テスト期間が終わった日の放課後、俺は久しぶりに少しだけ肩が軽かった。
机の上に積まれていた教科書も、数式だらけのプリントも、とりあえず今日は見なくていい。教室の空気もどこか緩んでいて、やっと終わった、みたいな顔をしているやつが多い。
久々の部活だ。 部室で顔合わせして、たぶんそのままハンバーガー屋へ行って、また無人島の続きを詰める。そう思いながら階段を上がる足取りは、思ったより軽かった。
引き戸を開けると、部室にはまだ凪先輩しかいなかった。
「あ、珍しい」
「俺が一番なのが?」
「それもあるけど……なんか、顔怖いっすよ」
凪先輩はそこで、一瞬だけ目を逸らした。その反応で、嫌な予感がした。
「どうしたんすか」
「……ネタ帳がない」
「え」
間抜けな声が出た。
「朝、学校に来た時はたぶんあったんだよ」
「今は?」
「ない」
その短いやり取りだけで、だいぶまずいことが起きているのは分かった。 凪先輩のネタ帳。無人島のネタも、文化祭のメモも、俺とのやり取りも、全部入っているあのノートだ。
「どこで最後に見たんすか。教室?」
「……たぶん」
「たぶん多いな今日。探したんすか」
「一応、教室と廊下は見た」
「一応じゃだめでしょ。職員室は?」
「まだ……」
その言い方が珍しく弱くて、逆にこっちが焦る。 凪先輩が本当に落ち込んでいる。ただのノートじゃない。あれ、この人にとって相当大事なんだ。
「そんな大事なもんなら、一緒に探したほうがいいに決まってるでしょ。行きますよ」
「サク……」
「早く! 教室、廊下、移動教室、職員室前。全部回ります」
「……はい」
凪先輩が小さく返事をした。それが少しおかしくて、でも笑っている場合じゃない。
二年の教室フロア、机の中、ロッカーの上、窓際の棚。
「ないっすか」
「ない……」
焦っているのが手に取るように分かる。俺は半ば引っ張るようにして凪先輩を連れ、階段を下りた。
「移動した教室は?」
「三階の選択と、一階の視聴覚」
「じゃあそっちです」
視聴覚室にもない。通りがかった先生に聞いても「届いていない」と言われる。 凪先輩の横顔を見ると、眼鏡の奥の目が本当に沈んでいた。ここまでへこんでいる彼を、俺は見たことがなかった。
「そんなに大事なんすね」
歩きながら、つい口に出る。
「……大事だよ。ネタ全部そこにあるし。文化祭のやつも、来年の大会用のメモも……サクの返しも、ちょこちょこ書いてあるし」
その最後の一言に、一瞬だけ足が止まりそうになった。 でも今はそこに引っかかっている場合じゃない。
「だったらなおさら見つけます。なくしたままは無理でしょ」
職員室や用務員室を回っても見つからず、焦りが募る。
「三階、もう一回戻りましょう」
「ごめん、サク。巻き込んで」
「今さらでしょ。そういうの後でいいから。早く」
凪先輩が一瞬だけ黙る。それから、ほんの少しだけ笑った。
「今日のサク、強いな」
「今はそういう日なんです。ちゃんとついてきてください」
三階へ上がり、廊下を端から端まで見る。途中で八坂先輩たちとも合流した。
「え、ネタ帳なくしたの!? やばくない!?」
「やばい。だから探してる。黒い表紙のノートです」
「了解!」
八坂先輩が飛び出していき、櫻葉先輩も手分けして探しに回ってくれる。
俺と凪先輩はもう一度、二年の教室に戻った。 さっき見たはずの場所を、もう一回見直す。机の下、椅子の脇。……ない。
さすがに凪先輩が、教室の真ん中で立ち止まった。
「……最悪だ。なんでこんな時に」
その声に、初めて本気の絶望が混じった。
「まだ分かんないでしょ。見つかるまで探せばいいんです」
「サク、そんな簡単に……」
「簡単じゃなくても探します! 俺も困るんで!」
凪先輩が目を丸くする。
「ネタ帳ないと無人島どうするんすか。夢のくだりも伝書鳩の間も詰めなきゃいけないし。それに、文化祭の書き込みも入ってるんでしょ。だったら余計、絶対見つける。なくすとかだめです」
そこまで言った時だった。 教室の後ろの扉が開いて、別の先生が顔を出した。
「一ノ瀬、雪代。これ探してるか?」
先生の手にあったのは、あの黒いノートだった。
「……それ!」
凪先輩が珍しく大きい声を出した。
