消える僕らの境界線

「……なんでここに?授業はどうした」

「ずっと制服で体育館にいると、浮くでしょ」

 彼女はいつも、体育の授業を見学していた。
 理由は知らない。

「それに、志島くんが気になって」

 内藤さんは、ゆっくりと僕のいるベッドに腰掛けた。

 やけに距離が近い。

「大丈夫?」

 白くて細い手が、僕の額に伸びてくる。
 僕は思わずその手を避けた。

 彼女は、ふっと微笑んで、止まる。

「……あれって、本当に志島くん?」

「…は」

 動けなかった。

「まるで誰かが——」

 僕を覗く瞳から、目を逸らせない。
 大きな黒目に、《《僕たち》》が映っている。

 そのまま、吸い込まれる——そんな気さえした。


“目、閉じろ”


 耳元で、低く、声がした。
 あいつの声。

 勝手に瞼が落ちた。

「行ってきます」

 僕の口が言ったのか、頭の中で聞こえたのか。
 それすら分からなかった。

 ただ、指先が痺れ、心臓が脈打った。

 堪らず目を開けると、内藤さんの瞳孔が広がるのが見えた。

 意識だけは、まだ微かに残っている。

 自分の手が彼女の頬に伸びていた。


 ——おい、やめろ。

 言葉は音にならない。
 体も止まらない。

 頬に触れた瞬間。
 指先に、弾かれるような静電気が走る。

 僕の声…が聞こえた。


「昨日から思ってたけど。お前——」




 意識が消えた。


 —…

 ——…


 歪んだ何かが、ゆらりと輪郭を帯びていく。

 ハッと目を見開いた。

 内藤さんの両手が、僕の頬を包んでいた。

「……遅いよ」

 か細い声。
 彼女の顔はうっすら色付いている。
 ——はずなのに
 見たことないような鋭い目つきをしていた。
 その瞳には、何も、映っていない。

 僕は慌てて引き離す。

 彼女は無言でベッドから降り、制服のシワを払うと、そのまま扉へ向かった。

「気をつけてね、志島くん」

 その後ろ姿を視界の端に捉える。

 内藤さんが、半分、振り返った。

「たんこぶ、出来てるよ」

 そう言い残し、いつものように微笑んで保健室から出ていった。


 僕は、大きく息を吸い、深く吐いた。
 心拍が、ゆっくりと元のスピードに落ち着く。

 スッとまた、丸椅子に気配が戻ってきた。

「……お前、いま何をした?」

「え?ちょっと女の子とコミュニケーションを図ろうかと」

 そいつは悪びれる様子もなく、ヘラと笑った。

「ふざけるなよ、人の体で」

 無意識に、拳が白いシーツに食い込む。

 そいつは「まぁまぁ」と立ち上がると、彼女が出ていった扉から廊下を覗いた。

「いやぁ、強敵。くく」

「お前…」

「童貞眼鏡くんにあの子は手に負えないよ」

 ツッコミどころが、あり過ぎる。

「何の話だ」

 そいつはボフッと僕のベッドに飛び乗った。

「でも」

 その瞬間——顔から表情が消える。

 そいつの奥で、湯呑みの湯気がふっと揺らいだ。

「アレ、近付かない方がいいよ」

 重く、冷たい声。
 いつになく真剣だった。

 彼女が出ていった扉に視線が引っ張られる。

「……“アレ”って…内藤さん、か?」

 僕が言うと、そいつは扉を振り返った後、もう一度、僕に透けた瞳を向けた。

「……」

 何も言わない。
 いつもうるさい癖に。
 黙られると、調子が狂う。

 ——何が、言いたい?

 僕が生唾を飲んだところで、そいつはベッドから降りた。

「ああいうの相性悪いんだよね」

 そいつの指先がバチッと鳴る。

「…近くにいると、ズレる」

 また、湯呑みの湯気がたった。



 僕の鼓膜を叩く、心臓の音。
 その隙間に、もう一つ、音が入り込む。
 こめかみの奥が、重い。


 目を閉じると、思考の隅で——声。






 こっちだよ