連絡先、交換しない?
放課後の廊下で紬にそう言われたとき、理都は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……は?」 「合唱コンクールの連絡、先生その場で全部言うとは限らないだろ。急に練習場所変わったり、プリント追加になったりもするし」 「……ああ」 「そのたびに部室までプリント届けに行くのも、さすがに面倒だし」
そう言って、紬はスマホを軽く持ち上げた。
正論だった。 合唱コンクール関係の連絡は、実際ここ数日だけでも細かく変わっている。伴奏と指揮で共有しておいた方がいいというのも、その通りだ。
その通りなのに、理都の鼓動だけが全然納得してくれない。
「嫌なら別に無理にとは言わないけど」 「嫌とかじゃなくて」 「じゃあいい?」
押しつけがましくないのに、断りにくい言い方をする。 理都は小さく息を飲んでから、自分のスマホを取り出した。
「……必要なら」 「うん。必要」
紬は少し笑って、自然な手つきで画面を差し出してくる。 理都はその距離の近さに変な緊張を覚えながら、なんとか連絡先を交換した。
登録名に「駒咲紬」の文字が入る。 ただそれだけのことなのに、妙に現実感がなかった。
「ありがと」 「別に」 「これで連絡しやすくなるな」 「そうだな」
その返事が少しだけ硬かった自覚はある。 でも紬は気にした様子もなく、「じゃあまた明日」と手を振って廊下の向こうへ行った。
理都はしばらくその場に立ったまま、自分のスマホの画面を見ていた。
連絡先を交換した。 ただそれだけだ。 合唱コンクールのための、必要なやつ。 別に特別な意味なんてない。
ない、はずなのに。
「理都、廊下で止まってる」
背後から深也の声がして、理都は慌ててスマホをしまった。
「……うるさい」 「今の、駒咲?」 「見てたのかよ」 「見えるし」 「最近そればっかだな」 「便利な言葉だから」
深也は眠そうな顔のままそう言って、先に階段を下りていく。 理都はその背中を見ながら、小さくため息を吐いた。
翌日の練習は、男子パートのペア練習から始まった。
担任が「低音弱いから、今日は男子ちゃんと詰めるぞ」と宣言したせいだ。 女子は女子で別に音取りをしていて、音楽室のあちこちで小さな声が重なっている。
「じゃあ適当に二人組つくれ」 その一言で、男子たちはなんとなく近くのやつと組み始めた。 理都は深也の方へ行こうとしたが、その前に担任が適当に指をさす。
「浅葉、瀬尾」 「え、俺?」 「音程怪しいやつ、合わせとけ」 「ひど」
蓮はそう言いながらも、わりと素直に深也の方へ寄った。 深也は「うん」とだけ言って、楽譜を少し持ち上げる。
理都は少し離れた位置からその様子を見ていた。 見ていたというか、気になった。 蓮は普段、クラスの中心の方にいるやつだ。茶髪で、ノリが軽くて、声も大きい。深也みたいな、眠そうでふわっとしているタイプとどう会話するのか、少し想像がつかなかった。
「ここ?」 「うん、そこからでいいんじゃない」 「いや、俺マジで音取れんのだけど」 「今のは半音ずれてた」 「え、そんなはっきり言う?」 「でも分かった方がよくない?」 「……いや、そうだけど」
蓮は苦笑して、もう一度歌う。 外した。 深也は笑わない。 ただ、楽譜のその部分を指で示して、「こっちの音の方が近い」と言うだけだ。
「もう一回」 「えー」 「今の惜しかったし」 「惜しかった?」 「たぶん」 「そのたぶん信用していい?」 「だめかも」 「どっちだよ」
そこで蓮が笑った。 でもその笑い方は、普段クラスで見かけるやつより少しだけ静かだった。
理都はそこではじめて気づいた。 蓮、深也相手だと妙に声がやわらかい。 言い方が少し違う。 普段みたいに勢いで押す感じがない。
深也がまた音を拾って歌う。 眠そうな顔のままなのに、声は意外とまっすぐで、音程も安定していた。
