「連絡先、交換しない?」
放課後の廊下、不意に紬からそう切り出されたとき、理都は一瞬、自分が何を言われたのか理解できなかった。
「……は?」
「合唱コンクールの連絡。先生、その場で全部言うとは限らないだろ? 急に練習場所が変わったり、プリントが追加になったりもするし」
「……ああ」
「そのたびに部室まで届けに行くのも、さすがに効率悪いしさ」
紬は困ったように眉を下げて、スマホを軽く持ち上げて見せた。
正論だった。ここ数日だけでも、練習メニューや細かな伝達事項は目まぐるしく変わっている。伴奏と指揮が情報を共有しておくべきだというのも、ぐうの音も出ないほどに「その通り」だ。
理都の鼓動だけが、その正論にまったく納得してくれないだけで。
「嫌なら、別に無理にとは言わないけど」
「嫌とか、じゃなくて……」
「じゃあ、いい?」
押しつけがましくないのに、断りづらい絶妙な温度感。
理都は小さく息を呑んでから、観念して自分のスマホを取り出した。
「……必要なら」
「うん、必要」
紬が少しだけ目を細めて笑う。差し出された画面との距離が妙に近く感じられて、理都は指先が強張るのを必死に抑えながら、なんとか連絡先を交換した。
登録名に刻まれる「駒咲紬」の四文字。ただそれだけのことなのに、指の奥に熱がこもるような、妙な非現実感があった。
「ありがと」
「別に」
「これで連絡しやすくなるな。よろしく、白嶺」
「……ああ」
返事が少し硬くなった自覚はある。けれど紬は気にした様子もなく、「じゃあまた明日」と軽く手を振って廊下の向こうへ消えていった。
理都はしばらくその場に立ち尽くし、手の中にある無機質な端末を見つめていた。
連絡先を交換した。ただそれだけだ。合唱コンクールのための、実務的な繋がり。
そこに特別な意味なんてない。ない、はずなのに。
「理都、廊下の真ん中で止まってる」
背後から深也のぼんやりした声がして、理都は飛び上がるようにスマホをポケットにねじ込んだ。
「……うるさい」
「今の、駒咲?」
「見てたのかよ」
「見える位置にいたから」
「……はあ」
「不可抗力」
深也はいつもの眠そうな顔のまま、先に階段を下りていく。理都はその頼りない背中を追いかけながら、小さく、誰にも聞こえないようにため息を吐いた。
翌日の練習は、男子パートのペア練習から始まった。
担任が「低音が弱すぎる。今日は男子、徹底的に詰めるぞ」と宣言したせいだ。女子は女子でパートごとに分かれ、音楽室のあちこちで小さなハミングが重なり合っている。
「じゃあ、適当に二人組作れ」
その一言で、男子たちはなんとなく近くにいた奴と組み始める。理都は当然のように深也の方へ行こうとしたが、その前に担任が適当に指をさした。
「浅葉、お前は瀬尾と組め」
「え、俺っすか?」
「音程が怪しい奴同士、しっかり合わせとけ」
「先生、そりゃひどいって……」
瀬尾蓮は苦笑いしながらも、意外と素直に深也の方へ寄っていった。深也は「うん」と短く応じて、楽譜を少しだけ持ち上げる。
理都は少し離れた位置から、その様子を観察していた。
蓮はクラスの中心にいるようなタイプだ。茶髪で、ノリが軽くて、声もデカい。深也のような、常に雲を掴むような雰囲気の奴とどう会話するのか、少しだけ想像がつかなかったのだ。
「ここ? この音?」
「うん。そこからでいいんじゃない」
「いや、俺マジで音取れねーんだけど」
「……今のは、半音ずれてた」
「えっ、そんなはっきり言う?」
「でも、分かった方がよくない?」
「……いや、まあ、そうだけどさ」
蓮は頭を掻いて、もう一度声を出す。……また外した。
けれど深也は笑わなかった。ただ、楽譜のその箇所を指先でトントンと叩き、「こっちの音の方が近い」と淡々と告げる。
「もう一回」
「えー」
「今の、惜しかったし」
「……惜しかった?」
「たぶん」
「その『たぶん』、信じていいのかよ」
「だめかも」
「どっちだよ!」
そこで、蓮が笑った。
けれどその笑い方は、普段教室で見せるような騒がしいものではなく、どこか静かで、落ち着いたものだった。
