イベントが始まると、広場の空気はすぐに凛央のほうへ寄っていった。
「白石くん、こっちです」
「取材、あとで二分だけお願いします」
「子どもたちとの写真、先に並んでもらっていい?」
声がいくつも飛ぶたび、凛央は全部にきちんと返す。
笑って、頷いて、しゃがんで、立って、また笑う。
今日の彼は、学校のときよりさらに完璧だった。市の人たちにとっても、来場した親子にとっても、たぶん安心の中心みたいな顔をしている。
みどまるの横に立つときも、俺の歩幅に合わせて半歩だけゆっくり歩く。そのくせ客席から見れば、そんな調整なんて一つも感じさせない。
すごい、と思う。
思うけど、見ていると胸のどこかが落ち着かない。
理由は、たぶん簡単だった。
凛央は今日も、ほとんど水を飲まない。
休憩のたびに「みどまる、水分大丈夫?」とは聞くのに、自分のペットボトルは机の端でほとんど減っていない。
拍手が大きかったあとのほうが、むしろ笑顔がきれいになる。
期待の大きさに合わせて、もっとちゃんとしようとするみたいに。
ステージ横の花鉢は、ネモフィラの青とマリーゴールドの黄でやけに鮮やかだった。
春風が吹くたび葉っぱが揺れて、その向こうで凛央の髪が少しだけ乱れる。
そのたびに、彼は何でもない顔で整え直す。
二回目の休憩は、広場の裏手の通路だった。
台車に積まれた花苗の陰で、客席のざわめきだけが遠い。
みどまるの中は相変わらず暑い。息をするたび、布の内側に熱がこもる。首筋を汗が伝って、背中に張りつく。
でも、近づいてくる足音で、別の意味でも胸が詰まる。
凛央だった。
「みどまる」
呼びかける声が、さっきまでより低い。
俺は手にしていたフリップを持ち直した。
凛央は台車の影に半身を隠すみたいに立って、少しだけ息を吐いた。
その息が、思ったより重い。
「期待されるのは嬉しいけど、ちゃんと応えられるか怖い」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
いや、言葉の意味はわかる。
わかるのに、凛央がそれを口にしたことのほうが、うまく飲みこめない。
学校では誰に見られていても隙を見せない人が。
現場では、みどまるの横で完璧に立つ人が。
今、俺にじゃなくて、みどまるにだけ、それを言う。
今、俺の前にいるのは、学校の完璧な凛央じゃない。みどまるの前でだけ弱くなる、凛央の顔だった。
うれしい、と思った。
先にそう思ってしまった自分に、少しだけ驚く。
頼られた、みたいで。
安心の向き先に自分がなれた、みたいで。
でも、そのすぐあとに、別の感情が追いつく。
向いているのは、青柳樹じゃない。
みどまるだ。
丸くて、しゃべれなくて、正体を隠したままの、こっちだ。
胸の奥がざわつく。
それでも、今はそれより先に返したい。
フリップのペン先が、白い面をきゅっと鳴らす。
『ちゃんと できてる』
丸い手じゃ急げない。
それでも一文字ずつ、できるだけはっきり書く。
凛央がそれを見つめる。
まばたきが、少しだけゆっくりになる。
「……そう見える?」
問いかけに、俺は今度は大きく頷いた。
頷くだけじゃ足りない気がして、急いでペンを走らせる。
『みんな うれしそう』
書いたあとで、自分でも少し恥ずかしくなった。
でも、嘘じゃない。
子どもも、市の人も、スタッフも、みんな凛央がいると少しほっとした顔をする。
それは期待だけじゃなくて、ちゃんと届いてるからだ。
凛央はフリップの字を見て、それから小さく笑った。
いつもの、整った笑い方じゃない。
息と一緒にこぼれるみたいな笑い方だ。
「……そっか」
その声が、やわらかい。
俺の胸の奥も、同じ形で少しだけやわらかくなる。
なのに、まだ苦い。
こんな顔を引き出せるのが、俺じゃなくてみどまるであることが、やっぱり少しだけ苦い。
凛央はフリップの端に指先を触れた。
白いボード越しでも、その体温が近い。
「でもさ」
彼は少しだけ目を伏せる。
「こういうの、顔に出したらだめな気もする。学校でも現場でも、なんか、平気そうにしてるほうが安心されるし」
その言い方は、弱音というより、長く身についた癖みたいだった。
そうしないとまわらないから、ずっとそうしてきたみたいな。
俺はまたペンを持ち直した。
学校で言えなかった言葉を、今なら書ける。
『むりして わらわなくていい』
書いて、持ち上げる。
文字は少し曲がった。
でも、さっきよりずっとまっすぐな気持ちで書けた。
凛央が、それを見たまま黙る。
春風が吹いて、台車の上のビオラの花びらが揺れる。
遠くで司会の声がして、次の出番までそんなに時間がないことはわかっているのに、その沈黙だけは急がせたくなかった。
やがて、凛央が本当に少しだけ、肩の力を抜く。
「……それ、ずるいな」
怒ってるわけじゃない声。
困ったようで、助かったみたいな声。
俺は何も言えないから、また頷くしかない。
みどまるはしゃべれない。
しゃべれないくせに、こういうときだけ、フリップ一枚で人の胸の奥まで触れてしまう。
