凪先輩は俺の顔を見て、にやっとした。
「ほらな」
「……何がっすか」
「絶対いけるって思ったんだよ、お前」
 その時の顔を、俺はたぶんしばらく忘れない。  大げさでもなく、からかいでもなく、ほんとに見つけたって顔だったからだ。
「で」
 凪先輩が、そこでさらっと言った。
「今度、打ち合わせしよう」
「今度?」
「放課後。駅前のハンバーガー屋」
「なんでハンバーガー屋なんすか」
「ネタが出るから」
「どんな理論ですか」
「ポテトの塩気で脳が回る」
「いや意味わかんないっす」
 八坂先輩がけらけら笑う。  櫻葉先輩は「また始まった」と言いたげな顔をしていた。  凪先輩だけが平然としている。
「そこ、俺の定位置なんだよ。窓際の奥の席」
「知らないっす」
「今知ったじゃん」
「それをドヤ顔で言われても」
「で、そこで名前決める」
「名前?」
「コンビ名」
 あまりにも当然みたいに言うから、一瞬ついていけなかった。  まだ入部したばかりだ。漫才をやるとも決めてない。なのにこの先輩の中では、もうそこまで進んでるらしい。
「いや、早くないっすか」
「早くない。勢い大事」
「勢いだけでやってるでしょ」
「だいたいそう」
「最悪だ」
 そう言ったら、凪先輩が楽しそうに笑った。  眼鏡の奥の目が細くなる。その顔を見ていると、断るのもなんか違う気がしてくるからずるい。
「サク」
「なんすか」
「明日、空いてる?」
「放課後なら」
「よし。決まり」
「まだ俺、行くって」
「言ってないけど来るはず」
「また勝手に」
「でも来るだろ」
 自信満々に言われて、俺は少しだけ言葉に詰まった。
 今日ここに来たのだって、約束したからというより、少し気になったからだ。  この部室も、この人も、正直かなり変だ。でも、つまらない感じはしない。
「……まあ、一応」
「一応でもいい」
 凪先輩はすぐ笑う。
「じゃあ明日な」
 その場で話は決まった。
 帰り際、部室の引き戸を閉める前に一度だけ振り返る。  八坂先輩はまた段ボールをいじっていて、櫻葉先輩はその横で呆れた顔をしている。凪先輩はネタ帳を開いたまま何か書いていて、俺が見ると顔を上げた。
「サク」
「はい」
「来てくれてよかった」
 あっさり言う。  そんなこと、そんな顔で言うか普通。
 俺は一瞬だけ返事に詰まって、それから目をそらした。
「……どうも」
 それだけ言って戸を閉めた。
 廊下は静かで、窓の外はさっきより少し暗くなっていた。  グラウンドのほうからまだ声が聞こえる。正解っぽい放課後の音だ。
 それなのに俺は今、段ボールだらけの地味な部室を出たところで、変な先輩と明日の約束をしている。
 ほんと、何やってるんだろうなと思った。
 でも、足取りは思ったより軽かった。
 たぶんその時点で、もう少しだけずれていたんだろう。  俺が思っていたよりも、ずっと最初のところから。