『ドリアン山の最後の二等兵』~桃色の寺の菩提樹の下で~



 タイの雨季のスコールは、まるで空そのものが崩れ落ちてくるかのようだった。

 二等兵・相沢義信は、ぬかるみに足を取られながら山道を登っていた。

 軍靴の底はすでにすり減り、踏み込むたびに赤土が滑る。

 背嚢は軽い―軽すぎた。

 中には湿った握り飯の一塊と、空になった弾倉が一つ入っているだけだった。
 
 大日本帝国陸軍の南方軍部隊は壊滅した……
 
 夜明け前の空襲―炸裂する爆音。

 燃え上がる椰子の林。

 逃げ惑う兵士たち。

 そして――気がつけば、相沢は一人だった。

「ナコンナーヨック兵站地へ集結せよ!」

 中村軍曹の声が、まだ耳の奥に残っている。

 命令は簡単だ。

 生き延びて、そこへ辿り着け。

 それだけだった。

 だが、どこが東で、どこが西なのかさえ、もう分からない。
 
 前方の真っ赤に咲き誇った、火炎樹の森が揺れる。

 相沢はとっさに小銃を構える。

「……相沢か」

 現れたのは中村軍曹だった。

 顔は土と血で汚れ、左腕には包帯代わりの布が巻かれている。

 だが、その目はまだ死んでいなかった。

「他の者は何処でありますか!」
 
 相沢は問いかけたが、軍曹は答えなかった。

 ただ首を横に振る―しばらく無言で歩いた。

 湿った風が、腐った果物のような匂いを運んでくる。

 やがて、若い兵士が木の根元に座り込んでいるのが見えた。

 西田だった。

 銃を抱えたまま、虚ろな目で空を見ている。

「もう……日本には帰れませんよね」

 誰にともなく呟く声は、ひどく乾いていた。

「連合国の奴らに捕まったらどうなるんですか」

 中村軍曹は答えない―その沈黙がすべてだった。

 西田はふらりと立ち上がり、拳銃を取り出した。

「やめろ!」

 相沢が叫んだ瞬間、乾いた音がジャングルに響いた。

 名も知らない白い小さな鳥が一斉に飛び立つ。

 西田は、ゆっくりと前に倒れた。

 相沢はその場に立ち尽くした。

 戦争とは、敵に撃たれて死ぬものだと思っていた。

 だが今、目の前で死んだのは敵ではない。

 恐怖だった。土を掘った。素手で。

 爪の間に赤土が入り込み、血がにじんだ。それでも掘り続けた。

 埋め終えた頃には、夕暮れが迫っていた。遠くの山肌に、不思議な線が見えた。

 まるで誰かがジャングルを切り裂いたような、真っ直ぐな道。

「……あれは」

 中村軍曹が低く言う。

「日本街道(ถนนญี่ปุ่น)だ」

 相沢は、その言葉の意味をまだ知らなかった……。

(つづく)