消える僕らの境界線

 保健室には誰もいなかった。
 シワが寄った白いシーツ。
 半開きの戸棚。
 先生の机の湯呑みは、湯気を立てていた。


「怒んなって眼鏡くん」

 そいつは室内を物色するように見て回りながら言った。

 言葉の割に悪いと思っていないのが、よく分かる。

「まさか“眼鏡くんの時”に、あんなボール飛んでくるなんてなぁ」

「……勘弁してくれ」

 僕は、硬いベッドに横たわったまま、腕で視界を覆った。

 保健室の日当たりの良さは、利用する人には毒でしかないだろう。そんなことを一瞬考えた。

 エタノールと包帯の匂い。
 そこに僕の汗の匂いがうっすら漂っている。


 そいつが、ベッドサイドの丸椅子に座った気配がした。

「おかげで俺は超絶楽しかったね。消えなかったけど」

 そいつの表情を見るのはやめた。
 窓の向こうの、グラウンドの砂埃を見つめた。

 何度入れ替わったのか、分からない。
 気付けば、息が切れ、足も動かず。
 頭に飛んできたボールを避けることもままならなかった。

 僕は一体、どこに立って、何をしていたんだ。

「……あんなやり方するやつがあるか」

 そいつはまた笑う。

「ついね、つい。楽しくなっちゃって」

 ……もういい——こういう奴だ。



 目を閉じかけた時、遠くから廊下を走る音がした。

 それは徐々に大きくなる。
 荒い息づかいも、混ざる。

「ハハ、来た来た」

 そう言って、そいつは楽しそうに椅子から立ち上がる。

 その瞬間、保健室の扉が音を立て、部屋全体が揺れた。



「ワタボー!!」

「……」

 僕は、佐渡の顔を見たまま固まった。

 チラ、とあいつの顔を見ると満足そうに頷きながら、佐渡の横でニンマリしていた。

 ……何がワタボーだ、人の体で。


「大丈夫かよ?頭」

「あー、…大したことない」

「そうか、悪かったな。楽しくなっちまって、フォロー出来なかった」

 何て返せばいいか分からなかった。
 …本当に、こういうところだ。

「……」

 僕が言い淀んでいると、そいつが佐渡の後ろで口を動かした。

“ぼくも”

 それを見て、勝手に言葉が出る。

「…僕も」
 自分の声かどうか、分からなかった。
 声は、一瞬遅れる。

“すこし”

「少し」

“あつくなりすぎた”

「……熱くなり過ぎた」

 後ろであいつがケケッと笑った。
 僕は目を逸らした。

 つい舌打ちしそうになる。

「それな?正直、お前があんなに動けるなんて思ってなかったわ」

 佐渡が僕の肩を叩いた。

「ああ、はは。まぁ…な」

「また昼休みとか、一緒にやろーぜ」

「……気が、向いたら」

「ハッ、了解。…やべ、そろそろ戻るわ」

 佐渡が汗の匂いを散らしながら「ゆっくり休めよ」と、また廊下を駆けていく。

 いつの間にか隣にいたそいつが、同じ方向を見て、手を振った。

「よかったなぁ?眼鏡くん」

 こいつ……。

「…どこがだ」

 知らない間にあだ名が生まれ、果たすつもりのない約束を交わす。

 こんなこと、僕には——

 深く息を吐き、
 もう一度、横になろうと布団を掴んだ。

 カラカラ、と扉が開く。

 そいつは「あっ」と言って、ふわ、と消えた。

 扉に立っていたのは、内藤さんだった。

 制服のまま。

 長い髪が揺れていた。



 その目は——最初から、僕を見ていない。