夏休みに入ってから数日、凪は思った以上に暇を持て余していた。
学校がない。部活も自然に集まるわけじゃない。ハンバーガー屋へ行こうにも、相手がいなければただの食べすぎだ。いや、ひとりでも行けるけど、そういうことじゃない。
ネタ帳を開けば、無人島の流れはもう頭に入っている。部長が俺で、副部長がサクね、のくだりも、夢のオチも、伝書鳩の間も、何度も見返した。
けれど、ひとりで見ていても落ち着かない。ページをめくるたびに、結局サクの声で再生される。だから余計に、落ち着かなかった。
十三時を少し回った頃、凪はスマホを手に取った。メッセージ画面を開いて、閉じる。また開いて、短く打つ。
「生きてる?」
送ってから、自分で嫌な確認だなと思った。でも、少し待っても返信は来なかった。
五分。十分。既読もつかない。そこで凪は、もう迷うのをやめた。
冷えたスポーツドリンクとゼリー、念のための熱さまシート、それからおかゆ用のレトルトをコンビニで買う。袋を持ったまま駅前から住宅街へ向かう道は、真昼の熱でぼんやり揺れていた。蝉がうるさい。日陰を選んで歩いても、空気そのものが暑い。
サクの家の前に着いた時には、凪の額にも少し汗が滲んでいた。インターホンを押す。少し待って、返事がない。もう一度押す。今度は、少し遅れて足音がした。
扉を開けたのは朔人本人だった。一瞬、本当に言葉が出なかった。
顔色が悪い。熱のせいで目元が少し赤くて、髪も寝癖がついたままだ。Tシャツは薄く汗を吸っていて、明らかに寝ていたのを無理やり起きた感じがある。
「……何してんすか」
掠れた声だった。
「来なくていいのに」
「その声で言うなよ」
凪は即座に言った。
「大丈夫じゃないの丸分かりだろ」
「いや、だから」
朔人は扉にもたれるみたいに立ったまま、小さく息を吐いた。
「風邪うつるんで」
「うつったらその時考える」
「軽」
「軽くない」
凪は持ってきた袋を少し上げる。
「生存確認と補給」
「相方が暇すぎる」
「そうとも言う」
朔人はそこで少しだけ笑った。でも、それだけでしんどそうだった。
「親とかは」
「仕事」
「弟は?」
「部活」
「じゃあ今ひとり?」
「……そうですけど」
「入る」
「いや」
「入る」
「押しが強いなあ」
「知ってるだろ」
結局、朔人は抵抗する元気もないまま凪を中へ通した。
初めて入るサクの部屋は、思っていたより整っていた。机の上には学校の課題が積まれていて、その横に単語帳とノート。ベッド脇には飲みかけの水のペットボトルと、使いかけの体温計のケースが転がっている。
それだけなら普通だった。でも、凪の目を引いたのは机の端に置かれたルーズリーフだった。
『もし無人島に流されたら』
『野外実習延長』
『鳥見る→美味しそう』
『ナメクジは食べちゃダメですよ』
『俺も帰れてないのかよ』
『伝書鳩 食うな』
『もういいよ 強め』
凪はそこで少しだけ止まった。暗記用なんだろう。たぶん、寝る前か熱が上がる前にでも、自分なりに整理していたんだと思う。ハンバーガー屋で一緒に詰めた流れが、サクの部屋の机にまで残っていた。そのことが、思っていたよりずっと胸に来た。
「……何見てるんすか」
ベッドに座り直した朔人が聞く。
「ちゃんと覚えようとしてたんだなって」
そう言うと、朔人は少しだけ目を逸らした。
「そりゃ、予選前だったし」
「……うん」
その返しが、熱で弱ってるのに妙にまっすぐで、余計に困る。
「とりあえず座れ」
凪は言った。
「飲み物」
「あります」
「知ってるけど、こっちのほうがいいから」
「そういう問題ですか」
「今はそういう問題」
スポーツドリンクを開けて渡すと、朔人は素直に受け取った。一口だけ飲んで、喉が痛いのか少し顔をしかめる。
「熱、何度」
「朝は三十八度後半」
「朝で?」
「はい」
「今もっとあるだろ」
「測ってないです」
「なんで」
「見たらしんどくなるんで」
「もうしんどいだろ」
「まあ」
凪はそこで息をついた。ほんとに、こういう変なところで意地を張る。
「おかゆ、食える?」
