カラオケのあと、クラスの空気は少しだけ変わった。
目に見えて何かが劇的に変わったわけじゃない。焼肉バイキングの話で騒ぐ連中は相変わらずだし、女子グループの笑い声も相変わらず大きい。
けれど、合唱の練習が始まったときの、あのバラバラで他人事のような白々しさは、前よりずっと薄くなっていた。
何度か音を合わせてみて、少しずつ「形」が見えてきたからだろうか。
あるいは、あのカラオケで図らずも共有してしまった、妙な連帯感の残滓のせいかもしれない。
「男子パート、前よりましじゃない?」
「この前より全然合ってるよね」
「っていうか瀬尾、ちょっと音取れるようになってない?」
女子の一人がそんなことを口にすると、蓮が大げさに胸を張った。
「だろ? 努力の男だからな、俺は」
「誰のおかげだと思ってんだ」
一景が隣で冷たく突き放す。
「俺の天性の素質」
「違うだろ」
「……浅葉先生のおかげです」
「急に素直だな」
教室にどっと笑いが起きる。
その中心に深也がいる光景は、理都にはまだ少しだけ不思議なものに見えた。
深也は相変わらず眠そうで、練習前も机に頬杖をついて欠伸をしていた。それなのに、いざ歌い出すと驚くほど正確に音を拾う。蓮が隣で音を外しそうになると、楽譜の端を指でトントンと叩いて、小さくタイミングを教えていた。
「今の、たぶんこっち」
「おっけー、もう一回」
「うん」
「浅葉、今日ちょっと機嫌よくね?」
「……眠いだけ」
「それで優しいの、意味わかんねえな」
蓮がそう言って笑うときだけ、声のトーンが少し違う。
普段のように周囲へ向けて拡散される音ではなく、もっと狭い範囲、深也の耳元だけに落とされるような響き。
理都は最初、それが何なのか分からなかった。けれど何度かその光景を目にするうちに、ああ、となんとなく察するようになった。
蓮は、深也に気がある。
たぶん、もう隠しきれていないくらいに分かりやすい。
けれど当の深也は気づいているのかいないのか、相変わらず淡々とした調子だった。
「蓮、今日の出だし、ずれなかった」
「いや、そこ褒めるとこ?」
「前はずれてたし」
「浅葉ってたまにさらっと刺してくるよな」
「事実だし」
「……でも今の、ちょっと嬉しかったわ」
「そう」
「反応うす! まあ、いいけどさ」
蓮が元気すぎるんだよ、とぼそりと返した深也の口元が、わずかに緩んでいた。
それを見た蓮が、一瞬だけ言葉に詰まり、慌てて誤魔化すように笑う。
理都は指揮台の位置からそのやり取りを眺め、ほんの少しだけ眉をひそめた。
なんなんだ、あれは。
……いや、なんなのかは分かっている。分かっているが、ああいう空気が自然に発生すること自体、今の理都には眩しすぎた。
練習を重ねるごとに、クラスは目に見えてまとまり始めていた。
最初は一部の人間だけが空回りして、他は後ろで適当に流していたのに。今は誰かが外せば誰かがカバーしようとするし、担任に言われる前に自主的に音程を確認する声があちこちで上がる。
「今の、サビに入る前がちょっと弱いかも」
「男子、もっと出した方がいい?」
「いや、出しすぎるとメロディが浮くかな……。白嶺くん、どう思う?」
不意に、こちらへ矢印が向けられる。
理都はそのたびに、肺の空気が薄くなるような感覚に陥った。
前は勝手に話が進んで、自分はただそこに立たされているだけだった。けれど今は違う。ちゃんと意見を求められる。指揮者としての判断を期待される。
それはつまり、逃げ場のない「責任」がその肩に乗ったということだ。
「……サビ前は、今より少し抑えて。入った瞬間に一気に広がる方が、メリハリが出ると思う」
「おお」
「なるほどね」
「じゃあ、もう一回そこからやってみよう」
クラスの面々が、素直に頷く。
前ならありえなかった反応だ。理都が口にした言葉を、クラス全員が「正解」として受け入れている。
その事実に驚くと同時に、胸の奥に鉛を流し込まれたような重苦しさが広がった。
(なんで、聞くんだよ……)
そんなに期待されても困る。もし自分の判断が間違っていたら。もし本番でうまくいかなくなったら。
