きみと指揮する青の時間

 カラオケのあと、クラスの空気は少しだけ変わった。
 目に見えて何かが劇的に変わったわけじゃない。焼肉バイキングで騒ぐやつは相変わらず騒いでいるし、女子グループの声も相変わらず大きい。けれど、合唱の練習が始まったときの、どこかばらばらで、他人事みたいな空気は前より薄くなっていた。
 たぶん、何回か合わせてみて、少しずつ形が見えてきたからだ。  あと、カラオケで妙に盛り上がった勢いも、まだ少し残っているのかもしれない。
「男子パート、前よりましじゃない?」 「この前より全然合ってる」 「ていうか瀬尾、ちょっと音取れるようになってない?」
 女子のひとりがそんなことを言うと、蓮が大げさに胸を張る。
「だろ? 努力の男だから」 「誰のおかげだよ」  一景が冷たく返す。 「俺の素質」 「違うだろ」 「浅葉先生のおかげです」 「急に素直」
 笑いが起きる。  その中心に深也がいるのが、理都にはまだ少し不思議だった。
 深也は相変わらず眠そうで、練習が始まる前も机に頬杖をついて欠伸をしていたくせに、いざ歌うとなるとちゃんと音を拾う。蓮が隣で外しそうになると、楽譜の端を指で叩いて小さくタイミングを教えていた。
「今の、たぶんこっち」 「おっけー、もう一回」 「うん」 「浅葉、今日ちょっと機嫌よくね?」 「眠いだけ」 「それで優しいの、意味わかんねえな」
 蓮がそんなふうに笑うときだけ、声の調子が少し違う。  普段みたいに周りへ向けて広がる感じじゃなくて、近くで落ちる。  理都は最初、それが何なのか分からなかったが、何度か見ているうちに、ああ、となんとなく察するようになった。
 蓮は深也に気がある。  たぶん、もうわりと分かりやすい。  でも深也は気づいているのかいないのか、相変わらずの調子だった。
「蓮、今日出だしずれなかった」 「いやそこ褒めるとこ?」 「前はずれてたし」 「浅葉ってたまに刺してくるよな」 「事実」 「でも今の、ちょっと嬉しかった」 「そう」 「反応うす」 「蓮が元気すぎるんだよ」
 そう言った深也の口元が、少しだけゆるんでいた。  蓮はそれを見て、なぜか一瞬言葉に詰まり、それから誤魔化すみたいに笑った。
 理都は指揮者の位置からそのやりとりを見て、ほんの少しだけ眉をひそめる。  なんなんだ、あれ。  いや、なんなのかは分かる。  分かるが、ああいう空気が自然にできるのは単純にすごいと思った。
 練習を重ねるごとに、クラスは少しずつまとまり始めていた。
 最初は目立つやつらだけが張り切って、そうじゃないやつらは後ろで流していたのに、今は誰かが外せば誰かが合わせようとするし、担任が言う前に女子が音程の確認を始めたり、男子も男子でそれなりに声を出すようになっている。
「今の、サビ入る前ちょっと弱いかも」 「男子もっと出した方がいい?」 「いや、出しすぎると浮く」 「白嶺くん、どう?」
 そうやって聞かれる回数も増えた。
 理都はそのたびに少しだけ息を詰める。  前は勝手に話が進んで、自分は置いていかれるだけだった。けれど今は違う。ちゃんと聞かれる。指揮者としての意見を求められる。
 それはつまり、責任が増えたということでもあった。
「……サビ前は、今より少し抑えて、入ったときに広がる方がいいと思う」 「おお」 「なるほど」 「じゃあもう一回そこからやろ」
 周りが素直に頷く。  前ならありえなかった反応だ。  理都が言ったことを、クラスが一応ちゃんと聞いている。
 そのことに少しだけ驚くと同時に、胸の奥が重くなった。
 なんで聞くんだよ。  そんなに期待されても困る。  もし間違ってたらどうするんだ。  うまくいかなくなったら、今度こそ完全に自分のせいになる。
 そんな考えが、練習の回数を重ねるごとに少しずつ増えていった。
 クラスがまとまっていくほど、理都の肩には重さが乗る。  最初は誰も本気じゃなかった。だから失敗しても、自分だけが悪い感じじゃなかった。  でも今は違う。みんなが少しずつ本気になっている。その真ん中で振るのが、自分だ。
 練習が終わるたびに、理都の神経は少しずつ削れていった。
 しかも、その変化に気づいているやつはあまりいない。
 少なくとも紬は、まだ気づいていなかった。
「白嶺、今日よかったな」    練習後、楽譜を片づけながら紬が言う。
「サビの入り、前より全然まとまってた」 「……そう」 「やっぱり白嶺の振り方、見やすいんだと思う」 「別に」 「いや、ほんとに」
 紬はいつものやわらかい顔でそう言う。  励ますつもりも、持ち上げるつもりもなく、ただ事実みたいに口にする。  だから余計に重い。
 見やすい。  まとまってた。  いい感じ。
 そんな言葉をかけられるたびに、理都の中では逆に不安が膨らんでいく。  次もうまくやれなかったらどうする。  今より崩れたらどうする。  期待されたあとに失敗するのは、最初から下手だと思われているよりずっときつい。
