
犬の声が重なり、イギリス兵たちの怒号がジャングルに響く。
中村軍曹は相沢の腕を引いたまま、畑を突っ切った。
足元の芋の蔓が絡みつく。背嚢の米が跳ねる。息が上がる。
走った―ただ走った。
方角も分からないまま、木々の密な方へ、追手の声から遠ざかる方へ。
やがて地面が傾き始めた。
登りだった。
草が低くなり、赤土が露出し、足の下で石が転がる。
丘だ。
相沢が気づいた時、すでに軍曹は駆け上がっていた。
頂が見えた。
そこに、バンカーがあった。土嚢を積み上げた簡素な陣地。錆びた砲台。
そして——人影。
数人の日本兵だった。
擦り切れた軍服。落ちくぼんだ目。だが銃だけは、まだ構えていた。その銃口が、相沢たちに向いた。
「撃つな、味方だ!」
中村軍曹が叫んだ。
兵士たちの銃口が下がる。
誰かが息を呑む音がした。
バンカーの中は異様だった。
空薬莢が膝の深さまで積もっている。食料の痕跡はない。水筒はすべて空だ。
若い将校が立っていた―少尉だった。
年は相沢と変わらないか、もっと若いかもしれない。
顔に表情がなかったが目だけが、
爛々と燃えていた。
「まだ私たちの戦いは終わっていないのであります!」
将校は言った。
その時、エンジン音が聞こえた。
遠く、低く、しかし確実に近づいてくる。
東の空に、機影が見えた。
連合国軍のスピットファイアだった。
二機 - 翼を傾けながら、丘の稜線に向かって降下してくる。
バンカーの機関銃が火を噴いた。
轟音。硝煙。土嚢が揺れる。
だが英軍機は怯まなかった。
丘の斜面に向けて、パラパラと機銃掃射が走る。
赤土が跳ね、石が砕け、乾いた音が連続する。
まるで、弾丸を惜しむかのように掃射は止んだ。
そして——二機はそのまま上空を通り過ぎ、西の空へ消えていった。
静寂が戻る。
中村軍曹は土嚢から身を起こした。
そして仁王立ちになり、消えていく機影に向かって、大声を張り上げた。
「撃ってみろ、クソ野郎!!なぜ俺を撃たぬ!」
声が丘を転がった。
ジャングルの鳥が一斉に飛び立った。
相沢は軍曹の腕を掴んだ。
「軍曹!中村軍曹!」
軍曹の体が震えていた。
怒りではない、憎しみでもなかった。
ただ、何か巨大なものが体の中で崩れ落ちているような、そういう震えだった。
「もう、行きましょう!」
相沢は低く言った。
「ここにいても、もう——」
軍曹はゆっくりと振り返った。
その目が、相沢を見た。
「我々に何処へ行けと言うのか……俺は…」
何かを言いかけて、口を閉じた。
二人はバンカーを離れ、丘を降り始めた。
十歩ほど進んだ時だった。
背後で、カチッと金属音がした。
相沢は振り返った。
あの若い少尉だった。
手榴弾を取り出し、ゆっくりと胸に当てていた。
「おいっ——!」
相沢が叫んだ。
軍曹が相沢の腕を掴んだ。
強く。
相沢は動けなかった。
将校の目が、一瞬だけ相沢の方を向いた。
恐怖ではなかった。
不思議な達成感を宿した目だった。
乾いた音がした。
爆発で千切れた上半身だけが、丘の斜面を滑り落ちて来た。
相沢は目を閉じた。
否、閉じきれなかった。
丘の上で、鳥がまた飛び立った。
中村軍曹は相沢の腕を引いた。
今度は優しく。
父親が子供を連れるように。
「敬礼!」
声は低く、二人は若い将校の亡骸に静かに脱帽し頭を下げた。
二人は丘を降りた。
振り返らなかった。
振り返れなかった。
麓にはバナナの木が数本、濃い緑色の房を垂らし陽光を浴びていた……。



