昼休みの少し前、紬はスマホの画面を眺めていた。
『明日の練習、最初の入りをもう一回合わせたい。昼休み、少し時間あるかな?』
昨日送ったそのメッセージには、少し間を置いてから『ある』とだけ返ってきた。短い返事だったけれど、理都らしいといえば理都らしい。だからそのときは、さほど深くは気に留めていなかった。
昼休みのチャイムが鳴ると同時、紬は先に中庭へ向かった。いつものベンチのそば。最初にバッタが飛び出してきた、あの植え込みの近く。
季節が少しずつ進み、葉の色も、空気の匂いも、出会った頃とは確実に変わっている。
こうして二人で音を合わせるとき、紬はいつもスマホのピアノアプリで短いフレーズを鳴らし、理都が入りやすいタイミングを一緒に確認していた。ほんの数分の儀式のようなものだったけれど、いつの間にかそれが二人の「小さな決まりごと」になっていた。
けれど、理都は来なかった。
五分。十分。
紬は一度スマホを確認し、それから顔を上げた。遅れているだけかもしれない。誰かに呼び止められたのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、もう少しだけ待つ。
けれど、待てど暮らせど、その姿は見えなかった。
「……白嶺?」
声に出してみても、当然ながら返事はない。中庭を横切る他の生徒たちは、それぞれの昼休みを謳歌しているだけで、その群れの中に理都の姿はどこにもなかった。
紬はそこで、ようやく胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
昨日の短すぎる返事。練習のあと、目に見えて口数が減っていたこと。褒めても、前のように照れるのではなく、どこか苦しげに視線を逸らしていたこと。
――疲れているだけだと思っていた。
慣れない指揮で、心身ともに消耗しているのだろう。それくらいにしか考えていなかった。けれど、もしかしたら、そんな単純な話ではなかったのかもしれない。
紬は踵を返した。
教室に戻っても理都はいなかった。廊下にも、図書室にも、音楽室にもいない。
そこで、ほとんど直感に近い形で、ひとつの場所が脳裏に浮かんだ。
理科室の隅にある、科学研究部の部室。
あそこにいる。いや、あそこにしかいない。そう確信して、紬は早足で階段を下りた。
理科室の前まで来ると、校内のざわめきが遠のき、廊下はしんと静まり返っていた。部室の扉は固く閉ざされている。紬は一瞬だけ呼吸を整えてから、そっとその扉を開けた。
中は薄暗かった。窓から差し込む昼の光と、水槽の青白い照明だけが、細く部屋の輪郭を浮き彫りにしている。
理都は、そこにいた。
メダカの水槽の前に立ち、じっと水の中を凝視している。声をかけなければ、そこに人がいると気づかないくらい、石のように静かに。
「……やっぱり」
紬が声をかけると、理都の肩が小さく跳ねた。ゆっくりと振り返ったその顔は、驚いたというより、「見つかってしまった」という諦めに似た表情だった。
「駒咲……」
「いた」
紬はそれだけ言って、背後の扉を閉めた。理都は何も返さない。部室には、水槽のモーター音だけが低く通奏低音のように響いている。
「中庭、来なかったから」
「……」
「ここかなって、思ったんだ」
理都は視線を落とした。逃げるでもなく、言い訳をするでもなく、ただ沈黙を守る。
その静けさが、逆に紬には恐ろしかった。いつもの理都なら、「別に」とか「なんでもない」とか、何かしら防壁のような返事をするはずなのに、それすら出てこない。
「白嶺」
名前を呼んでも、理都はすぐには顔を上げなかった。
「なんで来なかったの」
「……」
「連絡くらい、できただろ」
責めるつもりなんてなかった。けれど、声にはどうしても硬さが混じった。それは怒りではなく、自分が思っていた以上に不安に呑まれていたからだと、紬自身も気づいていた。
理都はようやく、重い肺から空気を吐き出した。
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないよ」
「……」
「白嶺、どうしたんだ」
依然として返事はない。理都は水槽の縁に指先をかけたまま、泳ぐメダカを見つめている。青いラメが光を反射してきらめき、また影に消える。