「え、浅葉うまくね?」 「普通」 「普通じゃなくね?」 「そう?」 「いや、マジで上手いだろ」
蓮はそう言って、少しだけ笑った。 そのときの顔が、なんというか、いつもの軽さと少し違って見えた。
理都は楽譜に目を戻した。 戻したが、なんとなく気になってしまう。
ペア練習のあと、休憩のタイミングで蓮が紬の方へ行った。 一景も近くにいる。 何を話しているのかまでは聞こえなかったが、少ししてから紬がこっちを向いた。
嫌な予感がした。
「白嶺」 「……なに」 「今週の土曜、空いてる?」 「は?」
やっぱりそう来た。 理都は眉を寄せる。
「なんで」 「蓮がさ、カラオケ行こうって」 「嫌だが」 「即答だな」
横から一景が小さく言った。 それに対して、蓮はまったくめげない。
「いや、合唱の練習も兼ねてだって。男子パートやばいし」 「お前の音程を直したいだけでは」 「それもあるけど?」
開き直るなよ。 理都は心の中でだけ突っ込んだ。
「紬と一景は来るし」 「だから?」 「浅葉も誘ってる」 「……は?」
理都は深也を見た。 深也は少し離れた位置で、いつもの眠そうな顔のまま立っている。
「行くのか?」 「まだ返事してない」 「浅葉、来てくれたら助かるんだけど」 蓮がそう言う。 その言い方が、理都には少しだけ不思議だった。 軽いのに、妙にやわらかい。 さっきのペア練習の延長みたいな声だった。
「別に俺じゃなくてもよくね?」 「いや、浅葉の音取り分かりやすかったし」 「そう?」 「うん。あと普通に話しやすいし」
深也は「ふうん」とだけ言った。 それ以上特に照れるでもなく、困るでもなく、平坦だ。 でも蓮はそれに対してまったく引かない。むしろちょっとだけ嬉しそうに見える。
一景が呆れたように口を挟む。
「お前、浅葉を口説くみたいな誘い方やめろ」 「は? 違うし」 「違うならもっと普通に言え」 「普通に言ってるだろ」 「いや、お前相手によってテンション変わりすぎ」
蓮は「うるさ」と返したが、図星だったらしく少しだけ耳が赤い。 理都はますます意味が分からなくなった。
紬がそこで、少しだけ笑いながら理都を見る。
「白嶺も行こうよ」 「なんで俺まで」 「浅葉も行くなら、白嶺いた方が気楽じゃない?」 「それ、俺じゃなくて深也の都合だろ」 「でも、僕も白嶺いてくれた方がいい」 「……」
そう言われると、弱い。 理都は露骨に顔をしかめた。
「嫌なら無理にとは言わないけど」 「その言い方ずるいんだよ」 「え、そうか?」 「そうだろ」
紬は少しだけ目を丸くして、それから肩を揺らして笑った。 一景がその様子を静かに見ていて、蓮はもう深也に「来れる?」と聞いている。
場の流れが完全に決まりかけていた。
「……深也、お前ほんとに行くのか」 「理都が行くなら」 「なんで俺基準なんだよ」 「一人だと帰りそうだし」 「それはそう」
そう返してしまった時点で、もう終わりだった。
「じゃあ決まりな」 「決まってない」 「いや今のはほぼ決まりだろ」 「違う」 「白嶺、土曜、昼からでいい?」 紬がスマホを出しながら聞いてくる。 連絡先交換したばかりの画面を、そんなふうに自然に使うなよと思うのに、理都はもう断る言葉を失っていた。
「……好きにしろ」 「じゃあ昼で送る」 「勝手に決めるなよ」 「返事しただろ」 「してない」 「してるようなもんだって」
蓮が笑う。 深也も「たしかに」とぼそっと言った。 味方がいない。
土曜。 カラオケ。 五人。 最悪だ。
理都はその三つの単語だけで少し頭が痛くなった。
そして土曜。
駅前のカラオケ店の前で、理都は本気で帰りたかった。
来るんじゃなかった。 何が「好きにしろ」だ。全然好きにさせるべきじゃなかった。あの場でちゃんと断るべきだった。
「白嶺、顔死んでる」 一景が横で言った。 こいつはこいつで普通に来ているのがすごい。黒髪眼鏡で高身長のくせに、休日のカラオケ前に立っていても妙に馴染んでいる。
