放課後バーガー

 八月に入ったばかりの朝は、もう朝の顔をしていなかった。  駅前のアスファルトは昼前みたいな熱を溜め込み、蝉の声が容赦なく降り注ぐ。待ち合わせ場所の屋根の下にいても、空気そのものがぬるく重かった。
 凪はいつもよりだいぶ早く着いていた。M-1予選の会場の前。  ネタ帳を開き、何度も繰り返した「無人島」の流れをなぞる。さすがに今日は少し浮ついていた。文化祭とは違う、外の舞台。サクとなら、いける気がしていた。
 スマホの時計が、約束の時間を告げる。  その時、人混みの向こうに朔人の姿が見えた。
 見えた瞬間、凪の顔から熱が引いた。  歩き方がおかしい。ふらついているわけではないが、足が重く、肩が落ちている。何より顔色が最悪だった。
「サク」
 呼びかけると、朔人が顔を上げた。いつものように口元だけで笑おうとする。
「おはようございます……」
 その掠れた声を聞いた瞬間、凪は確信した。  潰れている。ガラガラどころではない、喉が完全に死んでいる。
「……何それ。その声」
「ちょっと、昨日の夜からで。朝になったら、戻るかと思って」
「戻ってねえだろ。熱あるな? 顔見ればわかる」
「でも、行けます。予選だし……」
 その一言が、痛いほど真っ直ぐだった。無理をしているのに、それを認めない顔。それを見た瞬間、凪の中で何かが切り替わった。
「出ない。辞退する」
「え……」
「今日は無理だ。棄権する」
「いや、待って。やれます、たぶん!」
「『たぶん』で出るな。座ってろ」
 凪は迷いなくスマホを取り出した。事務局への欠場連絡。短いやり取りで、すべてが終わった。  入り口に貼られたポスターが目に入る。ずっと来たかった場所。悔しくないわけがない。けれど、ベンチで項垂れる朔人の姿を見ていると、そんな感情は一瞬で消えた。
「辞退した」
「……ごめん。ごめん、俺……」
 朔人の声はひどく掠れていて、聞いているだけで喉が痛くなりそうだった。
「ごめんじゃねえよ。なんで言わなかったんだ」
「凪先輩が、M-1のためにずっと頑張ってたの、知ってたから……。ガラガラでも、なんとかなるかなって」
「なるわけないだろ。バカか」
 凪の声も、怒っているはずなのに少しだけ揺れていた。
「ここで待ってろ。なんか買ってくる」
 凪が戻ってきたとき、手にはポカリと熱さまシート、ゼリー飲料があった。  文化会館のロビーは冷房が効いていて、外の熱気が嘘のように静かだった。ベンチにもたれて目を閉じていた朔人が、ゆっくりと目を開ける。
「……あ、凪先輩」
「起きたか。動くな、座ってろ」
 凪はポカリの蓋を開けて手渡した。朔人は両手でボトルを持ち、辛さを耐えるように一口飲む。
「前髪上げろ。貼るから」
「……自分でできます」
「できてないから言ってるんだ。サク」
「……はい」
 観念した朔人の額に、凪は冷却シートを貼る。指先から伝わる温度は、驚くほど高かった。
「熱いな……何度あるんだよ。測ってないのか?」
「測ったら、負けな気がして」
「何と戦ってんだよ、お前は」
 サクなりに、今日は戦う日だったのだ。それが余計に凪の胸を締めつけた。
「凪先輩、本当にごめん」
「来年また出ればいい。今年が無理なら、来年また出ればいいだろ」
「でも……」
「でもじゃない。俺は今、大会よりお前のほうが心配なんだよ」
 その言葉は、口にしてから遅れて凪の胸に響いた。  朔人も同じだったのか、目を見開いたまま、言葉を失って黙り込む。
「分かった?」
「……はい」
「よし」
「悔しくないんすか」
 その問いに、凪は少しだけ笑った。
「……悔しいよ、そりゃあ。めちゃくちゃ出たかった」
 正直に言う。
「でも、だからってお前がこんなになってんの見て、出ようとはならない。そんなの、後味悪すぎるだろ」
 朔人は少しだけ息を吐いて、ベンチの背もたれに体重を預けた。少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
「俺、ちゃんと出たかったです。凪先輩と」
「うん」
「無人島、予選でやりたかった」
「やるよ。来年でも、別の舞台でも。当たり前だろ、今さら誰とやるんだよ」
 それを聞いて、朔人がようやく少しだけ笑った。熱のせいか、いつもよりずっと素直な顔だった。
「……よかった。それ聞けて」
 不意に真正面から言われ、凪は慌てて視線を逸らした。
 ロビーのガラス越しに見る外の世界は、まだ真夏の強い光に包まれていた。予選はもう始まっている。会場の奥からは微かにアナウンスの声が聞こえる。  それでも、凪の心の中は不思議なほど穏やかだった。
 悔しさは、きっと後から来る。  けれど今は、朔人がここにいて、自分の言葉を聞いていることのほうが、ずっと重要だった。
「サク」
「なんすか」
「次は、ちゃんと元気な時に出ような。声も出る、熱もなし、倒れるのもなし。約束だぞ」
「……はい」
 その弱々しくも確かな返事に、凪はまた笑った。  予選会場の隅、静かなロビーで並んで座る二人の距離は、昨日までよりもずっと近い気がした。