「疲れてるだけ、とか言うなよ」
紬は釘を刺すように言った。少しの間を置いて、畳みかける。
「そういう顔じゃなかった」
理都の指先が、ぴくりと跳ねた。けれど、それだけだった。
「白嶺、ずっと無理してただろ」
「……別に」
「別にじゃない」
「……」
「練習のあと、最近ずっと変だったよ」
そこで初めて、理都が小さく眉を寄せた。反射的に何かを言い返そうとして、けれど言葉が見つからず、行き場を失った感情が顔に滲み出す。
「気づいてなかったと思う?」
「……気づいてない、と思ってた」
「ごめん。ちゃんとは、分かってなかったんだと思う」
それは本音だった。気にかけていたつもりだった。けれど、自分に都合のいい範囲でしか理都を見ていなかったのかもしれない。理都は不器用だけど頑張っている、少しずつ慣れてきている、クラスもまとまってきている――。
そう思いたかっただけなのだ。
けれど実際は、その「まとまり」こそが、理都の首を絞める縄になっていたのだとしたら。
「白嶺」
もう一度、今度は一歩踏み込んで名前を呼ぶ。
「僕、来ると思ってた」
「……」
「でも来なかったから、ちょっと焦ったんだ」
「……悪い」
「それはもう聞いたよ」
理都はようやく、紬の方を見た。その目の下には濃い疲労の色が張り付いていて、表情は紙のように薄い。
「じゃあ、何だよ……」
声がかすれていた。突き放しているのではなく、もう、余力が残っていないのだ。
紬はその脆い顔を見て、深く、深く息を吸い込んだ。
「何がそんなにしんどいのか、ちゃんと聞きたい」
「……」
「今のまま、平気なふりされる方が嫌だ」
理都は視線を逸らした。窓の向こう、秋の光がぼんやりと白く滲んでいる。
「平気なふりなんか、してない」
「してる」
「してない」
「してるよ」
紬は珍しく、一歩も引かなかった。理都もその気迫に気圧されたのか、わずかに目を細める。
「白嶺」
「……なに」
「ほんとは、もうずっときつかったんだろ」
理都はすぐには答えなかった。水槽の中で、メダカがゆっくりと旋回する。その小さな軌跡を瞳で追ってから、ようやく、ほとんど独り言のような声が零れた。
「……きついよ」
紬は言葉を挟まず、続きを待った。理都は喉を一度鳴らし、それから、今度は絞り出すようにはっきりと口にした。
「きついに決まってんだろ」
堰を切ったように、言葉が溢れ出す。
「最初は……どうせ誰も本気じゃなかったし。だから、ぐだぐだでも、全部俺のせいって感じじゃなかった」
「うん」
「でも今は、違うだろ」
理都の手が、水槽の縁を白くなるほど強く掴んだ。
「みんなちゃんと歌うようになって、クラスもまとまってきて、女子も男子も、前より本気で……。そうなればなるほど、俺が外したら全部終わる、みたいになる」
最後の方は、呼吸が荒くなっていた。ずっと奥底に沈めていた泥を、無理やり掻き出しているのだ。
「次うまく振れなかったらどうしようとか、自分のせいで台無しになったらどうしようとか……考えないようにしても、勝手に頭に浮かぶんだ」
「うん」
「クラスがまとまってくるの、ほんとはいいことなのに。……なんで俺、勝手に追い詰められてんのか分かんないし。意味、分かんないだろ」
自嘲気味に歪められた口元が痛々しい。紬は答えなかった。ここで安易な否定をすれば、理都は再び自分の殻に閉じこもってしまう。
「あと……」
理都が言葉を切り、躊躇うように視線を泳がせる。
「……あと?」
「……お前」
紬の心臓が、ドクンと大きく脈打った。
「僕?」
「お前が……普通に弾けるから」
「……」
「舞台だって平気そうで、クラスの中でもちゃんとしてて、誰とでも話せて……。俺だけ、ずっと場違いみたいで」
その言葉に、紬は息を止めた。
理都は初めて、紬の瞳を正面から見た。けれどその瞳は、言ってしまったことへの後悔で揺れている。
「お前の隣で、平気な顔して振ってんの、もう無理かもしれないって思った。お前はちゃんと弾いてるのに、俺だけ中身ぐちゃぐちゃで。……しかも、お前が……」
「……」
「お前が、『がんばろう』とか言うから。逃げるのも嫌になって。助かってたのも本当だけど、でも、そのせいで逃げられなかったのも本当で……!」
紬は、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。
