七月の放課後は、まだぜんぜん終わる気配がなかった。 チャイムが鳴っても空は明るいままで、校舎の中には昼の熱がうっすら残っている。窓を開けても風はぬるくて、廊下を歩くだけで制服の背中が少し張りつく感じがした。
次の日の放課後、朔人はずっと落ち着かなかった。 授業中も、黒板の文字が頭に入ってこない。昨日の帰り道からずっと同じことばかり考えていた。あの子といても、思っていたみたいには楽しくなかったこと。付き合えるかもしれない流れを、自分で止めてしまったこと。そして、その理由を考えた先に、どうしても凪の顔が浮かんでしまうこと。
今日は、放課後になったら自分から行こうと決めていた。 凪が最近、自分から誘わないなら、こっちから行くしかない。理由はまだうまく言えない。ネタがあるからでも、大会があるからでも、相方だからでも、全部間違ってないのに、その全部だけじゃ足りない気がしていた。
チャイムが鳴る。椅子を引く音が教室に広がる。 朔人は、鞄を掴むとほとんど反射みたいに立ち上がった。
「雪代、今日早くね?」
後ろの席のやつが聞いてくる。
「ちょっと」
「また予定?」
「まあ、そんなとこ」
それだけ言って、朔人は教室を出た。
部室の引き戸を開ける。中には八坂と櫻葉しかいなかった。
「あれ。凪先輩は」
思わず声が出る。
「まだ。来てない」
櫻葉が答える。
「珍しいな。ていうかサクのほうが珍しい。そんな勢いよく入ってくるの」
八坂が言う。
「うるさいっす」
朔人は言ってから、少しだけ呼吸を整えた。
「……凪先輩、最近ずっとこんな感じ?」
その問いに、櫻葉が一瞬だけ視線を上げた。
「まあ、ちょっと」
「ちょっとどころじゃないだろ。この前なんか、パン一袋しか食ってなかったし」
八坂が言う。
「それは体調不良を疑うレベルだな」
朔人がぼそっと返すと、八坂が笑う。
「でしょ?」
「笑い事じゃないでしょ。凪、分かりやすいから」
櫻葉が言った。
「……何があったんすかね」
朔人が低く言うと、櫻葉は少しだけ迷う顔をした。
「たぶん、自分で勝手に考え込んでる」
「それ、凪先輩の悪いとこっすね」
「うん。だから、雪代。行ってきなよ」
「え」
「ここで待ってても、たぶん変に遠慮するだけだから」
「なんで俺が」
言いかけたところで、八坂が身を乗り出した。
「行きなよサク。凪、たぶん今めっちゃめんどくさい時期だから」
「雑な言い方するな」
「でも合ってるでしょ? なんか最近、部室でもネタ帳あるのに気分が乗らないみたいな顔してるし」
「それ重症じゃん」
「でしょ?」
朔人は少しだけ黙った。部室の中に凪がいないだけで、妙に空気が足りない気がする。それがもう答えみたいで、余計に腹が立つ。
「……行ってきます」
結局、そう言っていた。
「いってらっしゃい」
櫻葉がさらっと言う。八坂も、やたら満足そうに手を振っていた。
凪は、校舎裏の自販機の横にいた。 日陰になっているはずなのに空気はぬるく、自販機のモーター音だけが妙に耳につく。凪は炭酸の缶を片手に持ったまま、帰るでもなく立っていた。
朔人は階段を下りたところでその姿を見つけて、少しだけ足を止めた。その横顔が、思っていた以上に沈んでいたからだ。
「凪先輩」
呼ぶと、凪が肩を揺らして振り向いた。その顔に一瞬だけ浮かんだ驚きが、すぐにいつもの笑い方っぽいものに隠される。
「サク」
「何してるんすか」
「別に」
「別にじゃないでしょ」
朔人はそのまま歩み寄った。凪が逃げるみたいに目を逸らす。
「部室、行かないんすか」
「今日はいいかなって」
「またそれ」
「たまには」
「たまにはって何回目っすか」
