イベントが終わると、父さんが裏の衝立のところで俺を待っていた。
「肩、大丈夫か」
「ぶつけただけ」
「ぶつけただけって顔じゃない」
そう言いながらも、父さんはそれ以上何も聞かなかった。代わりに、裏の資材置き場みたいな小さなスペースのカーテンを引いてくれる。
「こっちは片づけとく。五分だけな」
低い声でそれだけ言って、出ていく。
大人ってこういうときだけずるい。全部わかってる顔をして、でも真ん中には入ってこない。
俺は震える手でみどまるの頭を外した。
ぬるい空気が一気に逃げる。汗で張りついた前髪が額に落ちて、視界がようやく広がった。喉がからからで、肩はじんじん痛い。シャツまでしっとりしていて、みっともないにもほどがある。さっき割れた鉢の土が、ローファーのつま先にまだ少しついていた。
資材箱の上には、さっきの小さいフリップが置きっぱなしになっていた。
『どっちも がんばりすぎ きんし』
凛央の字だ。
それを見た瞬間、もう隠しきれないと思った。
カーテンの向こうで、足音が止まった。
わかる。凛央だ。
入ってきた気配だけで、心臓がうるさくなる。
少しの沈黙のあと、カーテンが細く動いた。
凛央は何も言わずに立っていた。ステージ用のジャケットは脱いでいて、白いシャツの袖に土がついている。たぶん、さっき割れた鉢の土だ。額の近くの髪が、汗で少しだけ乱れていた。学校で見る完璧な白石凛央じゃない。俺と同じくらい息をつけていない顔だった。
視線が、俺の顔で止まる。
逃げたくなった。
でも、もう無理だと思った。
「……ずっと黙っててごめん」
声がうまく出ない。
それでも、言うしかなかった。
「父さんの代わりで、入学式前日のイベントから俺が入ってた。言ったら、たぶん、今までみたいにいられなくなる気がして。みどまるじゃないと、お前の近くにいられない気がして」
喉が熱い。言葉の最後が、少し震える。
「だから、ずっと――」
そこまでで止まった。
凛央が一歩、近づいたからだ。
近い、と思うより先に、凛央の指先が俺の肩のすぐ手前で止まる。ぶつけたところを避けるみたいに、ためらってから、みどまるの手をそっとつかんだ。
「痛い?」
「……平気」
「平気じゃない顔してる」
少しだけ掠れた、低い声だった。でも、責める声じゃない。
俺は息を吸って、吐く。
「怒ってるよな」
凛央は首を振った。
すぐじゃなくて、ゆっくり。ちゃんと俺に見せるみたいに。
「怒ってない」
その一言だけで、胸の奥がまた苦しくなる。
凛央は俺を見たまま、少しだけ唇を噛んだ。言葉を選ぶみたいな間があって、それから、ほんの少しだけ声が震えた。
「みどまるが好きだったんじゃない。学校でもイベントでも、ずっと俺を支えてくれたお前が好きだ」
息が、止まった。
肩の痛みも、汗の気持ち悪さも、一瞬だけどこかへ行く。
凛央の目は逸れなかった。まっすぐで、でも完璧じゃない。少しだけ怖そうで、同じくらい本気の顔だった。
「花壇で、水やりしてるときも」
少し、息をつぐ。
「フリップで、がんばりすぎるなって言ってくれたときも」
もう一度、俺の手を握る指先に力が入る。
「今日、俺のこと呼んだ声も。全部、お前だった」
だめだ。
ほんとに、息ができない。
「……ほんとに、俺でいいの?」
やっと出た声は、自分でもびっくりするくらい弱かった。
凛央は迷わなかった。
「いいとかじゃない。お前がいい」
その返事の速さで、喉の奥がぐちゃぐちゃになる。
「……俺」
何か言わなきゃいけないのに、喉の奥で言葉がほどける。
情けないくらい黙った俺を見て、凛央が少しだけ笑った。いつもの、誰にでも向けられるきれいな笑顔じゃなかった。助かったみたいに、でもまだ少し怖いみたいに揺れる、素の顔だった。
「俺さ」
凛央が、ほんのわずかに首を傾ける。
「お前が、みどまるの中に隠れてるの、もったいないなと思った」
涙が出そうになって、困る。
笑うところじゃないのに、少しだけ笑いそうにもなる。
「俺、自分なのに、みどまるの自分に嫉妬してた」
ぽろっとこぼしたら、凛央の目が少し丸くなった。
それから、ほんとうに小さく笑う。
「ばか」
やさしい言い方だった。
そのまま、凛央の指が俺の手首へ降りてくる。汗で少し冷えた皮膚に触れて、そこだけ妙に熱い。逃げられるくらい軽いのに、逃げたくないくらい確かな重さだった。
「……もう一回」
「え」
「さっきみたいに、呼んで」
胸が跳ねる。
あの瞬間、考えるより先にこぼれた名前を、今度はちゃんと自分の意思で言う。
喉が鳴る。
でも、逃げたくなかった。
「凛央」
声にした瞬間、凛央の睫毛がわずかに震えた。
息をつくみたいに目を細めて、今度は凛央が、俺の名前を呼ぶ。
「樹」
はじめてだった。
たった一言なのに、着ぐるみの中よりずっと熱く、俺の身体のいちばん奥までまっすぐ落ちてくる。
カーテンの向こうでは、片づけの音と、春の風に鳴る葉っぱの音がまだしている。
