きみと指揮する青の時間

​最初の練習は、思っていた以上に最悪だった。
​音楽室に移動した二年三組は、並び方の時点でもうばらばらだった。
前に詰めろと言われても動かない。勝手に友達同士で固まる。焼肉の話を延々としている。
担任が「はい、私語やめる」と手を叩いても、空気が締まるまでにやたらと時間がかかった。
​理都は指揮者の位置に立たされたまま、内心で何度目か分からない後悔をしていた。

​(なんで、ここにいるんだろう)

​ほんとに意味が分からない。
前に立つだけで、背中がむず痒い。
視線が集まっている気がする。いや、実際、集まっている。
クラス全員の顔が見える位置なんて、理都にとってはそれだけで罰ゲームだった。

​「白嶺くん、もうちょい前かな」
「そうそう、そのへん」
「指揮棒、ないんだっけ?」

​前方から女子の声が飛んでくる。
悪意がないのは分かる。けれど、その「普通に話しかけていい相手」という距離感がしんどい。

​「……いいです、別に」
「え、何?」
「……なんでもないです」

​声が小さすぎて自分でも笑いそうになった。
いや笑えない。普通に終わってる。
​ピアノの前では、紬が椅子の高さを調整していた。
蓋の向こうに見える横顔は教室にいるときより少し真剣で、楽譜をめくる手つきも妙に手慣れている。
​あいつは、こういう場所でもちゃんとしているんだな。
理都は他人事みたいに思った。

​「じゃあ一回、音取りも兼ねて通すぞ。完璧じゃなくていいから、今どんな感じか見たい」

​担任の言葉。
どんな感じか。最悪に決まってるだろ。
​理都は息を吸って、手を上げた。
その瞬間、何人かがこっちを見るのが分かる。
あ、やっぱ無理。と思ったが、もう下ろせない。
​紬のピアノが鳴った。
​最初の和音だけで空気が少し変わる。
ざわついていた音楽室が、その音を境に、少しだけ「まともな場所」になる。
​なのに、歌が入った瞬間、それは簡単に崩れた。
​テンポが微妙にずれる。男子の低音が弱い。ソプラノが先走る。
途中で笑うやつまでいる。
​理都は必死に拍を取ろうとしたが、自分の手がちゃんと見えているのかも分からなかった。
大きく振ればいいのか、細かく見せればいいのか。
前の授業で少人数相手にやったのとは、まるで違う。

​「ちょ、待ってそこ早い」
「男子もっと声出してー」
「え、今どこ?」

​前列の女子たちが、歌いながら勝手に修正を始める。

(それを本来やるのは、指揮だろ……)

分かっているのに、理都の喉はまったく動かなかった。
​結局、曲は中途半端なところで止まった。
止まったというより、止めてもらったに近い。

​「うーん、まあ、最初だしな」

​担任のフォローが、逆にきつかった。
クラスの空気も微妙にぬるい。盛り上がっていたやつらも、さすがに「これでいける」とは思っていない顔をしている。

​「白嶺くん、もう少し大きく振った方が見やすいかも」
「あとテンポ遅れると歌いづらい」
「出だし、分かりにくかったよね」

​正論だ。正論だからこそ、刺さる。

​「……すみません」
「いや謝るっていうか、次こうしよって感じ!」

​女子の一人が明るく笑う。
その切り替えの早さが、理都にはとても真似できなかった。
​後ろの方では、練習が止まった途端に小声の雑談が復活していた。
もう疲れた、と理都は思った。まだ一回目なのに。
​音楽室を出てからも、理都はしばらく無言で歩いていた。
廊下の窓から差す午後の光が、やけに白くて目が疲れる。

​「白嶺」

​横から声がして、理都は肩を揺らした。
紬だった。楽譜を抱えたまま、少し小走りで追いついてきたらしい。

​「……なに」
「今日、お疲れ」
「疲れた」
「うん、だよな」

​紬は苦笑する。
その笑い方が変にやさしくて、理都は余計に気まずくなった。

​「でも、最初だし。あんなもんじゃない?」
「……いや。俺、向いてないだろ、普通に」

​言ったあとで、少しだけ後悔した。
愚痴みたいだったかもしれない。紬に言うことじゃなかった。
​でも、紬は笑わなかった。
励ますでも、否定するでもなく、少しだけ考えるように目を伏せる。

​「向いてないっていうより……慣れてないだけじゃない?」

​その言い方は、紬なりに気を遣っていた。
押しつけがましくなくて、でも完全に放っておくわけでもない。
​理都はそれが少しだけありがたくて、でも素直に頷くほど元気ではなかった。

