九月に入ったばかりの放課後は、まだ夏の名残をちゃんと抱えたままだった。
日差しは八月の真ん中ほど容赦なくはない。でも、校舎の中には昼の熱が薄く残っていて、窓を開けても入ってくる風はまだぬるい。部室の窓から見えるグラウンドの端にも、夏休み明けのだるさみたいな空気が少し漂っていた。
その日の放課後、朔人が部室に入ると、八坂先輩がダンボールを抱えて机の上を測っていた。
「何してるんすか」
朔人が聞くと、八坂先輩は顔も上げずに答える。
「撮影台」
「何の」
「放課後バーガーの動画」
「急に有能だな」
「八坂は急にじゃなくても、たまに有能だよ」
櫻葉先輩が机の横で言う。
「頻度が低いだけで」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「半分かあ」
その声の向こうで、凪先輩がネタ帳を閉じた。眼鏡の奥の目が、こっちを見る。
「サク」
「はい」
「今日、動物園デート、一本ちゃんと撮ってみる」
「今日?」
「今日」
凪先輩はいつもの調子で言った。
「夏休み明け一本目の動画。視聴者向け」
「お、いいっすね」
「文字で面白いのは分かったから、立ちでどこまでいけるか見たい」
「その代わり」
凪先輩が少しだけ目を細める。
「サルのものまねのとこで俺が笑ったらやり直しな」
「そこは頑張ってくださいよ」
「お前があれ入れたんだろ」
「文字だけでもうおもろいって言ってたじゃないですか」
「言ったけど」
「じゃあ責任持って耐えてください」
「そこまで言う?」
そのやり取りに、八坂先輩がにやっとした。
「いいねえ、青春」
「何が」
凪先輩が言う。
「普通に撮るだけだけど」
「その『だけ』がもう青春なんだよ」
「意味わかんないっす」
朔人が返すと、櫻葉先輩が肩をすくめた。
「八坂は夏休み明けからずっとこんな感じ」
「祭りの余韻がまだ抜けてない」
「一番抜けてないの八坂先輩でしょ」
「そうとも言う」
そんな会話をしているうちに、机が端へ寄せられ、部室の真ん中に立ち位置が作られた。放課後バーガーが漫才をする場所。百均前線が撮る側に回るのは、なんだか少し変な感じがした。
「じゃあ、いくよ」
八坂先輩がスマホを構える。
「タイトルコールとかいる?」
「いらない」
凪が即答した。
「余計なこと増やすな」
「はーい」
「そこは素直なんだ」
朔人が言うと、八坂先輩は笑った。
立ち位置につく。動物園デート。朔人が持ってきた初めてのネタ。その事実だけで、凪は少しだけ胸がざわついた。
「はい、スタート!」
朔人が軽く息を吸った。
「ねえねえ、俺女の子とデートする時緊張しちゃうから予行練習に付き合ってくれない? 女の子やって」
「え、やだ」
凪が返す。
「即答すんなよ! そこはちょっと悩んで!」
「なんで俺が女の子役なの」
「消去法だよ」
「傷つく言い方だな」
「いいから! 今日は動物園デートの予行練習な」
「分かったよ。ほら朔人くん、今日は動物園デート楽しみだね」
「急にそれっぽいな!」
そこまではよかった。いつものテンポだった。朔人のツッコミも乗っている。
「じゃあ行こうか。動物園着きました!」
「あっ! サル! かわいーい!」
「いやそれ飼育員のおっさんだから!」
八坂先輩が後ろで小さく笑うのが聞こえた。櫻葉先輩の肩も少し揺れている。
「でもちょっと毛深かったよ」
「見た目で判断すな!」
凪はそこまでは耐えた。けれど次のくだりに来た瞬間、危なかった。
「ねえ、サルのものまねしたらサル集まってくるかなぁ!」
「嫌な予感しかしないな」
「ウホッウホッウホッウホッウホッウホッウホッウホッ……あっ、なんか人集まってきちゃった!?」