「別にそこまでしなくていいですって」
「しなくていいかどうかは俺が決める」
「何その横暴」
「病人に決定権ないだろ」
「ひど」
そう言いながらも、朔人の声にはもうあまり力がなかった。
台所は小さかったけど、必要なものは揃っていた。凪は勝手が分からないなりに鍋を借りて、レトルトと冷凍ご飯を使って簡単なおかゆを作る。途中で水を入れすぎて、少し薄い気がして塩を足す。味見してみたら今度は微妙にしょっぱくて、結局また水を足した。
「何してるんすか……」
部屋のほうから朔人の掠れた声が飛んできて、凪は顔をしかめた。
「うるさい、今調整中」
「調整って」
「料理ってそういうもんだろ」
「絶対違う」
「食えるものにはする」
「ハードルが低いなあ」
それでも、文句を言う声はどこかおとなしかった。
ようやく形になったおかゆを持って部屋に戻ると、朔人はベッドに浅くもたれていた。頬が少し赤い。寝起きみたいにぼんやりしていて、いつもの強気さが熱に溶けて薄くなっている。
「はい」
凪がトレーを机に置く。
「……ほんとに作ったんだ」
「作るって言っただろ」
「いや、冗談かと」
「そこまで信用ない?」
「あるけど、方向がズレてるから」
凪は匙で少しすくった。
「食える?」
「自分で食べます」
「声死んでるやつの『自分でできます』は信用ならない」
「ひどい言われよう」
「事実」
「正論やめて」
朔人は起き上がろうとして、そこで少しよろけた。凪がすぐ肩を支える。
「ほら」
「……すみません」
「謝るな」
「最近これ多いっすね」
「お前が謝る状況ばっか作るからだろ」
結局、朔人は観念したらしく、少しだけ口を開けた。凪は不器用なりに冷ましながら、おかゆをひと匙ずつ運ぶ。
「熱くない?」
「大丈夫」
「味は?」
「……普通」
「普通か」
「普通です」
「もっと褒めてもいいよ?」
「病人にそれ以上求めます?」
「求めない」
そのやり取りが妙に静かで、でも嫌じゃなかった。外では蝉が鳴いているのに、この部屋の中だけ時間が少し遅い気がする。
半分くらい食べたところで、朔人がうっすら眉を寄せた。首筋に汗が浮いている。Tシャツの襟元も少し濡れていた。
「暑い?」
凪が聞くと、朔人は小さく頷いた。
「ちょっと」
「エアコンは?」
「ついてます」
「それでこれ?」
「熱あるんで」
凪はタオルを濡らして持ってきた。朔人はすぐに気づいて、少しだけ身を引く。
「自分でできます」
「できてないだろ」
「いや、でも」
「サク」
「……はい」
その返事が妙に素直で、凪は一瞬だけ言葉に詰まった。
前髪をそっとかき上げて、額の汗を拭う。熱を持った肌に濡れたタオルを当てると、朔人の肩がわずかに震えた。次にこめかみ、首筋。汗がじんわり浮いているところを丁寧に拭くたびに、朔人の呼吸が少しずつゆるんでいく。
「そんな顔するなよ」
凪が言う。
「どんな」
「我慢してる顔」
「……してないです」
「してる」
朔人はそれ以上言い返さなかった。目を閉じる。その無防備さが妙に心臓に悪い。
タオルを置いた時、朔人が小さく呟いた。
「着替えたい」
「着替え?」
「汗、気持ち悪いんで」
「新しいのある?」
「引き出し……右」
凪が机の横の引き出しを開けると、畳んだTシャツが入っていた。白地に小さなロゴの入った、たぶん部屋着。それを持って振り返ると、朔人はベッドの端に座ったまま少しだけ困った顔をしていた。
「自分でいける?」
「たぶん」
「たぶん多いな」
「やってみないとわからないんで」
朔人は今着ているTシャツの裾に手をかけたけど、途中で動きが止まった。腕を上げるのもしんどいらしい。少しだけ顔をしかめる。
「……無理です」
「知ってた」
「知ってたなら言わせないでください」
「言いたかったんだろ」
「性格悪」
そう言いながらも、朔人の声は弱い。凪は少しだけ息を止めてから、前に立った。
「じゃあ、手上げろ」
「はい」
「ふらつくなよ」
「それは保証できない」
