放課後バーガー

​最初は、少し気になるくらいだった。
​二年の廊下から一階へ降りる階段の踊り場で、彼女は何度か雪代朔人の姿を見かけていた。文化祭のステージで漫才をしていた一年生。高身長で、ツッコミのテンポがよくて、ちょっと目立っていた。
放課後、思い切って声をかけて、カラオケにでも誘おうと思った。けれど、返ってくるのは毎回やんわりとした断りだった。
​嫌われている感じではない。連絡は返ってくるし、言い方も柔らかい。
でも、誘っても空いていない。放課後に予定がある。そういう返事ばかりだった。
​不思議だった。部活のない日まで、いつも何かあるなんて。
ただの好奇心で、帰るタイミングが同じだった日に、少しだけ距離を置いて後ろを歩いてみた。
​昇降口を出た雪代は、そのまま帰るのではなく、三階へ向かった。部室棟じゃない、校舎の端のほう。しばらくして、引き戸の向こうから笑い声がした。
​そこに、いた。
​一ノ瀬凪。二年、お笑い研究部。
その日も、一ノ瀬は部室の入口で雪代を待っていた。雪代が近づくと、当たり前みたいに話しかける。雪代も、当たり前みたいに隣へ並ぶ。それから二人で校舎を出て、駅前へ歩いて行った。
​毎日じゃなくていいはずなのに。
毎日みたいな顔をして、当たり前のように一緒にいる。
​なんで。
​その疑問は、何度も断られるうちに形を持ち始めた。
もしかして、一ノ瀬凪がいるからなんじゃないか。あの先輩が、雪代の放課後をほとんど奪っているんじゃないか。
​いい加減、気になりすぎた。だから彼女は、雪代本人ではなく、一ノ瀬へ会いに行くことにした。
​「あの、一ノ瀬くん。ちょっとだけ、いいかな」
​呼び止められて、凪は足を止めた。同じ二年の女子だった。
「雪代くんのことで」
​その名前が出た瞬間、凪の表情がわずかに止まる。
「サク? どうしたの」
​「雪代くん、何回か誘ったんだけど、ずっと断られてて。でも、放課後はいつも一ノ瀬くんと一緒にいるよね。ネタ作りって、そんな毎日しないとだめなの?」
​凪は少しだけ眉を上げた。
「いや、毎日っていうか……」
​「雪代くんも、毎日付き合わされてしんどいんじゃないの?」
​その一言が、思った以上に深く刺さった。
​「しんどい……?」
「うん。見てたらずっと一ノ瀬くんといるし。雪代くん、一ノ瀬くんといるせいで、全然デートできないんだよ」
​デート。その言葉が、妙に具体的だった。
「デート? サクが、誰かと?」
「そう。私と」
​凪の中で、何かがはっきり形を持つ。
そうか。サクは、女子に誘われていたんだ。しかも何回も。
それを断って、放課後は自分とネタ作りをしていた。
​「だから、一ノ瀬くん、少し距離取ってくれない? 一ノ瀬くんがいると、雪代くんとデートできないから。……ずるいよ」
​ずるい。
凪はほんの少しだけ目を伏せた。
​たしかに、自分はサクを呼べば来ると思っていた。部室にいればそのまま一緒に流れるし、ハンバーガー屋に行こうと言えば来る。
そこに、サク自身の意思があることを、都合よく見ないふりしていたかもしれない。
​「……分かった。言いたいことは分かったよ」
​その日、凪は部室へ行くのを少しだけ遅らせた。
行けば、たぶんサクが来る。いつも通りに「今日はどうする」って聞いて、ハンバーガー屋へ流れる。そういう放課後の流れが、急にひどく不自然なものに思えた。
​サクは、しんどかったのかもしれない。
「何やってんだろ、俺」
自分でそう呟いてから、ようやく部室へ向かった。
​朔人はすでに部室にいた。凪が遅れて入ってきたとき、空気がいつもと違っていた。
「おつかれ」
「お疲れっす。……凪先輩、今日はハンバーガー屋、行かないんすか」
​「……今日はいいかなと思って。毎日付き合わせるの、しんどいだろ」
​その言葉に、朔人は意味が分からなかった。
「は? 何言ってんすか」
​「ネタとか、部活休みの日まで呼んでたしな。別にサクも、たまには違う予定あるだろうし」
「いや、あるとかないとかじゃなくて。誰がそんなこと言ったんすか」
​朔人の声が強くなる。凪は答えなかった。
でも、その沈黙で十分だった。何かあったんだ。誰かに何か言われたんだ。
​「凪先輩、俺、しんどいなんて言ってないっす」
「……うん。でも、ごめん。今日ちょっと帰るわ。また明日」
​それだけ言って、凪は部室を出ていった。
​次の日も、凪の態度は変だった。
部室には来る。ネタもやる。でも以前みたいな勢いがない。
その空気が、朔人には何よりもしんどかった。
​そんなタイミングで、あの女子がまた声をかけてきた。
「雪代くん。今度こそ、もしよかったら」
​凪といる放課後が急に薄くなって、ぽっかりと空いた。
「……いいよ」
自分でも、返事が遅かったと思う。でも彼女は嬉しそうに笑った。
​デートと言うには、まだ少し軽いのかもしれない。
放課後、二人でカラオケに行って、ソファに並んで座る。彼女はちゃんとかわいかった。
​「雪代くん、歌うまいんだね。漫才の時も思ったけど、声通るよね」
「ありがとう」
​褒められて、悪い気はしない。しないはずなのに、妙に上滑りする。
朔人は画面の端に映るドリンクメニューをぼんやり見ていた。そこでふと、ハンバーガー屋のシェイクを思い出す。凪が当然みたいにカップを差し出してきた、あの指先を。
​なんで今それを思い出すんだ、と思う。でも、一度浮かぶと止められなかった。
​彼女が何か面白いことを言っても、「凪ならここでどう返すだろう」と考えてしまう。会話が途切れた時も、「凪といる時はこんな間はできないのに」と思ってしまう。
ハンバーガー屋でネタ帳を広げているあの時間のほうが、ずっと自然だった。
​何やってんだ、俺。
目の前には、かわいくて、優しい子が誘ってくれているのに。
​「雪代くん? どうしたの?」
「いや……なんでもない」
​ほんとは、なんでもなくなかった。
凪といた時のほうが、笑っていた。
無人島の夢のくだりを詰めていた時のほうが、ずっと時間が早かった。
​帰り際、彼女が歩調を緩めた。
「また、今度も……一緒に出かけない?」
​その言葉に、朔人はすぐには返事ができなかった。前なら、ここでちゃんと頷けたはずだ。でも今は、それをする自分がどうしても想像できない。
​「……ごめん。たぶん、俺」
​続きがうまく出てこない。彼女は少しだけ目を見開いたあと、悲しそうに笑った。
「そっか」
「ごめん」
「ううん、いいよ」
​付き合えるかもしれないチャンスを、朔人は自分で逃した。
逃したというより、もう別のものを選んでしまっていた。
​帰り道、一人になってからようやく、その事実がじわじわと胸に迫ってきた。
​俺、やっぱり。
凪先輩といる時のほうが、楽しかったんだ。
​その答えが、思っていたよりずっとはっきりしていて、もうどこにも逃げ場がなかった。