きみと指揮する青の時間

 昼休みの少し前、紬はスマホの画面を見ていた。  明日の練習、最初の入りもう一回合わせたい 昼休み少し時間ある?  昨日送ったそのメッセージには、少し間を置いてから「ある」とだけ返ってきた。短い返事だったけれど、理都らしいといえば理都らしい。だからそのときは、そこまで深く気にしなかった。
 昼休みのチャイムが鳴ってから、紬は先に中庭へ向かった。いつものベンチのそば。最初にバッタが飛び出してきた、あの植え込みの近く。季節が少し進んで、葉の色も、空気の匂いも、あの頃とは少し変わっている。  こうして昼休みに最初の入りを合わせるとき、紬はいつもスマホのピアノアプリで短いフレーズを鳴らして、理都が入りやすいタイミングを一緒に確認していた。ほんの数分のことだったけれど、いつの間にかそれが二人の小さな決まりみたいになっていた。
 でも理都は来なかった。
 五分。十分。
 紬は一度スマホを見て、それから顔を上げた。遅れているだけかもしれない。誰かに呼び止められたのかもしれない。そう思って、もう少し待つ。けれど、待っても来ない。
「……白嶺?」
 声に出してみても、当然返事はない。中庭を横切る他の生徒たちは、昼休みの短い時間をそれぞれに過ごしているだけで、その中に理都の姿は見えなかった。
 紬はそこで、ようやく胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
 昨日の返事が短かったこと。練習のあと、前より話さなくなっていたこと。褒めても、前みたいに少し照れて終わりではなくて、どこかつらそうに目を逸らしていたこと。
 疲れてるだけだと思っていた。クラスがまとまってきた分、慣れない指揮で消耗しているのだろうと、それくらいに思っていた。でも、もしかしたら違ったのかもしれない。
 紬は踵を返した。
 教室に戻っても理都はいなかった。廊下にも、図書室にも、音楽室にもいない。
 そこで、ほとんど勘みたいに、ひとつの場所が頭に浮かぶ。
 理科室の隅にある、科学研究部の部室。
 あそこにいるかもしれない、と思った。思ったというより、たぶんいる、と妙に確信に近いものがあった。
 紬は早足で階段を下りた。走るほどではない。でも、急いでいた。
 理科室の前まで来ると、廊下は昼休みのざわめきから少し離れて静かだった。部室の扉は閉まっている。紬は一瞬だけ呼吸を整えてから、そっと扉を開けた。
 中は薄暗かった。窓から入る昼の光と、水槽の照明だけが細く部屋を照らしている。
 理都はそこにいた。
 理科室の隅。メダカの水槽の前に立って、じっと水の中を見ていた。声をかけなければ、そこに人がいると気づかないくらい、静かに。
「……やっぱり」
 紬がそう言うと、理都の肩が小さく揺れた。ゆっくり振り返った顔は、驚いたというより、見つかった、という顔だった。
「駒咲」 「いた」
 紬はそれだけ言って、扉を閉めた。理都は何も返さない。部室の中に、水槽のモーター音だけが低く流れている。
「中庭、来ないから」 「……」 「ここかなって思った」
 理都は視線を落とした。逃げるでも、言い訳するでもなく、ただ黙る。
 その沈黙が、逆に紬には少し怖かった。いつもの理都なら、別に、とか、なんでもないとか、何かしら薄い返事を返すはずなのに、それすらない。
「白嶺」
 名前を呼んでも、理都はすぐには顔を上げなかった。
「なんで来なかったの」 「……」 「連絡くらいできただろ」
 責めたかったわけじゃない。でも、声に少しだけ硬さが混じった。それはたぶん、怒っているからではなく、思っていたよりずっと不安になっていたからだ。
 理都はようやく、小さく息を吐いた。
「ごめん」 「謝ってほしいわけじゃない」 「……」 「白嶺、どうした」
 返事はない。理都は水槽の縁に指先をかけたまま、目の前のメダカを見ている。青いラメが光を受けてきらついて、すぐにまた見えなくなる。
「疲れてるだけ、とか言うなよ」
 紬はそう言った。少しだけ間を置いて、続ける。
「そういう顔じゃなかった」
 理都の指先が、わずかに動いた。でもそれだけだった。
「白嶺、ずっと無理してただろ」 「……別に」 「別にじゃない」 「……」 「練習のあと、最近ずっと変だった」
 そこで初めて、理都が小さく眉を寄せた。反射みたいに返そうとして、でもうまく言葉にならない顔だった。