みんなが本気になればなるほど、失敗したときの代償はすべて「真ん中で振っている自分」に帰ってくる。
練習が終わるたびに、理都の神経は薄い紙のように削り取られていった。
けれど、その摩耗に気づいている者は、まだいない。
少なくとも、紬は、まだ気づいていなかった。
「白嶺、今日よかったな」
練習後、楽譜を片付けながら紬が声をかけてくる。
「サビの入り、前より全然まとまってた。やっぱり、白嶺の振り方が見やすいんだと思う」
「……別に」
「いや、ほんとに。みんな白嶺のこと見てるよ」
紬はいつもの穏やかな顔でそう言った。
励ますつもりも、お世辞を言うつもりもなく、ただ「観測した事実」として口にする。
だからこそ、理都にはそれが凶器のように重かった。
(見やすい。まとまってた。いい感じ……)
肯定的な言葉を投げかけられるたびに、理都の中の不安は反比例して膨れ上がっていく。
次も同じようにできなかったら。今より崩れてしまったら。
期待されたあとの落胆は、最初から期待されていないときより、ずっと、ずっと痛い。
「白嶺?」
「……なに」
「いや、なんか今日、返事が薄いなって思って」
「……疲れてるだけ」
「そっか。無理しないでね」
紬はそのまま、自分の鞄に楽譜を滑り込ませた。それ以上は何も追求してこない。
本当に、ただの疲労だと思ったのだろう。それは間違いではない。疲れている。死ぬほど。
けれど、その疲れの「中身」までは、紬の視界には入っていなかった。
理都はそれに安堵し、同時に、ひどく孤独な心地になった。
放課後、部室へ向かう前の廊下で、蓮が深也を呼び止めていた。
「浅葉、今日もう帰るの?」
「……たぶん」
「たぶんって何だよ」
「眠いから。途中のベンチで座り込むかもしれないし」
「それ、帰るって言わねーだろ」
深也は階段の手すりに身を預け、眠そうに目をこすっている。
蓮はその前に立ち、落ち着かない様子でスマホの画面を何度も点けたり消したりしていた。
「……なに」
深也が怪訝そうに問う。
「いや、別に」
「別にって顔じゃないけど」
「え、何それ。白嶺みたいなこと言うじゃん」
「理都の隣にずっといるから。うつったのかも」
「そんなの移るもんなのかよ」
蓮は鼻を鳴らして笑ったあと、ふっと視線を逸らした。
そして、普段の彼ならもっと軽快に言いそうな言葉を、なぜか大切に温めるようにして口にする。
「……また、カラオケとか、行けるかな」
「また?」
「いや、合唱の練習っていうかさ。ほら、本番近いし。……ダメ?」
「蓮、ただ歌いたいだけじゃない?」
「……それもあるけどさ」
深也は少しだけ考えるように首を傾げた。そのわずかな沈黙が、蓮には永遠のように長く感じられた。
「理都も行くなら」
「お、マジで?」
「一人だと、いつ帰ればいいか分かんないから」
「じゃあ、白嶺もセットで誘うわ。決定な!」
「うん」
深也はそれで話が終わったとばかりに頷いた。蓮は明らかに安堵した顔をして、それを隠すように前髪をかき上げる。
「浅葉さ」
「ん?」
「……お前、そういうとこ、ずるいわ」
「なにが」
「いや、別に!」
結局、それ以上は言えなかった。
深也はよく分かっていない顔のまま、「じゃあ帰る」と手を上げて歩き出す。
その後ろ姿を見送りながら、蓮は小さく笑った。
教室で見せていた陽気な笑みとは違う、もっと静かで、切実な笑い方だった。
そのやり取りを少し離れた場所で眺めていた一景が、ふっと息を吐く。
「……だいぶ、分かりやすいな」
「何がだよ」
「自覚がないなら相当だぞ、お前」
「だから何の話だよ!」
「別に」
一景がそっけなく背を向けると、蓮は眉を吊り上げた。けれど追いかける間もなく、一景は悠然と歩き去っていく。蓮は納得のいかない表情のまま、その後ろを追った。
一方で理都は、すでに科学研究部の部室にいた。
けれど、今日はいつものように頭が静かにならない。
リクガメが餌を食む様子を眺めても、水槽の規則的なモーター音に耳を澄ませても、胸の奥のざわつきは一向に消えてくれなかった。
(クラスがひとつになっていく……)
それ自体は、きっと正しいことだ。