凪はなるべく淡々とした顔を作って、朔人のTシャツをゆっくり上に引いた。汗で少しだけ張りついていて、離れる時に布が肌を撫でる。そこで凪の手が一瞬だけ止まりそうになる。
近い。近すぎる。
病人の着替えを手伝ってるだけだ。それは分かってる。分かってるのに、妙に意識する。
Tシャツが脱げたあと、朔人は少しだけ肩を丸めた。熱のせいで肌が赤い。首筋にも汗が残っている。凪は視線を逸らしたくなるのをこらえて、新しいTシャツを広げた。
「腕」
「……うん」
袖に腕を通すのを手伝う。肩を支える。背中側の布を引く。その一つ一つが、必要以上に近い。朔人の体温が熱いこととか、呼吸がいつもより浅いこととか、そんなのまで分かってしまう。
「凪先輩」
「ん?」
「顔、赤くないですか」
「暑いからだろ」
「エアコン効いてるのに」
「お前、今それ言う元気あるんだ」
「ちょっとだけ」
「ならよかった」
着替えが終わって、朔人はやっと深く息を吐いた。背中を少しだけ壁に預けて、目を閉じる。その顔が、さっきより少し楽そうに見えて、凪はやっと肩の力を抜いた。
しばらくして、朔人は薬を飲んで、そのまま少しうとうとし始めた。凪はベッド脇の椅子に座って、机の上の走り書きをぼんやり見ていた。
『俺も帰れてないのかよ』
『もういいよ 強め』
そんな言葉を、サクはここで一人で見ていたのか。自分との漫才を、ここまで部屋の中に持ち込んでいたのか。そのことを考えるだけで、胸の奥がざわつく。でも、まだそれを何と呼ぶかは決めないままでいた。
夕方が近づいて、窓の外の光が少しだけやわらいできた頃、凪は立ち上がった。もう少ししたら弟か親も帰ってくるだろうし、自分が長居しすぎるのも変だ。スポーツドリンクは置いていく。熱さまシートもまだ余ってる。おかゆも残りは冷蔵庫に入れた。
「じゃあ、俺そろそろ」
小さく言って、ベッドのそばを離れようとした時だった。
服の裾が、ほんの少しだけ引かれた。
凪は息を止めて振り返る。朔人が半分だけ目を開けていた。熱で潤んだ視線のまま、凪のシャツの裾を指先で掴んでいる。
「……サク?」
返事の代わりに、朔人は浅く息をして、それから掠れた声で言った。
「……まだ、いてください」
その一言で、凪の中の何かが一気にひっくり返った。
胸の奥が熱くなる。呼吸がうまくできない。頭では、熱で弱ってるだけだと分かっている。今のサクはまともに判断できてない。たぶん、明日には覚えてないかもしれない。
それでも、駄目だった。
相方だからとか、心配だからとか、そういう言い訳だけではもう足りないと、はっきり分かってしまった。自分は、サクに弱い。ただ心配してるだけの相手に、こんなふうにはならない。
好きなんだ、と。
そこでようやく、自分でも逃げられないくらいきれいに分かった。
「……そんな声で言うなよ」
やっと出た声は、自分でも少し驚くくらい低かった。凪はもう一度ベッドのそばに腰を下ろす。
「帰れなくなるだろ」
朔人はたぶん、その意味まで理解していない。熱に浮かされた顔のまま、少しだけ安心したみたいに目を細める。
「……うん」
「寝ろ」
「はい」
裾を掴んだ指先が少しだけ緩む。でも完全には離れない。
凪はそれを見下ろしながら、どうしようもなく苦笑した。ほんとに、ずるい。
「少しだけだからな」
そう言うと、朔人はもうほとんど寝かけたまま小さく頷いた。
部屋の中は静かだった。外ではまだ蝉が鳴いているのに、ここだけ別の時間みたいにゆるやかだ。エアコンの音。浅い寝息。机の上に残ったネタの走り書き。裾を掴む弱い指先。
凪はその全部を見ながら、初めてちゃんと自分の気持ちを受け入れた。
相方だから大事なんじゃない。大事な相手が、たまたま相方なんだ。
その順番に気づいてしまったら、もう前には戻れない気がした。でも、不思議と嫌ではなかった。
凪はベッド脇で少しだけ姿勢を崩して、眠る朔人を見た。熱で弱って、いつもよりずっと無防備なのに、その顔は少しだけ安心しているように見えた。
「……早く治せよ」
小さく言う。
「じゃないと、来年のM-1困るだろ」
返事はない。でも、裾を掴む指先だけは、さっきより少しだけあたたかく感じた。
