きみと指揮する青の時間

​月曜の放課後、理都は飼育ケースの前でしゃがみこんでいた。
 合唱コンクールの練習が終わって、そのまま教室に戻る気力もなく、いつものように科学研究部の部室へ逃げ込んだだけだ。逃げ込む、という言い方はたぶん正しくない。ここは最初から自分の居場所だし、別に隠れているわけでもない。ただ、教室や音楽室にいるときより、ずっと呼吸がしやすいだけだ。
 棚の上には飼育ケースが並んでいて、水槽のモーターが低く小さく鳴っている。理都はその音を聞くと、ようやく肩の力が抜ける気がした。

「……お前らはいいよな」

 誰にともなく呟いて、理都はリクガメのケースの前にしゃがんだ。
​ 昼の練習は、先週よりはましだった。たぶん。
 少なくとも、自分のせいで最初から崩壊した感じではなかった。文化会館で紬の舞台を見たあとだからか、前ほど何もかも投げ出したい気持ちにはならなかったし、手を上げるタイミングも少しだけ迷わずに済んだ。
 それでも、うまくやれているかと聞かれたら全然そんなことはない。
 女子グループの声は相変わらず大きいし、男子は気分で歌ってるし、瀬尾蓮は悪気なくテンションが高い。指揮ってこんなに全方向に神経を使うのかと、毎回思う。
​ 理都はケースのふたを開けて、リクガメの餌皿を手に取った。
 刻んだ小松菜とにんじん。今日は少しだけトマトも入れてある。こいつは見た目のわりに好みが分かりやすくて、気に入らないと露骨に動きが鈍くなる。

「ほら」

 皿を置くと、リクガメがのそのそ首を伸ばしてくる。その動きがなんとなく可笑しくて、理都はほんの少しだけ口元をゆるめた。
 教室では分からないことが多すぎる。誰が何を考えているのかも、自分がどう見えているのかも、正直よく分からない。
 でも生き物は違う。腹が減ってるとか、警戒してるとか、そういうことがちゃんと動きに出る。その分、理都には付き合いやすかった。
​ 小さくノックの音がしたのは、そのときだった。
 理都は反射で顔を上げる。
 部室の扉が少しだけ開いていて、その隙間から見慣れた顔が覗いた。

「入っていい?」

 紬だった。理都は一瞬、本気で固まった。

「……え、なんで」
「それ、入っていいって意味?」
「いや」
「じゃあ、入るね」

 紬はそう言って、理都の返事を待たずに中へ入ってきた。
 制服姿のまま、部室の中をゆっくり見回す。教室や廊下で見るより、こういう狭い場所にいると妙に存在感がある。インナーの明るい色が、蛍光灯の下で少しだけ目立っていた。

​「先生から預かった」
「は?」

 紬が差し出してきたのは、合唱コンクールのプリントだった。楽譜の追加コピーと、練習予定が書かれた紙らしい。

「担任、白嶺がもう帰ったと思ってたみたいで。渡しといてって言われた」
「……ああ」

 そういうことか、と理都は少しだけ毒気を抜かれて受け取った。

「ありがと」
「どういたしまして」

​ そこで帰るのかと思ったのに、紬はそのまま部室の中を見ていた。水槽、飼育ケース、棚に置かれた餌、温度計。視線が一つひとつをなぞっていく。

「すごいな」
「何が」
「思ってたより、ちゃんとした部室なんだ」
「ちゃんとしてるだろ、普通に」
「うん。なんか、もっと理科室の隅みたいな感じかと思ってた。ごめん」

 そう言いながら笑う紬に、理都は小さく息を吐いた。呆れたというより、調子を崩される感じに近い。
 紬はそのまま、リクガメのケースの前にしゃがみこんだ。

「これ、前に言ってたリクガメ?」
「うん」
「ほんとにいるんだ。近くで見るとかわいいな」
「……だろ」
「今、ちょっと自慢した?」
「してない」
「した顔だった」

 してない、と心の中で否定したが、少しだけ口元がゆるんだ自覚があってすぐに咳払いした。
​ 紬はケースの中をじっと覗き込んでいる。まつ毛が長いとか、横顔が整っているとか、そういうことに気づいてしまうのが嫌だったので、理都は視線をリクガメに戻した。

「触るなよ」
「え」
「急に手出すとびっくりするから」
「あ、うん」

 紬は素直に手を引っ込めた。その反応が意外で、理都は少しだけそちらを見る。

「……ちゃんと聞くんだな」
「聞くだろ、そこは。勝手に触りそう?」
「ちょっと」
「ひどいな」

 でも紬は怒った様子もなく、むしろ面白がるみたいに笑った。

「白嶺、そういうとこちゃんとしてるよな。生き物のことになると急に厳しい。でも、それがちゃんとしてるって言うんだよ」

 理都は返事に少し詰まった。褒められているのかどうか分からないが、嫌な言い方じゃないのだけは分かった。
​ 部室の窓から、夕方の薄い光が斜めに差し込んでいる。中庭で初めて話した時のことが、少しだけ頭をよぎった。

