『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で~



 老僧・相沢義信が死んだのは、二〇一五年の四月の乾いた朝だった。

 ピンクの寺の本堂で、仏像に向かって座ったまま、息が止まっていた。

 発見したのは若い見習い僧だった。

 肩を揺すっても動かないと気づいた時、青年はただ静かに手を合わせ、鐘を一つ鳴らした。

 音が山に響き、村へ下りていった。

 人が集まってくるのに、時間はかからなかった。

 村の老人たちは皆、相沢のことを知っていた。

 タイ語を片言しか話せないまま、五十年近く石段を掃き続けた、あの日本人僧侶のことを。

 托鉢に来るたびに深く頭を下げ、米一粒こぼさず受け取り、雨の日も風の日も同じ顔で歩いた男のことを。
 
 棺は村の大工が作った。

 花はジャングルの縁から摘んできた白いものを使った。

 読経が始まると、ドリアンの実がどさりと落ちる音がした。

 誰も笑わなかったが、誰かが小さく微笑んだ。

 プラ・アーチャンはとうに死んでいた。

 相沢が師と呼んだ老僧は、相沢が寺に来て十二年目の乾季に静かに逝った。

 その後、相沢が寺を守った。
 
 日本から人が来たことは、一度もなかった。

 家族がいたかどうか、誰も知らなかった。

 相沢自身も、語らなかった。

 ただ一度だけ、死の数年前、村の子どもに問われたことがある。

「なぜここにいるの?」

 相沢はしばらく考えてから、片言のタイ語で答えた。

「誰かに、聞いていてもらわなければならないことがあるから……」

 子どもには意味が分からなかった。

 大人たちにも、正確には分からなかった。

 だが誰も、それ以上聞かなかった。

 葬儀が終わり、人々が山を下り始めた頃。

 境内の端に、一人の老女が立っていた。

 村の者は皆知っている顔だった。だが誰も声をかけなかった。

 老女は仏龕の前に白い花を一輪供え、古びた布の包みを置いた。

 そしてゆっくりと手を合わせ、目を閉じた。

 どれほどそうしていただろうか。

 布の色はもう分からないほど褪せていたが、丁寧に何度も折り直された跡がある。

 老女はその包みを指先で整え、もう一度だけ手を合わせた。

 風が吹いた。

 布の端がめくれた。

 中から現れたのは、錆びた鉄の認識票だった。

 日本語が刻まれていた。

 若い見習い僧がそれを拾い上げた。

 意味は分からなかったが、人の名であることだけは分かった。

 裏には、乾いた赤黒い染みが残っていた。

 老女は村へと続く坂道を降りて行く。

 途中で一度だけ立ち止まり、振り返った。

 ピンクの寺――掃き清められた石段。

 仏像の静かな金の目。

 そして――老女は目を閉じた。

 ただ風だけが、甘く香ばしいドリアンの匂いを運んでいった。


(完)