思っていたより声が強くなった。でも止められなかった。 凪は少し黙ってから、手の中の缶を見た。
「サク。お前、たまには別のことしててもいいだろ」
「別のこと?」
「だから。女子と遊ぶとか、そういうの」
「……なんで急にその話になるんすか」
「急じゃないだろ」
「急です」
「サクだって……デートとか、したいんじゃないの」
朔人は数秒、何を言われてるのか分からなかった。言葉の意味は分かる。でも、なんで凪がそれを知ってるのかが分からない。
「誰に聞いたんすか」
低く聞くと、凪がまた目を逸らした。その反応だけで、だいたい分かってしまう。
「あの子か。二年の、文化祭見てたって言ってた子。会いに来たんすね」
凪は、少しだけ唇を噛んだ。いつもの凪ならもっと軽く流すはずなのに、今日はそれができていない。
「なんで黙ってるんすか」
「別に、言うほどのことじゃ」
「あるでしょ。それでこんだけ変になってるのに」
その言葉で、凪の肩が少しだけ揺れた。
「変って何」
「分かってるくせに。最近の凪先輩、普通に変です」
「サク」
「ハンバーガー屋行かないし、ネタの話しないし、勝手に距離取るし。しんどいとか、誰が言ったんすか。俺、一回も言ってないっすよ」
「……うん」
「うん、じゃないでしょ」
「でも」
「でもじゃないっすよ」
凪は少しだけ笑ってみせた。でも、その笑い方はいつもと違って、全然平気そうじゃなかった。
「ごめん。今日ちょっと帰る」
「え」
「また明日」
それだけ言って、凪は鞄を肩にかけた。止める間もなく、朔人の横をすり抜けていく。
「待って」
気づいたら、朔人はその腕を掴んでいた。凪が止まる。自分でも驚いたけど、もう離せなかった。
「……何」
「俺、しんどいなんて言ってない」
「うん」
「じゃあなんで避けるんすか」
「避けてない」
「避けてるでしょ」
腕を掴んだままそう言うと、凪は少しだけ目を細めた。暑い。近い。なのにそれ以上に、今このまま離したらだめだという気持ちのほうが強かった。
「凪先輩。俺この前、その子とカラオケ行きました」
凪の表情がそこで止まる。
「……行ったんだ」
「行きました。でも、なんか全然楽しくなくて。普通にかわいいし、感じいいし、ちゃんと楽しいはずだったんですけど。でも、なんか違った。凪先輩とハンバーガー屋でネタ帳見てる時のほうが、ずっと楽しかった」
その一言は、もう引き返せない感じがした。凪が何も言わない。ただ、さっきまで逸らしていた目を、今はちゃんとこっちへ向けている。
「だから。勝手に距離取られると、普通に困るんすよ。店、行きましょう。先に行って待ってるんで。ネタの続き、やりたいです」
凪はその場でしばらく止まっていた。
「……ほんとに? ほんとに、行く?」
「行きます。凪先輩が来るなら」
「……ずるいな。今の言い方」
凪が少しだけ笑った。
「凪先輩にだけは言われたくないっす」
その返しで、ようやく凪がちゃんと笑った。
「じゃあ。あとでな」
「え。一緒に行かないんすか」
「先、行ってて。ちょっとだけ整理したい」
「……分かりました。じゃあ、店で待ってます。ちゃんと来てくださいよ」
「行くよ」
朔人はそれだけ言って、先に歩き出した。
その少し前。 凪に会いに行ったあの女子は、階段の踊り場の影から二人の背中を見ていた。声は全部聞こえたわけじゃない。でも、十分だった。
雪代が自分ではなく、一ノ瀬のほうへ歩いて行ったこと。あんなふうに真っすぐ何かを言っていたこと。 自分はたぶん、最初から勝てなかったんだろう。雪代が自分で、一ノ瀬のいる放課後を選んでいた。
彼女は、もう一度だけ凪を呼び止めた。