「死ぬだろ」 「まだ入ってもない」 「だからだよ」
その少し前では、蓮が深也に何か話しかけていた。 深也は相変わらず眠そうなまま相槌を打っている。蓮は普段より少しだけ声を落としていて、妙に楽しそうだ。
紬が理都の隣に来る。
「ほんとに来たな」 「来たくて来たみたいに言うな」 「でも帰らなかった」 「……深也がいたから」 「そっか」
紬はそれ以上何も言わずに笑った。 そういう笑い方をされると、少しだけ肩の力が抜ける。
受付を済ませて部屋に入ると、理都はますます落ち着かなくなった。 狭い個室。 ソファ。 マイク。 モニター。 全部が苦手な空気の集合体みたいだった。
「とりあえず、最初どうする?」 蓮がリモコンを手にする。 妙に張り切っている。
「お前、練習目的だろ」 一景が冷静に言う。 「分かってるって。じゃあ、合唱っぽい曲入れる?」 「カラオケで合唱っぽい曲って何」 「知らん」 「知らんで進めるな」
そのやりとりを聞きながら、理都はできるだけ端の席に座った。 深也が隣に来る。 それだけで少しだけ安心する。
最初に歌い出したのは蓮だった。 案の定、音程はちょっと怪しい。 でも声量はあるし、本人が楽しそうだから部屋の空気は一気に軽くなる。
「お前、惜しいんだよな」 一景が言う。 「惜しいって何だよ」 「壊滅的ではない」 「フォローになってなくね?」 「でも前よりまし」 深也がそう言うと、蓮はぱっとそっちを見た。
「え、ほんと?」 「たぶん」 「そのたぶん信じていい?」 「だめかも」 「またそれ?」
でも蓮は嬉しそうだった。 分かりやすいな、と理都は思う。
紬が次にマイクを取った。 イントロが流れた瞬間、部屋の空気が少し変わる。
歌い出した紬の声は、理都が思っていたよりずっとまっすぐだった。 舞台の台詞とは違う。もっと素に近いのに、それでもちゃんと人を引っ張る響きがある。
理都は黙ってそれを聞いた。 見ないようにしようと思ったのに、気づけば目で追っていた。
歌うときの紬は、やっぱり少し特別に見える。 マイクを持つ指先とか、サビで少しだけ細くなる目とか、そういう細かいところまで変に目に入る。 見惚れてる場合じゃないだろ、と頭では思うのに、どうしても視線が離れない。
「白嶺」
名前を呼ばれて、理都ははっとした。 紬が歌い終わって、笑っている。
「え、何」 「今、すごい聞いてた」 「普通だろ」 「ふうん」
絶対分かって言ってるだろ。 理都は視線を逸らした。
「次、理都な」 蓮が当然みたいにマイクを差し出してくる。 理都は本気で固まった。
「は?」 「いや一曲くらい歌うだろ」 「歌わない」 「ここまで来て?」 「来たくて来たわけじゃないし」 「でも練習も兼ねてるし」 「合唱とソロは違うだろ」 「まあそれはそう」 「でも却下」 「白嶺、そんな即却下する?」
紬が笑いながら言う。 一景まで「一曲くらいなら死なないだろ」と淡々と追い打ちをかける。 深也は隣で「理都、声は悪くないと思う」とぼそっと言った。
なんで全員そっち側なんだよ。
理都は観念してリモコンを取った。 変に目立つ曲は嫌だ。盛り上がるのも嫌だ。無難で、低めで、できれば早く終わるやつ。 そうやって選んだ曲を入れる。
「へえ、その曲なんだ」 紬が言う。 「悪いか」 「いや。白嶺っぽい」
何がだよ。 そう返す余裕もないまま、イントロが流れた。
歌い出した瞬間、部屋が少し静かになった気がした。 理都はそれに気づかないふりをして、画面だけを見る。 下手ではいたくない。でもうまく聞かせたいわけでもない。とにかく早く終われ、と思いながら歌った。
歌い終わって、マイクを置く。 数秒、変な沈黙が落ちた。
「え、白嶺、普通にうまくね?」 最初に言ったのは蓮だった。 「思った」 一景も続く。 深也は「だから言った」とだけ言う。
紬は少しだけ目を丸くしたあと、まっすぐ理都を見た。
「白嶺、歌うまいな」