理都はそこではじめて気づく。蓮は深也に対して、妙に声がやわらかい。普段のような勢いで押す感じがなく、どこか相手のペースを量っているような……。
「え、浅葉、お前うまくね?」
「普通」
「普通じゃねーだろ。マジで上手いって」
蓮が少しだけ目を細めて笑う。その表情は、いつもの「クラスの人気者」という看板を少しだけ下ろしたように見えた。
ペア練習の合間、休憩のタイミングで蓮が紬の方へ歩み寄った。一景も合流し、三人で何かを話している。
少しして、紬がこちらを向いた。嫌な予感がした。
「理都」
「……なに」
「今週の土曜、空いてる?」
やっぱり、そう来た。理都は露骨に眉根を寄せた。
「なんで」
「蓮がさ、カラオケ行こうって。合唱の練習も兼ねて。男子パート、マジでやばいから特訓したいんだってさ」
「嫌だが」
「即答だな」
横から一景が呆れたように零す。けれど蓮はまったくめげない。
「いいじゃん、男子パートの補強だって。紬と一景も来るし」
「……だから?」
「浅葉も誘ってるんだよ」
「……は?」
理都は深也を見た。深也は少し離れた場所で、ぼんやりと壁の掲示物を見つめている。
「行くのか?」
「……理都が行くなら」
「なんで俺基準なんだよ」
「一人だと、たぶん途中で寝るし」
「……」
蓮が「浅葉、来てくれたら助かるんだけどな」と追い打ちをかける。その誘い方は、理都には少しだけ不思議に映った。軽いのに、どこか必死さが混ざっているような。
「お前、浅葉を口説くみたいな誘い方やめろよ」
一景が冷静に突っ込むと、蓮は「は? 違うし!」と即座に返したが、耳の端が少しだけ赤くなっている。
紬がそこで、悪戯っぽく笑って理都を見た。
「理都も行こうよ。深也くんも行くなら、理都がいた方が気楽だろ?」
「……その言い方、ずるいだろ」
「え、そうかな?」
紬は目を丸くして、それから肩を揺らして笑った。一景がその様子を静かに見守り、蓮はもう深也に「来れるよな?」と念を押している。
場の流れが、完全に決まってしまっていた。
「……好きにしろ」
「じゃあ、詳細決まったら送るな」
紬がスマホを操作しながら言う。交換したばかりの連絡先を、そんな風に当然のように使われることに戸惑いながらも、理都はもう断る言葉を持っていなかった。
土曜、駅前のカラオケ店。
理都は本気で帰りたかった。何が「好きにしろ」だ。全然好きにさせるべきじゃなかった。
「白嶺、顔が死んでる」
「……死ぬだろ、普通」
一景が淡々と言い、理都は恨めしそうに店内のネオンを見上げた。
少し前では、蓮が深也に何かを熱心に話しかけている。深也は相変わらず眠そうに相槌を打っているが、蓮の方はやけに楽しそうだ。
「ほんとに来たな、白嶺」
紬が隣に並び、囁くように言う。
「来たくて来たわけじゃない」
「でも、帰らなかった」
「……深也がいたから」
「そっか」
紬はそれ以上何も言わずに笑った。その柔らかな空気感に、少しだけ肩の力が抜ける。
受付を済めて部屋に入ると、理都はますます落ち着かなくなった。
狭い個室。ソファ。マイク。モニター。
全部が苦手な空気の集合体みたいだった。
「とりあえず、最初どうする?」
蓮がリモコンを手にする。妙に張り切っている。
「お前、練習目的だろ」
一景が冷静に言う。
「分かってるって。じゃあ、合唱っぽい曲入れる?」
「カラオケで合唱っぽい曲って何」
「知らん」
「知らんで進めるな」
そのやりとりを聞きながら、理都はできるだけ端の席に座った。
深也が隣に来る。それだけで少しだけ安心する。
最初に歌い出したのは蓮だった。
案の定、音程はちょっと怪しい。
でも声量はあるし、本人が楽しそうだから部屋の空気は一気に軽くなる。
「お前、惜しいんだよな」
一景が言う。
「惜しいって何だよ」
「壊滅的ではない」
「フォローになってなくね?」
「でも前よりまし」
深也がそう言うと、蓮はぱっとそっちを見た。
「え、ほんと?」
「たぶん」
「そのたぶん信じていい?」
「だめかも」
「またそれ?」
でも蓮は嬉しそうだった。分かりやすいな、と理都は思う。
紬が次にマイクを取った。
イントロが流れた瞬間、部屋の空気が少し変わる。
歌い出した紬の声は、理都が思っていたよりずっとまっすぐだった。
