中の人は秘密なのに、クラスのアイドルが近すぎる

最後のステージのころには、午後の風が少し強くなっていた。

白いテントが鳴る。横断幕の端がぱたぱた揺れる。校庭に並んだ花鉢の土は朝より乾いているのに、着ぐるみの中の俺だけはずっと湿って重かった。首の裏に汗がたまって、息をするたび、自分の熱い呼気が口元へ戻ってくる。

段取りが崩れたせいで、ステージ袖は朝よりずっと雑然としていた。学校で作った寄せ植えを載せた三段の植木台が、いつの間にかステージのすぐ脇まで寄せられている。上には素焼きの鉢がいくつも並んでいて、キャスターの片方がケーブルカバーに半分乗り上げたままだった。

それが気になった。

気になったのに、もう開演の合図が出ている。フリップを取る暇も、止める暇もなかった。

「最後は、学校の花壇と市の花いっぱい運動をつないで、みんなで仕上げます」

マイクを持った凛央の声が、校庭へきれいに広がる。

拍手が起きる。子どもたちが前へ出てきて、じょうろを抱えたまま笑う。凛央はその真ん中で、いつもの完璧な顔をしていた。明るくて、やわらかくて、でもひとつも乱れない。

なのに、俺の横を通るときだけ、ほんの少し声が低くなる。

「みどまる、平気?」

俺は丸い手で、胸の前に小さな丸を作った。大丈夫の代わりみたいに。

凛央の口元がほんの少しだけゆるむ。客席にはわからないくらい、でも俺にはわかるくらい。

視界の網越しに、学校側のテントが少しだけ見えた。父さんが腕章をつけたまま、子どもにスコップの持ち方を教えている。先生がその横で笑っていて、並んだ苗のトレーの向こうで、水を吸った葉っぱが風に揺れていた。学校のほうは回っている。その事実だけで、胸の奥にぎりぎり一本だけ余裕が戻った。

そのとき、風が吹いた。

さっきより強い。横断幕の端が大きくはためいて、ステージ脇の白布がふくらむ。誰かが慌てて押さえに入る。植木台の上の札がかたかた鳴った。

嫌な音だ、と思った。

でも次の瞬間には、凛央が小さな女の子の前にしゃがみこんでいた。

「じゃあ、一緒に水やろうか」

女の子がじょうろを持ち上げる。凛央が片手を添える。その背中は、ちょうど植木台のほうを向いていた。

キャスターが、ずれた。

ほんの少しだけだったのに、上の素焼き鉢が前へ滑るのが見えた。土の入った重い鉢が、傾いて、まっすぐ凛央の肩口へ落ちていく。

フリップなんか間に合わない。

考えるより先に、喉が開いた。

「凛央、危ない!」

自分の声だった。

熱のこもった着ぐるみの中から、無理やり外へ押し出した、素の声。

凛央がはっと顔を上げる。

次の瞬間、凛央は女の子の肩を抱いて横へ引いた。俺はそのまま植木台へ体当たりみたいにぶつかる。

がしゃん、と大きな音がした。

素焼き鉢が二つ、ステージの板の上で割れる。湿った土が跳ねて、マリーゴールドの橙が散った。じょうろの水が俺の足元へこぼれて、黒い土と混ざる。葉っぱの切れ端が、ぬれた板の上にへばりついた。

客席がどよめく。悲鳴みたいな声も混じる。

俺はその場でよろけた。肩の外側に鈍い痛みが走る。みどまるの中の空気が一気に熱くなって、息がうまく入らない。

「みどまる!」

今度は、凛央の声だった。

マイクを通していない、近い声。

スタッフが駆け寄る。MCが何か言って場をつなぐ。ざわめきとハウリングと風の音で、さっきの俺の声はたぶん客席まではまともに届いていない。でも、凛央だけは、はっきり聞いた顔をしていた。

視界の網越しでもわかる。

目が、揺れていた。

俺はなんとか両手を上げて、大丈夫の仕草をする。みどまるらしく、大きく。派手に。

凛央は一瞬だけ息を止めたみたいに見えて、それからすぐ、客席のほうへ顔を戻した。

「びっくりしたね。でも、みどまるが守ってくれました」

少しだけ掠れた声だった。

拍手が起きる。子どもたちがほっとした顔で笑う。場はなんとか戻っていく。

戻っていくのに、俺の胸だけが全然戻らなかった。

そのあとの数分、凛央はずっと俺のすぐ横にいた。子どもが前へ出すぎれば先に止める。立ち位置を変えるときは、俺の肩に見えないくらい短く手を添える。完璧な笑顔のまま、でも隣にいる呼吸だけは、さっきまでより近かった。

最後の挨拶で頭を下げたとき、春の匂いより先に、割れた鉢の土の匂いがした。

ステージ袖へ引く瞬間、誰にも見えない角度で、凛央の手がみどまるの丸い手を一度だけ強く握った。たったそれだけで、さっきこぼれた声の続きを、もうごまかせないと思った。