その一言が、変に真っ直ぐで困る。 理都は視線を合わせられなくなった。
「……別に普通」 「いや、普通じゃないだろ」 「瀬尾は黙ってろ」 「なんで俺にだけ当たり強いんだよ」 「圧が強いから」 「ひど」
部屋の中に笑いが起きる。 理都はその空気の中で、ひとりだけ体温が上がっていくのを感じていた。
カラオケなんて来たくなかった。 今も別に得意ではない。 でも、思っていたより最悪ではなかった。
蓮は深也にばかり話しかけているし、深也は深也で不思議なくらい普通に受け流しているし、一景は時々冷静に突っ込みながらもちゃんと場にいる。 紬はそういう全部を自然につないでいて、理都が置いていかれない程度にちゃんとこちらにも目を向けてくる。
そのことに、理都は途中で気づいた。
紬は別に、誰にでも同じようにやさしいわけじゃない。 ちゃんと見て、少しずつ距離を調整している。 たぶん今も、理都が無理しすぎないように少し気を配っている。
その事実が、また胸の奥に残った。
帰り道、駅前の灯りの下で五人がなんとなく並ぶ。 蓮は「次までにもっと音程直すわ」と言っていて、その横で深也が「たぶん直るんじゃない」と眠そうに返す。 蓮の顔が、それだけでちょっとやわらぐ。
一景はその様子を見て小さくため息をつき、紬は笑っていた。
「白嶺」 「なに」 「今日は来てくれてよかった」 「……別に」 「それ、最近の白嶺の便利な返事だよな」 「うるさい」 「でも、最初よりちゃんと喋ってた」 「気のせい」 「気のせいじゃないって」
紬はそう言って笑う。 理都はまた視線を逸らしたが、前ほど居心地は悪くなかった。
たぶん、今日のことで何かが少し変わった。 劇的なことじゃない。 でも、クラスの中でも、この五人の中でも、自分の立ち位置がほんの少しだけ変わり始めている気がした。
その感覚をどう扱えばいいのか、理都にはまだ分からない。
ただ、駅前で別れたあとも、紬に「歌うまい」と言われた声だけは、しつこいくらい耳の奥に残っていた。
放課後の廊下で紬にそう言われたとき、理都は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……は?」 「合唱コンクールの連絡、先生その場で全部言うとは限らないだろ。急に練習場所変わったり、プリント追加になったりもするし」 「……ああ」 「そのたびに部室までプリント届けに行くのも、さすがに面倒だし」
そう言って、紬はスマホを軽く持ち上げた。
正論だった。 合唱コンクール関係の連絡は、実際ここ数日だけでも細かく変わっている。伴奏と指揮で共有しておいた方がいいというのも、その通りだ。
その通りなのに、理都の鼓動だけが全然納得してくれない。
「嫌なら別に無理にとは言わないけど」 「嫌とかじゃなくて」 「じゃあいい?」
押しつけがましくないのに、断りにくい言い方をする。 理都は小さく息を飲んでから、自分のスマホを取り出した。
「……必要なら」 「うん。必要」
紬は少し笑って、自然な手つきで画面を差し出してくる。 理都はその距離の近さに変な緊張を覚えながら、なんとか連絡先を交換した。
登録名に「駒咲紬」の文字が入る。 ただそれだけのことなのに、妙に現実感がなかった。
「ありがと」 「別に」 「これで連絡しやすくなるな」 「そうだな」
その返事が少しだけ硬かった自覚はある。 でも紬は気にした様子もなく、「じゃあまた明日」と手を振って廊下の向こうへ行った。
理都はしばらくその場に立ったまま、自分のスマホの画面を見ていた。
連絡先を交換した。 ただそれだけだ。 合唱コンクールのための、必要なやつ。 別に特別な意味なんてない。
ない、はずなのに。
「理都、廊下で止まってる」
背後から深也の声がして、理都は慌ててスマホをしまった。
「……うるさい」 「今の、駒咲?」 「見てたのかよ」 「見えるし」 「最近そればっかだな」 「便利な言葉だから」