「そりゃそーだろ!! 一番珍獣でしたよアンタ!」
そこで、八坂先輩がついに吹き出した。つられて凪も口元を押さえる。
「はい、ストップ!」
八坂先輩が笑いながら言う。
「無理無理、これ不意打ち強いって!」
「八坂が先に笑うなよ」
凪が言うと、八坂先輩はまだ笑っていた。
「いやだって、一番珍獣は強いって」
「そこ褒められてます?」
朔人が聞く。
「褒めてる褒めてる」
櫻葉先輩が冷静に言った。
「普通にそこは強い」
「ほら」
凪が言う。
「言っただろ」
「でも凪先輩も危なかったじゃないですか」
「危なくない」
「口元押さえてたでしょ」
「埃」
「雑な言い訳だな」
その返しに、また少し笑いが起きる。
「もう一回いこう」
凪がネタ帳を開きながら言った。
「今のサル前の間、もうちょい短くしていいかも」
「なるほど」
「で、そのあと、ライオンのところ」
凪は視線を紙に落としたまま続ける。
「百獣の王ってもっとこう、常にガオーッてしてるもんじゃないの、からの」
「二十四時間営業の王いないだろ」
「うん、そこ好き」
「そこ、凪先輩好きですよね」
「好き」
「即答だ」
「シフト制のとこ、テンポいいから」
そう言いながら、凪は少しだけ目を細めた。サクが自分で考えた言葉を、こうして当然みたいに一緒に磨いていく時間が、どうしようもなく好きだと思ってしまう。
好きだ、と思う。気づいてからもう何度も自覚しているのに、そのたび少しだけ苦しい。
「じゃあ次ラストまで通すよー」
八坂先輩がまたスマホを構えた。
「今度は笑わない」
「信用ならないな」
櫻葉先輩が言う。
「お前、さっきめっちゃ揺れてたし」
「でも今の俺はいける」
「その自信どこから来るの」
二回目は、さっきよりだいぶ滑らかだった。サル山、飼育員、毛深い。サルのものまねの話題。ライオンのシフト制。勢いが切れない。
でも、最後のところで凪の呼吸が少しだけ乱れた。
「でも楽しかったでしょ?」
女の子役の台詞。朔人の返し。その一瞬の間。
ネタの中の話なのに、妙にそこだけ現実に近い。サクがいつか誰かとデートする未来を、やけにはっきり意識させられる。
撮影が終わった瞬間、凪は思っていたより深く息を吐いていた。
「おつかれー! これ普通にいけそうじゃない?」
八坂先輩が言い、櫻葉先輩も頷く。
「動物園デート、放課後バーガーっぽくていい」
「でしょ」
朔人が少しだけ得意げに言う。それを見て、凪はまた胸がざわつく。
「じゃあ俺ら、自販機行ってくる」
八坂先輩が言う。
「喉乾いた」
「俺は荷物持ちか?」
櫻葉先輩が呆れたように言う。
「当然のように言うな」
「でもそういう流れだろ、もう」
櫻葉先輩が立ち上がる。
「飲み物いる?」
「俺はいらない」
凪が言う。
「サクは?」
「俺も今はいいです」
「了解」
二人が部室を出ていく。引き戸が閉まると、急に部屋が静かになった。
さっきまでの笑い声が少しだけ残っている。でも、それが消えると、向かい合っている二人の距離だけが妙にはっきりした。
「……今日、よかったっすね」
朔人が先に言う。
「ネタ」
「うん」
凪はネタ帳を閉じた。
「普通によかった」
「凪先輩がそんなに素直に褒めるの珍しい」
「ちゃんといいと思ったから」
「そういうの、ずるいんですよ」
「何が」
「急にちゃんと言うとこ」
「お前もだろ」
そこでまた少し笑う。笑うけど、そのあと続く沈黙は前より少しだけ深かった。
朔人は机の上のルーズリーフを指で揃え、それから視線を落としたまま言う。
「この前の」
「ん?」
「彼女の話」
凪の肩がほんの少しだけ止まる。
「まだ、引っかかってるんですけど」
