夏休み明け二日目の放課後、部室の引き戸を開けると、凪先輩はもう来ていた。
窓の外はまだ明るい。八月の熱は少しやわらいだはずなのに、校舎の中にはまだ昼の空気が残っていて、じっとしていても少し汗ばむ。そんな中で、凪先輩はいつもの机にネタ帳を置いたまま、頬杖をついていた。
「おつかれ」
顔を上げた凪先輩が言う。
「お疲れっす」
朔人はそう返してから、鞄を机の横に置いた。
「八坂先輩たちは?」
「今日は百均前線で反省会らしい」
「一回戦敗退の?」
「そう。来年へ向けてもう切り替えてる」
「早いなあ」
「八坂だからな」
そこで朔人は、持っていたルーズリーフを少し持ち上げた。
「今日、見せたいのあるんで」
「何?」
「ネタ」
短くそう言うと、凪先輩の目が少しだけ見開かれた。
「作ってきました」
「……マジで?」
「その反応ひどくないですか」
「いや、ひどいとかじゃなくて」
凪先輩はほんとに嬉しそうに言う。
「すごいじゃん。見せて」
朔人は少しだけ口元を緩めてから紙を渡した。凪先輩は立ったまま読み始めて、最初の数行で目を止める。
「動物園デート?」
「はい」
「しかも女の子との予行練習」
「設定として分かりやすいかなって」
「へえ」
そこで凪先輩の表情が少しだけ変わる。でもその直後には、ちゃんとネタそのものを見る顔になっていた。
「これ、店でちゃんと読もう」
凪先輩が言う。
「移動しながらだと頭入んない」
「じゃあ行きます?」
「行く」
「珍しく即答」
「そりゃするだろ。相方が初めて自分で書いたやつだぞ」
その言い方が、思っていたよりずっとまっすぐで、朔人は少しだけ目を逸らした。
部室を出て、二人で廊下を歩く。窓の外は夕方なのにまだ青い。階段を下りる間も、凪先輩はルーズリーフをもう一回見たそうな顔をしている。
「そんな気になるんすか」
「気になるよ」
「まだ一行目しか読んでないでしょ」
「だからだろ」
「続きを店まで我慢してください」
「もったいぶるなあ」
「凪先輩が食いつきすぎなんです」
そんな会話をしながら校舎を出る。外はやっぱりまだ暑い。アスファルトの熱が残っていて、駅前まで歩く数分だけで少し汗が戻る。
ハンバーガー屋の自動ドアが開く。冷房の風が一気に肌に当たった。
「生き返る」
凪先輩が言う。
「そこまで?」
「今日は外が地味にきつい」
「それでまた食うんでしょ」
「食うよ」
「知ってます」
そうして二人でいつもの窓際の席へ向かう。
向かい合って座ると、凪先輩はトレーを置くより先にルーズリーフを広げた。セットにバーガーふたつ、ポテト、それから新作のシェイク。相変わらず食いすぎだと思う量なのに、今日は完全にネタのほうが優先らしい。
「そんなに読みたい?」
朔人が言うと、凪先輩は顔も上げずに返した。
「読む」
「食う前に?」
「読む」
「強」
「だってサクが初めて書いたやつだろ」
「……まあ」
またその言い方だ。一番刺さる褒め方を、わりと平気でしてくる。
凪先輩は紙に視線を落としたまま、少しずつ先を読んでいく。最初の数行で一回止まって、次のやり取りで口元がゆるむ。飼育員のおっさんとサルを間違えるくだりで、ふっと吹き出した。
「いや、これいいじゃん」
「ほんとですか」
「うん。そこ、ちゃんと強い」
凪先輩は紙を指で軽く叩いた。
「『あっ、サル! かわいーい!』からの『いやそれ飼育員のおっさんだから!』、入りでちゃんと笑える」
「そこはまあ、自信ありました」
「意外と毛深かったとこも」
「そこも」
「いいね」
凪先輩はほんとに楽しそうに笑う。
「そこまで言うと女の子役のやつがちゃんと変で立つし」
「よかった」
そのまま読み進めていた凪先輩の目が、途中でまた止まった。
「なにこれ」
「どこですか」
「サルのものまね」
凪先輩が紙を指で押さえたまま言う。
「『ねえ、サルのものまねしたらサル集まってくるかなぁ!』……嫌な予感しかしないな」
「そこ、追加したとこです」
「で、そのあと本気でやるの?」
「やります」
「女の子役が?」
「女の子役が」
「だいぶ変な女の子だな」
「でも、そのあと」