「白石くん、こっちです」
「取材、あとで二分だけお願いします」
「子どもたちとの写真、先に並んでもらっていい?」
声がいくつも飛ぶたび、凛央は全部にきちんと返す。
笑って、頷いて、しゃがんで、立って、また笑う。
今日の彼は、学校のときよりさらに完璧だった。市の人たちにとっても、来場した親子にとっても、たぶん安心の中心みたいな顔をしている。
みどまるの横に立つときも、俺の歩幅に合わせて半歩だけゆっくり歩く。そのくせ客席から見れば、そんな調整なんて一つも感じさせない。
すごい、と思う。
思うけど、見ていると胸のどこかが落ち着かない。
理由は、たぶん簡単だった。
凛央は今日も、ほとんど水を飲まない。
休憩のたびに「みどまる、水分大丈夫?」とは聞くのに、自分のペットボトルは机の端でほとんど減っていない。
拍手が大きかったあとのほうが、むしろ笑顔がきれいになる。
期待の大きさに合わせて、もっとちゃんとしようとするみたいに。
ステージ横の花鉢は、ネモフィラの青とマリーゴールドの黄でやけに鮮やかだった。
春風が吹くたび葉っぱが揺れて、その向こうで凛央の髪が少しだけ乱れる。
そのたびに、彼は何でもない顔で整え直す。
二回目の休憩は、広場の裏手の通路だった。
台車に積まれた花苗の陰で、客席のざわめきだけが遠い。
みどまるの中は相変わらず暑い。息をするたび、布の内側に熱がこもる。首筋を汗が伝って、背中に張りつく。
でも、近づいてくる足音で、別の意味でも胸が詰まる。
凛央だった。
「みどまる」
呼びかける声が、さっきまでより低い。
俺は手にしていたフリップを持ち直した。
凛央は台車の影に半身を隠すみたいに立って、少しだけ息を吐いた。
その息が、思ったより重い。
「期待されるのは嬉しいけど、ちゃんと応えられるか怖い」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
いや、言葉の意味はわかる。
わかるのに、凛央がそれを口にしたことのほうが、うまく飲みこめない。
学校では誰に見られていても隙を見せない人が。
現場では、みどまるの横で完璧に立つ人が。
今、俺にじゃなくて、みどまるにだけ、それを言う。
今、俺の前にいるのは、学校の完璧な凛央じゃない。みどまるの前でだけ弱くなる、凛央の顔だった。
うれしい、と思った。
先にそう思ってしまった自分に、少しだけ驚く。
頼られた、みたいで。
安心の向き先に自分がなれた、みたいで。
でも、そのすぐあとに、別の感情が追いつく。
向いているのは、青柳樹じゃない。
みどまるだ。
丸くて、しゃべれなくて、正体を隠したままの、こっちだ。
胸の奥がざわつく。
それでも、今はそれより先に返したい。
フリップのペン先が、白い面をきゅっと鳴らす。
『ちゃんと できてる』
丸い手じゃ急げない。
それでも一文字ずつ、できるだけはっきり書く。
凛央がそれを見つめる。
まばたきが、少しだけゆっくりになる。
「……そう見える?」
問いかけに、俺は今度は大きく頷いた。
頷くだけじゃ足りない気がして、急いでペンを走らせる。
『みんな うれしそう』
書いたあとで、自分でも少し恥ずかしくなった。
でも、嘘じゃない。
子どもも、市の人も、スタッフも、みんな凛央がいると少しほっとした顔をする。
それは期待だけじゃなくて、ちゃんと届いてるからだ。
凛央はフリップの字を見て、それから小さく笑った。
いつもの、整った笑い方じゃない。
息と一緒にこぼれるみたいな笑い方だ。
「……そっか」
その声が、やわらかい。
俺の胸の奥も、同じ形で少しだけやわらかくなる。
なのに、まだ苦い。
こんな顔を引き出せるのが、俺じゃなくてみどまるであることが、やっぱり少しだけ苦い。
凛央はフリップの端に指先を触れた。
白いボード越しでも、その体温が近い。
「でもさ」
彼は少しだけ目を伏せる。
「こういうの、顔に出したらだめな気もする。学校でも現場でも、なんか、平気そうにしてるほうが安心されるし」
その言い方は、弱音というより、長く身についた癖みたいだった。
そうしないとまわらないから、ずっとそうしてきたみたいな。
俺はまたペンを持ち直した。
学校で言えなかった言葉を、今なら書ける。
『むりして わらわなくていい』
書いて、持ち上げる。
文字は少し曲がった。
でも、さっきよりずっとまっすぐな気持ちで書けた。
凛央が、それを見たまま黙る。
春風が吹いて、台車の上のビオラの花びらが揺れる。
遠くで司会の声がして、次の出番までそんなに時間がないことはわかっているのに、その沈黙だけは急がせたくなかった。
やがて、凛央が本当に少しだけ、肩の力を抜く。
「……それ、ずるいな」
怒ってるわけじゃない声。
困ったようで、助かったみたいな声。
俺は何も言えないから、また頷くしかない。
みどまるはしゃべれない。
しゃべれないくせに、こういうときだけ、フリップ一枚で人の胸の奥まで触れてしまう。



