放課後、担任に呼び止められた。
「緑化委員の二人、今日少しだけ花壇見ていって。水やりの場所と道具の確認だけ」
断る理由はない。
ないのが最悪だ。
正門脇の花壇は、午後の光をたっぷり吸って、土の色があたたかく見えた。朝に撒かれた水がまだ少し残っていて、黒い土の匂いが立つ。パンジーの花びらはやわらかく揺れて、チューリップの葉はつやつやしている。端のほうでは、小さな雑草が遠慮なく顔を出していた。
「ホースはここ、じょうろは倉庫。名札が倒れてたら直すこと。最初はそんな感じでいいから」
担任はそこまで言うと、「じゃ、よろしく」と職員室へ戻っていった。
残されたのは、俺と凛央だけだ。
近い。
学校でまで、こんなふうに二人きりにしないでほしい。
気まずさで固まっている俺の横で、凛央は制服のブレザーを脱いで、花壇の縁から少し離れたベンチにきちんと畳んで置いた。シャツの袖を一つ折る。それだけの動きが妙に無駄なくて、見ていられない。
「とりあえず、水いるとこからやるか」
そう言って、もうしゃがんでいる。
土で汚れるのを気にする様子はなかった。花を踏まないように足元を見て、葉に触れるときもちゃんと指先がやさしい。昨日のイベントみたいに、見せるための綺麗さじゃない。もっと静かで、まっすぐな手つきだった。
「このへん、上は湿ってるけど、中は乾いてそう」
独り言みたいに言って、凛央が指でそっと土を崩す。
俺は思わず答えていた。
「端のほう、風当たり強いから……たぶん」
言ってから、しまったと思う。いきなり話したら変だ。
けど、凛央は不思議そうな顔もしなかった。
「そっか。じゃあ先にこっちだな」
素直にそう言って、ホースの先を少ししぼる。勢いを弱くして、根元にだけ水を落とす。葉にばしゃばしゃかけないようにしているのがわかった。
俺が倒れた名札を拾おうとかがんだ瞬間、同じものに凛央の手も伸びてきた。
指先が触れる直前で、どっちも止まる。
「あ、ごめん」
「いや、俺こそ」
たったそれだけなのに、変に息が詰まった。春なのに、昨日のみどまるの中みたいに胸の奥だけ熱い。
二階の廊下から、「白石くーん!」と明るい声が飛んできた。
凛央は上を向いて、きれいに手を振る。
「また明日」
それだけ。
笑顔はいつもの完璧なやつなのに、余計な約束も、期待させる言い方も混ぜない。女子たちはきゃあ、と盛り上がったけど、凛央はもう次の瞬間にはしゃがみ込んで、倒れた名札を差し直していた。
学校の白石凛央は、やっぱり完璧だ。
誰にでも感じがいい。
でも、ちゃんと距離がある。
凛央は曲がった葉を持ち上げて、土がかぶっているのを払った。
「こういうの、適当にやるの苦手」
その言い方は、格好つけてなくて、でも冗談でもなくて、ただそのままだった。
胸の奥が、妙に静かに揺れる。
イベント会場で人の流れをさばいていたときの凛央もすごかった。でも今、春の土の前でしゃがんでいる横顔は、それと少し違う。眩しいのに、ちゃんと地面に足がついている。
俺がじょうろを持ち上げると、少し水がこぼれて手の甲にかかった。ひやっとする。
「大丈夫?」
「う、うん」
顔を上げると、凛央が近かった。
昨日、着ぐるみ越しに感じた距離とは違う。制服の白いシャツ。首元の影。春風で少しだけ動く前髪。近いのに、昨日よりよく見えるぶん、余計に心臓に悪い。
そのとき、凛央のポケットの中でスマホが震えた。
彼は土のついていないほうの手で取り出して、画面を見て、ほんの少しだけ眉を動かした。
「……市からだ」
どき、とする。
俺が固まったのに気づいていないのか、凛央は画面を伏せてから、何でもないふうに言った。
「また春の緑化PR、みどまると組むらしい」
じょうろの口がずれて、水が花壇の縁にこぼれた。
やばい。
「青柳?」
名前を呼ばれて、慌てて持ち直す。
「ご、ごめん」
「いや、平気」
凛央はそれ以上追及しなかった。ただ、少しだけ視線を花壇へ落として、静かに続ける。
「昨日、イベントで一緒だったとき、ちゃんと見てるつもりでも足元とか危なかったから。次はもう少し上手くやりたい」
その言い方は、誰かに聞かせるためじゃなかった。
自分の中で決めていることを、そのまま口にしただけみたいな声だった。
俺は返事が遅れる。
心臓がうるさい。
学校では委員で二人一組。
現場では、みどまると凛央で二人一組。
逃げようとしていた線が、するするとつながっていく。
凛央は立ち上がって、軽く手を払った。乾いた土がさらりと落ちる。
それから、まっすぐこっちを見た。
教室でみんなに向ける笑顔じゃない。
イベントで客席を明るくする顔でもない。
もっと静かで、でもごまかしのない目だった。
「これから、緑化委員一緒だね」
春風が吹く。
濡れた土の匂いが、ふっと持ち上がる。
花壇の端で、小さな葉が揺れた。
「よろしく、青柳」
そのひと言で、俺の心拍は、最初からこうなるって決まっていたみたいに跳ね上がった。