なのに、その声の続きを、俺はもう逃げずに聞きたかった。
「肩、大丈夫か」
「ぶつけただけ」
「ぶつけただけって顔じゃない」
そう言いながらも、父さんはそれ以上何も聞かなかった。代わりに、裏の資材置き場みたいな小さなスペースのカーテンを引いてくれる。
「こっちは片づけとく。五分だけな」
低い声でそれだけ言って、出ていく。
大人ってこういうときだけずるい。全部わかってる顔をして、でも真ん中には入ってこない。
俺は震える手でみどまるの頭を外した。
ぬるい空気が一気に逃げる。汗で張りついた前髪が額に落ちて、視界がようやく広がった。喉がからからで、肩はじんじん痛い。シャツまでしっとりしていて、みっともないにもほどがある。さっき割れた鉢の土が、ローファーのつま先にまだ少しついていた。
資材箱の上には、さっきの小さいフリップが置きっぱなしになっていた。
『どっちも がんばりすぎ きんし』
凛央の字だ。
それを見た瞬間、もう隠しきれないと思った。
カーテンの向こうで、足音が止まった。
わかる。凛央だ。
入ってきた気配だけで、心臓がうるさくなる。
少しの沈黙のあと、カーテンが細く動いた。
凛央は何も言わずに立っていた。ステージ用のジャケットは脱いでいて、白いシャツの袖に土がついている。たぶん、さっき割れた鉢の土だ。額の近くの髪が、汗で少しだけ乱れていた。学校で見る完璧な白石凛央じゃない。俺と同じくらい息をつけていない顔だった。
視線が、俺の顔で止まる。
逃げたくなった。
でも、もう無理だと思った。
「……ずっと黙っててごめん」
声がうまく出ない。
それでも、言うしかなかった。
「父さんの代わりで、入学式前日のイベントから俺が入ってた。言ったら、たぶん、今までみたいにいられなくなる気がして。みどまるじゃないと、お前の近くにいられない気がして」
喉が熱い。言葉の最後が、少し震える。
「だから、ずっと――」
そこまでで止まった。
凛央が一歩、近づいたからだ。
近い、と思うより先に、凛央の指先が俺の肩のすぐ手前で止まる。ぶつけたところを避けるみたいに、ためらってから、みどまるの手をそっとつかんだ。
「痛い?」
「……平気」
「平気じゃない顔してる」
少しだけ掠れた、低い声だった。でも、責める声じゃない。
俺は息を吸って、吐く。
「怒ってるよな」
凛央は首を振った。
すぐじゃなくて、ゆっくり。ちゃんと俺に見せるみたいに。
「怒ってない」
その一言だけで、胸の奥がまた苦しくなる。
凛央は俺を見たまま、少しだけ唇を噛んだ。言葉を選ぶみたいな間があって、それから、ほんの少しだけ声が震えた。
「みどまるが好きだったんじゃない。学校でもイベントでも、ずっと俺を支えてくれたお前が好きだ」
息が、止まった。
肩の痛みも、汗の気持ち悪さも、一瞬だけどこかへ行く。
凛央の目は逸れなかった。まっすぐで、でも完璧じゃない。少しだけ怖そうで、同じくらい本気の顔だった。
「花壇で、水やりしてるときも」
少し、息をつぐ。
「フリップで、がんばりすぎるなって言ってくれたときも」
もう一度、俺の手を握る指先に力が入る。
「今日、俺のこと呼んだ声も。全部、お前だった」
だめだ。
ほんとに、息ができない。
「……ほんとに、俺でいいの?」
やっと出た声は、自分でもびっくりするくらい弱かった。
凛央は迷わなかった。
「いいとかじゃない。お前がいい」
その返事の速さで、喉の奥がぐちゃぐちゃになる。
「……俺」
何か言わなきゃいけないのに、喉の奥で言葉がほどける。
情けないくらい黙った俺を見て、凛央が少しだけ笑った。いつもの、誰にでも向けられるきれいな笑顔じゃなかった。助かったみたいに、でもまだ少し怖いみたいに揺れる、素の顔だった。
「俺さ」
凛央が、ほんのわずかに首を傾ける。
「お前が、みどまるの中に隠れてるの、もったいないなと思った」
涙が出そうになって、困る。
笑うところじゃないのに、少しだけ笑いそうにもなる。
「俺、自分なのに、みどまるの自分に嫉妬してた」
ぽろっとこぼしたら、凛央の目が少し丸くなった。
それから、ほんとうに小さく笑う。
「ばか」
やさしい言い方だった。
そのまま、凛央の指が俺の手首へ降りてくる。汗で少し冷えた皮膚に触れて、そこだけ妙に熱い。逃げられるくらい軽いのに、逃げたくないくらい確かな重さだった。
「……もう一回」
「え」
「さっきみたいに、呼んで」
胸が跳ねる。
あの瞬間、考えるより先にこぼれた名前を、今度はちゃんと自分の意思で言う。
喉が鳴る。
でも、逃げたくなかった。
「凛央」
声にした瞬間、凛央の睫毛がわずかに震えた。
息をつくみたいに目を細めて、今度は凛央が、俺の名前を呼ぶ。
「樹」
はじめてだった。
たった一言なのに、着ぐるみの中よりずっと熱く、俺の身体のいちばん奥までまっすぐ落ちてくる。
カーテンの向こうでは、片づけの音と、春の風に鳴る葉っぱの音がまだしている。
なのに、その声の続きを、俺はもう逃げずに聞きたかった。



