中の人は秘密なのに、クラスのアイドルが近すぎる

ろくでもなかった。

まず、重い。

想像してた三倍は重い。というか、重さの種類がひどい。肩にのしかかる布の重みじゃなくて、頭の大きい鉢植えを丸ごと抱えて歩くみたいな、上半身のバランスを全部持っていかれる感じだ。みどまるの頭は丸くて大きくて、頭頂部から双葉みたいな葉っぱが二枚ぴんと出ている。見た目はかわいい。かわいいけど、中に入る人間のことは一ミリも考えていない構造だと思う。

視界も最悪だった。

目の位置が合わない。正面にある黒い網の向こうはぼんやりとしか見えなくて、明るい場所に出ると白く飛ぶ。少し下を見ると自分の足元がまるで見えない。足を出すたび、ちゃんと地面がそこにあるのか確信が持てないまま踏み出すから、歩くだけで神経が削られる。

しかも、暑い。

四月の朝でこれなんだから、夏は殺人事件だろって思う。頭からすっぽり包まれた内部は、一瞬で自分の呼気と熱で蒸し上がった。背中に汗がにじむのがわかる。首筋を伝って、制服じゃないのにシャツの中みたいに張りつく。口元にはずっとあたたかい息が返ってきて、呼吸のたびに、うまく空気が入ってきていない感じがする。

「大丈夫ですか、青柳くん?」

外から声。市役所の若い職員さんだ。父さんの代わりに現場を仕切ることになったらしい。

大丈夫です、と言いたいのに、みどまるはしゃべれない。仕方なく、親指を立てようとして、ぶ厚い手袋のせいで指がどれかわからなくなる。

「あっ、無理しないでくださいね。暑かったらすぐ言って……あ、言えないか。えっと、これ、フリップです」

差し出された小さなホワイトボードを受け取る。紐つきのペンまでついている。

業務連絡ノートには、開始前の動きや注意事項がびっしり書いてあった。

・歩幅は小さく
・子どもが急に抱きついてくるので転倒注意
・暑さで反応が遅れる。無理なら即退避
・写真は正面、少し斜めに顔を傾けるとかわいい
・花壇に近づきすぎない(土で足を取られる)
・白石凛央さん到着後は導線変更あり

最後の行だけ、太字みたいに何度もなぞってある。

……ほんとにできるのか?

「それでは、みどまるくん、お願いします!」

景気のいい声に背中を押されて、公園の広場に出た瞬間、春の匂いがどっと押し寄せた。

花壇の土の湿った匂い。朝に撒いたらしい水の冷たい匂い。風に乗ってくる、パンジーとチューリップの青っぽい甘さ。空気はきれいなのに、みどまるの中にいる俺は全然吸えない。外はこんなに軽そうなのに、中だけ別の季節みたいに重たい。

子どもたちの「みどまるー!」って声がわっと上がって、俺は反射で手を振る。

う、わ、視界、狭い。

どこに誰がいるのか輪郭しか見えない。近づいてくる小さな影に手を伸ばしたら、思ったより左で、空を切った。慌てて向き直る。頭がぐらつく。自分の位置がよくわからない。重い。暑い。苦しい。

「みどまる、こっち向いてー!」

カメラのシャッター音。前に出ようとして、花壇の縁に足が引っかかった。

やばい、と思ったときには遅くて、身体が前に傾く。あの、ゆるキャラ特有の、どうしようもなく鈍い落ち方で。

転ぶ、と思った瞬間。

「危ない」

腕をつかまれた。

その一言だけが、熱でぼやけた頭にすっと入ってきた。

しっかりした力で、でも強すぎずに引かれる。倒れかけた身体が持ち直す。肩にかかっていた重みの角度が変わって、息が少しだけ通った。

視界の端に、白いシャツの袖が見えた。

「みどまる、こっち」

近い。

顔はちゃんと見えないのに、声だけでわかった。たぶん、映像で聞いたときより、ずっと低くて柔らかい。

「足元、花壇あるから。半歩だけ右」

言われた通りに動くと、本当にそこにあった縁から離れられた。

周囲から「さすが凛央くん!」みたいな歓声が上がって、そこでようやく、あ、本当に本人だ、と理解する。

まぶしい、と思った。

みどまるの中にいてもわかるくらい、場の空気が明るくなる。誰か一人が立っただけで、周りの人の視線も声の高さも、全部少し変わる。そういう人って本当にいるんだ、って、変なところで感心した。