ごまかせると思っていた。でも、朔人はまっすぐ続けた。
「最初の条件あったし」
「……うん」
「だから、部活続けてほしいから聞いたのかなって思ったんです」
「そっか」
「それは、まあ普通に嬉しかったです」
朔人は言う。
「必要ってことなら」
その言葉が、凪には少し痛かった。やっぱりそこに落ち着くんだと思ってしまう。
でも次の瞬間、朔人は少しだけ顔を上げた。
「でも」
「……」
「それだけじゃないなら、ちゃんと言ってほしいです」
凪は一瞬、本当に呼吸を忘れた。
「何それ」
やっとそう返す。
「急に」
「急ですか?」
「急だろ」
「だって、凪先輩、あの時の聞き方、普通じゃなかったし」
「普通に聞いたつもりだけど」
「無理あるでしょ」
「そう?」
「そうです」
部屋の中の空気が少しだけ熱を帯びる。窓の外はもうだいぶ暗いのに、二人の間だけまだ夕方が残っているみたいだった。
「サク」
凪は小さく息を吐いた。
「それ、困る」
「何がっすか」
「そうやって、ちゃんと聞いてくるの」
「聞いちゃだめなんですか」
「だめじゃないけど……今それやられると、俺が困る」
そこまで言って、自分で笑いそうになった。ここまで来ても、まだ「困る」で止めようとしている。
でも朔人は逃がしてくれなかった。
「俺に彼女できたら」
少しだけ低い声で言う。
「やっぱ困ります?」
その一言が、思っていたよりずっとまっすぐだった。凪はもう視線を逸らせなかった。朔人の顔は冗談みたいには見えない。ただ、答えを知りたい顔で、こっちを見ている。
「……困るよ」
凪はとうとう言った。声が少しだけ掠れた。
「そりゃ困る」
「部活の相方だから?」
朔人が聞く。そこが最後の線だった。でも、もうそこに戻れないことも分かっていた。
「それだけじゃない」
言ったあと、心臓が一気にうるさくなる。でも止められなかった。
「お前に彼女できたら、相方だからとか、そういうの抜きで嫌だよ」
部室の中が、しん、と静かになる。
朔人は少しだけ目を見開いた。でも驚いたというより、どこかで待っていた顔だった。
「……そっか」
そう言って、小さく息をつく。その抜き方が、どこかほっとしたみたいで、凪の胸がまた揺れる。
「そっか、って何」
「いや」
朔人は少しだけ笑った。
「そこ、ちゃんと言ってくれるんだなって」
「言わせたのそっちだろ」
「まあ」
「自覚あるなら質悪いな」
「凪先輩にだけは言われたくないです」
そう返されて、凪も少しだけ笑ってしまう。でも笑ったあと、またすぐに苦しくなった。
もう言ってしまった。ここまで出したら、たぶん次はもっと先まで行く。
「……お前は」
凪が聞きかけた時、廊下の向こうから八坂先輩の声がした。
「ただいまー! コーラ当たり出たんだけどー!」
「それ当たり付きだったんだ」
櫻葉先輩の声も近づいてくる。引き戸が開き、二人の明るさが一気に部室へ戻ってきた。
「何その空気」
八坂先輩がすぐ気づく。
「なんか今、めっちゃ大事な話してた?」
「してない」
凪が即答する。
「してたでしょ」
櫻葉先輩が言う。
「凪、顔赤いし」
「暑いだけ」
「部室で?」
「九月でも暑いだろ」
「それはそう」
その横で、朔人は小さく咳払いした。でも、その口元は少しだけ笑っていた。
その日の帰り道、朔人はまた一人で考えることになった。
凪が言ったこと。困るよ、っていうあの声。それだけじゃない、ってちゃんと口にしたこと。
そこまで来て、もうさすがに分からないふりはできなかった。
凪先輩は、自分に彼女ができるのが嫌なんだ。相方を取られるから、だけじゃなくて。もっと個人的な理由で。
