中の人は秘密なのに、クラスのアイドルが近すぎる

父さんが片足を上げたところで止まった。

「……っ」

短い息が漏れて、そのまま靴下を持った手も止まる。玄関のたたきに朝の光が細く落ちていて、革靴の先だけがやけにきらっとして見えた。

俺は鞄を肩にかけたまま、その様子を見下ろす。

「腰、まだだめ?」

「歩くのは昨日よりまし。座って立つのが地獄」

「それ、全然だめって言うんだよ」

「通勤はできる。職場行って、椅子座って、書類触って帰ってくるまでは、なんとか」

父さんは顔をしかめたまま靴下を履いた。履くだけで小さく息を止めているあたり、本当にぎりぎりなんだろうと思う。

「でも、みどまるの中はまだ無理」

そう言ってから、父さんはこっちを見た。

見なくていいのに、って思う。
その目をされると、だいたい断りづらい。

「樹。もう少しだけ、代役頼む」

玄関の空気が、ほんの少しだけ重くなる。

俺は反射で深いため息をついた。

父さんは苦笑して、業務連絡ノートを見せてきた。
表紙の丸っこい葉っぱは相変わらずだ。
新しいページを開くと、そこには父さんの角ばった字が並んでいた。

『日曜 商店街ミニ花壇PR&駅前配布会』

「ほんとに悪い。現場の段取りは俺がやる。でも、あの中で動くのはまだ無理だ。職場に通うので精いっぱい」

その言い方が、ちょっと弱くて。
俺はまた、ため息をつくしかなかった。

「……わかった。腰が治るまでだからな」

「助かる」

「その台詞、何回目だよ」

「樹は数えるタイプだもんな」

「父さんが増やすタイプなんだよ」

父さんは笑って、それから革靴に足を入れる。

「放課後、風呂場入るなよ」

「は?なんで?」

「昨日母さんが洗ってくれた衣装、干してある」

そう言って玄関を出ていく背中は、やっぱり少しだけぎこちなかった。

ドアが閉まったあと、居間には味噌汁の匂いと、洗いたてのタオルの匂いだけが残る。

俺は鞄の中に父さんが置いていった業務連絡ノートを入れてから、学校へ向かった。