​「とりあえず、次も練習がんばろう」
「……うん」

​また、それを言うのか。
そう思ったくせに、結局理都は短く返してしまった。


​週末、理都は文化会館の図書館に来ていた。
​学校の図書室でもよかったが、今日はなんとなく、いつもと違う場所に行きたかった。
静かで、人が少なくて、合唱コンクールのことを少しだけ忘れられるところ。
​自転車を停めて中へ入ると、土曜の文化会館は思ったより人が多かった。
受付の近くに「地区高校合同発表会」と書かれた立て看板が出ている。
​理都は一度だけそちらを見てから、興味なさそうな顔で図書館へ向かった。
​本当に、最初はそのつもりだった。
背表紙を追っていく静かな時間に、少しずつ心が落ち着いてくる。
​けれど、ふと、さっき見た看板の文字が頭に浮かんだ。
合同発表会。土曜。演劇部。

​(……まさか)

​別に、確認する必要はない。
ないはずなのに、気づいたら理都は本を棚に戻して、図書館の外へ出ていた。
​ホールの入口へ近づくと、見覚えのある校章がちらほら混じっていた。
やっぱり。
​薄暗い客席の後方から舞台を見た瞬間、理都は完全に足を止めた。
​紬がいた。
​舞台の中央に立っていたわけではない。何人かいる役者の一人だった。
なのに、なぜか目がそっちへ吸い寄せられる。
​照明の下の紬は、教室で見るときよりずっと輪郭がはっきりして見えた。
声が通る。動きに迷いがない。
視線の流し方も立ち方も、全部が自然で、けれど「人に見せる」形になっている。
​すごい、と思う前に、圧倒された。
クラスで普通に話して、本を選んで、ハンカチを貸してくれたやつが、今はあんな場所にいる。
​理都には到底無理だ。
音楽室でクラスの前に立つだけで、あんなに息が詰まりそうだったのに。
​(最初から、こうだったんだろうか)
​そんなことはない気がした。
何度も練習したんだろう。
台詞を繰り返して、立ち位置を覚えて、失敗して、また直して。
そうやって積み重ねたものがあるから、今、あそこに立っている。
​その当たり前のことが、理都の胸の奥に静かに落ちてきた。
​紬の声が、ホールの空気をきれいに切っていく。
言葉の端に迷いがなくて、聞いているだけで少しだけ背筋が伸びた。
​やがて場面が切り替わって、舞台が暗くなる。
その拍手の音で、理都はようやく我に返った。

​(見すぎた)

​何してんだ、俺。
理都は誰にも見つからないうちにと、足早にホールを出た。
​自動ドアを抜けたところで、後ろから「あ」と小さく声がした。
理都の肩が跳ねる。

​「白嶺?」

​振り返ると、そこには紬がいた。
舞台衣装の上に薄い上着を羽織っている。

​「……駒咲」
「え、なんでここに」
「図書館……に、来ただけだ」
「ふふ、そっか」

​紬がじっとこちらを見る。目が合って、理都は居心地が悪くなった。

​「もしかして……見てた?」

​心臓が一瞬、変な音を立てた。
ごまかせるかと思ったが、紬の瞳は、少しだけ期待しているように見えた。
その表情のせいで、理都は嘘をつけなかった。

​「……少しだけ」

​紬の目が、ぱっとやわらかくなる。

​「ほんとに? 見てくれたんだ」
「……まあ」
「それは嬉しい」

​そんなふうに言われると思っていなかった。
理都は言葉に詰まって、視線を逸らす。

​「別に、大したことは……」
「大したことあるよ。ありがとう」

​ありがとう、とまた言われた。
理都はなんとなく喉の奥が詰まる。

​「白嶺、合唱の練習、落ち込んでたでしょ」
「は?」
「なんとなく分かるよ」
「……顔に出てた?」
「ちょっと」
「終わってる……」
「そんなことないよ」

​紬は少しだけ間を置いてから、静かな声で続けた。

​「僕も、舞台が毎回平気なわけじゃないよ。緊張する。普通に」
「……え。でも」
「でもじゃなくて、慣れた部分はあるけど、それでも毎回ちゃんと怖い」

​理都は少し黙った。
さっき舞台を見ていたとき、自分が勝手に考えていたことを、そのまま紬が言った気がした。

​「だから、白嶺が無理って思うのも分かる。……でも、やるって決まったなら、少しずつでもやるしかないだろ?」

​その言葉は、励ましというより、確認みたいだった。
理都が逃げたいと思っていることも、でも全部を投げるつもりではないことも、見抜かれている。
​理都はしばらく黙ってから、小さく言った。

​「次は……もう少しましにやる」
「うん」
「……たぶん、だけど」
「たぶんでも十分だよ」

​紬はそう言って笑った。
その笑顔を見たとき、理都の中で何かが少しだけ軽くなった。
​劇的ではない。明日から急に自信満々になれるわけでもない。
でも、月曜の練習を想像したときの「最悪さ」が、少しだけ薄くなっていた。

​「じゃあ、俺帰る」
「うん。また月曜」
「……うん」

​外の空気は少し冷たくて、ホールの熱を少しずつ冷ましていく。
​自転車にまたがる。
まだ、指揮が向いているとは思えない。次の練習も、たぶんしんどい。
でも、始まる前から全部諦めるのは、今日は少しだけ違う気がした。
​ペダルを踏み込む足に、前より少しだけ力が入る。
たぶんそれだけで、今は十分だった。