「一ノ瀬くん」
凪だけが少し遅れて振り返る。朔人はもう校舎の外へ向かっていて、その背中は小さくなりかけていた。
「なに」
凪が聞くと、彼女は少しだけ笑った。もう最初みたいな棘はなかった。
「負けた」
「え」
「私。雪代くん、全然こっち向いてなかったみたい。だから、変なこと言ってごめん。でも……待ってるんじゃない?」
その一言だけを残して、彼女は先に階段を下りていった。
凪はしばらくその場に立っていた。胸の奥が、また少しだけうるさい。でも、さっきまでの混乱とは違う。もっとはっきりしていて、もっと逃げづらい何かだった。
校舎の外へ向かった朔人の背中を思い出す。先に行って待ってる、と言った声も、腕を掴まれた時の熱も、まだそのまま残っていた。 凪は小さく息を吐いて、ようやく歩き出した。
ハンバーガー屋の窓際の席には、朔人が一人で座っていた。店内の冷房の中で、朔人はトレーを前にしたまま、時々入口のほうを見ていた。
その姿を見た瞬間、凪の足がほんの少し止まる。朔人は先に来ていた。自分が来るのを、ここで待っていた。
凪がトレーを持って席へ近づくと、朔人がすぐ顔を上げた。
「遅いっす」
「ごめん」
「……いや。俺も今来たとこなんで」
この言い方が少しだけぎこちない。
「何頼んだ?」
「いつも通り。一セット」
「少な。今日ちょっと多めにした」
「見れば分かる」
凪のトレーにはセットのほかにバーガーがふたつ、それから新作のシェイクが乗っていた。
「またそれ頼んだんだ」
「新作だから。夏は増えるんだよ、誘惑が」
「知らないっすよ」
なんでもない会話なのに、最初だけ少しぎこちない。しばらく離れていたせいか、いつもの距離に戻るまで一拍必要みたいだった。凪は席に座って、ネタ帳を机に置く。
「ちゃんと持ってきたんすね」
「今日は確認した。三回」
「気にしすぎでしょ」
「気にするに決まってんだろ」
「まあ、大事だし」
「うん」
そこで会話が一瞬切れる。でも、凪がネタ帳を開いた瞬間、その空気が少しずつ剥がれていく。
「無人島の夢のくだりなんだけど。やっぱ“俺も帰れてないのかよ”はもう少し強くていいと思う」
「やっぱそうっすよね。で、そのあとすぐ返したい」
「じゃあ間詰めますか」
「うん。あと、伝書鳩のとこ。ちょっと笑い待ってもいいかも」
「お。いいね。そこちょっと好きだったんで」
「お、言うじゃん」
そのやり取りで、二人とも少しだけ笑った。
「じゃあ通す? 今。必要だから」
「その言い方久しぶりに聞いた。言ってくださいよ、いつもみたいに」
その言葉が出た瞬間、二人とも一瞬だけ止まった。でも次の瞬間、凪が吹き出した。
「何その言い方」
「いや、なんか。変に気まずいのしんどいんで」
「分かる。ごめんって」
「軽いなあ。でも今、戻った感じする」
朔人が笑いながら目を逸らす。凪も笑った。
「じゃあやるぞ。もし無人島に流されたらどうするか練習しよっか」
「生命の危機というより、野外実習が延長された気分じゃない?」
「なんでそんなに冷静なんだよ」
「おほんっ……いやあ、物騒だねえ」
「百均前線混ざってる!」
そこで、二人とも同時に笑ってしまった。
「やっぱこれだな。サクとのテンポ」
「……まあ。俺も、こっちのほうが落ち着きます」
その一言が、凪には思っていたより深く刺さった。凪はネタ帳を閉じてから、ふと朔人を見た。
「サク」
「なんすか」
ほんの少しだけ迷ってから、凪は口を開いた。
「ただいま」
朔人は一瞬だけ目を丸くした。それから、すぐに笑う。
「おかえり」
