最初の練習は、思っていた以上に最悪だった。
音楽室に移動した二年三組は、並び方の時点でもうばらばらだった。
前に詰めろと言われても動かないやつがいる。勝手に友達同士で固まるやつがいる。焼肉の話をまだしているやつもいる。担任が「はいはい、私語やめる」と手を叩いても、空気が完全に締まるまでにやたら時間がかかった。
理都は指揮者の位置に立たされたまま、内心で何度目か分からない後悔をしていた。
なんでここにいるんだろう。
ほんとに意味が分からない。
前に立つだけで、背中がむず痒い。
視線が集まっている気がする。いや、実際たぶん集まっている。
クラス全員の顔が見える位置なんて、理都にとってはそれだけで罰ゲームだった。
「白嶺くん、もうちょい前かな」 「そうそう、そのへん」 「指揮棒ないんだっけ?」
女子の声が前方から飛んでくる。
悪意がないのは分かる。分かるけれど、その“普通に話しかけていい相手”みたいな距離感がもうしんどい。
「……いいです、別に」 「え、何?」 「なんでもないです」
声が小さすぎて自分でも笑いそうになった。
いや笑えない。普通に終わってる。
ピアノの前では、紬が椅子の高さを調整していた。
蓋の向こうに見える横顔は教室にいるときより少し真剣で、軽く楽譜をめくる手つきまで妙に手慣れている。あいつはこういう場所でもちゃんとしているんだな、と理都は他人事みたいに思った。
担任が全体を見回す。
「じゃあ一回、音取りも兼ねて通すぞ。完璧じゃなくていいから、今どんな感じか見たい」
どんな感じか。
最悪に決まってるだろ。
理都は息を吸って、手を上げた。
その瞬間、何人かがこっちを見るのが分かる。あ、やっぱ無理、と思ったが、もう下ろせない。
紬のピアノが鳴った。
最初の和音だけで空気が少し変わる。ざわついていた音楽室が、その音を境に少しだけまともな場所になる。
なのに、歌が入った瞬間、それは簡単に崩れた。
テンポが微妙にずれる。
男子の低音が弱い。
ソプラノが先走る。
途中で笑うやつまでいる。
理都は必死に拍を取ろうとしたが、自分の手がちゃんと見えているのかも分からない。
大きく振ればいいのか、細かく見せればいいのか、その判断すら曖昧だった。前の授業で少人数相手にやったのとはまるで違う。人数が多いだけでこんなに無理ゲーになるのか。
「ちょ、待ってそこ早い」 「男子もっと声出してー」 「え、今どこ?」
前列の女子たちが歌いながら勝手に修正を始める。
いや、それを本来やるのはたぶん指揮だろ。
分かっているのに、理都の喉はまったく動かなかった。
結果、曲は中途半端なところで止まった。
止まったというより、止めてもらったに近い。担任がピアノの横まで来て、「はい、一回やめよう」と言ってくれなければ、もっとぐだぐだになっていたはずだ。
「うーん、まあ、最初だしな」
担任はそう言ったけれど、フォローになっていないことくらい理都にも分かった。
クラスの空気も微妙にぬるい。盛り上がっていたやつらも、さすがに“これでいける”とは思っていない顔をしている。
「白嶺くん、もう少し大きく振った方が見やすいかも」 「あとテンポ遅れると歌いづらい」 「そうそう、出だし分かりにくかった」
前の方からまた声が飛ぶ。
正論だ。正論だからこそきつい。
「……すみません」 「いや謝るっていうか、次こうしよって感じ!」
女子のひとりが明るく笑う。
その切り替えの早さがすごい。理都にはとても真似できない。
後ろの方では、練習が止まった途端に小声の雑談が復活していた。
もう疲れた、と理都は思った。まだ一回目なのに。
結局その日の練習は、まとまりきらないまま終わった。
担任は「焦らなくていい」と言ったけれど、焦るなという方が無理だろと思う。自分が指揮をしているせいでぐだぐだになった、という感覚だけがはっきり残った。
理都は音楽室を出てからも、しばらく無言で歩いていた。
廊下の窓から差す午後の光がやけに白くて、目が疲れる。
「白嶺」
横から声がして、理都は肩を揺らした。
紬だった。楽譜を抱えたまま、少し小走りで追いついてきたらしい。
「……なに」 「今日、お疲れ」 「疲れた」 「うん、だよな」
紬は苦笑する。