学校がない。部活も自然に集まるわけじゃない。ハンバーガー屋へ行こうにも、相手がいなければただの食べすぎだ。いや、ひとりでも行けるけど、そういうことじゃない。
ネタ帳を開けば、無人島の流れはもう頭に入っている。部長が俺で、副部長がサクね、のくだりも、夢のオチも、伝書鳩の間も、何度も見返した。
けれど、ひとりで見ていても落ち着かない。ページをめくるたびに、結局サクの声で再生される。だから余計に、落ち着かなかった。
十三時を少し回った頃、凪はスマホを手に取った。メッセージ画面を開いて、閉じる。また開いて、短く打つ。
「生きてる?」
送ってから、自分で嫌な確認だなと思った。でも、少し待っても返信は来なかった。
五分。十分。既読もつかない。そこで凪は、もう迷うのをやめた。
冷えたスポーツドリンクとゼリー、念のための熱さまシート、それからおかゆ用のレトルトをコンビニで買う。袋を持ったまま駅前から住宅街へ向かう道は、真昼の熱でぼんやり揺れていた。蝉がうるさい。日陰を選んで歩いても、空気そのものが暑い。
サクの家の前に着いた時には、凪の額にも少し汗が滲んでいた。インターホンを押す。少し待って、返事がない。もう一度押す。今度は、少し遅れて足音がした。
扉を開けたのは朔人本人だった。一瞬、本当に言葉が出なかった。
顔色が悪い。熱のせいで目元が少し赤くて、髪も寝癖がついたままだ。Tシャツは薄く汗を吸っていて、明らかに寝ていたのを無理やり起きた感じがある。
「……何してんすか」
掠れた声だった。
「来なくていいのに」
「その声で言うなよ」
凪は即座に言った。
「大丈夫じゃないの丸分かりだろ」
「いや、だから」
朔人は扉にもたれるみたいに立ったまま、小さく息を吐いた。
「風邪うつるんで」
「うつったらその時考える」
「軽」
「軽くない」
凪は持ってきた袋を少し上げる。
「生存確認と補給」
「相方が暇すぎる」
「そうとも言う」
朔人はそこで少しだけ笑った。でも、それだけでしんどそうだった。
「親とかは」
「仕事」
「弟は?」
「部活」
「じゃあ今ひとり?」
「……そうですけど」
「入る」
「いや」
「入る」
「押しが強いなあ」
「知ってるだろ」
結局、朔人は抵抗する元気もないまま凪を中へ通した。
初めて入るサクの部屋は、思っていたより整っていた。机の上には学校の課題が積まれていて、その横に単語帳とノート。ベッド脇には飲みかけの水のペットボトルと、使いかけの体温計のケースが転がっている。
それだけなら普通だった。でも、凪の目を引いたのは机の端に置かれたルーズリーフだった。
『もし無人島に流されたら』
『野外実習延長』
『鳥見る→美味しそう』
『ナメクジは食べちゃダメですよ』
『俺も帰れてないのかよ』
『伝書鳩 食うな』
『もういいよ 強め』
凪はそこで少しだけ止まった。暗記用なんだろう。たぶん、寝る前か熱が上がる前にでも、自分なりに整理していたんだと思う。ハンバーガー屋で一緒に詰めた流れが、サクの部屋の机にまで残っていた。そのことが、思っていたよりずっと胸に来た。
「……何見てるんすか」
ベッドに座り直した朔人が聞く。
「ちゃんと覚えようとしてたんだなって」
そう言うと、朔人は少しだけ目を逸らした。
「そりゃ、予選前だったし」
「……うん」
その返しが、熱で弱ってるのに妙にまっすぐで、余計に困る。
「とりあえず座れ」
凪は言った。
「飲み物」
「あります」
「知ってるけど、こっちのほうがいいから」
「そういう問題ですか」
「今はそういう問題」
スポーツドリンクを開けて渡すと、朔人は素直に受け取った。一口だけ飲んで、喉が痛いのか少し顔をしかめる。
「熱、何度」
「朝は三十八度後半」
「朝で?」
「はい」
「今もっとあるだろ」
「測ってないです」
「なんで」
「見たらしんどくなるんで」
「もうしんどいだろ」
「まあ」
凪はそこで息をついた。ほんとに、こういう変なところで意地を張る。
「おかゆ、食える?」
「別にそこまでしなくていいですって」