そのやり取りだけで、さっきまで空いていた何かがちゃんと埋まった気がした。 二人は、また当たり前みたいにネタ帳を開いた。 放課後は、やっぱりこうでないと落ち着かなかった。
次の日の放課後、朔人はずっと落ち着かなかった。 授業中も、黒板の文字が頭に入ってこない。昨日の帰り道からずっと同じことばかり考えていた。あの子といても、思っていたみたいには楽しくなかったこと。付き合えるかもしれない流れを、自分で止めてしまったこと。そして、その理由を考えた先に、どうしても凪の顔が浮かんでしまうこと。
今日は、放課後になったら自分から行こうと決めていた。 凪が最近、自分から誘わないなら、こっちから行くしかない。理由はまだうまく言えない。ネタがあるからでも、大会があるからでも、相方だからでも、全部間違ってないのに、その全部だけじゃ足りない気がしていた。
チャイムが鳴る。椅子を引く音が教室に広がる。 朔人は、鞄を掴むとほとんど反射みたいに立ち上がった。
「雪代、今日早くね?」
後ろの席のやつが聞いてくる。
「ちょっと」
「また予定?」
「まあ、そんなとこ」
それだけ言って、朔人は教室を出た。
部室の引き戸を開ける。中には八坂と櫻葉しかいなかった。
「あれ。凪先輩は」
思わず声が出る。
「まだ。来てない」
櫻葉が答える。
「珍しいな。ていうかサクのほうが珍しい。そんな勢いよく入ってくるの」
八坂が言う。
「うるさいっす」
朔人は言ってから、少しだけ呼吸を整えた。
「……凪先輩、最近ずっとこんな感じ?」
その問いに、櫻葉が一瞬だけ視線を上げた。
「まあ、ちょっと」
「ちょっとどころじゃないだろ。この前なんか、パン一袋しか食ってなかったし」
八坂が言う。
「それは体調不良を疑うレベルだな」
朔人がぼそっと返すと、八坂が笑う。
「でしょ?」
「笑い事じゃないでしょ。凪、分かりやすいから」
櫻葉が言った。
「……何があったんすかね」
朔人が低く言うと、櫻葉は少しだけ迷う顔をした。
「たぶん、自分で勝手に考え込んでる」
「それ、凪先輩の悪いとこっすね」
「うん。だから、雪代。行ってきなよ」
「え」
「ここで待ってても、たぶん変に遠慮するだけだから」
「なんで俺が」
言いかけたところで、八坂が身を乗り出した。
「行きなよサク。凪、たぶん今めっちゃめんどくさい時期だから」
「雑な言い方するな」
「でも合ってるでしょ? なんか最近、部室でもネタ帳あるのに気分が乗らないみたいな顔してるし」
「それ重症じゃん」
「でしょ?」
朔人は少しだけ黙った。部室の中に凪がいないだけで、妙に空気が足りない気がする。それがもう答えみたいで、余計に腹が立つ。
「……行ってきます」
結局、そう言っていた。
「いってらっしゃい」
櫻葉がさらっと言う。八坂も、やたら満足そうに手を振っていた。
凪は、校舎裏の自販機の横にいた。 日陰になっているはずなのに空気はぬるく、自販機のモーター音だけが妙に耳につく。凪は炭酸の缶を片手に持ったまま、帰るでもなく立っていた。
朔人は階段を下りたところでその姿を見つけて、少しだけ足を止めた。その横顔が、思っていた以上に沈んでいたからだ。
「凪先輩」
呼ぶと、凪が肩を揺らして振り向いた。その顔に一瞬だけ浮かんだ驚きが、すぐにいつもの笑い方っぽいものに隠される。
「サク」
「何してるんすか」
「別に」
「別にじゃないでしょ」
朔人はそのまま歩み寄った。凪が逃げるみたいに目を逸らす。
「部室、行かないんすか」
「今日はいいかなって」
「またそれ」
「たまには」
「たまにはって何回目っすか」
思っていたより声が強くなった。でも止められなかった。 凪は少し黙ってから、手の中の缶を見た。