「朝、講師室の前に落ちてたって届けがあってな。名前がなかったから確認に時間がかかったんだ」
凪先輩が呆然とノートを受け取る。俺はその横で、思いきり息を吐いた。
「よかった……」
声に出ていた。自分でも思っていた以上に、本気で焦っていた。
凪先輩はしばらく、黒い表紙を指でなぞって、本当にあることを確かめるように見つめていた。
「すみません、ありがとうございます……」
先生が去ってからも、凪先輩はまだぼんやりとしていた。
「見つかったじゃないっすか。よかった」
「……うん。ほんとによかった」
その時、凪先輩がいきなり笑った。 力の抜けた、でもすごくやわらかい笑い方だった。
「サク。今日、めちゃくちゃ探してくれたな」
「そりゃ探しますよ。凪先輩、一人で探そうとするから」
「ありがと」
その言い方が予想外に素直で、こっちが詰まる。
「……いや。相方なんで」
言ったあとで自分でも少し照れる。でも凪先輩は、そこでまた笑った。
「うん。やっぱ俺、サクと組めてよかったかも」
その一言が、不意打ちだった。
「……いきなり何っすか。調子狂うからやめてください」
「思っただけ。……事実だしな」
そのあと、八坂先輩たちも戻ってきて見つかったことを喜び合った。 凪先輩はノートをいつもより大事そうに抱えていた。でも、それ以上に妙だったのは、時々こっちを見ることだった。
あの視線、なんなんだよ。……嫌じゃないけど。
「で、見つかったなら、今日はハンバーガー屋?」
八坂先輩が聞くと、凪先輩が即答した。
「行く。今、すごい書きたい気分なんだ」
その顔を見て、俺は小さく息をついた。結局、こうなるんだよな。 でも、悪くない。
夕方の廊下を歩きながら、凪先輩はふと小さく言った。
「なくした時、ほんとに終わったと思った」
「終わってないっすよ」
「うん。サクがいたから、ちょっとそう思えた」
「……またそういうこと言う」
「事実だし。使いやすいな、この言葉」
そう言って笑う凪先輩の横顔を見て、俺はなんとなく思った。 この人、たぶん自分で思っているより、ずっと分かりやすい。 そして俺は、その分かりやすい顔に、思っているよりずっと弱い。
机の上に積まれていた教科書も、数式だらけのプリントも、とりあえず今日は見なくていい。教室の空気もどこか緩んでいて、やっと終わった、みたいな顔をしているやつが多い。
久々の部活だ。 部室で顔合わせして、たぶんそのままハンバーガー屋へ行って、また無人島の続きを詰める。そう思いながら階段を上がる足取りは、思ったより軽かった。
引き戸を開けると、部室にはまだ凪先輩しかいなかった。
「あ、珍しい」
「俺が一番なのが?」
「それもあるけど……なんか、顔怖いっすよ」
凪先輩はそこで、一瞬だけ目を逸らした。その反応で、嫌な予感がした。
「どうしたんすか」
「……ネタ帳がない」
「え」
間抜けな声が出た。
「朝、学校に来た時はたぶんあったんだよ」
「今は?」
「ない」
その短いやり取りだけで、だいぶまずいことが起きているのは分かった。 凪先輩のネタ帳。無人島のネタも、文化祭のメモも、俺とのやり取りも、全部入っているあのノートだ。
「どこで最後に見たんすか。教室?」
「……たぶん」
「たぶん多いな今日。探したんすか」
「一応、教室と廊下は見た」
「一応じゃだめでしょ。職員室は?」
「まだ……」
その言い方が珍しく弱くて、逆にこっちが焦る。 凪先輩が本当に落ち込んでいる。ただのノートじゃない。あれ、この人にとって相当大事なんだ。
「そんな大事なもんなら、一緒に探したほうがいいに決まってるでしょ。行きますよ」
「サク……」
「早く! 教室、廊下、移動教室、職員室前。全部回ります」
「……はい」
凪先輩が小さく返事をした。それが少しおかしくて、でも笑っている場合じゃない。
二年の教室フロア、机の中、ロッカーの上、窓際の棚。
「ないっすか」
「ない……」
焦っているのが手に取るように分かる。俺は半ば引っ張るようにして凪先輩を連れ、階段を下りた。
「移動した教室は?」
「三階の選択と、一階の視聴覚」
「じゃあそっちです」
視聴覚室にもない。通りがかった先生に聞いても「届いていない」と言われる。 凪先輩の横顔を見ると、眼鏡の奥の目が本当に沈んでいた。ここまでへこんでいる彼を、俺は見たことがなかった。