理都は、自分を責めていただけではなかったのだ。紬が向けた善意も、言葉も、そのすべてが理都を支えると同時に、退路を断つ刃になっていた。
自分が「順調だ」と満足していた影で、理都はずっと削られ続けていた。その沈黙の重さに、自分は甘えていた。
紬は一歩、理都との距離を詰めた。
「それ、僕のせいだって言いたい?」
「……そういうわけじゃ……」
「じゃあ、どういうわけだよ」
理都が驚いたように顔を上げた。紬がこんなにも剥き出しの声を出すとは、思ってもみなかったのだろう。
「僕、白嶺がしんどいの、気づけなかった。それは本当に悪かったと思ってる」
「……うん」
「でもね、白嶺が振るから、僕は弾こうって思ったのも本当なんだよ」
それは、紬自身も驚くほど迷いのない言葉だった。理都が目を見開く。
「向いてるとか、先生の推薦とか、そういうのもあるけど……それだけじゃない。白嶺が振るから、ちゃんと合わせたいって思ったんだ」
「……なんで」
「知らないよ、そんなの」
声が震えた。けれど、もう止められなかった。
「最初は、ただ気になっただけだった。中庭で虫を追いかけてたり、図書館で本を選んでくれたり、部室で生き物の話をしてるときの白嶺が、すごく楽しそうだったから。そういうの見てたら、いつの間にか、白嶺がどう振るかで僕の気分まで変わるようになってたんだ」
理都は固まったまま、何も言わない。
紬は、さらに感情を乗せて言葉を叩きつけた。
「だから、逃げるなら勝手にすればいいなんて、絶対言いたくない。白嶺がどれだけ本気だったか知ってるのに、そこで全部投げるのを見たら、たぶん僕、本気で腹が立つ」
「駒咲……」
「だって、ずっとちゃんとやってたじゃないか。しんどくても部室に来てたし、前に立つの苦手なのに逃げなかったし、クラスのことだってちゃんと見てた。白嶺がそうやって踏ん張ってたの、僕はちゃんと見てたんだよ。……だから、今ここで自分だけ勝手に『だめだ』なんて決めるなよ!」
最後は、ほとんど叫びに近い「願い」だった。
部室の中に、再び沈黙が訪れる。水槽のモーター音だけが、無機質に鳴り続けている。
長い、長い静寂の後。
理都が、ぽつりと枯れた声を零した。
「……ずるい」
「なにが」
「そういう言い方……」
「白嶺も大概だよ」
「俺は、別に……」
「『別に』で逃げるなって」
それを言うと、理都の肩がかすかに揺れた。笑ったのか、困ったのか。
けれど、そのこわばった空気は、確実に解け始めていた。
「……明日」
「うん」
「……行く」
「うん」
「逃げない」
「うん」
紬はそれ以上、無理に言葉を重ねることはしなかった。今は、それだけで十分だった。
理都は目元を片手で覆い、それから深く、深く息を吐き出した。その呼吸は、さっきまでの浅いものより、ずっと生きている人間の音がした。
「でも、すぐには無理だ」
「分かってる」
「急に平気になんて、なれない」
「分かってるって。……明日、最初の入りだけでも合わせよう」
「……中庭?」
「嫌ならここでもいいけど?」
「……いや。……中庭でいい」
「じゃあ、中庭。いつもみたいに、ピアノアプリで出だし合わせるだけでもいいから」
「……うん」
そこでようやく、紬も肩の力を抜いた。
まだ何も解決したわけじゃない。明日の練習も、本番も、きっと困難の連続だろう。
けれど、理都が一人で水槽の前で折れてしまうことだけは、食い止められた。
「白嶺」
「なに」
「話せてよかった」
「……なんで見つかったんだよ」
「勘」
「当てるなよ、そういうの」
「無理。たぶんまた当てるよ」
理都は小さく息を吐いた。呆れたような、けれどさっきよりずっと柔らかな横顔。
帰り際、部室の扉を開ける直前。理都が背中を向けたまま、か細い声を絞り出した。
「……駒咲」
「ん?」
「ありがとう」
「……うん」
扉の外に出ると、昼休みの終わりを告げる予鈴が廊下に響き渡った。理都と紬は、一瞬だけ顔を見合わせる。
明日はまた、衆人環視の前に立たなきゃいけない。その事実は変わらない。
けれど昨日までとは、ほんの少しだけ景色が違って見える気がした。
少なくとも理都は、もう一度だけ足を踏み出そうとしている。
紬はそれを、今度こそ逃さず、見届けるつもりだった。