そして、自分はその答えを聞いて、思っていた以上に嬉しかった。
日差しは八月の真ん中ほど容赦なくはない。でも、校舎の中には昼の熱が薄く残っていて、窓を開けても入ってくる風はまだぬるい。部室の窓から見えるグラウンドの端にも、夏休み明けのだるさみたいな空気が少し漂っていた。
その日の放課後、朔人が部室に入ると、八坂先輩がダンボールを抱えて机の上を測っていた。
「何してるんすか」
朔人が聞くと、八坂先輩は顔も上げずに答える。
「撮影台」
「何の」
「放課後バーガーの動画」
「急に有能だな」
「八坂は急にじゃなくても、たまに有能だよ」
櫻葉先輩が机の横で言う。
「頻度が低いだけで」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「半分かあ」
その声の向こうで、凪先輩がネタ帳を閉じた。眼鏡の奥の目が、こっちを見る。
「サク」
「はい」
「今日、動物園デート、一本ちゃんと撮ってみる」
「今日?」
「今日」
凪先輩はいつもの調子で言った。
「夏休み明け一本目の動画。視聴者向け」
「お、いいっすね」
「文字で面白いのは分かったから、立ちでどこまでいけるか見たい」
「その代わり」
凪先輩が少しだけ目を細める。
「サルのものまねのとこで俺が笑ったらやり直しな」
「そこは頑張ってくださいよ」
「お前があれ入れたんだろ」
「文字だけでもうおもろいって言ってたじゃないですか」
「言ったけど」
「じゃあ責任持って耐えてください」
「そこまで言う?」
そのやり取りに、八坂先輩がにやっとした。
「いいねえ、青春」
「何が」
凪先輩が言う。
「普通に撮るだけだけど」
「その『だけ』がもう青春なんだよ」
「意味わかんないっす」
朔人が返すと、櫻葉先輩が肩をすくめた。
「八坂は夏休み明けからずっとこんな感じ」
「祭りの余韻がまだ抜けてない」
「一番抜けてないの八坂先輩でしょ」
「そうとも言う」
そんな会話をしているうちに、机が端へ寄せられ、部室の真ん中に立ち位置が作られた。放課後バーガーが漫才をする場所。百均前線が撮る側に回るのは、なんだか少し変な感じがした。
「じゃあ、いくよ」
八坂先輩がスマホを構える。
「タイトルコールとかいる?」
「いらない」
凪が即答した。
「余計なこと増やすな」
「はーい」
「そこは素直なんだ」
朔人が言うと、八坂先輩は笑った。
立ち位置につく。動物園デート。朔人が持ってきた初めてのネタ。その事実だけで、凪は少しだけ胸がざわついた。
「はい、スタート!」
朔人が軽く息を吸った。
「ねえねえ、俺女の子とデートする時緊張しちゃうから予行練習に付き合ってくれない? 女の子やって」
「え、やだ」
凪が返す。
「即答すんなよ! そこはちょっと悩んで!」
「なんで俺が女の子役なの」
「消去法だよ」
「傷つく言い方だな」
「いいから! 今日は動物園デートの予行練習な」
「分かったよ。ほら朔人くん、今日は動物園デート楽しみだね」
「急にそれっぽいな!」
そこまではよかった。いつものテンポだった。朔人のツッコミも乗っている。
「じゃあ行こうか。動物園着きました!」
「あっ! サル! かわいーい!」
「いやそれ飼育員のおっさんだから!」
八坂先輩が後ろで小さく笑うのが聞こえた。櫻葉先輩の肩も少し揺れている。
「でもちょっと毛深かったよ」
「見た目で判断すな!」
凪はそこまでは耐えた。けれど次のくだりに来た瞬間、危なかった。
「ねえ、サルのものまねしたらサル集まってくるかなぁ!」
「嫌な予感しかしないな」
「ウホッウホッウホッウホッウホッウホッウホッウホッ……あっ、なんか人集まってきちゃった!?」