バラバラのまま本番を迎えるより、ずっといいに決まっている。
けれど、その「ひとつ」を支えているのが自分だという事実が、重すぎて息が詰まる。
前より見られている。
前より期待されている。
自分の振る棒一つで、何かが変わってしまう実感が、輪郭を持って迫ってくる。
(そんなの、無理だ……)
理都は飼育ケースの縁に手をつき、細く息を吐いた。
その呼吸が、自分でも驚くほど浅い。
そこへ、ポケットの中でスマホが短く震えた。
画面を点けると、紬からの通知だった。
『明日の練習、最初の入りをもう一回合わせたい。昼休み、少し時間あるかな?』
たった二行の文字列なのに、理都の喉がキュッと締まった。
すぐに返さなきゃ、と思うのに、指先が画面の上で動かない。
数分後、理都は震える指で短く返信した。
『ある』
それだけ打って、すぐに画面を消した。
即座に既読がつく。『ありがとう、助かる!』という弾んだ返事が返ってきた。
ありがとう。助かる。
その無垢な言葉すら、今の理都には刃のように突き刺さる。
紬は悪くない。何も悪くない。
むしろ、一番誠実に隣にいてくれるのは彼だ。
けれど、だからこそ「もし失敗したら」という恐怖が、呪いのように付きまとう。
紬の伴奏に、自分の指揮が泥を塗ったら。
クラスの熱が、自分のせいで冷めてしまったら。
考えれば考えるほど、指先がじわじわと冷えていった。
部室の中は、いつも通り静かだった。
けれど理都の頭の中だけは、激しいノイズが鳴り止まなかった。
その頃、紬はまだ、何も気づいていなかった。
理都が少しだけ返事を選ぶようになったことも、練習のあとに沈黙する時間が長くなったことも。すべて「疲れているだけ」だと信じていた。
むしろクラスがまとまってきたことで、理都も少しずつ居心地が良くなっているのだと、どこかで楽観視すらしていた。
だから、その沈黙の裏にある「重さ」を、紬はまだ知らない。
知らないまま、明日もまた無邪気に「一緒に頑張ろう」と言うつもりでいる。
それがどれだけ理都の逃げ場を塞ぎ、彼を追い詰めているのか――。
残酷なほど、気づかないまま。
目に見えて何かが劇的に変わったわけじゃない。焼肉バイキングの話で騒ぐ連中は相変わらずだし、女子グループの笑い声も相変わらず大きい。
けれど、合唱の練習が始まったときの、あのバラバラで他人事のような白々しさは、前よりずっと薄くなっていた。
何度か音を合わせてみて、少しずつ「形」が見えてきたからだろうか。
あるいは、あのカラオケで図らずも共有してしまった、妙な連帯感の残滓のせいかもしれない。
「男子パート、前よりましじゃない?」
「この前より全然合ってるよね」
「っていうか瀬尾、ちょっと音取れるようになってない?」
女子の一人がそんなことを口にすると、蓮が大げさに胸を張った。
「だろ? 努力の男だからな、俺は」
「誰のおかげだと思ってんだ」
一景が隣で冷たく突き放す。
「俺の天性の素質」
「違うだろ」
「……浅葉先生のおかげです」
「急に素直だな」
教室にどっと笑いが起きる。
その中心に深也がいる光景は、理都にはまだ少しだけ不思議なものに見えた。
深也は相変わらず眠そうで、練習前も机に頬杖をついて欠伸をしていた。それなのに、いざ歌い出すと驚くほど正確に音を拾う。蓮が隣で音を外しそうになると、楽譜の端を指でトントンと叩いて、小さくタイミングを教えていた。
「今の、たぶんこっち」
「おっけー、もう一回」
「うん」
「浅葉、今日ちょっと機嫌よくね?」
「……眠いだけ」
「それで優しいの、意味わかんねえな」
蓮がそう言って笑うときだけ、声のトーンが少し違う。
普段のように周囲へ向けて拡散される音ではなく、もっと狭い範囲、深也の耳元だけに落とされるような響き。
理都は最初、それが何なのか分からなかった。けれど何度かその光景を目にするうちに、ああ、となんとなく察するようになった。
蓮は、深也に気がある。
たぶん、もう隠しきれていないくらいに分かりやすい。
けれど当の深也は気づいているのかいないのか、相変わらず淡々とした調子だった。
「蓮、今日の出だし、ずれなかった」
「いや、そこ褒めるとこ?」
