放課後バーガー

​ 次の日の朝から、朔人はずっと落ち着かなかった。
 授業を聞いていても、黒板の字は目に入るのに頭に残らない。昨日の部室の空気が、会話が、凪の声が、何度も勝手に脳裏に蘇ってきた。
 『困るよ』  『それだけじゃない』
 そこまで言われて、まだ勘違いかもしれないなんて思うほど鈍くはなかった。
 女の子と出かけるより、ハンバーガー屋で凪とネタを詰めるほうが楽しかった。必要とされたいと思った相手が、もうずっと一人しかいなかった。
 問題は、じゃあ自分がどうするか、だった。
 放課後。チャイムが鳴った瞬間、朔人は鞄を掴んで立ち上がった。
「雪代、今日早」
「ちょっと用事」
 それだけ返して教室を出る。部室へ向かう途中でスマホを取り出し、一瞬だけ迷ってから短く打った。
 『今日、先に店行って待ってます。話したいことあります』
 既読はすぐについた。
 『分かった。行く』
 それだけの返信に、心臓の音がさらにうるさくなった。
 駅前のハンバーガー屋は、いつも通り明るかった。朔人は先にセットを買い、窓際のいつもの席に座る。コーラの氷が溶けていく音を聞きながら、何度も入口を振り返った。
 しばらくして、自動ドアが開いた。凪が入ってくる。目が合った瞬間、朔人の喉が少し詰まった。
 凪はトレーを持って席へ来た。セットにバーガー二つ。さすがに今日はシェイクまではなかった。
「早い」
「珍しく」
 凪が腰を下ろして、朔人を見る。
「……話したいことって、何ですか」
 いつもなら、新作バーガーがどうとか、部活の愚痴がどうとか、そんな話から入る。けれど今日は、そこを飛ばして本題が来た。
 朔人は少しだけ息を吸う。
「昨日の続きです」
「……うん」
「部室で、最後まで聞けなかったやつ」
 凪はすぐには答えなかった。ドリンクのカップに触れた指先だけが、少し止まる。
「俺、昨日帰ってからずっと考えてました」
「何を」
「凪先輩のこと……っていうか、あの話のこと」
「……うん」
「最初は、彼女ができたら辞めるっていう条件があるから、相方として必要だから確認したのかなって思ってたんです」
「うん」
「それでも嬉しかったです。でも、それだけじゃなかったらもっと嬉しいって思ってる自分がいて」
 凪はまだ黙っている。その沈黙が逃げではないことは、もう分かっていた。
「俺、今まで普通に彼女が欲しいって思ってたんです」
「うん」
「でも、いつの間にかそれより、凪先輩といる放課後のほうが大事になってました」
 凪の視線が、そこで少しだけ揺れた。
「ハンバーガー屋でネタを詰める時間とか、夏祭りとか、見舞いに来てくれた時とか……そういうの思い出してたら、自分の中ではっきりしてきて」
 朔人はそこで一度言葉を止めた。でも、もうごまかしたくなかった。
「たぶん俺、ずっと思ってたより、凪先輩のこと……」
 喉が少し詰まる。それでも、今はちゃんと言いたかった。
「好きです」
 はっきり言う。
「相方としてだけじゃなくて」
 言ってしまった瞬間、世界の音が少し遠のいた気がした。店内のざわめきも、レジの電子音も、そこだけ切り取られたみたいに静かになる。
 凪は、しばらく何も言わなかった。数秒のはずなのに、体感ではもっと長い。
 やがて凪が、小さく息を吐いた。
「……ずるいな」
「何がっすか」
「先に言うの」
 凪は少しだけ笑った。でも、それはいつもの軽い笑いじゃなかった。
「俺だって、言おうとしてたのに」
 その一言に、朔人の胸の奥が少しだけ軽くなる。それでも、まだちゃんと聞きたかった。
「じゃあ、ちゃんと言ってください」
 凪はそこで少しだけ目を見開いた。けれどすぐに、観念したように笑う。