「そりゃそーだろ!! 一番珍獣でしたよアンタ!」
そこで、八坂先輩がついに吹き出した。つられて凪も口元を押さえる。
「はい、ストップ!」
八坂先輩が笑いながら言う。
「無理無理、これ不意打ち強いって!」
「八坂が先に笑うなよ」
凪が言うと、八坂先輩はまだ笑っていた。
「いやだって、一番珍獣は強いって」
「そこ褒められてます?」
朔人が聞く。
「褒めてる褒めてる」
櫻葉先輩が冷静に言った。
「普通にそこは強い」
「ほら」
凪が言う。
「言っただろ」
「でも凪先輩も危なかったじゃないですか」
「危なくない」
「口元押さえてたでしょ」
「埃」
「雑な言い訳だな」
その返しに、また少し笑いが起きる。
「もう一回いこう」
凪がネタ帳を開きながら言った。
「今のサル前の間、もうちょい短くしていいかも」
「なるほど」
「で、そのあと、ライオンのところ」
凪は視線を紙に落としたまま続ける。
「百獣の王ってもっとこう、常にガオーッてしてるもんじゃないの、からの」
「二十四時間営業の王いないだろ」
「うん、そこ好き」
「そこ、凪先輩好きですよね」
「好き」
「即答だ」
「シフト制のとこ、テンポいいから」
そう言いながら、凪は少しだけ目を細めた。サクが自分で考えた言葉を、こうして当然みたいに一緒に磨いていく時間が、どうしようもなく好きだと思ってしまう。
好きだ、と思う。気づいてからもう何度も自覚しているのに、そのたび少しだけ苦しい。
「じゃあ次ラストまで通すよー」
八坂先輩がまたスマホを構えた。
「今度は笑わない」
「信用ならないな」
櫻葉先輩が言う。
「お前、さっきめっちゃ揺れてたし」
「でも今の俺はいける」
「その自信どこから来るの」
二回目は、さっきよりだいぶ滑らかだった。サル山、飼育員、毛深い。サルのものまねの話題。ライオンのシフト制。勢いが切れない。
でも、最後のところで凪の呼吸が少しだけ乱れた。
「でも楽しかったでしょ?」
女の子役の台詞。朔人の返し。その一瞬の間。
ネタの中の話なのに、妙にそこだけ現実に近い。サクがいつか誰かとデートする未来を、やけにはっきり意識させられる。
撮影が終わった瞬間、凪は思っていたより深く息を吐いていた。
「おつかれー! これ普通にいけそうじゃない?」
八坂先輩が言い、櫻葉先輩も頷く。
「動物園デート、放課後バーガーっぽくていい」
「でしょ」
朔人が少しだけ得意げに言う。それを見て、凪はまた胸がざわつく。
「じゃあ俺ら、自販機行ってくる」
八坂先輩が言う。
「喉乾いた」
「俺は荷物持ちか?」
櫻葉先輩が呆れたように言う。
「当然のように言うな」
「でもそういう流れだろ、もう」
櫻葉先輩が立ち上がる。
「飲み物いる?」
「俺はいらない」
凪が言う。
「サクは?」
「俺も今はいいです」
「了解」
二人が部室を出ていく。引き戸が閉まると、急に部屋が静かになった。
さっきまでの笑い声が少しだけ残っている。でも、それが消えると、向かい合っている二人の距離だけが妙にはっきりした。
「……今日、よかったっすね」
朔人が先に言う。
「ネタ」
「うん」
凪はネタ帳を閉じた。
「普通によかった」
「凪先輩がそんなに素直に褒めるの珍しい」
「ちゃんといいと思ったから」
「そういうの、ずるいんですよ」
「何が」
「急にちゃんと言うとこ」
「お前もだろ」
そこでまた少し笑う。笑うけど、そのあと続く沈黙は前より少しだけ深かった。
朔人は机の上のルーズリーフを指で揃え、それから視線を落としたまま言う。
「この前の」
「ん?」
「彼女の話」
凪の肩がほんの少しだけ止まる。
「まだ、引っかかってるんですけど」
ごまかせると思っていた。でも、朔人はまっすぐ続けた。