舞台の台詞とは違う。もっと素に近いのに、それでもちゃんと人を引っ張る響きがある。
理都は黙ってそれを聞いた。
見ないようにしようと思ったのに、気づけば目で追っていた。
歌うときの紬は、やっぱり少し特別に見える。
マイクを持つ指先とか、サビで少しだけ細くなる目とか、そういう細かいところまで変に目に入る。
見惚れてる場合じゃないだろ、と頭では思うのに、どうしても視線が離れない。
「白嶺」
名前を呼ばれて、理都ははっとした。
紬が歌い終わって、笑っている。
「え、何」
「今、すごい聞いてた」
「普通だろ」
「ふうん」
絶対分かって言ってるだろ。理都は視線を逸らした。
「次、理都な」
蓮が当然みたいにマイクを差し出してくる。
理都は本気で固まった。
「は?」
「いや一曲くらい歌うだろ」
「歌わない」
「ここまで来て?」
「来たくて来たわけじゃないし」
「でも練習も兼ねてるし」
「合唱とソロは違うだろ」
「まあそれはそう」
「でも却下」
「白嶺、そんな即却下する?」
紬が笑いながら言う。
一景まで「一曲くらいなら死なないだろ」と淡々と追い打ちをかける。
深也は隣で「理都、声は悪くないと思う」とぼそっと言った。
なんで全員そっち側なんだよ。
理都は観念してリモコンを取った。
変に目立つ曲は嫌だ。盛り上がるのも嫌だ。無難で、低めで、できれば早く終わるやつ。
そうやって選んだ曲を入れる。
「へえ、その曲なんだ」
紬が言う。
「悪いか」
「いや。白嶺っぽい」
何がだよ。そう返す余裕もないまま、イントロが流れた。
歌い出した瞬間、部屋が少し静かになった気がした。
理都はそれに気づかないふりをして、画面だけを見る。
下手ではいたくない。でもうまく聞かせたいわけでもない。
とにかく早く終われ、と思いながら歌った。
歌い終わって、マイクを置く。
数秒、変な沈黙が落ちた。
「え、白嶺、普通にうまくね?」
最初に言ったのは蓮だった。
「思った」
一景も続く。
深也は「だから言った」とだけ言う。
紬は少しだけ目を丸くしたあと、まっすぐ理都を見た。
「白嶺、歌うまいな」
その一言が、変に真っ直ぐで困る。
理都は視線を合わせられなくなった。
「……別に普通」
「いや、普通じゃないだろ」
「瀬尾は黙ってろ」
「なんで俺にだけ当たり強いんだよ」
「圧が強いから」
「ひど」
部屋の中に笑いが起きる。
理都はその空気の中で、ひとりだけ体温が上がっていくのを感じていた。
カラオケなんて来たくなかった。今も別に得意ではない。
でも、思っていたより最悪ではなかった。
蓮は深也にばかり話しかけているし、深也は深也で不思議なくらい普通に受け流しているし、一景は時々冷静に突っ込みながらもちゃんと場にいる。
紬はそういう全部を自然につないでいて、理都が置いていかれない程度にちゃんとこちらにも目を向けてくる。
そのことに、理都は途中で気づいた。
紬は別に、誰にでも同じようにやさしいわけじゃない。
ちゃんと見て、少しずつ距離を調整している。
たぶん今も、理都が無理しすぎないように少し気を配っている。
その事実が、また胸の奥に残った。
帰り道、駅前の灯りの下で五人がなんとなく並ぶ。
蓮は「次までにもっと音程直すわ」と言っていて、その横で深也が「たぶん直るんじゃない」と眠そうに返す。
蓮の顔が、それだけでちょっとやわらぐ。
一景はその様子を見て小さくため息をつき、紬は笑っていた。
「白嶺」
「なに」
「今日は来てくれてよかった」
「……別に」
「それ、最近の白嶺の便利な返事だよな」
「うるさい」
「でも、最初よりちゃんと喋ってた」
「気のせい」
「気のせいじゃないって」
紬はそう言って笑う。
理都はまた視線を逸らしたが、前ほど居心地は悪くなかった。
たぶん、今日のことで何かが少し変わった。
劇的なことじゃない。
でも、クラスの中でも、この五人の中でも、自分の立ち位置がほんの少しだけ変わり始めている気がした。
その感覚をどう扱えばいいのか、理都にはまだ分からない。
ただ、駅前で別れたあとも、紬に「歌うまい」と言われた声だけは、しつこいくらい耳の奥に残っていた。