朔人は少しだけ得意げに口元を上げた。
「『あっ、なんか人集まってきちゃった!?』ってなるんです」
そこで凪先輩がまた吹き出した。
「いや、文字で見るだけでもうおもろいな」
「そんなに?」
「そんなに。で、ツッコミが?」
「『そりゃそーだろ!! 一番珍獣でしたよアンタ!』」
凪先輩は肩を揺らしながら笑った。
「それは強いわ」
「ほんとですか」
「うん。これ本番で急にやられたらたぶん俺が先に笑う」
その言い方に、朔人も少しだけ笑ってしまう。自分で考えてきたものを、こうやってちゃんと面白がってもらえるのは思っていたより気分がよかった。
そのまま読み進めて、ライオンのくだりでまた少し笑った。
「シフト制、好き」
「採用でいいですか」
「採用」
「即決だ」
「これは残したい」
凪先輩はようやく顔を上げた。
「サクっぽい」
「それ褒めてます?」
「褒めてる」
「ならいいです」
「初めてでこれ書けるの、普通にすごいよ」
その言葉には、冗談が混ざっていなかった。
朔人はストローを指で押しながら、少しだけ目を逸らす。
「……凪先輩がいつもやってるの見てたんで」
「見てただけで書けるもんじゃないだろ」
「いや、結構悩みましたよ」
「そこ含めていいじゃん」
凪先輩はそう言って、ルーズリーフをもう一度見た。
「これ、やろう」
「え、採用?」
「採用」
「そんなあっさり」
「いいと思ったから」
「……へえ」
そこで、朔人は少しだけ照れくさくなってコーラを飲んだ。
向かいでは凪先輩が、ネタの紙を持ったまましばらく黙っている。
褒めてくれている。それはちゃんと伝わる。けど、さっきから凪先輩の沈黙には別の色も混ざっていた。
女の子とのデート。予行練習。付き合ってくれない?
ただの設定だ。ネタの最初に置いただけ。でも、凪にとってはそれだけじゃ済まないらしいことが、なんとなく表情で分かる。
凪はルーズリーフを机に置いた。紙の端を指で押さえたまま、少しだけ視線を落とす。
やっぱり、と思った。サクはそういうことをまだ普通に考える。彼女とか、デートとか、そういう未来を持ってる。当たり前だ。高校生なんだから。自分が何を自覚したところで、そこは変わらないのかもしれない。
このまま言わなくていい。言う必要なんてない。そう思ったのに。
「サク」
「なんすか」
「彼女、まだ欲しいと思ってる?」
言った瞬間、自分で分かった。これは軽く聞く声じゃなかった。
朔人もすぐには返せなかった。さっきまで少し浮いていた空気が、そこで一度静かになる。
「え」
「いや」
凪は慌ててポテトに手を伸ばした。
「ネタがそういう感じだったから」
「……ああ」
朔人はそこで少し黙った。
「それで聞いたんですか」
「まあ、うん」
それ以上は凪も言えなかった。こんな聞き方じゃ、自分のほうが困る。
朔人はコーラの氷をストローで押しながら、しばらく考えていた。それから、小さく息をつく。
「前ほどは」
ぽつりと、そう言った。
凪が顔を上げる。
「前ほどは、よく分かんないです」
「……分かんない?」
「はい」
朔人はまだ視線を逸らしたまま続ける。
「前は普通に、彼女ほしいなって思ってましたけど」
「うん」
「今は、そこまで単純じゃないっていうか」
「……」
「何でかは、まだ」
そこで少しだけ言葉が止まる。
「自分でも、あんまちゃんと整理できてないです」
その答えは、凪にとって予想よりずっと柔らかかった。もっと軽く「欲しい」と返されるかと思っていた。あるいは、冗談みたいにかわされるか。でも、朔人はちゃんと考えて、ちゃんと迷って、それをそのまま口にした。
「そっか」
それだけ返すのがやっとだった。
朔人も、それ以上は言わない。でもその沈黙は、嫌なものじゃなかった。むしろ少しだけ深いところへ触れかけて、でもそこで止まったような、不思議な静けさだった。
「……とりあえず」
凪が先に紙を持ち上げる。
「これ、ほんとにいいよ」
「話戻すなあ」
「戻すよ。ネタ見せてもらってる途中だし」
「まあ、そうですけど」
「女の子役の入り、もっと嫌そうにやったほうがよさそう」
