
犬の吠え声は、すぐにいくつも重なった。
闇の中で戸が開く音が続く。
誰かの怒鳴り声。足音。乾いた咳。
中村軍曹は相沢の腕を強く引いた。
「行くぞ」
相沢はうなずいた。
だが彼女から目を離せなかった。
彼女はゆっくりと瞼を閉じ、小さく俯き静かに立っていた。
責めるでもなく、許すでもなく。
その沈黙が、何よりも恐ろしかった。
二人は納屋の裏手から畑へ滑り出た。
露に濡れた草が足に絡みつく。
背嚢の中の米がやけに重い。
夜明けは近かった。
東の空が白み始め、山の稜線が浮かび上がる。
村のはずれを流れる小川の方へと、自然に足が向いた。
喉が焼けるように渇いていた。
相沢は膝をつき、水面に手を差し入れた。
水はぬるかった。
そして、妙な匂いがした。
鉄のような、生臭い匂い。
水を掬い上げようとした手が止まる。
薄明の中で、水の色がはっきりと見えた。
濁っている。いや――赤い。
「……軍曹」
相沢の声は掠れていた。
上流から、何かが流れてくる。
最初は流木かと思った。
だが違う。黒く膨れた腹。折れ曲がった脚。
数頭の馬だった。
眉間を一発で撃ち抜かれた軍馬の死体が、ゆっくりと水に押されて回転している。
腹の裂け目から、まだ乾ききらぬ血が川に溶け出していた。
そのたび、水面がゆらりと赤く染まる。
悪臭が風に乗って村へ流れていく。
「……終わったはずだろうが」
中村軍曹が低く呟いた。
戦争は終わった。
そう知らされたのは、もう何日前だったか。
それでも命は、こうして撃ち抜かれ続けている。
相沢は立ち上がれなかった。
流れていく馬の体に、見覚えのある焼印が見えた気がした。
かつて自分たちが荷を運ばせ、鞭を入れ、共に山を越えた馬。
名前さえ付けなかった命。その血が、いま村の水を染めている。
背嚢の中で米が擦れ合う音がした……。