放課後の廊下、不意に紬からそう切り出されたとき、理都は一瞬、自分が何を言われたのか理解できなかった。
「……は?」
「合唱コンクールの連絡。先生、その場で全部言うとは限らないだろ? 急に練習場所が変わったり、プリントが追加になったりもするし」
「……ああ」
「そのたびに部室まで届けに行くのも、さすがに効率悪いしさ」
紬は困ったように眉を下げて、スマホを軽く持ち上げて見せた。
正論だった。ここ数日だけでも、練習メニューや細かな伝達事項は目まぐるしく変わっている。伴奏と指揮が情報を共有しておくべきだというのも、ぐうの音も出ないほどに「その通り」だ。
理都の鼓動だけが、その正論にまったく納得してくれないだけで。
「嫌なら、別に無理にとは言わないけど」
「嫌とか、じゃなくて……」
「じゃあ、いい?」
押しつけがましくないのに、断りづらい絶妙な温度感。
理都は小さく息を呑んでから、観念して自分のスマホを取り出した。
「……必要なら」
「うん、必要」
紬が少しだけ目を細めて笑う。差し出された画面との距離が妙に近く感じられて、理都は指先が強張るのを必死に抑えながら、なんとか連絡先を交換した。
登録名に刻まれる「駒咲紬」の四文字。ただそれだけのことなのに、指の奥に熱がこもるような、妙な非現実感があった。
「ありがと」
「別に」
「これで連絡しやすくなるな。よろしく、白嶺」
「……ああ」
返事が少し硬くなった自覚はある。けれど紬は気にした様子もなく、「じゃあまた明日」と軽く手を振って廊下の向こうへ消えていった。
理都はしばらくその場に立ち尽くし、手の中にある無機質な端末を見つめていた。
連絡先を交換した。ただそれだけだ。合唱コンクールのための、実務的な繋がり。
そこに特別な意味なんてない。ない、はずなのに。
「理都、廊下の真ん中で止まってる」
背後から深也のぼんやりした声がして、理都は飛び上がるようにスマホをポケットにねじ込んだ。
「……うるさい」
「今の、駒咲?」
「見てたのかよ」
「見える位置にいたから」
「……はあ」
「不可抗力」
深也はいつもの眠そうな顔のまま、先に階段を下りていく。理都はその頼りない背中を追いかけながら、小さく、誰にも聞こえないようにため息を吐いた。
翌日の練習は、男子パートのペア練習から始まった。
担任が「低音が弱すぎる。今日は男子、徹底的に詰めるぞ」と宣言したせいだ。女子は女子でパートごとに分かれ、音楽室のあちこちで小さなハミングが重なり合っている。
「じゃあ、適当に二人組作れ」
その一言で、男子たちはなんとなく近くにいた奴と組み始める。理都は当然のように深也の方へ行こうとしたが、その前に担任が適当に指をさした。
「浅葉、お前は瀬尾と組め」
「え、俺っすか?」
「音程が怪しい奴同士、しっかり合わせとけ」
「先生、そりゃひどいって……」
瀬尾蓮は苦笑いしながらも、意外と素直に深也の方へ寄っていった。深也は「うん」と短く応じて、楽譜を少しだけ持ち上げる。
理都は少し離れた位置から、その様子を観察していた。
蓮はクラスの中心にいるようなタイプだ。茶髪で、ノリが軽くて、声もデカい。深也のような、常に雲を掴むような雰囲気の奴とどう会話するのか、少しだけ想像がつかなかったのだ。
「ここ? この音?」
「うん。そこからでいいんじゃない」
「いや、俺マジで音取れねーんだけど」
「……今のは、半音ずれてた」
「えっ、そんなはっきり言う?」
「でも、分かった方がよくない?」
「……いや、まあ、そうだけどさ」
蓮は頭を掻いて、もう一度声を出す。……また外した。
けれど深也は笑わなかった。ただ、楽譜のその箇所を指先でトントンと叩き、「こっちの音の方が近い」と淡々と告げる。
「もう一回」
「えー」
「今の、惜しかったし」
「……惜しかった?」
「たぶん」
「その『たぶん』、信じていいのかよ」
「だめかも」
「どっちだよ!」
そこで、蓮が笑った。
けれどその笑い方は、普段教室で見せるような騒がしいものではなく、どこか静かで、落ち着いたものだった。