「それは想像つきます」
「何だそれ」
「凪先輩っぽいってことです」
「ひどいな」
「でもやるんでしょ」
「やるけど」
そこで二人とも少しだけ笑った。
「じゃあ一回読んでみます?」
朔人が聞く。
「今?」
「今」
「出た」
「必要」
「俺の言い方使うなよ」
「便利なんで」
その返しが妙にいつも通りで、凪はふっと肩の力を抜いた。恋だとか、必要だとか、そういう言葉にしなくていい時間が、まだ二人の間にはある。今はたぶん、それを大事にしたかった。
だからそのあとは、ちゃんとネタの話をした。どこで笑い待ちを入れるか。女の子役のテンションをどこまで上げるか。サルのくだりを最初に持ってきて、そのあとサルのものまねを重ねる流れ。ライオンのシフト制までの持っていき方。
動物園デートネタは、思っていたよりずっと放課後バーガーに馴染んだ。凪が女の子役をやると妙に腹が立つし、朔人がデートに慣れてない感じを出すとたしかに笑える。読み合わせの途中で二人とも何回か吹き出して、ポテトをつまみながらまた直す。
「そこ、もうちょいかわいく言ってください」
朔人が言う。
「『あっ! サル! かわいーい!』のとこ」
「嫌だなあ」
「そこは仕事でしょ」
「仕事って」
「女の子役の」
「その言い方がもう腹立つ」
「でも必要」
「出たな、その便利ワード」
「使いやすいんで」
「じゃあその次のサルのくだり、勢いで押しきる感じにしたい」
「本気のものまね前提で?」
「そう。文字だけでもう面白いから」
「それ褒められてんのかな」
「褒めてるよ」
「ならいいです」
そんなふうに、結局最後はちゃんといつもの感じに戻っていった。
店を出る頃には、外の空もだいぶ濃くなっていた。駅前の人通りはまだ多いけど、昼の熱は少しだけやわらいでいる。
並んで歩きながらも、朔人の頭のどこかにはさっきの質問が残っていた。あの聞き方。あの時の凪の声。ただの雑談みたいに流せるほど軽くはなかった。
でも、その場でそれ以上考えるには、うまくまとまらなかった。
家に帰って、シャワーを浴びて、机に向かったあとで、ようやくさっきの会話が少しずつ頭に戻ってきた。窓の外はもう夜で、網戸の向こうからぬるい風が少しだけ入る。机の上には、今日使った動物園デートネタのルーズリーフと、書き足すためのノート。シャーペンを持ったまま、でも手はしばらく動かなかった。
凪先輩が、あんなことを聞いた理由。何度思い返しても、少しだけ引っかかる。
でも、たぶん普通に考えれば理由はある。最初に入部した時、自分は言ったのだ。彼女ができたら辞めるって。あの時の条件。だから凪先輩は、単純にそこを確認したかっただけなのかもしれない。相方として、部活を続けてほしいから。ネタを書いて、一緒に漫才をやる相手がいなくなると困るから。
そう考えるのが、一番自然だ。たぶん、そうなんだろう。
朔人はシャーペンを指先で転がした。机の上には、昼間見せた動物園デートネタのメモと、まだ残っている無人島の走り書きが並んでいる。
部活を続けてほしいから。相方として必要だから。
もし本当に、それだけだとしても。それでも十分うれしいはずなのに、胸のどこかで別のことを考えてしまう。
もし、それだけじゃなかったら。
もし凪先輩が、自分を必要としてくれているのが、ただの漫才の都合だけじゃなかったら。
そこまで思って、朔人はぴたりと手を止めた。
「……何考えてんだ、俺」
小さく声に出す。でも、口にしたところで消えるわけじゃない。
必要だから聞いたのかな、と思う。それならうれしい。相方としてちゃんと見られてるなら、すごくうれしい。
けど、たぶん本当は。それ以上だったら、もっと嬉しい。
その考えにたどり着いた瞬間、耳の奥が少し熱くなる。部屋の中は静かなのに、自分の中だけが妙に落ち着かなかった。
ノートの端に、無意識で小さく線を引いてしまう。動物園デート、サル、飼育員、シフト制。そんな言葉の横に、凪先輩の声の余韻だけが変に残っていた。
その意味を、まだ全部は分からない。でも、ただの確認だけじゃない気がしてしまう。