「サク。お前、たまには別のことしててもいいだろ」
「別のこと?」
「だから。女子と遊ぶとか、そういうの」
「……なんで急にその話になるんすか」
「急じゃないだろ」
「急です」
「サクだって……デートとか、したいんじゃないの」
朔人は数秒、何を言われてるのか分からなかった。言葉の意味は分かる。でも、なんで凪がそれを知ってるのかが分からない。
「誰に聞いたんすか」
低く聞くと、凪がまた目を逸らした。その反応だけで、だいたい分かってしまう。
「あの子か。二年の、文化祭見てたって言ってた子。会いに来たんすね」
凪は、少しだけ唇を噛んだ。いつもの凪ならもっと軽く流すはずなのに、今日はそれができていない。
「なんで黙ってるんすか」
「別に、言うほどのことじゃ」
「あるでしょ。それでこんだけ変になってるのに」
その言葉で、凪の肩が少しだけ揺れた。
「変って何」
「分かってるくせに。最近の凪先輩、普通に変です」
「サク」
「ハンバーガー屋行かないし、ネタの話しないし、勝手に距離取るし。しんどいとか、誰が言ったんすか。俺、一回も言ってないっすよ」
「……うん」
「うん、じゃないでしょ」
「でも」
「でもじゃないっすよ」
凪は少しだけ笑ってみせた。でも、その笑い方はいつもと違って、全然平気そうじゃなかった。
「ごめん。今日ちょっと帰る」
「え」
「また明日」
それだけ言って、凪は鞄を肩にかけた。止める間もなく、朔人の横をすり抜けていく。
「待って」
気づいたら、朔人はその腕を掴んでいた。凪が止まる。自分でも驚いたけど、もう離せなかった。
「……何」
「俺、しんどいなんて言ってない」
「うん」
「じゃあなんで避けるんすか」
「避けてない」
「避けてるでしょ」
腕を掴んだままそう言うと、凪は少しだけ目を細めた。暑い。近い。なのにそれ以上に、今このまま離したらだめだという気持ちのほうが強かった。
「凪先輩。俺この前、その子とカラオケ行きました」
凪の表情がそこで止まる。
「……行ったんだ」
「行きました。でも、なんか全然楽しくなくて。普通にかわいいし、感じいいし、ちゃんと楽しいはずだったんですけど。でも、なんか違った。凪先輩とハンバーガー屋でネタ帳見てる時のほうが、ずっと楽しかった」
その一言は、もう引き返せない感じがした。凪が何も言わない。ただ、さっきまで逸らしていた目を、今はちゃんとこっちへ向けている。
「だから。勝手に距離取られると、普通に困るんすよ。店、行きましょう。先に行って待ってるんで。ネタの続き、やりたいです」
凪はその場でしばらく止まっていた。
「……ほんとに? ほんとに、行く?」
「行きます。凪先輩が来るなら」
「……ずるいな。今の言い方」
凪が少しだけ笑った。
「凪先輩にだけは言われたくないっす」
その返しで、ようやく凪がちゃんと笑った。
「じゃあ。あとでな」
「え。一緒に行かないんすか」
「先、行ってて。ちょっとだけ整理したい」
「……分かりました。じゃあ、店で待ってます。ちゃんと来てくださいよ」
「行くよ」
朔人はそれだけ言って、先に歩き出した。
その少し前。 凪に会いに行ったあの女子は、階段の踊り場の影から二人の背中を見ていた。声は全部聞こえたわけじゃない。でも、十分だった。
雪代が自分ではなく、一ノ瀬のほうへ歩いて行ったこと。あんなふうに真っすぐ何かを言っていたこと。 自分はたぶん、最初から勝てなかったんだろう。雪代が自分で、一ノ瀬のいる放課後を選んでいた。
彼女は、もう一度だけ凪を呼び止めた。
「一ノ瀬くん」
凪だけが少し遅れて振り返る。朔人はもう校舎の外へ向かっていて、その背中は小さくなりかけていた。
