
犬の吠え声は、まるで甲高い銃声のように鋭く夜を裂いた。
灯が一斉に揺れる。
子供の影が走り去り、家々の木戸がばたばたと閉まる音がした。
相沢は思わず立ち止まった。
目の前にあるのは確かに「村」だった。
だが、そこには歓迎の気配など微塵もない。むしろ、見えない壁のようなものが張り巡らされているように感じられた。
中村軍曹が低く言う。
「銃は下げろ。撃つな!」
相沢は小銃を握り直したまま、ゆっくりと歩を進めた。
高床の家の下には、干された野菜や籠がぶら下がり、赤土の地面には家畜の糞が乾いて白くなっている。
どこからともなく、あの強烈な甘く腐ったような匂いが漂ってくる。
―ドリアンだ。
腹がまた鳴った。
視界の端が暗く揺れる。空腹は、もはや痛みではなく、思考そのものを削り取っていく。
その時だった。
ぎしり、と木の軋む音がして、一軒の家の階段の上に人影が現れた。
細い腕。長い髪。月明かりに照らされた顔はまだ幼い。
若い女性だったー彼女は相沢たちをじっと見つめている。
恐れているのか、怒っているのか、それともただ観察しているのか分からない、静かな目だった。
やがて彼女は高床の踊り場から木の階段をゆっくりと降りてきた。
犬はなおも吠え続けている。どこかの家の奥で、老人の咳き込む声がした。
若い女は相沢の前で止まると、手に持ってきた竹の水筒を取り出した。
無言で差し出す。言葉はない。
相沢は戸惑った。
受け取っていいのか。
罠ではないのか―そんな考えが頭をよぎる。
だが喉は砂のように乾ききっていた。
震える手で水筒を掴み、一気に飲む。
ぬるい水が体の奥へ落ちていく―涙が出そうになった。
顔を上げた時、彼女はまだそこにいた。
その背後の闇の中に、いくつもの目が光っているのに気づく。
村人たちだ。誰も近づいては来ない。ただ遠巻きに見ている。
中村軍曹が小さく呟く。
「……覚えているんだ」
何を、と聞き返そうとした瞬間、相沢の視線が家の褪せた木柱に止まった。
古びた傷跡が刻まれている。刃物で削ったような跡だ。
日本語だった。
――昭和十八年 陸軍第三工兵隊
相沢の背筋に冷たいものが走る。
ここは、ただの村ではない。
ここは当時、徹底抗戦を試みた日本兵たちが物資や武器輸送のために、村人たちを強制的に酷使して作らせた街道だった。
「日本街道」……村人たちは皮肉を込めてそう呼んでいた。
その時、再び腹が鳴った。強く。恥ずかしいほどに。
相沢の視線は、彼女の背後に吊るされた籠へと吸い寄せられる。
中には白い米と、まだ生きている鶏がいた。
喉の奥で何かが軋む。
――生きるためなら。
その考えが、静かに形を取り始めていた。
(つづく)