理都はそこではじめて気づく。蓮は深也に対して、妙に声がやわらかい。普段のような勢いで押す感じがなく、どこか相手のペースを量っているような……。
「え、浅葉、お前うまくね?」
「普通」
「普通じゃねーだろ。マジで上手いって」
蓮が少しだけ目を細めて笑う。その表情は、いつもの「クラスの人気者」という看板を少しだけ下ろしたように見えた。
ペア練習の合間、休憩のタイミングで蓮が紬の方へ歩み寄った。一景も合流し、三人で何かを話している。
少しして、紬がこちらを向いた。嫌な予感がした。
「理都」
「……なに」
「今週の土曜、空いてる?」
やっぱり、そう来た。理都は露骨に眉根を寄せた。
「なんで」
「蓮がさ、カラオケ行こうって。合唱の練習も兼ねて。男子パート、マジでやばいから特訓したいんだってさ」
「嫌だが」
「即答だな」
横から一景が呆れたように零す。けれど蓮はまったくめげない。
「いいじゃん、男子パートの補強だって。紬と一景も来るし」
「……だから?」
「浅葉も誘ってるんだよ」
「……は?」
理都は深也を見た。深也は少し離れた場所で、ぼんやりと壁の掲示物を見つめている。
「行くのか?」
「……理都が行くなら」
「なんで俺基準なんだよ」
「一人だと、たぶん途中で寝るし」
「……」
蓮が「浅葉、来てくれたら助かるんだけどな」と追い打ちをかける。その誘い方は、理都には少しだけ不思議に映った。軽いのに、どこか必死さが混ざっているような。
「お前、浅葉を口説くみたいな誘い方やめろよ」
一景が冷静に突っ込むと、蓮は「は? 違うし!」と即座に返したが、耳の端が少しだけ赤くなっている。
紬がそこで、悪戯っぽく笑って理都を見た。
「理都も行こうよ。深也くんも行くなら、理都がいた方が気楽だろ?」
「……その言い方、ずるいだろ」
「え、そうかな?」
紬は目を丸くして、それから肩を揺らして笑った。一景がその様子を静かに見守り、蓮はもう深也に「来れるよな?」と念を押している。
場の流れが、完全に決まってしまっていた。
「……好きにしろ」
「じゃあ、詳細決まったら送るな」
紬がスマホを操作しながら言う。交換したばかりの連絡先を、そんな風に当然のように使われることに戸惑いながらも、理都はもう断る言葉を持っていなかった。
土曜、駅前のカラオケ店。
理都は本気で帰りたかった。何が「好きにしろ」だ。全然好きにさせるべきじゃなかった。
「白嶺、顔が死んでる」
「……死ぬだろ、普通」
一景が淡々と言い、理都は恨めしそうに店内のネオンを見上げた。
少し前では、蓮が深也に何かを熱心に話しかけている。深也は相変わらず眠そうに相槌を打っているが、蓮の方はやけに楽しそうだ。
「ほんとに来たな、白嶺」
紬が隣に並び、囁くように言う。
「来たくて来たわけじゃない」
「でも、帰らなかった」
「……深也がいたから」
「そっか」
紬はそれ以上何も言わずに笑った。その柔らかな空気感に、少しだけ肩の力が抜ける。
受付を済めて部屋に入ると、理都はますます落ち着かなくなった。
狭い個室。ソファ。マイク。モニター。
全部が苦手な空気の集合体みたいだった。
「とりあえず、最初どうする?」
蓮がリモコンを手にする。妙に張り切っている。
「お前、練習目的だろ」
一景が冷静に言う。
「分かってるって。じゃあ、合唱っぽい曲入れる?」
「カラオケで合唱っぽい曲って何」
「知らん」
「知らんで進めるな」
そのやりとりを聞きながら、理都はできるだけ端の席に座った。
深也が隣に来る。それだけで少しだけ安心する。
最初に歌い出したのは蓮だった。
案の定、音程はちょっと怪しい。
でも声量はあるし、本人が楽しそうだから部屋の空気は一気に軽くなる。
「お前、惜しいんだよな」
一景が言う。
「惜しいって何だよ」
「壊滅的ではない」
「フォローになってなくね?」
「でも前よりまし」
深也がそう言うと、蓮はぱっとそっちを見た。
「え、ほんと?」
「たぶん」
「そのたぶん信じていい?」
「だめかも」
「またそれ?」
でも蓮は嬉しそうだった。分かりやすいな、と理都は思う。
紬が次にマイクを取った。
イントロが流れた瞬間、部屋の空気が少し変わる。
歌い出した紬の声は、理都が思っていたよりずっとまっすぐだった。