「前はずれてたし」
「浅葉ってたまにさらっと刺してくるよな」
「事実だし」
「……でも今の、ちょっと嬉しかったわ」
「そう」
「反応うす! まあ、いいけどさ」
蓮が元気すぎるんだよ、とぼそりと返した深也の口元が、わずかに緩んでいた。
それを見た蓮が、一瞬だけ言葉に詰まり、慌てて誤魔化すように笑う。
理都は指揮台の位置からそのやり取りを眺め、ほんの少しだけ眉をひそめた。
なんなんだ、あれは。
……いや、なんなのかは分かっている。分かっているが、ああいう空気が自然に発生すること自体、今の理都には眩しすぎた。
練習を重ねるごとに、クラスは目に見えてまとまり始めていた。
最初は一部の人間だけが空回りして、他は後ろで適当に流していたのに。今は誰かが外せば誰かがカバーしようとするし、担任に言われる前に自主的に音程を確認する声があちこちで上がる。
「今の、サビに入る前がちょっと弱いかも」
「男子、もっと出した方がいい?」
「いや、出しすぎるとメロディが浮くかな……。白嶺くん、どう思う?」
不意に、こちらへ矢印が向けられる。
理都はそのたびに、肺の空気が薄くなるような感覚に陥った。
前は勝手に話が進んで、自分はただそこに立たされているだけだった。けれど今は違う。ちゃんと意見を求められる。指揮者としての判断を期待される。
それはつまり、逃げ場のない「責任」がその肩に乗ったということだ。
「……サビ前は、今より少し抑えて。入った瞬間に一気に広がる方が、メリハリが出ると思う」
「おお」
「なるほどね」
「じゃあ、もう一回そこからやってみよう」
クラスの面々が、素直に頷く。
前ならありえなかった反応だ。理都が口にした言葉を、クラス全員が「正解」として受け入れている。
その事実に驚くと同時に、胸の奥に鉛を流し込まれたような重苦しさが広がった。
(なんで、聞くんだよ……)
そんなに期待されても困る。もし自分の判断が間違っていたら。もし本番でうまくいかなくなったら。
みんなが本気になればなるほど、失敗したときの代償はすべて「真ん中で振っている自分」に帰ってくる。
練習が終わるたびに、理都の神経は薄い紙のように削り取られていった。
けれど、その摩耗に気づいている者は、まだいない。
少なくとも、紬は、まだ気づいていなかった。
「白嶺、今日よかったな」
練習後、楽譜を片付けながら紬が声をかけてくる。
「サビの入り、前より全然まとまってた。やっぱり、白嶺の振り方が見やすいんだと思う」
「……別に」
「いや、ほんとに。みんな白嶺のこと見てるよ」
紬はいつもの穏やかな顔でそう言った。
励ますつもりも、お世辞を言うつもりもなく、ただ「観測した事実」として口にする。
だからこそ、理都にはそれが凶器のように重かった。
(見やすい。まとまってた。いい感じ……)
肯定的な言葉を投げかけられるたびに、理都の中の不安は反比例して膨れ上がっていく。
次も同じようにできなかったら。今より崩れてしまったら。
期待されたあとの落胆は、最初から期待されていないときより、ずっと、ずっと痛い。
「白嶺?」
「……なに」
「いや、なんか今日、返事が薄いなって思って」
「……疲れてるだけ」
「そっか。無理しないでね」
紬はそのまま、自分の鞄に楽譜を滑り込ませた。それ以上は何も追求してこない。
本当に、ただの疲労だと思ったのだろう。それは間違いではない。疲れている。死ぬほど。
けれど、その疲れの「中身」までは、紬の視界には入っていなかった。
理都はそれに安堵し、同時に、ひどく孤独な心地になった。
放課後、部室へ向かう前の廊下で、蓮が深也を呼び止めていた。
「浅葉、今日もう帰るの?」
「……たぶん」
「たぶんって何だよ」
「眠いから。途中のベンチで座り込むかもしれないし」
「それ、帰るって言わねーだろ」
深也は階段の手すりに身を預け、眠そうに目をこすっている。
蓮はその前に立ち、落ち着かない様子でスマホの画面を何度も点けたり消したりしていた。
「……なに」
深也が怪訝そうに問う。
「いや、別に」
「別にって顔じゃないけど」
「え、何それ。白嶺みたいなこと言うじゃん」