「そんなに大事なんすね」
歩きながら、つい口に出る。
「……大事だよ。ネタ全部そこにあるし。文化祭のやつも、来年の大会用のメモも……サクの返しも、ちょこちょこ書いてあるし」
その最後の一言に、一瞬だけ足が止まりそうになった。 でも今はそこに引っかかっている場合じゃない。
「だったらなおさら見つけます。なくしたままは無理でしょ」
職員室や用務員室を回っても見つからず、焦りが募る。
「三階、もう一回戻りましょう」
「ごめん、サク。巻き込んで」
「今さらでしょ。そういうの後でいいから。早く」
凪先輩が一瞬だけ黙る。それから、ほんの少しだけ笑った。
「今日のサク、強いな」
「今はそういう日なんです。ちゃんとついてきてください」
三階へ上がり、廊下を端から端まで見る。途中で八坂先輩たちとも合流した。
「え、ネタ帳なくしたの!? やばくない!?」
「やばい。だから探してる。黒い表紙のノートです」
「了解!」
八坂先輩が飛び出していき、櫻葉先輩も手分けして探しに回ってくれる。
俺と凪先輩はもう一度、二年の教室に戻った。 さっき見たはずの場所を、もう一回見直す。机の下、椅子の脇。……ない。
さすがに凪先輩が、教室の真ん中で立ち止まった。
「……最悪だ。なんでこんな時に」
その声に、初めて本気の絶望が混じった。
「まだ分かんないでしょ。見つかるまで探せばいいんです」
「サク、そんな簡単に……」
「簡単じゃなくても探します! 俺も困るんで!」
凪先輩が目を丸くする。
「ネタ帳ないと無人島どうするんすか。夢のくだりも伝書鳩の間も詰めなきゃいけないし。それに、文化祭の書き込みも入ってるんでしょ。だったら余計、絶対見つける。なくすとかだめです」
そこまで言った時だった。 教室の後ろの扉が開いて、別の先生が顔を出した。
「一ノ瀬、雪代。これ探してるか?」
先生の手にあったのは、あの黒いノートだった。
「……それ!」
凪先輩が珍しく大きい声を出した。
「朝、講師室の前に落ちてたって届けがあってな。名前がなかったから確認に時間がかかったんだ」
凪先輩が呆然とノートを受け取る。俺はその横で、思いきり息を吐いた。
「よかった……」
声に出ていた。自分でも思っていた以上に、本気で焦っていた。
凪先輩はしばらく、黒い表紙を指でなぞって、本当にあることを確かめるように見つめていた。
「すみません、ありがとうございます……」
先生が去ってからも、凪先輩はまだぼんやりとしていた。
「見つかったじゃないっすか。よかった」
「……うん。ほんとによかった」
その時、凪先輩がいきなり笑った。 力の抜けた、でもすごくやわらかい笑い方だった。
「サク。今日、めちゃくちゃ探してくれたな」
「そりゃ探しますよ。凪先輩、一人で探そうとするから」
「ありがと」
その言い方が予想外に素直で、こっちが詰まる。
「……いや。相方なんで」
言ったあとで自分でも少し照れる。でも凪先輩は、そこでまた笑った。
「うん。やっぱ俺、サクと組めてよかったかも」
その一言が、不意打ちだった。
「……いきなり何っすか。調子狂うからやめてください」
「思っただけ。……事実だしな」
そのあと、八坂先輩たちも戻ってきて見つかったことを喜び合った。 凪先輩はノートをいつもより大事そうに抱えていた。でも、それ以上に妙だったのは、時々こっちを見ることだった。
あの視線、なんなんだよ。……嫌じゃないけど。
「で、見つかったなら、今日はハンバーガー屋?」
八坂先輩が聞くと、凪先輩が即答した。
「行く。今、すごい書きたい気分なんだ」
その顔を見て、俺は小さく息をついた。結局、こうなるんだよな。 でも、悪くない。
夕方の廊下を歩きながら、凪先輩はふと小さく言った。
「なくした時、ほんとに終わったと思った」
「終わってないっすよ」
「うん。サクがいたから、ちょっとそう思えた」
「……またそういうこと言う」
「事実だし。使いやすいな、この言葉」
そう言って笑う凪先輩の横顔を見て、俺はなんとなく思った。 この人、たぶん自分で思っているより、ずっと分かりやすい。 そして俺は、その分かりやすい顔に、思っているよりずっと弱い。