「最初の条件あったし」
「……うん」
「だから、部活続けてほしいから聞いたのかなって思ったんです」
「そっか」
「それは、まあ普通に嬉しかったです」
朔人は言う。
「必要ってことなら」
その言葉が、凪には少し痛かった。やっぱりそこに落ち着くんだと思ってしまう。
でも次の瞬間、朔人は少しだけ顔を上げた。
「でも」
「……」
「それだけじゃないなら、ちゃんと言ってほしいです」
凪は一瞬、本当に呼吸を忘れた。
「何それ」
やっとそう返す。
「急に」
「急ですか?」
「急だろ」
「だって、凪先輩、あの時の聞き方、普通じゃなかったし」
「普通に聞いたつもりだけど」
「無理あるでしょ」
「そう?」
「そうです」
部屋の中の空気が少しだけ熱を帯びる。窓の外はもうだいぶ暗いのに、二人の間だけまだ夕方が残っているみたいだった。
「サク」
凪は小さく息を吐いた。
「それ、困る」
「何がっすか」
「そうやって、ちゃんと聞いてくるの」
「聞いちゃだめなんですか」
「だめじゃないけど……今それやられると、俺が困る」
そこまで言って、自分で笑いそうになった。ここまで来ても、まだ「困る」で止めようとしている。
でも朔人は逃がしてくれなかった。
「俺に彼女できたら」
少しだけ低い声で言う。
「やっぱ困ります?」
その一言が、思っていたよりずっとまっすぐだった。凪はもう視線を逸らせなかった。朔人の顔は冗談みたいには見えない。ただ、答えを知りたい顔で、こっちを見ている。
「……困るよ」
凪はとうとう言った。声が少しだけ掠れた。
「そりゃ困る」
「部活の相方だから?」
朔人が聞く。そこが最後の線だった。でも、もうそこに戻れないことも分かっていた。
「それだけじゃない」
言ったあと、心臓が一気にうるさくなる。でも止められなかった。
「お前に彼女できたら、相方だからとか、そういうの抜きで嫌だよ」
部室の中が、しん、と静かになる。
朔人は少しだけ目を見開いた。でも驚いたというより、どこかで待っていた顔だった。
「……そっか」
そう言って、小さく息をつく。その抜き方が、どこかほっとしたみたいで、凪の胸がまた揺れる。
「そっか、って何」
「いや」
朔人は少しだけ笑った。
「そこ、ちゃんと言ってくれるんだなって」
「言わせたのそっちだろ」
「まあ」
「自覚あるなら質悪いな」
「凪先輩にだけは言われたくないです」
そう返されて、凪も少しだけ笑ってしまう。でも笑ったあと、またすぐに苦しくなった。
もう言ってしまった。ここまで出したら、たぶん次はもっと先まで行く。
「……お前は」
凪が聞きかけた時、廊下の向こうから八坂先輩の声がした。
「ただいまー! コーラ当たり出たんだけどー!」
「それ当たり付きだったんだ」
櫻葉先輩の声も近づいてくる。引き戸が開き、二人の明るさが一気に部室へ戻ってきた。
「何その空気」
八坂先輩がすぐ気づく。
「なんか今、めっちゃ大事な話してた?」
「してない」
凪が即答する。
「してたでしょ」
櫻葉先輩が言う。
「凪、顔赤いし」
「暑いだけ」
「部室で?」
「九月でも暑いだろ」
「それはそう」
その横で、朔人は小さく咳払いした。でも、その口元は少しだけ笑っていた。
その日の帰り道、朔人はまた一人で考えることになった。
凪が言ったこと。困るよ、っていうあの声。それだけじゃない、ってちゃんと口にしたこと。
そこまで来て、もうさすがに分からないふりはできなかった。
凪先輩は、自分に彼女ができるのが嫌なんだ。相方を取られるから、だけじゃなくて。もっと個人的な理由で。
そして、自分はその答えを聞いて、思っていた以上に嬉しかった。