「理都の隣にずっといるから。うつったのかも」
「そんなの移るもんなのかよ」
蓮は鼻を鳴らして笑ったあと、ふっと視線を逸らした。
そして、普段の彼ならもっと軽快に言いそうな言葉を、なぜか大切に温めるようにして口にする。
「……また、カラオケとか、行けるかな」
「また?」
「いや、合唱の練習っていうかさ。ほら、本番近いし。……ダメ?」
「蓮、ただ歌いたいだけじゃない?」
「……それもあるけどさ」
深也は少しだけ考えるように首を傾げた。そのわずかな沈黙が、蓮には永遠のように長く感じられた。
「理都も行くなら」
「お、マジで?」
「一人だと、いつ帰ればいいか分かんないから」
「じゃあ、白嶺もセットで誘うわ。決定な!」
「うん」
深也はそれで話が終わったとばかりに頷いた。蓮は明らかに安堵した顔をして、それを隠すように前髪をかき上げる。
「浅葉さ」
「ん?」
「……お前、そういうとこ、ずるいわ」
「なにが」
「いや、別に!」
結局、それ以上は言えなかった。
深也はよく分かっていない顔のまま、「じゃあ帰る」と手を上げて歩き出す。
その後ろ姿を見送りながら、蓮は小さく笑った。
教室で見せていた陽気な笑みとは違う、もっと静かで、切実な笑い方だった。
そのやり取りを少し離れた場所で眺めていた一景が、ふっと息を吐く。
「……だいぶ、分かりやすいな」
「何がだよ」
「自覚がないなら相当だぞ、お前」
「だから何の話だよ!」
「別に」
一景がそっけなく背を向けると、蓮は眉を吊り上げた。けれど追いかける間もなく、一景は悠然と歩き去っていく。蓮は納得のいかない表情のまま、その後ろを追った。
一方で理都は、すでに科学研究部の部室にいた。
けれど、今日はいつものように頭が静かにならない。
リクガメが餌を食む様子を眺めても、水槽の規則的なモーター音に耳を澄ませても、胸の奥のざわつきは一向に消えてくれなかった。
(クラスがひとつになっていく……)
それ自体は、きっと正しいことだ。
バラバラのまま本番を迎えるより、ずっといいに決まっている。
けれど、その「ひとつ」を支えているのが自分だという事実が、重すぎて息が詰まる。
前より見られている。
前より期待されている。
自分の振る棒一つで、何かが変わってしまう実感が、輪郭を持って迫ってくる。
(そんなの、無理だ……)
理都は飼育ケースの縁に手をつき、細く息を吐いた。
その呼吸が、自分でも驚くほど浅い。
そこへ、ポケットの中でスマホが短く震えた。
画面を点けると、紬からの通知だった。
『明日の練習、最初の入りをもう一回合わせたい。昼休み、少し時間あるかな?』
たった二行の文字列なのに、理都の喉がキュッと締まった。
すぐに返さなきゃ、と思うのに、指先が画面の上で動かない。
数分後、理都は震える指で短く返信した。
『ある』
それだけ打って、すぐに画面を消した。
即座に既読がつく。『ありがとう、助かる!』という弾んだ返事が返ってきた。
ありがとう。助かる。
その無垢な言葉すら、今の理都には刃のように突き刺さる。
紬は悪くない。何も悪くない。
むしろ、一番誠実に隣にいてくれるのは彼だ。
けれど、だからこそ「もし失敗したら」という恐怖が、呪いのように付きまとう。
紬の伴奏に、自分の指揮が泥を塗ったら。
クラスの熱が、自分のせいで冷めてしまったら。
考えれば考えるほど、指先がじわじわと冷えていった。
部室の中は、いつも通り静かだった。
けれど理都の頭の中だけは、激しいノイズが鳴り止まなかった。
その頃、紬はまだ、何も気づいていなかった。
理都が少しだけ返事を選ぶようになったことも、練習のあとに沈黙する時間が長くなったことも。すべて「疲れているだけ」だと信じていた。
むしろクラスがまとまってきたことで、理都も少しずつ居心地が良くなっているのだと、どこかで楽観視すらしていた。
だから、その沈黙の裏にある「重さ」を、紬はまだ知らない。
知らないまま、明日もまた無邪気に「一緒に頑張ろう」と言うつもりでいる。
それがどれだけ理都の逃げ場を塞ぎ、彼を追い詰めているのか――。
残酷なほど、気づかないまま。



