「青柳、そこだと靴ぬれる」
言われた直後に、遅かった。
ホースの先がぶれて、跳ね返った水がまともに俺のローファーへかかった。冷たさが靴下までしみて、思わず肩が跳ねる。
「うわ」
「ほら」
白石凛央は笑いながら、俺の手の上からホースの向きを直した。指先が一瞬だけ重なる。水よりそっちのほうがよっぽどびっくりして、俺は変なふうに息を詰めた。
「花じゃなくて、根元」
「根元」
「うん。葉っぱにばっかりかけると重くなるし、土が乾いてたら意味ないから」
しゃがみこんだ凛央が、指先で花壇の土を軽くほぐす。湿った表面の下から、まだ乾いた土が見えた。春の匂いって花の匂いだと思ってたけど、こうして近くで嗅ぐと、むしろ土と水の匂いのほうが強い。
「見た目が元気でも、中から先にからからになるんだよね」
「……詳しいな」
「春フェスの打ち合わせの時、市の人に教わった」
「怒られながら?」
「ちょっとだけ」
「怒られるんだ」
「めちゃくちゃ優しく、ね」
そう言って笑う顔は、教室でみんなに向けるのと同じくらいきれいなのに、今は近い。放課後の中庭には春の風が抜けていて、凛央の前髪を少しだけ散らした。水を含んだ葉っぱがふるえ、パンジーの花びらの端で光が揺れる。
廊下のほうから、女子の声が飛んだ。
「白石くーん、あとで委員会の写真送ってー!」
「うん、終わったらね」
振り向いた凛央は、一瞬でいつもの顔になる。明るくて、やわらかくて、隙がない。クラスの誰が見ても安心して好きになれそうな、あの完璧な笑顔だ。
でも、こっちを向き直したとき、そのまぶしさが少しだけほどけた。
「ごめん。続きやろう」
「いや、別に」
俺はホースを持ち直した。今度はちゃんと根元を狙って、水を細く落とす。土がゆっくり色を変えていくのを見るのは、ちょっとだけ気持ちいい。
凛央が隣でジョウロに水を汲む。
金属の縁に当たる水の音。葉の先から落ちるしずく。春風でめくれる委員会エプロンの裾。
そのあいだ、俺たちは少し黙っていたけど、気まずくはなかった。水の音が、沈黙をちょうどよく埋めてくれる。
「……白石って」
「ん?」
「ずっと誰かと話してるイメージあった」
「俺をなんだと思ってるの」
笑われた。
でも嫌な感じじゃない。むしろ、少しだけ素に近い声音だった。
「いや、人気者」
「雑だなあ」
「合ってるだろ」
「まあ、否定はしない」
凛央は肩をすくめ、それから花壇の端にしゃがんだまま言った。
「でも、静かなのも嫌いじゃないよ」
「そうなんだ」
「水やりのときって、水の音あるから。黙ってても変じゃないし」
その言い方が、なんだか妙に胸に残った。
俺も隣にしゃがみこむ。土の近くは少しひんやりしていて、さっき濡れた靴の冷たさとは違う。根元へ落ちた水がじわっと広がっていく。黙っていても変じゃない。
たしかにそうだった。
花壇の向こうのネモフィラが風に揺れた。
凛央はその青い一角を見ながら、「こっちは乾きやすいから多め」と小さく言う。
俺は「了解」と返して、ジョウロを持ち上げた。
ついでに隣の鉢も、向こうのプランターも、と欲張って二つまとめて持とうとしたら、凛央が片方をひょいと取った。
「青柳、がんばりすぎ禁止」
「なにそれ」
「標語」
「急に?」
言いながら、ちょっと笑ってしまった。
凛央もつられて笑う。教室で見る完成された笑顔じゃなくて、ほんの少しだけ力の抜けた笑い方だった。
「こぼしたら土が流れるし、危ないから」
「……はい」
「よろしい」
そう言って渡されたジョウロの持ち手が、まだ少しあたたかい。
俺は変に意識しないようにしながら受け取った。
全部やり終えてホースを巻いたあと、花壇脇のベンチで緑化委員の記録ノートを開く。
今日の天気、散水済みの場所、気になった苗の番号。凛央は膝の上にノートを置くと、迷いなくさらさら書いた。
『晴れ 風あり』
『東花壇・正門前プランター 散水済』
やっぱり字がきれいだ。線がまっすぐで、読みやすくて、でも止めだけ少し強い。几帳面な顔して、最後の最後でわずかに力が乗る。
「青柳もサイン」
「ん」
渡されたペンを受け取る。指が少し触れて、また変なふうに意識してしまう。俺は自分の名前を書いた。自覚はあったけど、凛央の隣に並ぶと俺の字はかなり丸い。
「青柳の字、思ったより丸い」
「悪かったな」
「悪くない。なんか」
「なんだよ」
「やさしそう」
その一言が不意打ちで、俺はペン先を少しだけ滑らせた。
「……字だけな」
「そういうことにしとく」
白石は笑ってノートを閉じた。