そう思ってしまった時点で、たぶんもう前の自分には戻れなかった。
窓の外はまだ明るい。八月の熱は少しやわらいだはずなのに、校舎の中にはまだ昼の空気が残っていて、じっとしていても少し汗ばむ。そんな中で、凪先輩はいつもの机にネタ帳を置いたまま、頬杖をついていた。
「おつかれ」
顔を上げた凪先輩が言う。
「お疲れっす」
朔人はそう返してから、鞄を机の横に置いた。
「八坂先輩たちは?」
「今日は百均前線で反省会らしい」
「一回戦敗退の?」
「そう。来年へ向けてもう切り替えてる」
「早いなあ」
「八坂だからな」
そこで朔人は、持っていたルーズリーフを少し持ち上げた。
「今日、見せたいのあるんで」
「何?」
「ネタ」
短くそう言うと、凪先輩の目が少しだけ見開かれた。
「作ってきました」
「……マジで?」
「その反応ひどくないですか」
「いや、ひどいとかじゃなくて」
凪先輩はほんとに嬉しそうに言う。
「すごいじゃん。見せて」
朔人は少しだけ口元を緩めてから紙を渡した。凪先輩は立ったまま読み始めて、最初の数行で目を止める。
「動物園デート?」
「はい」
「しかも女の子との予行練習」
「設定として分かりやすいかなって」
「へえ」
そこで凪先輩の表情が少しだけ変わる。でもその直後には、ちゃんとネタそのものを見る顔になっていた。
「これ、店でちゃんと読もう」
凪先輩が言う。
「移動しながらだと頭入んない」
「じゃあ行きます?」
「行く」
「珍しく即答」
「そりゃするだろ。相方が初めて自分で書いたやつだぞ」
その言い方が、思っていたよりずっとまっすぐで、朔人は少しだけ目を逸らした。
部室を出て、二人で廊下を歩く。窓の外は夕方なのにまだ青い。階段を下りる間も、凪先輩はルーズリーフをもう一回見たそうな顔をしている。
「そんな気になるんすか」
「気になるよ」
「まだ一行目しか読んでないでしょ」
「だからだろ」
「続きを店まで我慢してください」
「もったいぶるなあ」
「凪先輩が食いつきすぎなんです」
そんな会話をしながら校舎を出る。外はやっぱりまだ暑い。アスファルトの熱が残っていて、駅前まで歩く数分だけで少し汗が戻る。
ハンバーガー屋の自動ドアが開く。冷房の風が一気に肌に当たった。
「生き返る」
凪先輩が言う。
「そこまで?」
「今日は外が地味にきつい」
「それでまた食うんでしょ」
「食うよ」
「知ってます」
そうして二人でいつもの窓際の席へ向かう。
向かい合って座ると、凪先輩はトレーを置くより先にルーズリーフを広げた。セットにバーガーふたつ、ポテト、それから新作のシェイク。相変わらず食いすぎだと思う量なのに、今日は完全にネタのほうが優先らしい。
「そんなに読みたい?」
朔人が言うと、凪先輩は顔も上げずに返した。
「読む」
「食う前に?」
「読む」
「強」
「だってサクが初めて書いたやつだろ」
「……まあ」
またその言い方だ。一番刺さる褒め方を、わりと平気でしてくる。
凪先輩は紙に視線を落としたまま、少しずつ先を読んでいく。最初の数行で一回止まって、次のやり取りで口元がゆるむ。飼育員のおっさんとサルを間違えるくだりで、ふっと吹き出した。
「いや、これいいじゃん」
「ほんとですか」
「うん。そこ、ちゃんと強い」
凪先輩は紙を指で軽く叩いた。
「『あっ、サル! かわいーい!』からの『いやそれ飼育員のおっさんだから!』、入りでちゃんと笑える」
「そこはまあ、自信ありました」
「意外と毛深かったとこも」
「そこも」
「いいね」
凪先輩はほんとに楽しそうに笑う。
「そこまで言うと女の子役のやつがちゃんと変で立つし」
「よかった」
そのまま読み進めていた凪先輩の目が、途中でまた止まった。
「なにこれ」
「どこですか」
「サルのものまね」
凪先輩が紙を指で押さえたまま言う。
「『ねえ、サルのものまねしたらサル集まってくるかなぁ!』……嫌な予感しかしないな」
「そこ、追加したとこです」
「で、そのあと本気でやるの?」
「やります」
「女の子役が?」
「女の子役が」
「だいぶ変な女の子だな」
「でも、そのあと」
朔人は少しだけ得意げに口元を上げた。