「しなくていいかどうかは俺が決める」
「何その横暴」
「病人に決定権ないだろ」
「ひど」
そう言いながらも、朔人の声にはもうあまり力がなかった。
台所は小さかったけど、必要なものは揃っていた。凪は勝手が分からないなりに鍋を借りて、レトルトと冷凍ご飯を使って簡単なおかゆを作る。途中で水を入れすぎて、少し薄い気がして塩を足す。味見してみたら今度は微妙にしょっぱくて、結局また水を足した。
「何してるんすか……」
部屋のほうから朔人の掠れた声が飛んできて、凪は顔をしかめた。
「うるさい、今調整中」
「調整って」
「料理ってそういうもんだろ」
「絶対違う」
「食えるものにはする」
「ハードルが低いなあ」
それでも、文句を言う声はどこかおとなしかった。
ようやく形になったおかゆを持って部屋に戻ると、朔人はベッドに浅くもたれていた。頬が少し赤い。寝起きみたいにぼんやりしていて、いつもの強気さが熱に溶けて薄くなっている。
「はい」
凪がトレーを机に置く。
「……ほんとに作ったんだ」
「作るって言っただろ」
「いや、冗談かと」
「そこまで信用ない?」
「あるけど、方向がズレてるから」
凪は匙で少しすくった。
「食える?」
「自分で食べます」
「声死んでるやつの『自分でできます』は信用ならない」
「ひどい言われよう」
「事実」
「正論やめて」
朔人は起き上がろうとして、そこで少しよろけた。凪がすぐ肩を支える。
「ほら」
「……すみません」
「謝るな」
「最近これ多いっすね」
「お前が謝る状況ばっか作るからだろ」
結局、朔人は観念したらしく、少しだけ口を開けた。凪は不器用なりに冷ましながら、おかゆをひと匙ずつ運ぶ。
「熱くない?」
「大丈夫」
「味は?」
「……普通」
「普通か」
「普通です」
「もっと褒めてもいいよ?」
「病人にそれ以上求めます?」
「求めない」
そのやり取りが妙に静かで、でも嫌じゃなかった。外では蝉が鳴いているのに、この部屋の中だけ時間が少し遅い気がする。
半分くらい食べたところで、朔人がうっすら眉を寄せた。首筋に汗が浮いている。Tシャツの襟元も少し濡れていた。
「暑い?」
凪が聞くと、朔人は小さく頷いた。
「ちょっと」
「エアコンは?」
「ついてます」
「それでこれ?」
「熱あるんで」
凪はタオルを濡らして持ってきた。朔人はすぐに気づいて、少しだけ身を引く。
「自分でできます」
「できてないだろ」
「いや、でも」
「サク」
「……はい」
その返事が妙に素直で、凪は一瞬だけ言葉に詰まった。
前髪をそっとかき上げて、額の汗を拭う。熱を持った肌に濡れたタオルを当てると、朔人の肩がわずかに震えた。次にこめかみ、首筋。汗がじんわり浮いているところを丁寧に拭くたびに、朔人の呼吸が少しずつゆるんでいく。
「そんな顔するなよ」
凪が言う。
「どんな」
「我慢してる顔」
「……してないです」
「してる」
朔人はそれ以上言い返さなかった。目を閉じる。その無防備さが妙に心臓に悪い。
タオルを置いた時、朔人が小さく呟いた。
「着替えたい」
「着替え?」
「汗、気持ち悪いんで」
「新しいのある?」
「引き出し……右」
凪が机の横の引き出しを開けると、畳んだTシャツが入っていた。白地に小さなロゴの入った、たぶん部屋着。それを持って振り返ると、朔人はベッドの端に座ったまま少しだけ困った顔をしていた。
「自分でいける?」
「たぶん」
「たぶん多いな」
「やってみないとわからないんで」
朔人は今着ているTシャツの裾に手をかけたけど、途中で動きが止まった。腕を上げるのもしんどいらしい。少しだけ顔をしかめる。
「……無理です」
「知ってた」
「知ってたなら言わせないでください」
「言いたかったんだろ」
「性格悪」
そう言いながらも、朔人の声は弱い。凪は少しだけ息を止めてから、前に立った。
「じゃあ、手上げろ」
「はい」
「ふらつくなよ」
「それは保証できない」
凪はなるべく淡々とした顔を作って、朔人のTシャツをゆっくり上に引いた。汗で少しだけ張りついていて、離れる時に布が肌を撫でる。そこで凪の手が一瞬だけ止まりそうになる。