『明日の練習、最初の入りをもう一回合わせたい。昼休み、少し時間あるかな?』
昨日送ったそのメッセージには、少し間を置いてから『ある』とだけ返ってきた。短い返事だったけれど、理都らしいといえば理都らしい。だからそのときは、さほど深くは気に留めていなかった。
昼休みのチャイムが鳴ると同時、紬は先に中庭へ向かった。いつものベンチのそば。最初にバッタが飛び出してきた、あの植え込みの近く。
季節が少しずつ進み、葉の色も、空気の匂いも、出会った頃とは確実に変わっている。
こうして二人で音を合わせるとき、紬はいつもスマホのピアノアプリで短いフレーズを鳴らし、理都が入りやすいタイミングを一緒に確認していた。ほんの数分の儀式のようなものだったけれど、いつの間にかそれが二人の「小さな決まりごと」になっていた。
けれど、理都は来なかった。
五分。十分。
紬は一度スマホを確認し、それから顔を上げた。遅れているだけかもしれない。誰かに呼び止められたのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、もう少しだけ待つ。
けれど、待てど暮らせど、その姿は見えなかった。
「……白嶺?」
声に出してみても、当然ながら返事はない。中庭を横切る他の生徒たちは、それぞれの昼休みを謳歌しているだけで、その群れの中に理都の姿はどこにもなかった。
紬はそこで、ようやく胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
昨日の短すぎる返事。練習のあと、目に見えて口数が減っていたこと。褒めても、前のように照れるのではなく、どこか苦しげに視線を逸らしていたこと。
――疲れているだけだと思っていた。
慣れない指揮で、心身ともに消耗しているのだろう。それくらいにしか考えていなかった。けれど、もしかしたら、そんな単純な話ではなかったのかもしれない。
紬は踵を返した。
教室に戻っても理都はいなかった。廊下にも、図書室にも、音楽室にもいない。
そこで、ほとんど直感に近い形で、ひとつの場所が脳裏に浮かんだ。
理科室の隅にある、科学研究部の部室。
あそこにいる。いや、あそこにしかいない。そう確信して、紬は早足で階段を下りた。
理科室の前まで来ると、校内のざわめきが遠のき、廊下はしんと静まり返っていた。部室の扉は固く閉ざされている。紬は一瞬だけ呼吸を整えてから、そっとその扉を開けた。
中は薄暗かった。窓から差し込む昼の光と、水槽の青白い照明だけが、細く部屋の輪郭を浮き彫りにしている。
理都は、そこにいた。
メダカの水槽の前に立ち、じっと水の中を凝視している。声をかけなければ、そこに人がいると気づかないくらい、石のように静かに。
「……やっぱり」
紬が声をかけると、理都の肩が小さく跳ねた。ゆっくりと振り返ったその顔は、驚いたというより、「見つかってしまった」という諦めに似た表情だった。
「駒咲……」
「いた」
紬はそれだけ言って、背後の扉を閉めた。理都は何も返さない。部室には、水槽のモーター音だけが低く通奏低音のように響いている。
「中庭、来なかったから」
「……」
「ここかなって、思ったんだ」
理都は視線を落とした。逃げるでもなく、言い訳をするでもなく、ただ沈黙を守る。
その静けさが、逆に紬には恐ろしかった。いつもの理都なら、「別に」とか「なんでもない」とか、何かしら防壁のような返事をするはずなのに、それすら出てこない。
「白嶺」
名前を呼んでも、理都はすぐには顔を上げなかった。
「なんで来なかったの」
「……」
「連絡くらい、できただろ」
責めるつもりなんてなかった。けれど、声にはどうしても硬さが混じった。それは怒りではなく、自分が思っていた以上に不安に呑まれていたからだと、紬自身も気づいていた。
理都はようやく、重い肺から空気を吐き出した。
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないよ」
「……」
「白嶺、どうしたんだ」
依然として返事はない。理都は水槽の縁に指先をかけたまま、泳ぐメダカを見つめている。青いラメが光を反射してきらめき、また影に消える。
「疲れてるだけ、とか言うなよ」