深也は眠そうな顔のままそう言って、先に階段を下りていく。 理都はその背中を見ながら、小さくため息を吐いた。
翌日の練習は、男子パートのペア練習から始まった。
担任が「低音弱いから、今日は男子ちゃんと詰めるぞ」と宣言したせいだ。 女子は女子で別に音取りをしていて、音楽室のあちこちで小さな声が重なっている。
「じゃあ適当に二人組つくれ」 その一言で、男子たちはなんとなく近くのやつと組み始めた。 理都は深也の方へ行こうとしたが、その前に担任が適当に指をさす。
「浅葉、瀬尾」 「え、俺?」 「音程怪しいやつ、合わせとけ」 「ひど」
蓮はそう言いながらも、わりと素直に深也の方へ寄った。 深也は「うん」とだけ言って、楽譜を少し持ち上げる。
理都は少し離れた位置からその様子を見ていた。 見ていたというか、気になった。 蓮は普段、クラスの中心の方にいるやつだ。茶髪で、ノリが軽くて、声も大きい。深也みたいな、眠そうでふわっとしているタイプとどう会話するのか、少し想像がつかなかった。
「ここ?」 「うん、そこからでいいんじゃない」 「いや、俺マジで音取れんのだけど」 「今のは半音ずれてた」 「え、そんなはっきり言う?」 「でも分かった方がよくない?」 「……いや、そうだけど」
蓮は苦笑して、もう一度歌う。 外した。 深也は笑わない。 ただ、楽譜のその部分を指で示して、「こっちの音の方が近い」と言うだけだ。
「もう一回」 「えー」 「今の惜しかったし」 「惜しかった?」 「たぶん」 「そのたぶん信用していい?」 「だめかも」 「どっちだよ」
そこで蓮が笑った。 でもその笑い方は、普段クラスで見かけるやつより少しだけ静かだった。
理都はそこではじめて気づいた。 蓮、深也相手だと妙に声がやわらかい。 言い方が少し違う。 普段みたいに勢いで押す感じがない。
深也がまた音を拾って歌う。 眠そうな顔のままなのに、声は意外とまっすぐで、音程も安定していた。
「え、浅葉うまくね?」 「普通」 「普通じゃなくね?」 「そう?」 「いや、マジで上手いだろ」
蓮はそう言って、少しだけ笑った。 そのときの顔が、なんというか、いつもの軽さと少し違って見えた。
理都は楽譜に目を戻した。 戻したが、なんとなく気になってしまう。
ペア練習のあと、休憩のタイミングで蓮が紬の方へ行った。 一景も近くにいる。 何を話しているのかまでは聞こえなかったが、少ししてから紬がこっちを向いた。
嫌な予感がした。
「白嶺」 「……なに」 「今週の土曜、空いてる?」 「は?」
やっぱりそう来た。 理都は眉を寄せる。
「なんで」 「蓮がさ、カラオケ行こうって」 「嫌だが」 「即答だな」
横から一景が小さく言った。 それに対して、蓮はまったくめげない。
「いや、合唱の練習も兼ねてだって。男子パートやばいし」 「お前の音程を直したいだけでは」 「それもあるけど?」
開き直るなよ。 理都は心の中でだけ突っ込んだ。
「紬と一景は来るし」 「だから?」 「浅葉も誘ってる」 「……は?」
理都は深也を見た。 深也は少し離れた位置で、いつもの眠そうな顔のまま立っている。
「行くのか?」 「まだ返事してない」 「浅葉、来てくれたら助かるんだけど」 蓮がそう言う。 その言い方が、理都には少しだけ不思議だった。 軽いのに、妙にやわらかい。 さっきのペア練習の延長みたいな声だった。
「別に俺じゃなくてもよくね?」 「いや、浅葉の音取り分かりやすかったし」 「そう?」 「うん。あと普通に話しやすいし」
深也は「ふうん」とだけ言った。 それ以上特に照れるでもなく、困るでもなく、平坦だ。 でも蓮はそれに対してまったく引かない。むしろちょっとだけ嬉しそうに見える。
一景が呆れたように口を挟む。
「お前、浅葉を口説くみたいな誘い方やめろ」 「は? 違うし」 「違うならもっと普通に言え」 「普通に言ってるだろ」 「いや、お前相手によってテンション変わりすぎ」