「気づいてなかったと思う?」 「……気づいてないと思ってた」 「ごめん。ちゃんとは分かってなかった」
 それは本音だった。紬は今まで、理都のことを気にして見ていたつもりだった。でもたぶん、自分に都合のいい範囲でしか見られていなかった。理都は不器用だけど、ちゃんと頑張ってる。少しずつ慣れてきてる。クラスもまとまってきてる。そんなふうに思いたかった。
 でも実際は、その“まとまってきている”こと自体が理都を追い詰めていたのかもしれない。
「白嶺」
 もう一度呼ぶ。今度は少しだけ近づいて。
「僕、来ると思ってた」 「……」 「でも来なかったから、ちょっと焦った」 「……悪い」 「それは聞いた」
 理都はそこで、やっと紬の方を見た。その目の下には少しだけ疲れが溜まっていて、いつもより表情が薄かった。
「じゃあ、何だよ」
 声が少しかすれていた。怒っているわけでも、突き放しているわけでもない。たぶん、もう余裕がないだけだ。
 紬はその顔を見て、ゆっくり息を吸った。
「何がそんなにしんどいのか、ちゃんと聞きたい」 「……」 「今のまま、平気なふりされる方が嫌だ」
 理都は視線を逸らした。部室の窓の向こう、秋の光がぼんやり白く見える。
「平気なふりなんかしてない」 「してる」 「してない」 「してるよ」
 紬は珍しく、引かなかった。理都もそれに気づいたのか、少しだけ目を細める。
「白嶺」 「……何」 「ほんとは、もうずっときつかっただろ」
 理都はすぐには答えなかった。水槽の中で、メダカがゆっくり向きを変える。その小さな動きを追ってから、ようやく、ほとんど独り言みたいな声で言った。
「……きついよ」
 紬は黙って続きを待った。理都は少しだけ喉を鳴らして、それからもう一度、今度は前よりはっきり言った。
「きついに決まってんだろ」
 そこで堰が少しだけ緩んだみたいに、言葉が続く。
「最初は、どうせ誰も本気じゃなかったし」 「……」 「だから、ぐだぐだでも、別に全部俺のせいって感じじゃなかった」 「うん」 「でも今、違うだろ」
 理都の手が、水槽の縁をきゅっと掴む。
「みんなちゃんと歌うようになってきて、クラスも前よりまとまってきて、女子も男子も、前より本気で」 「……」 「そうなるほど、俺が外したら終わるみたいになる」
 最後の方は、少し息が上がっていた。ずっと押し込めていた言葉を引きずり出しているせいだと分かる。
「次うまく振れなかったらどうしようとか」 「……」 「せっかく今までやってきたのに、自分のせいで台無しになったらどうしようとか」 「うん」 「考えないようにしても、勝手に考える」
 紬は何も挟まなかった。ここで軽く否定したら、たぶん理都はまた黙る。
「クラスがまとまってくるの、ほんとはいいことなのに」
 理都はそこで少し笑いそうになって、でもなれないまま口元を歪めた。
「なんで俺、勝手に追い詰められてんのか分かんないし」 「……」 「意味分かんないだろ」
 その問いには答えなかった。答えられなかった、の方が近い。紬はただ、理都の顔を見ていた。
「あと」
 理都は一度言葉を切った。そこから先を言うか迷っているのが見て分かった。
「……あと?」 「……お前」
 紬の胸の奥が、少しだけざわつく。
「僕?」 「……お前が」
 理都は視線を合わせないまま、低く続けた。
「普通に弾けるから」 「……」 「舞台だって平気そうで、クラスの中でもちゃんとしてて、誰とでも話せて」 「白嶺」 「俺だけ、ずっと場違いみたいで」
 その言葉で、紬は息を止めた。
 理都はそこで初めて、少しだけ紬の方を見た。でもその目は、紬を見るというより、言ってしまったことを後悔しているみたいだった。
「お前の隣で、平気な顔して振ってんの、もう無理かもしれないって思った」 「……」 「お前はちゃんと弾いてんのに、俺だけ中身ぐちゃぐちゃで」 「白嶺」 「しかも、お前が」
 理都の声が少しだけ揺れる。
「お前が、がんばろうとか言うから」 「……」 「逃げるのも嫌になって」 「……」 「助かってたのも本当だけど、でも、そのせいで逃げられなかったのも本当で」
 紬はそこで、ようやく自分の呼吸が浅くなっていたことに気づいた。
 理都はたぶん、自分を責めているだけじゃなかった。自分のことも責めていた。紬の言葉が支えになっていたことと、追い詰めてもいたこと、その両方を抱え込んで、ひとりで苦しくなっていた。