言われた直後に、遅かった。
ホースの先がぶれて、跳ね返った水がまともに俺のローファーへかかった。冷たさが靴下までしみて、思わず肩が跳ねる。
「うわ」
「ほら」
白石凛央は笑いながら、俺の手の上からホースの向きを直した。指先が一瞬だけ重なる。水よりそっちのほうがよっぽどびっくりして、俺は変なふうに息を詰めた。
「花じゃなくて、根元」
「根元」
「うん。葉っぱにばっかりかけると重くなるし、土が乾いてたら意味ないから」
しゃがみこんだ凛央が、指先で花壇の土を軽くほぐす。湿った表面の下から、まだ乾いた土が見えた。春の匂いって花の匂いだと思ってたけど、こうして近くで嗅ぐと、むしろ土と水の匂いのほうが強い。
「見た目が元気でも、中から先にからからになるんだよね」
「……詳しいな」
「春フェスの打ち合わせの時、市の人に教わった」
「怒られながら?」
「ちょっとだけ」
「怒られるんだ」
「めちゃくちゃ優しく、ね」
そう言って笑う顔は、教室でみんなに向けるのと同じくらいきれいなのに、今は近い。放課後の中庭には春の風が抜けていて、凛央の前髪を少しだけ散らした。水を含んだ葉っぱがふるえ、パンジーの花びらの端で光が揺れる。
廊下のほうから、女子の声が飛んだ。
「白石くーん、あとで委員会の写真送ってー!」
「うん、終わったらね」
振り向いた凛央は、一瞬でいつもの顔になる。明るくて、やわらかくて、隙がない。クラスの誰が見ても安心して好きになれそうな、あの完璧な笑顔だ。
でも、こっちを向き直したとき、そのまぶしさが少しだけほどけた。
「ごめん。続きやろう」
「いや、別に」
俺はホースを持ち直した。今度はちゃんと根元を狙って、水を細く落とす。土がゆっくり色を変えていくのを見るのは、ちょっとだけ気持ちいい。
凛央が隣でジョウロに水を汲む。
金属の縁に当たる水の音。葉の先から落ちるしずく。春風でめくれる委員会エプロンの裾。
そのあいだ、俺たちは少し黙っていたけど、気まずくはなかった。水の音が、沈黙をちょうどよく埋めてくれる。
「……白石って」
「ん?」
「ずっと誰かと話してるイメージあった」
「俺をなんだと思ってるの」
笑われた。
でも嫌な感じじゃない。むしろ、少しだけ素に近い声音だった。
「いや、人気者」
「雑だなあ」
「合ってるだろ」
「まあ、否定はしない」
凛央は肩をすくめ、それから花壇の端にしゃがんだまま言った。
「でも、静かなのも嫌いじゃないよ」
「そうなんだ」
「水やりのときって、水の音あるから。黙ってても変じゃないし」
その言い方が、なんだか妙に胸に残った。
俺も隣にしゃがみこむ。土の近くは少しひんやりしていて、さっき濡れた靴の冷たさとは違う。根元へ落ちた水がじわっと広がっていく。黙っていても変じゃない。
たしかにそうだった。
花壇の向こうのネモフィラが風に揺れた。
凛央はその青い一角を見ながら、「こっちは乾きやすいから多め」と小さく言う。
俺は「了解」と返して、ジョウロを持ち上げた。
ついでに隣の鉢も、向こうのプランターも、と欲張って二つまとめて持とうとしたら、凛央が片方をひょいと取った。
「青柳、がんばりすぎ禁止」
「なにそれ」
「標語」
「急に?」
言いながら、ちょっと笑ってしまった。
凛央もつられて笑う。教室で見る完成された笑顔じゃなくて、ほんの少しだけ力の抜けた笑い方だった。
「こぼしたら土が流れるし、危ないから」
「……はい」
「よろしい」
そう言って渡されたジョウロの持ち手が、まだ少しあたたかい。
俺は変に意識しないようにしながら受け取った。
全部やり終えてホースを巻いたあと、花壇脇のベンチで緑化委員の記録ノートを開く。
今日の天気、散水済みの場所、気になった苗の番号。凛央は膝の上にノートを置くと、迷いなくさらさら書いた。
『晴れ 風あり』
『東花壇・正門前プランター 散水済』
やっぱり字がきれいだ。線がまっすぐで、読みやすくて、でも止めだけ少し強い。几帳面な顔して、最後の最後でわずかに力が乗る。
「青柳もサイン」
「ん」
渡されたペンを受け取る。指が少し触れて、また変なふうに意識してしまう。俺は自分の名前を書いた。自覚はあったけど、凛央の隣に並ぶと俺の字はかなり丸い。
「青柳の字、思ったより丸い」
「悪かったな」
「悪くない。なんか」
「なんだよ」
「やさしそう」
その一言が不意打ちで、俺はペン先を少しだけ滑らせた。
「……字だけな」
「そういうことにしとく」
白石は笑ってノートを閉じた。