「緑化委員の二人、今日少しだけ花壇見ていって。水やりの場所と道具の確認だけ」
断る理由はない。
ないのが最悪だ。
正門脇の花壇は、午後の光をたっぷり吸って、土の色があたたかく見えた。朝に撒かれた水がまだ少し残っていて、黒い土の匂いが立つ。パンジーの花びらはやわらかく揺れて、チューリップの葉はつやつやしている。端のほうでは、小さな雑草が遠慮なく顔を出していた。
「ホースはここ、じょうろは倉庫。名札が倒れてたら直すこと。最初はそんな感じでいいから」
担任はそこまで言うと、「じゃ、よろしく」と職員室へ戻っていった。
残されたのは、俺と凛央だけだ。
近い。
学校でまで、こんなふうに二人きりにしないでほしい。
気まずさで固まっている俺の横で、凛央は制服のブレザーを脱いで、花壇の縁から少し離れたベンチにきちんと畳んで置いた。シャツの袖を一つ折る。それだけの動きが妙に無駄なくて、見ていられない。
「とりあえず、水いるとこからやるか」
そう言って、もうしゃがんでいる。
土で汚れるのを気にする様子はなかった。花を踏まないように足元を見て、葉に触れるときもちゃんと指先がやさしい。昨日のイベントみたいに、見せるための綺麗さじゃない。もっと静かで、まっすぐな手つきだった。
「このへん、上は湿ってるけど、中は乾いてそう」
独り言みたいに言って、凛央が指でそっと土を崩す。
俺は思わず答えていた。
「端のほう、風当たり強いから……たぶん」
言ってから、しまったと思う。いきなり話したら変だ。
けど、凛央は不思議そうな顔もしなかった。
「そっか。じゃあ先にこっちだな」
素直にそう言って、ホースの先を少ししぼる。勢いを弱くして、根元にだけ水を落とす。葉にばしゃばしゃかけないようにしているのがわかった。
俺が倒れた名札を拾おうとかがんだ瞬間、同じものに凛央の手も伸びてきた。
指先が触れる直前で、どっちも止まる。
「あ、ごめん」
「いや、俺こそ」
たったそれだけなのに、変に息が詰まった。春なのに、昨日のみどまるの中みたいに胸の奥だけ熱い。
二階の廊下から、「白石くーん!」と明るい声が飛んできた。
凛央は上を向いて、きれいに手を振る。
「また明日」
それだけ。
笑顔はいつもの完璧なやつなのに、余計な約束も、期待させる言い方も混ぜない。女子たちはきゃあ、と盛り上がったけど、凛央はもう次の瞬間にはしゃがみ込んで、倒れた名札を差し直していた。
学校の白石凛央は、やっぱり完璧だ。
誰にでも感じがいい。
でも、ちゃんと距離がある。
凛央は曲がった葉を持ち上げて、土がかぶっているのを払った。
「こういうの、適当にやるの苦手」
その言い方は、格好つけてなくて、でも冗談でもなくて、ただそのままだった。
胸の奥が、妙に静かに揺れる。
イベント会場で人の流れをさばいていたときの凛央もすごかった。でも今、春の土の前でしゃがんでいる横顔は、それと少し違う。眩しいのに、ちゃんと地面に足がついている。
俺がじょうろを持ち上げると、少し水がこぼれて手の甲にかかった。ひやっとする。
「大丈夫?」
「う、うん」
顔を上げると、凛央が近かった。
昨日、着ぐるみ越しに感じた距離とは違う。制服の白いシャツ。首元の影。春風で少しだけ動く前髪。近いのに、昨日よりよく見えるぶん、余計に心臓に悪い。
そのとき、凛央のポケットの中でスマホが震えた。
彼は土のついていないほうの手で取り出して、画面を見て、ほんの少しだけ眉を動かした。
「……市からだ」
どき、とする。
俺が固まったのに気づいていないのか、凛央は画面を伏せてから、何でもないふうに言った。
「また春の緑化PR、みどまると組むらしい」
じょうろの口がずれて、水が花壇の縁にこぼれた。
やばい。
「青柳?」
名前を呼ばれて、慌てて持ち直す。
「ご、ごめん」
「いや、平気」
凛央はそれ以上追及しなかった。ただ、少しだけ視線を花壇へ落として、静かに続ける。
「昨日、イベントで一緒だったとき、ちゃんと見てるつもりでも足元とか危なかったから。次はもう少し上手くやりたい」
その言い方は、誰かに聞かせるためじゃなかった。
自分の中で決めていることを、そのまま口にしただけみたいな声だった。
俺は返事が遅れる。
心臓がうるさい。
学校では委員で二人一組。
現場では、みどまると凛央で二人一組。
逃げようとしていた線が、するするとつながっていく。
凛央は立ち上がって、軽く手を払った。乾いた土がさらりと落ちる。
それから、まっすぐこっちを見た。
教室でみんなに向ける笑顔じゃない。
イベントで客席を明るくする顔でもない。
もっと静かで、でもごまかしのない目だった。
「これから、緑化委員一緒だね」
春風が吹く。
濡れた土の匂いが、ふっと持ち上がる。
花壇の端で、小さな葉が揺れた。
「よろしく、青柳」
そのひと言で、俺の心拍は、最初からこうなるって決まっていたみたいに跳ね上がった。