 今になって、ようやく分かる。練習のあと、理都が黙る時間が長くなっていた意味。短い返事の裏にあったもの。自分が「大丈夫だ」と思っていた間にも、理都の中ではずっと何かが削れていたこと。
 紬は少しだけ唇を噛んだ。それから、理都に一歩近づく。
「それ、僕のせいだって言いたい?」 「……そういうわけじゃ」 「じゃあどういうわけ」
 理都が驚いたように顔を上げた。紬がこんな声を出すと思っていなかったんだと思う。
「僕、白嶺がしんどいの気づけなかった」 「……」 「それは悪かったと思ってる」 「……うん」 「でも、白嶺が振るから、僕は弾こうって思ったのも本当なんだよ」
 その言葉は、紬自身の中でも思っていた以上にまっすぐ出た。
 理都が目を見開く。紬はその目を逸らさずに続けた。
「向いてるとか、先生が褒めてたとか、そういうのもなくはないけど」 「……」 「それだけじゃない」 「……」 「白嶺が振るから、ちゃんと合わせたいって思った」 「……なんで」 「知らないよ」
 少しだけ声が揺れた。でも、もう止めなかった。
「最初は、ただ気になっただけだった」 「……」 「中庭で虫に全力だったし、図書館で本選んでくれたし、部室で生き物のこと話してるとき、すごく楽しそうで」 「……」 「そういうの見てたら、いつの間にか、白嶺がどう振るかで僕の気分まで変わるようになってた」
 理都は何も言わない。でも、その沈黙はさっきまでの拒絶じゃなかった。たぶん、受け止めきれないだけだ。
 紬はそこで、初めて少しだけ感情を強くした。
「だから、逃げるなら勝手にすればいいって、本当は言いたくない」 「……」 「でも、白嶺が本気なの知ってるのに、そこで全部投げるの見たら、たぶん僕、腹立つ」 「……駒咲」 「だって、ずっとちゃんとやってたろ」
 声が少しだけ熱を帯びる。
「しんどくても来てたし、前に立つの苦手なのに逃げなかったし、クラスのことだってちゃんと見てた」 「……」 「白嶺がそうやってやってたの、僕は知ってる」 「……」 「だから、今ここで自分だけ勝手にだめだって決めるなよ」
 最後の方は、言葉というより、ほとんど願いみたいだった。
 部室の中がしんと静まる。水槽のモーター音だけが変わらず鳴っている。
 理都は何も言わなかった。言えない、の方が近いのかもしれない。ただ、少しずつ握っていた手の力が抜けていくのが見えた。
 長い沈黙のあと、理都がぽつりとこぼす。
「……ずるい」 「何が」 「そういう言い方」 「白嶺も大概だろ」 「俺は別に」 「別に、で逃げるなよ」
 それを言うと、理都の肩がほんの少し揺れた。笑ったのか、困ったのか、どっちとも取れない揺れ方だった。
「……明日」 「うん」 「行く」 「うん」 「逃げない」 「うん」
 紬はそれ以上、無理に何かを言わせようとはしなかった。今はそれで十分だと思った。
 理都は少しだけ目元を押さえて、それから深く息を吐く。その息は、さっきまでより少しだけまともに聞こえた。
「でも、すぐには無理」 「分かってる」 「急に平気にはなんない」 「分かってるって」 「……」 「明日、最初の入りだけでも合わせよう」 「……中庭?」 「嫌ならここでもいい」 「……いや」 「じゃあ中庭。いつもみたいに、ピアノアプリで少し音出すだけでもいいから」 「……うん」
 そこでようやく、紬も少しだけ肩の力を抜いた。
 まだ何も解決していない。明日の練習も、本番も、きっと簡単じゃない。でも少なくとも、理都がひとりで水槽の前に立ったまま折れることだけは、今ここで止められた気がした。
「白嶺」 「なに」 「話せてよかった」 「……なんで見つかったし」 「……勘」 「当てるなよ、そういうの」 「無理。たぶんまた当てる」
 理都は小さく息を吐いた。呆れているみたいな顔だったけれど、さっきより少しだけやわらかかった。
 紬はその顔を見て、ようやく自分も呼吸が戻るのを感じた。
 帰り際、部室の扉を開ける前に、理都が小さく言う。
「……駒咲」 「ん?」 「ありがとう」 「うん」
 それ以上は、何も言わなかった。言わなくても、今はそれで十分な気がした。
 扉を出ると、昼休みの終わりを知らせるチャイムが廊下に響いた。理都も紬も、少しだけ顔を見合わせる。
 明日はまた、みんなの前に立たなきゃいけない。それは変わらない。でも昨日までとは、少しだけ違う気がした。
 少なくとも理都は、もう一度だけ立ってみようと思っている。紬はそれを、今度こそちゃんと見逃さないつもりだった。