紬は釘を刺すように言った。少しの間を置いて、畳みかける。
「そういう顔じゃなかった」
理都の指先が、ぴくりと跳ねた。けれど、それだけだった。
「白嶺、ずっと無理してただろ」
「……別に」
「別にじゃない」
「……」
「練習のあと、最近ずっと変だったよ」
そこで初めて、理都が小さく眉を寄せた。反射的に何かを言い返そうとして、けれど言葉が見つからず、行き場を失った感情が顔に滲み出す。
「気づいてなかったと思う?」
「……気づいてない、と思ってた」
「ごめん。ちゃんとは、分かってなかったんだと思う」
それは本音だった。気にかけていたつもりだった。けれど、自分に都合のいい範囲でしか理都を見ていなかったのかもしれない。理都は不器用だけど頑張っている、少しずつ慣れてきている、クラスもまとまってきている――。
そう思いたかっただけなのだ。
けれど実際は、その「まとまり」こそが、理都の首を絞める縄になっていたのだとしたら。
「白嶺」
もう一度、今度は一歩踏み込んで名前を呼ぶ。
「僕、来ると思ってた」
「……」
「でも来なかったから、ちょっと焦ったんだ」
「……悪い」
「それはもう聞いたよ」
理都はようやく、紬の方を見た。その目の下には濃い疲労の色が張り付いていて、表情は紙のように薄い。
「じゃあ、何だよ……」
声がかすれていた。突き放しているのではなく、もう、余力が残っていないのだ。
紬はその脆い顔を見て、深く、深く息を吸い込んだ。
「何がそんなにしんどいのか、ちゃんと聞きたい」
「……」
「今のまま、平気なふりされる方が嫌だ」
理都は視線を逸らした。窓の向こう、秋の光がぼんやりと白く滲んでいる。
「平気なふりなんか、してない」
「してる」
「してない」
「してるよ」
紬は珍しく、一歩も引かなかった。理都もその気迫に気圧されたのか、わずかに目を細める。
「白嶺」
「……なに」
「ほんとは、もうずっときつかったんだろ」
理都はすぐには答えなかった。水槽の中で、メダカがゆっくりと旋回する。その小さな軌跡を瞳で追ってから、ようやく、ほとんど独り言のような声が零れた。
「……きついよ」
紬は言葉を挟まず、続きを待った。理都は喉を一度鳴らし、それから、今度は絞り出すようにはっきりと口にした。
「きついに決まってんだろ」
堰を切ったように、言葉が溢れ出す。
「最初は……どうせ誰も本気じゃなかったし。だから、ぐだぐだでも、全部俺のせいって感じじゃなかった」
「うん」
「でも今は、違うだろ」
理都の手が、水槽の縁を白くなるほど強く掴んだ。
「みんなちゃんと歌うようになって、クラスもまとまってきて、女子も男子も、前より本気で……。そうなればなるほど、俺が外したら全部終わる、みたいになる」
最後の方は、呼吸が荒くなっていた。ずっと奥底に沈めていた泥を、無理やり掻き出しているのだ。
「次うまく振れなかったらどうしようとか、自分のせいで台無しになったらどうしようとか……考えないようにしても、勝手に頭に浮かぶんだ」
「うん」
「クラスがまとまってくるの、ほんとはいいことなのに。……なんで俺、勝手に追い詰められてんのか分かんないし。意味、分かんないだろ」
自嘲気味に歪められた口元が痛々しい。紬は答えなかった。ここで安易な否定をすれば、理都は再び自分の殻に閉じこもってしまう。
「あと……」
理都が言葉を切り、躊躇うように視線を泳がせる。
「……あと?」
「……お前」
紬の心臓が、ドクンと大きく脈打った。
「僕?」
「お前が……普通に弾けるから」
「……」
「舞台だって平気そうで、クラスの中でもちゃんとしてて、誰とでも話せて……。俺だけ、ずっと場違いみたいで」
その言葉に、紬は息を止めた。
理都は初めて、紬の瞳を正面から見た。けれどその瞳は、言ってしまったことへの後悔で揺れている。
「お前の隣で、平気な顔して振ってんの、もう無理かもしれないって思った。お前はちゃんと弾いてるのに、俺だけ中身ぐちゃぐちゃで。……しかも、お前が……」
「……」
「お前が、『がんばろう』とか言うから。逃げるのも嫌になって。助かってたのも本当だけど、でも、そのせいで逃げられなかったのも本当で……!」
紬は、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。