「餌やる?」
「え、いいの」
「やってみたいなら」
「やってみたい」

 即答だった。理都は少しだけ目を丸くしてから、刻んだ葉物を少し渡した。

「どうすればいい?」
「近づければ食う」
「説明が雑。噛まれたりしない?」
「……指ごと突っ込まなければ大丈夫」

​ 紬は小さく笑ってから、少しだけ身を乗り出した。リクガメがのそのそ首を伸ばして、紬の指先のすぐ前でもそっと葉を咥えた。

「うわ、食った」
「食うよ」
「なんか……思ったより普通に食べるな。もっとこう、のっそりしてるのかと思った」
「のっそりはしてるだろ」
「いや、そうなんだけどさ」

 紬はそこで少し笑って、もう一枚、葉を差し出した。今度はさっきより少しだけ慣れた手つきだった。
 理都はその横顔を見ながら、変な感じだなと思った。
 駒咲紬が、自分の部室でリクガメに餌をやっている。意味が分からない。
 でも、意味が分からないわりに嫌じゃない。むしろ少しだけ、落ち着く。

​「白嶺、いつもこういうことしてるの?」
「まあ。世話あるし」
「すごいな。僕、植物ですらたまに枯らすし」
「比較対象がひどいだろ」
「でも、生き物ってちゃんと見てないとだめだろ。白嶺、ちゃんと見てるんだな」

 その言い方がやけにまっすぐで、理都は思わず視線を逸らした。こいつ、たまにこういう言い方をする。何でもないことみたいに言うくせに、妙に残る。

​「駒咲は怖くないんだな。こういうの」
「最初はちょっとびびった」
「じゃあ怖いだろ」
「でも、白嶺が大丈夫って言うなら、大丈夫かなって思うし」
「……」
「そういう感じ、あるだろ?」

 ないとは言えなかった。理都は小さく喉を鳴らしてから、リクガメの甲羅を軽く指でなでた。少しざらついていて、あたたかい。

​「これ、メダカ?」
「うん。改良メダカ。これがサファイアで、こっちは夜桜」
「へえ。そんな名前ついてるんだ」
「光の入り方とか、ラメの出方が違う。体色の濃さもけっこう変わるし」
「理都、こういう話になると急に喋るよな」
「うるさい」
「いや、なんかいいなって思って。好きなこと話してるとき、分かりやすい」

 またそういうことを言う。理都は心の中でだけうめいた。
 紬はケースの並ぶ棚の前をゆっくり歩きながら、一つひとつを怖がるでもなく、ちゃんと興味を持って見ていた。それが理都には、思っていた以上にうれしかった。

​「……もう帰るのか」

 気づけば口からそんな言葉が出ていた。言ってから、自分で少し驚く。引き止めるつもりみたいに聞こえたかもしれない。
 でも紬は変な顔をせず、むしろ少しだけ目を細めて笑った。

「そろそろ帰る。……でも、また来てもいい?」

 理都は返事に詰まった。また、なんてそんなに気軽に言うなと思うのに、嫌だとは全然思えない。

「プリントなくても?」
「なくても」
「……別に」
「それ、いいって意味?」
「そう取れば」
「じゃあそう取る」

​ 紬はそう言って笑った。その笑い方が、中庭で初めて会ったときより少し近いものに思える。

「じゃ、今日はありがと」
「プリントのことなら、別に」
「それもだけど。リクガメ、思ったよりかわいかった」
「……だろ」
「うん。あと、白嶺がちゃんと優しいのも分かった。なんちゃって」

 それだけ言って、紬は軽く手を振って部室を出ていった。
​ 扉が閉まる音がして、急に部室が静かになる。理都はしばらくその場に立ったまま、動けなかった。

「……なんなんだよ」

 小さく呟いても、返事はない。水槽のモーター音も、リクガメの動きもいつもと同じはずなのに、何かだけが少し違っている気がした。
 駒咲紬が、自分の好きなものをちゃんと見てくれた。笑いものにも怖がる対象にもせず、ちゃんと大事に見ていた。
 それだけのことが、どうしてこんなに尾を引くのか。
 理都は餌皿を片づけながら、さっき紬がしゃがんでいた場所をちらりと見た。そこに誰もいないことが、少しだけ不思議に思える。
​ 次の練習は、相変わらずだるいし、緊張もするだろう。
 でも今日の放課後のことを思い出すと、教室で駒咲を見る感覚が少しだけ変わりそうだった。
 あのハンカチを返した日から少しずつ、自分の中で何かがおかしくなっていることだけは、もう認めるしかなかった。