蓮は「うるさ」と返したが、図星だったらしく少しだけ耳が赤い。 理都はますます意味が分からなくなった。
紬がそこで、少しだけ笑いながら理都を見る。
「白嶺も行こうよ」 「なんで俺まで」 「浅葉も行くなら、白嶺いた方が気楽じゃない?」 「それ、俺じゃなくて深也の都合だろ」 「でも、僕も白嶺いてくれた方がいい」 「……」
そう言われると、弱い。 理都は露骨に顔をしかめた。
「嫌なら無理にとは言わないけど」 「その言い方ずるいんだよ」 「え、そうか?」 「そうだろ」
紬は少しだけ目を丸くして、それから肩を揺らして笑った。 一景がその様子を静かに見ていて、蓮はもう深也に「来れる?」と聞いている。
場の流れが完全に決まりかけていた。
「……深也、お前ほんとに行くのか」 「理都が行くなら」 「なんで俺基準なんだよ」 「一人だと帰りそうだし」 「それはそう」
そう返してしまった時点で、もう終わりだった。
「じゃあ決まりな」 「決まってない」 「いや今のはほぼ決まりだろ」 「違う」 「白嶺、土曜、昼からでいい?」 紬がスマホを出しながら聞いてくる。 連絡先交換したばかりの画面を、そんなふうに自然に使うなよと思うのに、理都はもう断る言葉を失っていた。
「……好きにしろ」 「じゃあ昼で送る」 「勝手に決めるなよ」 「返事しただろ」 「してない」 「してるようなもんだって」
蓮が笑う。 深也も「たしかに」とぼそっと言った。 味方がいない。
土曜。 カラオケ。 五人。 最悪だ。
理都はその三つの単語だけで少し頭が痛くなった。
そして土曜。
駅前のカラオケ店の前で、理都は本気で帰りたかった。
来るんじゃなかった。 何が「好きにしろ」だ。全然好きにさせるべきじゃなかった。あの場でちゃんと断るべきだった。
「白嶺、顔死んでる」 一景が横で言った。 こいつはこいつで普通に来ているのがすごい。黒髪眼鏡で高身長のくせに、休日のカラオケ前に立っていても妙に馴染んでいる。
「死ぬだろ」 「まだ入ってもない」 「だからだよ」
その少し前では、蓮が深也に何か話しかけていた。 深也は相変わらず眠そうなまま相槌を打っている。蓮は普段より少しだけ声を落としていて、妙に楽しそうだ。
紬が理都の隣に来る。
「ほんとに来たな」 「来たくて来たみたいに言うな」 「でも帰らなかった」 「……深也がいたから」 「そっか」
紬はそれ以上何も言わずに笑った。 そういう笑い方をされると、少しだけ肩の力が抜ける。
受付を済ませて部屋に入ると、理都はますます落ち着かなくなった。 狭い個室。 ソファ。 マイク。 モニター。 全部が苦手な空気の集合体みたいだった。
「とりあえず、最初どうする?」 蓮がリモコンを手にする。 妙に張り切っている。
「お前、練習目的だろ」 一景が冷静に言う。 「分かってるって。じゃあ、合唱っぽい曲入れる?」 「カラオケで合唱っぽい曲って何」 「知らん」 「知らんで進めるな」
そのやりとりを聞きながら、理都はできるだけ端の席に座った。 深也が隣に来る。 それだけで少しだけ安心する。
最初に歌い出したのは蓮だった。 案の定、音程はちょっと怪しい。 でも声量はあるし、本人が楽しそうだから部屋の空気は一気に軽くなる。
「お前、惜しいんだよな」 一景が言う。 「惜しいって何だよ」 「壊滅的ではない」 「フォローになってなくね?」 「でも前よりまし」 深也がそう言うと、蓮はぱっとそっちを見た。
「え、ほんと?」 「たぶん」 「そのたぶん信じていい?」 「だめかも」 「またそれ?」
でも蓮は嬉しそうだった。 分かりやすいな、と理都は思う。
紬が次にマイクを取った。 イントロが流れた瞬間、部屋の空気が少し変わる。
歌い出した紬の声は、理都が思っていたよりずっとまっすぐだった。 舞台の台詞とは違う。もっと素に近いのに、それでもちゃんと人を引っ張る響きがある。
理都は黙ってそれを聞いた。 見ないようにしようと思ったのに、気づけば目で追っていた。