理都は、自分を責めていただけではなかったのだ。紬が向けた善意も、言葉も、そのすべてが理都を支えると同時に、退路を断つ刃になっていた。
自分が「順調だ」と満足していた影で、理都はずっと削られ続けていた。その沈黙の重さに、自分は甘えていた。
紬は一歩、理都との距離を詰めた。
「それ、僕のせいだって言いたい?」
「……そういうわけじゃ……」
「じゃあ、どういうわけだよ」
理都が驚いたように顔を上げた。紬がこんなにも剥き出しの声を出すとは、思ってもみなかったのだろう。
「僕、白嶺がしんどいの、気づけなかった。それは本当に悪かったと思ってる」
「……うん」
「でもね、白嶺が振るから、僕は弾こうって思ったのも本当なんだよ」
それは、紬自身も驚くほど迷いのない言葉だった。理都が目を見開く。
「向いてるとか、先生の推薦とか、そういうのもあるけど……それだけじゃない。白嶺が振るから、ちゃんと合わせたいって思ったんだ」
「……なんで」
「知らないよ、そんなの」
声が震えた。けれど、もう止められなかった。
「最初は、ただ気になっただけだった。中庭で虫を追いかけてたり、図書館で本を選んでくれたり、部室で生き物の話をしてるときの白嶺が、すごく楽しそうだったから。そういうの見てたら、いつの間にか、白嶺がどう振るかで僕の気分まで変わるようになってたんだ」
理都は固まったまま、何も言わない。
紬は、さらに感情を乗せて言葉を叩きつけた。
「だから、逃げるなら勝手にすればいいなんて、絶対言いたくない。白嶺がどれだけ本気だったか知ってるのに、そこで全部投げるのを見たら、たぶん僕、本気で腹が立つ」
「駒咲……」
「だって、ずっとちゃんとやってたじゃないか。しんどくても部室に来てたし、前に立つの苦手なのに逃げなかったし、クラスのことだってちゃんと見てた。白嶺がそうやって踏ん張ってたの、僕はちゃんと見てたんだよ。……だから、今ここで自分だけ勝手に『だめだ』なんて決めるなよ!」
最後は、ほとんど叫びに近い「願い」だった。
部室の中に、再び沈黙が訪れる。水槽のモーター音だけが、無機質に鳴り続けている。
長い、長い静寂の後。
理都が、ぽつりと枯れた声を零した。
「……ずるい」
「なにが」
「そういう言い方……」
「白嶺も大概だよ」
「俺は、別に……」
「『別に』で逃げるなって」
それを言うと、理都の肩がかすかに揺れた。笑ったのか、困ったのか。
けれど、そのこわばった空気は、確実に解け始めていた。
「……明日」
「うん」
「……行く」
「うん」
「逃げない」
「うん」
紬はそれ以上、無理に言葉を重ねることはしなかった。今は、それだけで十分だった。
理都は目元を片手で覆い、それから深く、深く息を吐き出した。その呼吸は、さっきまでの浅いものより、ずっと生きている人間の音がした。
「でも、すぐには無理だ」
「分かってる」
「急に平気になんて、なれない」
「分かってるって。……明日、最初の入りだけでも合わせよう」
「……中庭?」
「嫌ならここでもいいけど?」
「……いや。……中庭でいい」
「じゃあ、中庭。いつもみたいに、ピアノアプリで出だし合わせるだけでもいいから」
「……うん」
そこでようやく、紬も肩の力を抜いた。
まだ何も解決したわけじゃない。明日の練習も、本番も、きっと困難の連続だろう。
けれど、理都が一人で水槽の前で折れてしまうことだけは、食い止められた。
「白嶺」
「なに」
「話せてよかった」
「……なんで見つかったんだよ」
「勘」
「当てるなよ、そういうの」
「無理。たぶんまた当てるよ」
理都は小さく息を吐いた。呆れたような、けれどさっきよりずっと柔らかな横顔。
帰り際、部室の扉を開ける直前。理都が背中を向けたまま、か細い声を絞り出した。
「……駒咲」
「ん?」
「ありがとう」
「……うん」
扉の外に出ると、昼休みの終わりを告げる予鈴が廊下に響き渡った。理都と紬は、一瞬だけ顔を見合わせる。
明日はまた、衆人環視の前に立たなきゃいけない。その事実は変わらない。
けれど昨日までとは、ほんの少しだけ景色が違って見える気がした。
少なくとも理都は、もう一度だけ足を踏み出そうとしている。
紬はそれを、今度こそ逃さず、見届けるつもりだった。



