気付いた時には、店の前に背を向けて立っていた。
「兄ちゃん、やるじゃねえか」
濁声と共に背中を強く叩かれる。
思わず足が一歩前に飛び出た。
「……はい?」
振り向くと、野球帽を被った、やたら唇の分厚いオヤジが笑っている。
——誰だ?
店から出てきたところを見ると、客なんだろうが。
妙に馴れ馴れしい。
「ここの賄い食わせてもらえるなんてよ。俺なんか五年通ってようやくだ。たまげた、たまげた。ガハハ」
唇オヤジは、そう言うと大股で居酒屋が並ぶ商店街へ消えていった。
「…賄い」
ふと自分のポケットに手を入れると、レシートらしき紙に触れた。
同時にズボンがずり落ちそうになって視線を落とす。
……ベルトが外れてる。
ボタンも。チャックも。
全開だった。
「…アイツ、!」
慌てて閉めようと試みるが、腹がつっかえる。
「何人分食ってんだ」
つい、声に出してしまった。
だけどそれをぶつける相手は、見当たらない。
握りしめたレシートを広げると、そこには何故か“社割”の文字。
……人の体で何をしたんだよ。
チラ、と店内に視線を送る。
サイズの合っていないエプロンをちょこんと巻いたおばさんが、笑顔で僕に手を振っている。
「……」
僕は会釈だけ返し、足早に駅へと歩いた。
いつの間にかアーケードの照明が点灯していた。
僕の進む方向とは反対——飲み屋商店街へ、サラリーマンがネクタイを緩めながら歩いていく。
歩くたび僕を覗いてくる顔は、もういない。
ずり落ちるズボンを何度も持ち上げ、短く息を吐いた。
消えたのなら——まぁいい。
微かに残る指先の痺れには、気付かないふりをした。
玄関を開けると、パン粉に油が染み込んだ匂いがした。
「おかえり渉ー」
リビングのソファを占領しながら、妹の瑠衣が手を挙げて言った。
キッチンからは母の声もする。
明るい茶髪の後頭部だけが見える。
「お前、また髪明るくしたのか」
「うんー、いいっしょコレ。ピンクも入れたんだぁ」
瑠衣はソファから首を後ろにのけ反らせ、歯を見せた。
僕は、その垂れ下がったピンクのひと束を掬う。
「……派手だな」
「ありがー」
そう言うと瑠衣は長い爪をカツカツ鳴らしスマホを触り始めた。
「……」
礼を言われるようなこと、言った覚えはないが。
僕は掬い上げた髪から手を離し、キッチンへ視線を向けた。
黄金色のコロッケが盛られていた大皿が、カウンターに鎮座していた。
…胃がせり上がる。
「母さんごめん。今日、夜飯いらない」
母の手が一瞬止まる。
「え?どうして?」
背後で瑠衣の髪がソファの皮を擦る音がした。
僕はまた、ズボンを持ち上げる。
「……食べてきた」
細めた目でコロッケを見つめながらそう答えた。
母は慌てたようにタオルで手を拭き、タタタと近寄ってきた。
「え、え、食べてきたって渉。誰と?」
その顔は、二割の困惑と…八割の期待、といったところか。
積まれたコロッケにまで、見られている気がする。
「……友達だよ」
その瞬間。
母は「まぁ!」と口元を両手で押さえた。
てっぺんのコロッケが、シュウ、と萎んだ。
そんなに、驚かなくても。
僕は、痒くも無い首を掻いた。
そのままソファに視線を送ると、瑠衣が足をばたつかせていた。
僕が外食してくるのが、そんなに楽しいか。
正確には——僕ではないけど。
詳しく聞きたそうにしている母をあしらい、烏の行水の如く風呂を済ませた。
自室のベッドに転がると、体がずっしり沈み込んだ。
「…疲れた」
誰に向けたでもない言葉が、シーリングに吸い込まれる。
その内部で、黒い何かがばちばちと動いた。
——また虫が入り込んだか。
そのうち動かなくなる影。
僕は目を閉じた。
さっきから、スマホのプッシュ通知がひっきりなしに鳴っている。
確認する気にもならない。
磁場はもう——狂わないはずだろうが。
「兄ちゃん、やるじゃねえか」
濁声と共に背中を強く叩かれる。
思わず足が一歩前に飛び出た。
「……はい?」
振り向くと、野球帽を被った、やたら唇の分厚いオヤジが笑っている。
——誰だ?