歌うときの紬は、やっぱり少し特別に見える。 マイクを持つ指先とか、サビで少しだけ細くなる目とか、そういう細かいところまで変に目に入る。 見惚れてる場合じゃないだろ、と頭では思うのに、どうしても視線が離れない。
「白嶺」
名前を呼ばれて、理都ははっとした。 紬が歌い終わって、笑っている。
「え、何」 「今、すごい聞いてた」 「普通だろ」 「ふうん」
絶対分かって言ってるだろ。 理都は視線を逸らした。
「次、理都な」 蓮が当然みたいにマイクを差し出してくる。 理都は本気で固まった。
「は?」 「いや一曲くらい歌うだろ」 「歌わない」 「ここまで来て?」 「来たくて来たわけじゃないし」 「でも練習も兼ねてるし」 「合唱とソロは違うだろ」 「まあそれはそう」 「でも却下」 「白嶺、そんな即却下する?」
紬が笑いながら言う。 一景まで「一曲くらいなら死なないだろ」と淡々と追い打ちをかける。 深也は隣で「理都、声は悪くないと思う」とぼそっと言った。
なんで全員そっち側なんだよ。
理都は観念してリモコンを取った。 変に目立つ曲は嫌だ。盛り上がるのも嫌だ。無難で、低めで、できれば早く終わるやつ。 そうやって選んだ曲を入れる。
「へえ、その曲なんだ」 紬が言う。 「悪いか」 「いや。白嶺っぽい」
何がだよ。 そう返す余裕もないまま、イントロが流れた。
歌い出した瞬間、部屋が少し静かになった気がした。 理都はそれに気づかないふりをして、画面だけを見る。 下手ではいたくない。でもうまく聞かせたいわけでもない。とにかく早く終われ、と思いながら歌った。
歌い終わって、マイクを置く。 数秒、変な沈黙が落ちた。
「え、白嶺、普通にうまくね?」 最初に言ったのは蓮だった。 「思った」 一景も続く。 深也は「だから言った」とだけ言う。
紬は少しだけ目を丸くしたあと、まっすぐ理都を見た。
「白嶺、歌うまいな」
その一言が、変に真っ直ぐで困る。 理都は視線を合わせられなくなった。
「……別に普通」 「いや、普通じゃないだろ」 「瀬尾は黙ってろ」 「なんで俺にだけ当たり強いんだよ」 「圧が強いから」 「ひど」
部屋の中に笑いが起きる。 理都はその空気の中で、ひとりだけ体温が上がっていくのを感じていた。
カラオケなんて来たくなかった。 今も別に得意ではない。 でも、思っていたより最悪ではなかった。
蓮は深也にばかり話しかけているし、深也は深也で不思議なくらい普通に受け流しているし、一景は時々冷静に突っ込みながらもちゃんと場にいる。 紬はそういう全部を自然につないでいて、理都が置いていかれない程度にちゃんとこちらにも目を向けてくる。
そのことに、理都は途中で気づいた。
紬は別に、誰にでも同じようにやさしいわけじゃない。 ちゃんと見て、少しずつ距離を調整している。 たぶん今も、理都が無理しすぎないように少し気を配っている。
その事実が、また胸の奥に残った。
帰り道、駅前の灯りの下で五人がなんとなく並ぶ。 蓮は「次までにもっと音程直すわ」と言っていて、その横で深也が「たぶん直るんじゃない」と眠そうに返す。 蓮の顔が、それだけでちょっとやわらぐ。
一景はその様子を見て小さくため息をつき、紬は笑っていた。
「白嶺」 「なに」 「今日は来てくれてよかった」 「……別に」 「それ、最近の白嶺の便利な返事だよな」 「うるさい」 「でも、最初よりちゃんと喋ってた」 「気のせい」 「気のせいじゃないって」
紬はそう言って笑う。 理都はまた視線を逸らしたが、前ほど居心地は悪くなかった。
たぶん、今日のことで何かが少し変わった。 劇的なことじゃない。 でも、クラスの中でも、この五人の中でも、自分の立ち位置がほんの少しだけ変わり始めている気がした。
その感覚をどう扱えばいいのか、理都にはまだ分からない。
ただ、駅前で別れたあとも、紬に「歌うまい」と言われた声だけは、しつこいくらい耳の奥に残っていた。

