中の人は秘密なのに、クラスのアイドルが近すぎる

放課後の市役所倉庫は、洗い立ての布の匂いがした。

半分開いた窓から春の風が入って、吊るされたみどまるの頭部の葉っぱを少しだけ揺らしている。奥の棚には余った花苗のトレーと、使いかけの培養土。床に落ちた土はもう乾いていて、靴の裏でかすかに鳴った。

父さんは腰に手を当てたまま、段ボールを整理していた。前よりはましそうだけど、まだ完全じゃないのは歩き方でわかる。

「お、来たか」

「片づけ?」

「それもあるけど、先にこれ」

父さんは業務連絡ノートを持ち上げた。
見慣れた表紙の、丸っこい葉っぱ。
俺が何回も汗だくの手で開いたやつで、凛央が何回も字を書き足したやつだ。

「学校の先生にも、市の担当にも確認した。あのステージの声は、鉢の音と歓声でほぼ聞こえてない。動画にもまともに入ってない」

「……そっか」

「だから、もうその顔すんな」

父さんはそこで少し笑って、それから続けた。

「あと、代役も卒業だ。春のイベントは昨日で最後だったからな。次のイベントからは、俺が戻る」

その一言に、ほっとしたのか、少しだけさみしいのか、自分でもわからない感情が胸の真ん中で混ざる。

みどまるの中は暑くて苦しくて、何回ももう無理だと思った。
でも、あの重たい頭の向こうでしか見られなかったものも、確かにあったから。

父さんはノートの表紙を指で弾いた。

「新しい業務ノートは別に作った」

父さんは、俺じゃなくて凛央のほうをちらっと見た。ほんの一瞬だけ。
それから何でもない顔でノートを俺の手に押しつける。

「だから、古い方のノートはあげる」

「え?いらないの?」

「どう見ても、もう俺の字よりお前らの字のほうが多い」

「お前らって」

「余白、まだあるだろ?仕事じゃなくても、書くことくらいあるだろ?」

耳が熱くなる。
凛央もたぶん、少しだけ息を止めた。

父さんはわざとらしく腰を叩いた。

「俺は担当の人と話してくる。樹、肩、冷やしとけよ」

「平気だって」

「そういうのは信用しない」

それだけ言って、父さんは倉庫の外へ出ていった。

倉庫に残ったのは、俺と凛央と、洗われたみどまるだけだった。

吊るされた着ぐるみは、空っぽなのに不思議と圧がある。けど前みたいに、そこへ隠れたいとは思わなかった。今はその前に、ちゃんと自分のままで立っていられる。

「樹」

「ん」

「みどまるの前じゃなくても、もう無理して笑わなくていい?」

「……いい」

凛央がノートを受け取って、白いページを開く。
少しだけ使い込まれた紙の匂いがした。

「書いていい?」

「……うん」

凛央は近くの箱の上から緑のペンを取った。
きれいな字で、迷いなく書く。

『本日 みどまる代役 終了』

そこで一度手を止めて、横を見た。
俺は少し迷ってから、ペンを受け取る。そして、少しだけ震えながら、その横に花丸を描いた。

二人して、それだけで少し笑ってしまう。
なんだそれ、って感じなのに、今はそれで十分だった。