舞台の台詞とは違う。もっと素に近いのに、それでもちゃんと人を引っ張る響きがある。
理都は黙ってそれを聞いた。
見ないようにしようと思ったのに、気づけば目で追っていた。
歌うときの紬は、やっぱり少し特別に見える。
マイクを持つ指先とか、サビで少しだけ細くなる目とか、そういう細かいところまで変に目に入る。
見惚れてる場合じゃないだろ、と頭では思うのに、どうしても視線が離れない。
「白嶺」
名前を呼ばれて、理都ははっとした。
紬が歌い終わって、笑っている。
「え、何」
「今、すごい聞いてた」
「普通だろ」
「ふうん」
絶対分かって言ってるだろ。理都は視線を逸らした。
「次、理都な」
蓮が当然みたいにマイクを差し出してくる。
理都は本気で固まった。
「は?」
「いや一曲くらい歌うだろ」
「歌わない」
「ここまで来て?」
「来たくて来たわけじゃないし」
「でも練習も兼ねてるし」
「合唱とソロは違うだろ」
「まあそれはそう」
「でも却下」
「白嶺、そんな即却下する?」
紬が笑いながら言う。
一景まで「一曲くらいなら死なないだろ」と淡々と追い打ちをかける。
深也は隣で「理都、声は悪くないと思う」とぼそっと言った。
なんで全員そっち側なんだよ。
理都は観念してリモコンを取った。
変に目立つ曲は嫌だ。盛り上がるのも嫌だ。無難で、低めで、できれば早く終わるやつ。
そうやって選んだ曲を入れる。
「へえ、その曲なんだ」
紬が言う。
「悪いか」
「いや。白嶺っぽい」
何がだよ。そう返す余裕もないまま、イントロが流れた。
歌い出した瞬間、部屋が少し静かになった気がした。
理都はそれに気づかないふりをして、画面だけを見る。
下手ではいたくない。でもうまく聞かせたいわけでもない。
とにかく早く終われ、と思いながら歌った。
歌い終わって、マイクを置く。
数秒、変な沈黙が落ちた。
「え、白嶺、普通にうまくね?」
最初に言ったのは蓮だった。
「思った」
一景も続く。
深也は「だから言った」とだけ言う。
紬は少しだけ目を丸くしたあと、まっすぐ理都を見た。
「白嶺、歌うまいな」
その一言が、変に真っ直ぐで困る。
理都は視線を合わせられなくなった。
「……別に普通」
「いや、普通じゃないだろ」
「瀬尾は黙ってろ」
「なんで俺にだけ当たり強いんだよ」
「圧が強いから」
「ひど」
部屋の中に笑いが起きる。
理都はその空気の中で、ひとりだけ体温が上がっていくのを感じていた。
カラオケなんて来たくなかった。今も別に得意ではない。
でも、思っていたより最悪ではなかった。
蓮は深也にばかり話しかけているし、深也は深也で不思議なくらい普通に受け流しているし、一景は時々冷静に突っ込みながらもちゃんと場にいる。
紬はそういう全部を自然につないでいて、理都が置いていかれない程度にちゃんとこちらにも目を向けてくる。
そのことに、理都は途中で気づいた。
紬は別に、誰にでも同じようにやさしいわけじゃない。
ちゃんと見て、少しずつ距離を調整している。
たぶん今も、理都が無理しすぎないように少し気を配っている。
その事実が、また胸の奥に残った。
帰り道、駅前の灯りの下で五人がなんとなく並ぶ。
蓮は「次までにもっと音程直すわ」と言っていて、その横で深也が「たぶん直るんじゃない」と眠そうに返す。
蓮の顔が、それだけでちょっとやわらぐ。
一景はその様子を見て小さくため息をつき、紬は笑っていた。
「白嶺」
「なに」
「今日は来てくれてよかった」
「……別に」
「それ、最近の白嶺の便利な返事だよな」
「うるさい」
「でも、最初よりちゃんと喋ってた」
「気のせい」
「気のせいじゃないって」
紬はそう言って笑う。
理都はまた視線を逸らしたが、前ほど居心地は悪くなかった。
たぶん、今日のことで何かが少し変わった。
劇的なことじゃない。
でも、クラスの中でも、この五人の中でも、自分の立ち位置がほんの少しだけ変わり始めている気がした。
その感覚をどう扱えばいいのか、理都にはまだ分からない。
ただ、駅前で別れたあとも、紬に「歌うまい」と言われた声だけは、しつこいくらい耳の奥に残っていた。



