消える僕らの境界線

「志島ー、昨日のアレやってよ」

 休み時間は、誰かに絡まれることが増えた。
 読んでいた本は、リュックの奥底だ。

「……アレ?」

 昨日のアレが分からない。

「……」

 黙り込むと、教室の空気が、止まる。
 周りが「え?」という顔になった。

 ——あ、まずい。

 これ、あいつなら……

 思った瞬間、

「あれな——……」

 気付けば口が勝手に動いた。
 そしてまた、空気は動き出す。

 笑顔の奥で、僕は安堵した。

“あいつなら、どうする?”

 さっき頭をよぎった。
 ——これは、誰の意思だ?

 もう、分からなかった。



 教室、廊下、放課後。
 僕の意思を持たない会話が度々繰り広げられ、SNSには知らない僕が投稿され続けた。

 でも、あいつが姿を見せる事は無かった。

 いちいち引っかかっていた自分の中の記憶と、周囲の反応のズレも、いつからか引っかかること自体が減っていた。

 取り憑かれている時、何故かたまに意識が残り続ける《《おかげ》》なのか。
 ……最初の頃は、全部消えていたのに。

 




「どこに行くの?」

 校門で僕を呼び止めたのは、内藤さんだった。
 その足元は上履きのままだ。

「……どこにって、帰るんだけど」

 彼女が一歩近付くと、僕は自然と一歩後退した。
 教室でも廊下でも、視線は感じていた。
 言葉を交わすのは、保健室の日、以来だった。

「そっかぁ」

 他の生徒が、クス、と笑いながら校門を出ていく。
 僕は、知らない奴に笑われるようになったのか……。

 思わず地面に視線を落とした。

「言い方変えようかな。
 志島くんは、——どっちでもいいの?」

 僕は、また顔を上げた。

「……は?」

 内藤さんの長い髪が、風でふわりとなびく。
 表情が、見えない。

「ねぇ、教えてよ」

 彼女はどうしてこんなに僕に構う?
 あいつは何故、近付くなと言った?

 考えるほど、どうでもよくなった。

「……君に関係ないだろ」

「うーん。でも、似合ってないよ? それ」

 内藤さんの人差し指が僕に向く。
 何のことを指しているか、察しはついた。

「べつに。似合わなくても、困ってない」

 僕はそう言って、彼女に背中を向けた。
 困っていない。
 事実だ。上手くやれている。

 桜並木の隙間から水滴が落ちる。
 アスファルトに、ポツ、ポツと染みが広がり始めていた。
 歩き始めた僕の制服も、次第に濡れていく。
 遠くなった校門をもう一度振り返った。

 もう、そこに内藤さんは立っていない。


 ふと目元に指先を置く。

 ——あれ?

 いつもあるフレームが、無い。

 今日、僕はずっと眼鏡をしていなかった。

 何も……気にならなかった、のか。

 雨音が早くなる。アスファルトの染みは、もう染みではなくなっていた。
 
 また、校門に背を向ける。

「……まぁいっか」

 少し遅れて、口角が上がった。