「『あっ、なんか人集まってきちゃった!?』ってなるんです」
そこで凪先輩がまた吹き出した。
「いや、文字で見るだけでもうおもろいな」
「そんなに?」
「そんなに。で、ツッコミが?」
「『そりゃそーだろ!! 一番珍獣でしたよアンタ!』」
凪先輩は肩を揺らしながら笑った。
「それは強いわ」
「ほんとですか」
「うん。これ本番で急にやられたらたぶん俺が先に笑う」
その言い方に、朔人も少しだけ笑ってしまう。自分で考えてきたものを、こうやってちゃんと面白がってもらえるのは思っていたより気分がよかった。
そのまま読み進めて、ライオンのくだりでまた少し笑った。
「シフト制、好き」
「採用でいいですか」
「採用」
「即決だ」
「これは残したい」
凪先輩はようやく顔を上げた。
「サクっぽい」
「それ褒めてます?」
「褒めてる」
「ならいいです」
「初めてでこれ書けるの、普通にすごいよ」
その言葉には、冗談が混ざっていなかった。
朔人はストローを指で押しながら、少しだけ目を逸らす。
「……凪先輩がいつもやってるの見てたんで」
「見てただけで書けるもんじゃないだろ」
「いや、結構悩みましたよ」
「そこ含めていいじゃん」
凪先輩はそう言って、ルーズリーフをもう一度見た。
「これ、やろう」
「え、採用?」
「採用」
「そんなあっさり」
「いいと思ったから」
「……へえ」
そこで、朔人は少しだけ照れくさくなってコーラを飲んだ。
向かいでは凪先輩が、ネタの紙を持ったまましばらく黙っている。
褒めてくれている。それはちゃんと伝わる。けど、さっきから凪先輩の沈黙には別の色も混ざっていた。
女の子とのデート。予行練習。付き合ってくれない?
ただの設定だ。ネタの最初に置いただけ。でも、凪にとってはそれだけじゃ済まないらしいことが、なんとなく表情で分かる。
凪はルーズリーフを机に置いた。紙の端を指で押さえたまま、少しだけ視線を落とす。
やっぱり、と思った。サクはそういうことをまだ普通に考える。彼女とか、デートとか、そういう未来を持ってる。当たり前だ。高校生なんだから。自分が何を自覚したところで、そこは変わらないのかもしれない。
このまま言わなくていい。言う必要なんてない。そう思ったのに。
「サク」
「なんすか」
「彼女、まだ欲しいと思ってる?」
言った瞬間、自分で分かった。これは軽く聞く声じゃなかった。
朔人もすぐには返せなかった。さっきまで少し浮いていた空気が、そこで一度静かになる。
「え」
「いや」
凪は慌ててポテトに手を伸ばした。
「ネタがそういう感じだったから」
「……ああ」
朔人はそこで少し黙った。
「それで聞いたんですか」
「まあ、うん」
それ以上は凪も言えなかった。こんな聞き方じゃ、自分のほうが困る。
朔人はコーラの氷をストローで押しながら、しばらく考えていた。それから、小さく息をつく。
「前ほどは」
ぽつりと、そう言った。
凪が顔を上げる。
「前ほどは、よく分かんないです」
「……分かんない?」
「はい」
朔人はまだ視線を逸らしたまま続ける。
「前は普通に、彼女ほしいなって思ってましたけど」
「うん」
「今は、そこまで単純じゃないっていうか」
「……」
「何でかは、まだ」
そこで少しだけ言葉が止まる。
「自分でも、あんまちゃんと整理できてないです」
その答えは、凪にとって予想よりずっと柔らかかった。もっと軽く「欲しい」と返されるかと思っていた。あるいは、冗談みたいにかわされるか。でも、朔人はちゃんと考えて、ちゃんと迷って、それをそのまま口にした。
「そっか」
それだけ返すのがやっとだった。
朔人も、それ以上は言わない。でもその沈黙は、嫌なものじゃなかった。むしろ少しだけ深いところへ触れかけて、でもそこで止まったような、不思議な静けさだった。
「……とりあえず」
凪が先に紙を持ち上げる。
「これ、ほんとにいいよ」
「話戻すなあ」
「戻すよ。ネタ見せてもらってる途中だし」
「まあ、そうですけど」
「女の子役の入り、もっと嫌そうにやったほうがよさそう」
「それは想像つきます」
「何だそれ」