「白嶺?」 「……なに」 「いや、なんか今日、返事薄いなって」 「疲れてるだけ」 「そっか」
 紬はそのまま楽譜を鞄にしまった。  それ以上は何も言わなかった。
 たぶん、本当に疲れているように見えたんだろう。  それは間違っていない。疲れている。ものすごく。  ただ、その疲れ方の中身までは、まだ紬には見えていない。
 理都はそれに少しだけ安堵して、同時に、少しだけ苦しくなった。

 放課後、部室に向かう前の廊下で、蓮が深也を待ち伏せしていた。
「浅葉、今日もう帰る?」 「たぶん」 「たぶんって何」 「眠いから途中で座るかも」 「それ帰るって言わなくね?」
 深也は階段の手すりに軽くもたれて、眠そうに目をこすっていた。  蓮はそんな深也の前に立って、妙に落ち着かない様子でスマホをいじる。
「なに」  深也が聞く。 「いや別に」 「別にって顔じゃない」 「え、何それ。白嶺みたいなこと言うじゃん」 「理都の近くにいるから」 「それ移るもんなんだ」
 蓮は笑ったあと、少しだけ視線を逸らした。  それから、普段ならもっと軽く言いそうなことを、なぜか少しだけ言いよどんでから口にする。
「……また、カラオケとか行ける?」 「また?」 「いや、合唱の練習っていうか。ほら、まだ本番前だし」 「蓮、また歌いたいだけじゃない?」 「それもあるけど」
 深也は少しだけ考えるように首を傾げた。  その沈黙の数秒が、蓮にはやけに長く感じられた。
「理都も行くなら」 「お、まじ?」 「一人だと帰るタイミング分かんないし」 「じゃあ白嶺もセットで誘うわ」 「うん」
 深也はそれで話が終わったみたいに頷いた。  蓮は明らかにほっとした顔をして、それを誤魔化すみたいに前髪をかき上げる。
「浅葉さ」 「ん?」 「お前、そういうとこずるい」 「何が」 「いや、別に」
 結局それ以上は言えない。  深也はよく分かっていない顔のまま、「じゃあ帰る」と手を上げて歩き出した。
 その後ろ姿を見ながら、蓮は少しだけ笑う。  さっきまでの教室で見せていた軽い笑い方とは違う、もっと小さくて静かな笑い方だった。
 そのやりとりを少し離れたところで見ていた一景が、ふっと息を吐く。
「だいぶ分かりやすいな」 「何が」 「自覚ないなら相当だぞ」 「だから何の話だよ」 「別に」
 一景がそう返すと、蓮は眉を寄せた。  でも追及する前に、一景はもう先へ歩き出している。  蓮は納得いかない顔のまま、そのあとを追った。
 一方で理都は、その頃すでに部室にいた。
 飼育ケースの前に立っていても、今日はあまり頭が静かにならない。  リクガメが餌を食べるのを見ても、水槽のモーター音を聞いても、胸の奥のざわつきはうまく消えなかった。
 クラスがひとつになっていく。  それ自体は、たぶんいいことだ。  最初みたいなばらばらのまま本番に行くより、ずっといい。  でも、その中心で振っているのが自分だと思うと、息が詰まりそうになる。
 前より見られている。  前より期待されている。  前より、自分の手ひとつで何かが変わる感じがある。
 そんなの、荷が重すぎる。
 理都はケースの縁に手をついて、小さく息を吐いた。  その息が、自分で思っていたよりずっと浅かった。
 そこへ、スマホが震える。
 画面を見ると、紬からだった。
 明日の練習、最初の入りもう一回合わせたい  昼休み少し時間ある?
 たったそれだけの連絡なのに、理都の喉が少し詰まる。  ちゃんと返さなきゃと思うのに、指が止まる。  少ししてから、理都は短く返した。
 ある
 それだけ打って、画面を消す。  すぐに既読がついて、ありがとう、助かる、という返事が来た。
 ありがとう。  助かる。
 その言葉すら、今の理都には重かった。
 紬は悪くない。  何も悪くない。  むしろ一番ちゃんと隣にいてくれるのは紬だ。  でも、だからこそ、うまくできなかったときのことを考えてしまう。
 紬の伴奏に、自分の指揮が追いつかなかったら。  クラスがせっかくまとまってきたのに、自分のせいで崩れたら。
 そう考えるたびに、胸の奥がじわじわ冷えていった。
 部室の中は静かだった。  でも理都の頭の中だけが、ずっと落ち着かなかった。
 その頃、紬はまだ、それに気づいていなかった。
 理都が少し返事を選ぶようになったことも、練習のあと黙る時間が長くなったことも、疲れているだけだと思っていた。  むしろクラスがまとまってきたことで、理都も少しずつやりやすくなっているのだと、どこかで思っていた。
 だから、理都の沈黙の重さを、まだ知らない。
 知らないまま、明日もまた「一緒にがんばろう」と言うつもりでいる。
 それがどれだけ理都の逃げ場を塞いでいるのか、まだ気づかないまま。