「なに」
凪が聞くと、彼女は少しだけ笑った。もう最初みたいな棘はなかった。
「負けた」
「え」
「私。雪代くん、全然こっち向いてなかったみたい。だから、変なこと言ってごめん。でも……待ってるんじゃない?」
その一言だけを残して、彼女は先に階段を下りていった。
凪はしばらくその場に立っていた。胸の奥が、また少しだけうるさい。でも、さっきまでの混乱とは違う。もっとはっきりしていて、もっと逃げづらい何かだった。
校舎の外へ向かった朔人の背中を思い出す。先に行って待ってる、と言った声も、腕を掴まれた時の熱も、まだそのまま残っていた。 凪は小さく息を吐いて、ようやく歩き出した。
ハンバーガー屋の窓際の席には、朔人が一人で座っていた。店内の冷房の中で、朔人はトレーを前にしたまま、時々入口のほうを見ていた。
その姿を見た瞬間、凪の足がほんの少し止まる。朔人は先に来ていた。自分が来るのを、ここで待っていた。
凪がトレーを持って席へ近づくと、朔人がすぐ顔を上げた。
「遅いっす」
「ごめん」
「……いや。俺も今来たとこなんで」
この言い方が少しだけぎこちない。
「何頼んだ?」
「いつも通り。一セット」
「少な。今日ちょっと多めにした」
「見れば分かる」
凪のトレーにはセットのほかにバーガーがふたつ、それから新作のシェイクが乗っていた。
「またそれ頼んだんだ」
「新作だから。夏は増えるんだよ、誘惑が」
「知らないっすよ」
なんでもない会話なのに、最初だけ少しぎこちない。しばらく離れていたせいか、いつもの距離に戻るまで一拍必要みたいだった。凪は席に座って、ネタ帳を机に置く。
「ちゃんと持ってきたんすね」
「今日は確認した。三回」
「気にしすぎでしょ」
「気にするに決まってんだろ」
「まあ、大事だし」
「うん」
そこで会話が一瞬切れる。でも、凪がネタ帳を開いた瞬間、その空気が少しずつ剥がれていく。
「無人島の夢のくだりなんだけど。やっぱ“俺も帰れてないのかよ”はもう少し強くていいと思う」
「やっぱそうっすよね。で、そのあとすぐ返したい」
「じゃあ間詰めますか」
「うん。あと、伝書鳩のとこ。ちょっと笑い待ってもいいかも」
「お。いいね。そこちょっと好きだったんで」
「お、言うじゃん」
そのやり取りで、二人とも少しだけ笑った。
「じゃあ通す? 今。必要だから」
「その言い方久しぶりに聞いた。言ってくださいよ、いつもみたいに」
その言葉が出た瞬間、二人とも一瞬だけ止まった。でも次の瞬間、凪が吹き出した。
「何その言い方」
「いや、なんか。変に気まずいのしんどいんで」
「分かる。ごめんって」
「軽いなあ。でも今、戻った感じする」
朔人が笑いながら目を逸らす。凪も笑った。
「じゃあやるぞ。もし無人島に流されたらどうするか練習しよっか」
「生命の危機というより、野外実習が延長された気分じゃない?」
「なんでそんなに冷静なんだよ」
「おほんっ……いやあ、物騒だねえ」
「百均前線混ざってる!」
そこで、二人とも同時に笑ってしまった。
「やっぱこれだな。サクとのテンポ」
「……まあ。俺も、こっちのほうが落ち着きます」
その一言が、凪には思っていたより深く刺さった。凪はネタ帳を閉じてから、ふと朔人を見た。
「サク」
「なんすか」
ほんの少しだけ迷ってから、凪は口を開いた。
「ただいま」
朔人は一瞬だけ目を丸くした。それから、すぐに笑う。
「おかえり」
そのやり取りだけで、さっきまで空いていた何かがちゃんと埋まった気がした。 二人は、また当たり前みたいにネタ帳を開いた。 放課後は、やっぱりこうでないと落ち着かなかった。