店から出てきたところを見ると、客なんだろうが。
妙に馴れ馴れしい。
「ここの賄い食わせてもらえるなんてよ。俺なんか五年通ってようやくだ。たまげた、たまげた。ガハハ」
唇オヤジは、そう言うと大股で居酒屋が並ぶ商店街へ消えていった。
「…賄い」
ふと自分のポケットに手を入れると、レシートらしき紙に触れた。
同時にズボンがずり落ちそうになって視線を落とす。
……ベルトが外れてる。
ボタンも。チャックも。
全開だった。
「…アイツ、!」
慌てて閉めようと試みるが、腹がつっかえる。
「何人分食ってんだ」
つい、声に出してしまった。
だけどそれをぶつける相手は、見当たらない。
握りしめたレシートを広げると、そこには何故か“社割”の文字。
……人の体で何をしたんだよ。
チラ、と店内に視線を送る。
サイズの合っていないエプロンをちょこんと巻いたおばさんが、笑顔で僕に手を振っている。
「……」
僕は会釈だけ返し、足早に駅へと歩いた。
いつの間にかアーケードの照明が点灯していた。
僕の進む方向とは反対——飲み屋商店街へ、サラリーマンがネクタイを緩めながら歩いていく。
歩くたび僕を覗いてくる顔は、もういない。
ずり落ちるズボンを何度も持ち上げ、短く息を吐いた。
消えたのなら——まぁいい。
微かに残る指先の痺れには、気付かないふりをした。
玄関を開けると、パン粉に油が染み込んだ匂いがした。
「おかえり渉ー」
リビングのソファを占領しながら、妹の瑠衣が手を挙げて言った。
キッチンからは母の声もする。
明るい茶髪の後頭部だけが見える。
「お前、また髪明るくしたのか」
「うんー、いいっしょコレ。ピンクも入れたんだぁ」
瑠衣はソファから首を後ろにのけ反らせ、歯を見せた。
僕は、その垂れ下がったピンクのひと束を掬う。
「……派手だな」
「ありがー」
そう言うと瑠衣は長い爪をカツカツ鳴らしスマホを触り始めた。
「……」
礼を言われるようなこと、言った覚えはないが。
僕は掬い上げた髪から手を離し、キッチンへ視線を向けた。
黄金色のコロッケが盛られていた大皿が、カウンターに鎮座していた。
…胃がせり上がる。
「母さんごめん。今日、夜飯いらない」
母の手が一瞬止まる。
「え?どうして?」
背後で瑠衣の髪がソファの皮を擦る音がした。
僕はまた、ズボンを持ち上げる。
「……食べてきた」
細めた目でコロッケを見つめながらそう答えた。
母は慌てたようにタオルで手を拭き、タタタと近寄ってきた。
「え、え、食べてきたって渉。誰と?」
その顔は、二割の困惑と…八割の期待、といったところか。
積まれたコロッケにまで、見られている気がする。
「……友達だよ」
その瞬間。
母は「まぁ!」と口元を両手で押さえた。
てっぺんのコロッケが、シュウ、と萎んだ。
そんなに、驚かなくても。
僕は、痒くも無い首を掻いた。
そのままソファに視線を送ると、瑠衣が足をばたつかせていた。
僕が外食してくるのが、そんなに楽しいか。
正確には——僕ではないけど。
詳しく聞きたそうにしている母をあしらい、烏の行水の如く風呂を済ませた。
自室のベッドに転がると、体がずっしり沈み込んだ。
「…疲れた」
誰に向けたでもない言葉が、シーリングに吸い込まれる。
その内部で、黒い何かがばちばちと動いた。
——また虫が入り込んだか。
そのうち動かなくなる影。
僕は目を閉じた。
さっきから、スマホのプッシュ通知がひっきりなしに鳴っている。
確認する気にもならない。
磁場はもう——狂わないはずだろうが。