「凪先輩っぽいってことです」
「ひどいな」
「でもやるんでしょ」
「やるけど」
そこで二人とも少しだけ笑った。
「じゃあ一回読んでみます?」
朔人が聞く。
「今?」
「今」
「出た」
「必要」
「俺の言い方使うなよ」
「便利なんで」
その返しが妙にいつも通りで、凪はふっと肩の力を抜いた。恋だとか、必要だとか、そういう言葉にしなくていい時間が、まだ二人の間にはある。今はたぶん、それを大事にしたかった。
だからそのあとは、ちゃんとネタの話をした。どこで笑い待ちを入れるか。女の子役のテンションをどこまで上げるか。サルのくだりを最初に持ってきて、そのあとサルのものまねを重ねる流れ。ライオンのシフト制までの持っていき方。
動物園デートネタは、思っていたよりずっと放課後バーガーに馴染んだ。凪が女の子役をやると妙に腹が立つし、朔人がデートに慣れてない感じを出すとたしかに笑える。読み合わせの途中で二人とも何回か吹き出して、ポテトをつまみながらまた直す。
「そこ、もうちょいかわいく言ってください」
朔人が言う。
「『あっ! サル! かわいーい!』のとこ」
「嫌だなあ」
「そこは仕事でしょ」
「仕事って」
「女の子役の」
「その言い方がもう腹立つ」
「でも必要」
「出たな、その便利ワード」
「使いやすいんで」
「じゃあその次のサルのくだり、勢いで押しきる感じにしたい」
「本気のものまね前提で?」
「そう。文字だけでもう面白いから」
「それ褒められてんのかな」
「褒めてるよ」
「ならいいです」
そんなふうに、結局最後はちゃんといつもの感じに戻っていった。
店を出る頃には、外の空もだいぶ濃くなっていた。駅前の人通りはまだ多いけど、昼の熱は少しだけやわらいでいる。
並んで歩きながらも、朔人の頭のどこかにはさっきの質問が残っていた。あの聞き方。あの時の凪の声。ただの雑談みたいに流せるほど軽くはなかった。
でも、その場でそれ以上考えるには、うまくまとまらなかった。
家に帰って、シャワーを浴びて、机に向かったあとで、ようやくさっきの会話が少しずつ頭に戻ってきた。窓の外はもう夜で、網戸の向こうからぬるい風が少しだけ入る。机の上には、今日使った動物園デートネタのルーズリーフと、書き足すためのノート。シャーペンを持ったまま、でも手はしばらく動かなかった。
凪先輩が、あんなことを聞いた理由。何度思い返しても、少しだけ引っかかる。
でも、たぶん普通に考えれば理由はある。最初に入部した時、自分は言ったのだ。彼女ができたら辞めるって。あの時の条件。だから凪先輩は、単純にそこを確認したかっただけなのかもしれない。相方として、部活を続けてほしいから。ネタを書いて、一緒に漫才をやる相手がいなくなると困るから。
そう考えるのが、一番自然だ。たぶん、そうなんだろう。
朔人はシャーペンを指先で転がした。机の上には、昼間見せた動物園デートネタのメモと、まだ残っている無人島の走り書きが並んでいる。
部活を続けてほしいから。相方として必要だから。
もし本当に、それだけだとしても。それでも十分うれしいはずなのに、胸のどこかで別のことを考えてしまう。
もし、それだけじゃなかったら。
もし凪先輩が、自分を必要としてくれているのが、ただの漫才の都合だけじゃなかったら。
そこまで思って、朔人はぴたりと手を止めた。
「……何考えてんだ、俺」
小さく声に出す。でも、口にしたところで消えるわけじゃない。
必要だから聞いたのかな、と思う。それならうれしい。相方としてちゃんと見られてるなら、すごくうれしい。
けど、たぶん本当は。それ以上だったら、もっと嬉しい。
その考えにたどり着いた瞬間、耳の奥が少し熱くなる。部屋の中は静かなのに、自分の中だけが妙に落ち着かなかった。
ノートの端に、無意識で小さく線を引いてしまう。動物園デート、サル、飼育員、シフト制。そんな言葉の横に、凪先輩の声の余韻だけが変に残っていた。
その意味を、まだ全部は分からない。でも、ただの確認だけじゃない気がしてしまう。
そう思ってしまった時点で、たぶんもう前の自分には戻れなかった。


