消える僕らの境界線

 翌日の教室は、いつもと何か違った。

 やたらと視線を感じる。
 誰も何も言ってこないのに。

 グラウンドの朝練の声より、教室の視線の方がうるさく思えた。

 気付けば僕の手元——文庫本は逆さまだった。


「志島くん」

 その、か細い声に顔を上げる。

 ——いない。

「こっちだよ」

 振り返ると、そこに内藤さんが立っていた。

 思わず顔をしかめる。

「君はいつも逆をついてくるな」

 僕の言葉に、内藤さんは静かに微笑んだ。

「志島くんこそ。……気付いてないんだね」

 つい眉間の皺が深くなる。

 彼女は僕の肩に手を置いて、腰を屈めた。

「スマホ、見た?」

 …スマホ?
 そういえば昨日の夜から見ていない。
 電源を落として、そのままだ。

「いや」

「ふふ。やっぱり」

 内藤さんが、更に顔を近づけた。
 長い髪が僕の肩にかかる。



「志島くん、あんな顔で笑えるんだね」


 ひと言。

 彼女はそう囁いて、僕から離れた。

 遠ざかる気配だけを横目に、僕はすぐに鞄からスマホを取り出す。

 電源を入れると、大量の通知が溜まっていた。

 それは見覚えのないSNSアプリ。

「何だ…これ」

 スクロールさせる指が微かに震えた。


 そこいるのは、確かに——僕だった。

 見たことない顔で、笑っていた。

 思わず舌打ちをし、スマホをポケットにしまう。

 顔を上げると、クラスメイトが視線を逸らしたのが見えた。

 ……本当に、面倒だ。


 たまらず教室を出ると、廊下は、むさ苦しさを感じた。

「あ。志島」

 背の高い奴が、すれ違い様に僕の名前を呼ぶ。
 こいつは確か、バスケ部の…

 ——佐渡(さわたり)だろ。

 誰かに、先に言われた気がした。
 指先がピリ、と痺れる。
 覚えのある、声だった。

「佐渡…何か用?」
 
 思ったより声が小さくなった。
 額に汗が滲む。

「お前の投稿、見たよ」

 佐渡は豪快に僕の肩に手を回した。
 恐らく190センチ近くある大男。僕はなす術もない。

「…いや、あれは」

「あそこの賄い、美味かったろ?」

 喋りながら、少しずつ教室へと戻されていく。

 僕は反応できない。

 佐渡の腕からは、メントールのような匂いがした。

「食ったんだろ?写真載ってたし」

 僕はポケットの中でスマホを握る。

「……ああ、ああ…、美味かった」

 味なんか知らないけれど、そう言うしかなかった。

「あそこ、俺の叔父さんの店でさ」

 佐渡が誇らしげな顔をしている。

「……」

「ちなみにホールやってんのは俺の母親」

「…え。」

 僕はようやく佐渡の腕から解放された。
 何かの成分が付着したように、やたら首がスースーする。

「ほら。お前の写真のこれ」

 佐渡は、その“ツーショット写真”が映った画面を僕に向けながら、嬉しそうに笑った。

 いやいや。
 クラスメイトが母親と仲良く写真撮って、それがSNSに晒されてるんだぞ?

 佐渡に視線を向ける。
 スマホの母親を拡大しながら「ハッ、何だよこの顔、恥ず」と笑っている。

 何が面白いのか、僕には分からない。

 ただ、佐渡がそれを受け入れているということだけは、分かった。

 
 ふと昨日の帰りがけに会釈を返したおばさんの顔を思い出す。

 同時に、目の前の佐渡をもう一度見た。

 確かに——

 僕は、つい笑いながら「そうか」と小さく答えた。

 佐渡が、また笑った。


 教室を見渡せば、埋まりはじめた空席。
 面倒な視線もどこかへ消えた。

 全ての窓が開けられ、乾いた風が、色んなモノを循環させる。

 風が首を掠めるたび、冷たい。
 同時に鼻を抜けるメントール。

 僕はもう一度、ポケットからスマホを取り出した。

 無視していた、大量の“フォロー申請”を、すべて許可にスライドする。

 …多分、その方が楽だ。





 黒板の前には、微笑みを浮かべた内藤さん。

 目は合わない。

 彼女は多分、僕の後ろを見ている——