中の人は秘密なのに、クラスのアイドルが近すぎる

東花壇の裏は、昼になると少しだけ人目が減る。

倉庫の白い壁が日差しをやわらかく返して、その脇の小さなベンチには、朝より強くなった春の風が抜けていた。ネモフィラの青が低く揺れて、葉っぱどうしが擦れる音が、遠くのざわめきに混ざる。

凛央はもう来ていた。ベンチの背にもたれながら、紙パックのミルクティーを持っている。ストローはまだ刺さっていなかった。

「逃げるかと思った」

俺を見るなり、そんなことを言う。

「逃げない」

「よかった」

笑った顔は、教室の白石じゃなかった。少しだけ寝不足そうで、でもそのぶんちゃんと素の顔だった。

俺は凛央の隣に座る。ベンチの板が春の日差しで少しだけあたたかい。近い。昨日、名前を呼んだ距離より少しだけ遠いのに、今日のほうが落ち着かない。

「昨日のことだけど」

「……うん」

凛央はミルクティーを膝に置いたまま、まっすぐこっちを見た。

「俺、言いたいことは言った」

「うん」

「でも、樹の返事は、まだちゃんと聞いてない」

自分の名前が、その口から自然に出るだけで、心臓が変な跳ね方をする。

俺は少しだけ視線を落とした。ベンチの下の土は朝の水やりが残って、まだ黒い。風が吹くたび、ネモフィラの葉の影が揺れて、その影まで落ち着かない。

「……最初、お前のこと、ほんとに眩しいやつだと思ってた」

「ひどい褒め方」

「褒めてるだろ」

凛央が小さく笑う。
その笑い方に少し助けられて、俺は息を吸った。

「近いし、助けられてばっかりだし、みどまるの中では息苦しいのに、お前がいるとそれと別で胸が苦しくなるし」

途中で何を言ってるんだろうと思ったけど、止めるほうが無理だった。

「でも今は、その全部ごと好きだよ」

言った瞬間、耳まで熱くなる。
なのに、もう少しだけ言いたくて、俺はちゃんと顔を上げた。

「凛央が好き」

風が吹いた。
ベンチの向こうの葉っぱが一斉に鳴る。

凛央は、すぐには何も言わなかった。
ただ、息をつぐみたいに少しだけ目を閉じて、それからゆっくり笑った。

「それ、ちゃんと聞けてよかった」

教室で見せる完成された笑顔じゃない。安心したみたいに、少しだけ肩の力が抜けた顔だった。

俺もようやく息を吐く。
喉の奥に引っかかっていたものが、少しだけほどける。

「……いつから気づいてた?」

「だいたい、の段階は前から」

「前って」

「落書きとか、字とか、家で見た着ぐるみとか」

やっぱり、と思う。
思うのに、実際に言われると恥ずかしくてたまらない。

「でも確信したのは、最後」

「最後?」

「樹が、あのとき俺の名前を呼んだとき」

そう言って、凛央は少しだけ視線を遠くへ逃がした。

「わかった瞬間より、やっと言ってくれた、って気持ちのほうが大きかった」

胸の奥がまた、静かに熱くなる。

「なんで、すぐ言わなかったんだよ」

「お前が守ってたものを、俺が先に壊したくなかったから」

その言い方が、あまりにも凛央らしくて、うまく返事ができなかった。

代わりに、凛央がポケットからスマホを出す。画面をこっちへ向けると、そこには小さなミントの鉢が映っていた。前より葉っぱが増えて、少しだけ横へ広がっている。

「見て。新しい葉、出た」

「……ほんとだ」

「毎朝、水やってる」

「えらい」

「樹が選んだやつだし」

凛央はそこで少しだけ笑って、スマホをしまった。

「学校では今まで通りでいいと思ってる」

「うん」

「でも、二人のときは、ちゃんと名前で呼びたい」

「……俺も」

返すと、凛央の指先がベンチの上を少しだけ動いた。
触れるか、触れないかの距離。
俺も逃げなかった。

指の背が、ほんの少しだけ重なる。
それだけで、昼の風の音まで変わった気がした。

チャイムが遠くで鳴る。

凛央は立ち上がりながら、少し困ったように笑った。

「昼休み、短いな」

「今さら」

「放課後、市役所行く?」

「父さんから連絡きてる。たぶん、昨日の片づけ関係」

「じゃあ一緒に行く」

「なんで」

「行きたいから」

さらっと言われて、何も返せなくなる。
ほんとに、こういうところがずるい。