近い。近すぎる。
病人の着替えを手伝ってるだけだ。それは分かってる。分かってるのに、妙に意識する。
Tシャツが脱げたあと、朔人は少しだけ肩を丸めた。熱のせいで肌が赤い。首筋にも汗が残っている。凪は視線を逸らしたくなるのをこらえて、新しいTシャツを広げた。
「腕」
「……うん」
袖に腕を通すのを手伝う。肩を支える。背中側の布を引く。その一つ一つが、必要以上に近い。朔人の体温が熱いこととか、呼吸がいつもより浅いこととか、そんなのまで分かってしまう。
「凪先輩」
「ん?」
「顔、赤くないですか」
「暑いからだろ」
「エアコン効いてるのに」
「お前、今それ言う元気あるんだ」
「ちょっとだけ」
「ならよかった」
着替えが終わって、朔人はやっと深く息を吐いた。背中を少しだけ壁に預けて、目を閉じる。その顔が、さっきより少し楽そうに見えて、凪はやっと肩の力を抜いた。
しばらくして、朔人は薬を飲んで、そのまま少しうとうとし始めた。凪はベッド脇の椅子に座って、机の上の走り書きをぼんやり見ていた。
『俺も帰れてないのかよ』
『もういいよ 強め』
そんな言葉を、サクはここで一人で見ていたのか。自分との漫才を、ここまで部屋の中に持ち込んでいたのか。そのことを考えるだけで、胸の奥がざわつく。でも、まだそれを何と呼ぶかは決めないままでいた。
夕方が近づいて、窓の外の光が少しだけやわらいできた頃、凪は立ち上がった。もう少ししたら弟か親も帰ってくるだろうし、自分が長居しすぎるのも変だ。スポーツドリンクは置いていく。熱さまシートもまだ余ってる。おかゆも残りは冷蔵庫に入れた。
「じゃあ、俺そろそろ」
小さく言って、ベッドのそばを離れようとした時だった。
服の裾が、ほんの少しだけ引かれた。
凪は息を止めて振り返る。朔人が半分だけ目を開けていた。熱で潤んだ視線のまま、凪のシャツの裾を指先で掴んでいる。
「……サク?」
返事の代わりに、朔人は浅く息をして、それから掠れた声で言った。
「……まだ、いてください」
その一言で、凪の中の何かが一気にひっくり返った。
胸の奥が熱くなる。呼吸がうまくできない。頭では、熱で弱ってるだけだと分かっている。今のサクはまともに判断できてない。たぶん、明日には覚えてないかもしれない。
それでも、駄目だった。
相方だからとか、心配だからとか、そういう言い訳だけではもう足りないと、はっきり分かってしまった。自分は、サクに弱い。ただ心配してるだけの相手に、こんなふうにはならない。
好きなんだ、と。
そこでようやく、自分でも逃げられないくらいきれいに分かった。
「……そんな声で言うなよ」
やっと出た声は、自分でも少し驚くくらい低かった。凪はもう一度ベッドのそばに腰を下ろす。
「帰れなくなるだろ」
朔人はたぶん、その意味まで理解していない。熱に浮かされた顔のまま、少しだけ安心したみたいに目を細める。
「……うん」
「寝ろ」
「はい」
裾を掴んだ指先が少しだけ緩む。でも完全には離れない。
凪はそれを見下ろしながら、どうしようもなく苦笑した。ほんとに、ずるい。
「少しだけだからな」
そう言うと、朔人はもうほとんど寝かけたまま小さく頷いた。
部屋の中は静かだった。外ではまだ蝉が鳴いているのに、ここだけ別の時間みたいにゆるやかだ。エアコンの音。浅い寝息。机の上に残ったネタの走り書き。裾を掴む弱い指先。
凪はその全部を見ながら、初めてちゃんと自分の気持ちを受け入れた。
相方だから大事なんじゃない。大事な相手が、たまたま相方なんだ。
その順番に気づいてしまったら、もう前には戻れない気がした。でも、不思議と嫌ではなかった。
凪はベッド脇で少しだけ姿勢を崩して、眠る朔人を見た。熱で弱って、いつもよりずっと無防備なのに、その顔は少しだけ安心しているように見えた。
「……早く治せよ」
小さく言う。
「じゃないと、来年のM-1困るだろ」
返事はない。でも、裾を掴む指先だけは、さっきより少しだけあたたかく感じた。


