中の人は秘密なのに、クラスのアイドルが近すぎる

「青柳、それ、まだ乾いてない」

顔を上げると、白石凛央が花鉢のトレーを両腕で抱えたまま、俺の手元を覗きこんでいた。

「え」

「触ると葉っぱつぶれる」

言われて初めて気づく。ポスターの右下に描き足した緑が、まだ少しだけ艶を残していた。俺は慌てて指を止める。

放課後の多目的室は、絵の具の匂いと湿った土の匂いでいっぱいだった。新入生歓迎会用の花鉢が床にずらっと並び、水を吸ったパンジーの葉が窓から入る春風にふるえている。壁際では色画用紙の輪飾りが揺れて、机の上では「ようこそ新入生」の文字が乾きかけていた。

緑化委員の仕事は思っていたよりずっと多かった。花鉢の配置、掲示物、正門脇の装飾。しかも今日は、なぜか手伝い希望が多い。理由は考えなくてもわかる。

「白石くん、こっちの鉢、どこ置けばいい?」

「それ、正門の右。背の低いの前にすると見えやすいと思う」

「ありがとう!」

「ううん」

返事まできれいだ。笑顔も、声の高さも、立ち位置も、全部ちょうどいい。人が三人同時に話しかけてもちゃんと捌けるし、誰かを雑に扱った感じが一ミリもしない。学校の白石凛央は、今日も完璧だった。

なのに、土で汚れた段ボールの底を持つ手だけは、ちゃんと生きた手だった。爪の脇に少し黒い土が入っていて、袖口には水のしみがある。そういうところを見ると、変に安心する。

「青柳、そのポスター、こっちに立てかけていい?」

「う、うん」

トレーを下ろした凛央が、俺の描きかけの掲示を持ち上げる。俺は反射で「あ」と声を出した。乾いてない角を持たれたら滲む。

「そこ、葉っぱあるから」

けど、凛央はちゃんとそこを避けて、何でもないみたいに端だけをつまんだ。

「見えてる」

少し笑って言われる。その一言だけで、変に胸が熱くなるから困る。

他の手伝いが先に帰って、ざわめきが引いた頃、残ったのは俺と凛央、それから窓際の花鉢だけになった。

外はまだ明るい。春の夕方の風が、乾ききっていない絵の具の匂いをゆっくり散らしていく。

俺は最後の一枚の角を埋めるみたいに、緑のペンを滑らせていた。
丸い葉っぱを二枚。短い茎をちょこんと。

描き終えてから、心臓が変な跳ね方をした。

これ、みどまるの業務連絡ノートの表紙に散ってるのと、ほとんど同じだ。

無意識だった。ほんとに。
でも、気づくのが遅い。

「……それ」

すぐ横から声が落ちてきて、俺は思いきり肩を揺らした。

凛央が、乾いた掲示を壁に貼るテープを切りながら、こっちを見ている。

「葉っぱ?」

「……うん。余白、さみしかったから」

言い訳みたいになった。自分でもわかる。

凛央はテープを指に巻いたまま、少しだけ首を傾げる。

「かわいい」

「……そうか?」

「うん。青柳の字、丸いから合う」

不意打ちすぎて、緑のペン先が紙の上で止まった。
前に「やさしそう」って言われたときも困ったけど、今回はもっと困る。

「こういうの、よく描く?」

「いや、別に」

「そっか」

それだけ言って、凛央はポスターに近づいた。肩が触れそうなくらい近い距離で、描いたばかりの葉っぱを見る。

「……なんか、見たことある気もするんだけど」

喉の奥が、きゅっと縮む。

「市のポスターとかじゃね」

とっさに出した声が、自分でも不自然なくらい早かった。

凛央は一瞬だけ目を瞬かせたあと、「かも」と小さく笑った。