それと同時に、近い、と思う。

物理的に。ありえないくらい。アイドルってテレビの向こう側にいるものじゃないのか。なんで今、俺の腕を支えてるんだ。

そして、助かった、が最後に遅れてくる。

その三つが一度に胸に落ちてきて、息苦しいのが暑さだけじゃなくなる。

「大丈夫?」

聞かれて、俺は慌ててフリップを探した。ぶ厚い手で、なんとか書く。

『だいじょうぶ』

文字が震えた。自分でもびっくりするくらい。

白石凛央――たぶん本物は、俺の書いたそれを見て、少しだけ目を細めた気がした。中からじゃよく見えないのに、なんでそんなことがわかるんだろう。

「そっか。ならよかった」

たったそれだけで、周りに向ける笑顔とは違う温度が混じった気がしてしまう。

気のせいだ。絶対。

凛央は今日のイベント用なのか、春らしい淡い色のジャケットを羽織っていた。スタッフや市の人に囲まれていても、変に浮かず、でも埋もれない。写真で見るより背が高い。姿勢がいい。髪の先だけ風で揺れる。花壇のチューリップの赤や黄色より、目が行ってしまう。

司会の人がマイクで何か喋って、イベントが始まった。

「地元出身の白石凛央さんと、みどまるくんで、花いっぱい運動を盛り上げていきましょう!」

拍手。

凛央が客席に向かって手を振る。その動きが、気取ってないのにきれいだった。肘の角度とか、指先とか、笑うタイミングとか、全部ちょうどいい。近所のスーパーで買い物しててもおかしくないくらい自然なのに、ちゃんと見せるべきところは見せている。

現場慣れしてる、という言葉が頭に浮かぶ。

アイドルってすごいんだな、って雑な感想しか出てこないくらい、俺はいっぱいいっぱいだった。

隣に立っているだけで精一杯。正面を向く。手を振る。頷く。子どもが寄ってきたらしゃがむ――しゃがむの、無理だ、重い。うまく膝が曲がらない。あ、待って、子どもが足にしがみついてる。転ぶ、また。

すると、さっと凛央がしゃがんで、その子に視線を合わせた。

「みどまる、びっくりしちゃうから、そーっとね」

叱るんじゃなく、笑いながら言う。子どもは「はーい」と素直に手を離した。

その隙に、俺はかろうじて体勢を立て直す。

助かった。二回目だ。

「写真撮るとき、みどまるの左側、空けてくださいね」

スタッフでもないのに、でも場を乱さない自然さで、凛央は人の流れを整えていく。前に出すぎる人、花壇に乗りそうな子、日差しの位置。誰かが困る一歩手前で気づいて、すっと動く。

しかも、自分が前に出るんじゃなくて、みどまるがちゃんと見えるようにしてくれる。

なんでそんなことまで。

イベントの途中、花の苗を配るコーナーがあった。凛央が苗のポットを受け取って、客席の子たちに見せる。

「これ、マリーゴールド。丈夫で育てやすいんだって」

明るい声に、「かわいいー」という声が返る。

俺は横で頷く係だ。

頷くだけなのに、首を動かすたび中がぐわんと揺れる。熱がこもって、視界の端が少し暗くなる。呼吸が浅い。喉が乾く。汗が背中にたまっていく。口元の空気が苦い。

やばい、と思った。

まだ前半なのに。

業務連絡ノートの一行が頭をよぎる。

・暑さで反応が遅れる。無理なら即退避

無理、の基準ってどこだ。

これくらいで言ったら父さんの顔に泥塗る気がする。市の人も困る。そもそも、白石凛央がいるステージで、みどまるだけふらつくとか最悪すぎる。

でも、息がうまく吸えない。

フリップを握る手に力を入れた瞬間、隣から小さな声が落ちてきた。

「休む?」

びっくりして顔を向ける。

凛央は客席に向かって笑ったまま、口元だけほとんど動かさずに言っていた。

「返事、いらない。次、苗渡したら、後ろ行こ」

なんでわかったんだ。

そう思ったけど、その次の瞬間にはもう司会に合わせて前に出ていて、俺は慌ててついていくしかない。

段取りが終わると同時に、凛央は自然な流れで俺の前に立った。客席から見えない角度をつくってくれて、そのまま背中側へ誘導する。

「みどまる、ちょっとお水休憩でーす」

明るく言うと、客席からも「がんばれー!」って笑いが起きる。

まるで最初からそういう進行だったみたいに。

すごい。すごすぎる。