「ほんと、お前さ」
「はい」
「逃がしてくれないよな」
「凪先輩が言うんすか、それ」
 その返しに凪は少しだけ肩を揺らして、それからまっすぐ朔人を見た。
「好きだよ」
 凪の声は静かだった。
「気づいたのは夏休みの終わりくらいだけど」
「……」
「たぶん、それより前からずっと、だいぶ特別だった」
 言葉を選びながら、でももう止めずに続ける。
「お前が他のやつといるのは嫌だったし、彼女ができるなんて言われたくなかった。放課後に一緒にネタをやってる時間を、ずっと手放したくなかった」
 凪は少しだけ口元をゆるめた。
「だから、好き」
 朔人は返事を忘れそうになった。嬉しいとか、安心したとか、いろんなものが一気に来て、言葉がうまく出てこない。
「……やば」
「何それ」
「いや」
 朔人は耳が熱くなるのを感じながら言う。
「ちゃんと言われると、思ったより……嬉しいです」
「そっか」
 凪も少し笑う。
「……俺も」
 そのあと、二人は少しだけ黙った。気まずいわけじゃない。ただ、今までと同じ席なのに、空気がまるで違って感じられた。
「じゃあ」
 朔人が先に口を開く。
「これからどうします? 付き合う、とか」
「そこ確認必要?」
「いるでしょ、普通」
「じゃあ、付き合う」
「軽いなあ」
「でもちゃんと本気」
 凪はそう言ってから、少しだけ身を乗り出した。
「あと、相方も続ける」
「そこ大事です」
「だろ」
「恋人になったからって、コンビ解散とか嫌なんで」
「しないよ」
 凪は即答した。
「今さら誰とやるんだよ」
 その言葉に、朔人はまた少しだけ言葉に詰まる。
「……そういうの、ずるいんですよ」
「お前が言う?」
「言います」
 そこで二人は笑った。やっと、空気が少しだけいつものものに戻る。けれど前と同じじゃない。確かに何かが変わったあとの、二人のテンポだった。
「サク」
「なんすか」
「今日、まだ動物園デート詰める?」
「詰めます」
「付き合いたてなのに、真面目だなあ」
「凪先輩が言います?」
 朔人はそこで、テーブルの上の紙ナプキンをいじった。一瞬だけ迷って、それから小さく言う。
「あと、できれば」
「何」
「前みたいに、シェイク一口とか、食べ残しとか……そういうのも普通にしてほしいです」
 凪が少しだけ目を丸くする。
「そこ?」
「そこです」
「恋人になって最初の要望が?」
「結構大事だったんで」
「知らなかった」
 凪は少しだけ笑って、ドリンクのカップを押した。
「じゃあ、今日のは?」
「普通のコーラじゃないですか」
「いいから」
「雑だなあ」
 そう言いながら、朔人はストローに口をつける。その何でもないやり取りが、思っていたよりずっと嬉しかった。
 帰る頃には、店の外の空気も少し和らいでいた。駅前を並んで歩く。前と同じようで、やっぱり少し違う。
「凪先輩」
「ん?」
「今さらですけど、昨日部室で止まってよかったかもしれないです」
「なんで」
「今日のほうが、ちゃんと聞けたんで」
「……そっか」
 凪は少し笑って、ごく自然な動きで朔人の手首に触れた。ほんの一瞬の、でも十分伝わる近さだった。
「じゃあ、次はエピローグっぽい顔して漫才しないとな」
「何その言い方。メタいなあ」
「でも新ネタはちゃんと考えるよ」
「そこは真面目なんですね」
「当たり前だろ」
 その返しに、朔人も笑った。
 放課後は、たぶんこれからも変わらない。
 部室で会い、ハンバーガー屋へ行き、ネタ帳を広げて、ツッコんで、笑う。
 でも、その変わらなさの中に、前にはなかったものが確かにある。
 それだけで、世界は思っていたよりずっと違って見えた。