消える僕らの境界線



「アレはねぇよ、眼鏡くん」

 そいつは僕を振り返りながら後ろ向きで歩いていた。
 朝と同じ、桜並木の下。
 降り注ぐ木漏れ日は、鋭く感じる。

 前を向かないと転ぶぞ——
 言いかけてやめる。

 そもそも転ぶという概念があるのかも分からない。

「女の子と喋る時はさ、もっと楽しませる努力をしないと。モテねぇよ?」

 ヒヒ、と笑う顔が余計に鬱陶しい。

「やっぱり居たのか」

 僕はそう言って駅までの道をチラチラと後ろを振り返りながら歩く。
 そのたびに、そいつが顔を覗かせてきてケラケラと笑った。
 舌打ちが増える。

「いつから、どこに居た」

 だいぶ距離はあるが、後方に同じ制服の生徒が歩いているのが見えた。
 つい、早足になる。

「さぁね」

 そいつはようやく前を向いて僕の隣を軽やかなステップで歩き始めた。

 隠す必要あるのか?幽霊のくせに。



 僕たちは駅前の定食屋で足を止めた。

「あーあ。ラーメン食いたかった」

 そいつは見るからに残念そうな顔で、無駄に発色のいい食品サンプルに横目を向ける。

「…って?!なにここ!激安じゃん」

 そいつはショーウィンドウにへばりついた。
 そこはすり抜けないのか、と要らない疑問が生まれたが、すぐに消える。

 夕飯にはまだ少し早い時間。
 店内を覗くと、客は二、三人しか居ない。
 都合がいい。

「30分で食い終わるやつにしろよ」

「30分過ぎたらどうなんの?」

 そいつは腰を曲げたまま、僕を見上げた。
 一瞬、考える。

「……初めてなのか?」

「当たり前だろ。俺のこと見えるやつ、眼鏡くんが初めてだし」

 やけに嬉しそうに答えてくる。

「……」

 こいつはいつからここを彷徨っているんだと、ふと考えた。
 が、そんなことは僕には関係ないし、30分後には消える。
 すぐにまた思考の隅へ追いやった。

「…とにかく、30分だ」

「はいはい」

 すぐに安っぽい電子音と共に定食屋の出入り口が開いた。よれたスーツのじじいが爪楊枝を咥えて出てくる。
 
 僕は慌てて食品サンプルにもう一度視線を戻した。

 …いや、ちゃんと考えろ。
 初めてのやつに体を貸す?
 これ、本当に大丈夫なやつか?
 戻って…これるのか?


 隣を見ると、「やべーうまそー」と、またショーウィンドウを眺めるそいつ。

 …考えても仕方ない。
 少なくとも悪意は感じられない。
 このまま周りをウロチョロされ続けるのも面倒だ。
 僕は、心の中で呟く。

——まぁ、大丈夫、か。

 それに反応するかのように、隣でそいつが笑う。

 僕の喉は、ゴクリと鳴った。


 そいつは笑顔のまま。
 

「でもさー、体ってどうやって借りれんの?」

「…は?」

 やり方も知らずに貸せと言ってきたのか。
 思わず首が前方へ直角に倒れる。

「あのな、僕が知るわけないだろ」

「なんでだよ。初めてじゃねぇんだろ?眼鏡くん」

そいつは、とう!!ほい!!と俺の体を何度もすり抜けながらそう言った。

 確かに初めてではない。
 ただ——自分の意思で貸した事は無い。

「ちょっと来い」

 店の裏手に回る。
 使われているのかも分からない、錆びた自転車が転がっている。
 灰皿の周りには吸い殻がこぼれ、煙草の葉と水の混ざった独特のにおいを放っていた。

 食欲が失せる。

 そいつは大人しく僕の後ろをついてきた。

「そもそも事前に貸せと言ってくるようなやつは初めてなんだよ。…キミたちは、いつも勝手に入り込んでくる」

「ふーん?そりゃ無礼なやつらだなぁ」

 そう言ってそいつはその場にしゃがみ込んだ。
 無礼って…図々しい割に律儀だな。

 僕は眼鏡をクイと持ち上げる。

「とにかく、分からないならこの話は終わりだ。僕は帰る」

 そう言うと、そいつは慌てて立ち上がった。

「待て待て待て」

 肩を引かれる。
 触れられたところがじんわり冷たくなるのが分かった。

 一気に背筋が粟立つ。

 思わず振り払うように体を捻ると、そいつが「あ、悪い悪い」と両手を上げ、歯を見せた。

「…触れるのか」

 冷たくなった肩に手を置いて、聞いた。

「触れるよ。まぁ正確には、“俺は”触れる。眼鏡くんからは触れない」

「……」

「コントロール出来るんだよ。…あ、多分ね」

 そいつは半透明の手を僕にグーパーしてみせた。
 さっきから、やけに楽しそうだ。

 また、鳥肌が走る。今度は全身に。

「…許可なく触るのはやめてほしい」

「ハイハーイ」

 軽い返事。
 
 多分、やめろと言ってもやめないタイプだ。