その笑い方が変にやさしくて、理都は余計に気まずくなった。
「でも、最初だし。あんなもんじゃない?」 「……いや」 「ん?」 「俺、向いてないだろ、普通に」
言ったあとで、少しだけ後悔した。
愚痴みたいだったかもしれない。紬に言うことじゃなかったかもしれない。
でも紬は笑わなかった。
軽く励ますでもなく、すぐに否定するでもなく、少しだけ考えるように目を伏せる。
「向いてないっていうより」 「……」 「慣れてないだけじゃない?」
その言い方は、たぶん紬なりに気を遣っていた。
押しつけがましくなくて、でも完全に放っておくわけでもない。
理都はそれが少しだけありがたくて、でも素直に頷くほど元気ではなかった。
「とりあえず、次も練習がんばろう」 「……うん」
また、それを言うのか。
そう思ったくせに、結局理都は短く返してしまった。
紬は「じゃあまた月曜」と言って、反対側の階段へ向かう。
その背中を見送りながら、理都は小さく息を吐いた。
がんばろう。
簡単に言うなよ、と思う。
でも、あいつが伴奏を引き受けてるのに、自分だけ「やっぱ無理」と逃げるのも違う気がする。
その感覚がもう面倒だった。
教室に戻ると、深也が席で半分寝ていた。
理都が椅子を引く音で片目だけ開ける。
「おかえり」 「ただいま」 「死んでるね」 「死ぬだろ、あれ」 「そんなに?」 「そんなに」
理都は椅子に座って、机に突っ伏した。
木の冷たさが額に心地いい。
「やっぱ向いてない」 「指揮?」 「うん」 「でも先生は向いてるって言ってた」 「先生の見る目がおかしい」 「それは先生に失礼」
深也はそう言って、ふわっと欠伸をした。
理都は机に顔を埋めたまま、小さく唸る。
「前に立つだけで無理なんだよ。みんな見てくるし。女子は普通に注文飛ばしてくるし。勝手に話進むし」 「うん」 「しかも歌もまとまんないし。俺いる意味ある?」 「指揮者だからじゃない」 「そういうことじゃないだろ」
深也は返事の代わりみたいに、机に頬杖をついた。
その力の抜けた顔を見ていると、ちょっとだけ呼吸が戻る。
「じゃあ、次はもう少し大きく振れば」 「簡単に言うな」 「簡単じゃない?」 「お前な」
でも、その雑さに少しだけ笑いそうになった。
理都は顔を上げて、窓の外を見る。空は中途半端な曇りで、何をするにもやる気が出なさそうな色だった。
週末、理都は文化会館の図書館に来ていた。
学校の図書室でもよかったが、今日はなんとなく、いつもと違う場所に行きたかった。
静かで、人が少なくて、合唱コンクールのことを少しだけ忘れられるところ。そう考えた結果、自然と足が向いたのがここだった。
自転車を停めて中へ入ると、土曜の文化会館は思ったより人が多かった。
ホールの方から明るい声が聞こえる。受付の近くには花が飾られていて、「地区高校合同発表会」と書かれた立て看板が出ていた。
理都は一度だけそちらを見てから、別に興味はありません、みたいな顔で図書館へ向かった。
本当に、最初はそのつもりだった。
返却棚のあたりを回って、新刊のコーナーを眺めて、なんとなく背表紙を追っていく。
静かな空気に少し落ち着いてきた頃、ふと、さっき見た看板の文字が頭に浮かんだ。
合同発表会。
文化会館のホール。
土曜。
演劇部。
そこでようやく、理都は小さく立ち止まった。
まさか。
いや、でも。
別に確認する必要はない。
ないはずなのに、気づいたら理都は借りる予定だった本を棚に戻して、図書館の外へ出ていた。
ホール前には制服姿の生徒が何人もいた。
パンフレットを持っている保護者らしい大人もいる。
その中に、見覚えのある校章がちらほら混じっていた。
やっぱり、と思った。
理都は少しだけ逡巡して、それから人の流れの端に沿ってホールの入口へ近づいた。
別に最初から見るつもりじゃなかった。ほんの少し、確認するだけだ。駒咲が出ているのか、そうじゃないのか。たぶんそれだけ。
でも、薄暗い客席の後方から舞台を見た瞬間、理都は完全に足を止めた。
紬がいた。
舞台の中央に立っていたわけではない。何人かいる役者のうちの一人だった。
なのに、なぜか目がそっちへ吸い寄せられる。
照明の下の紬は、教室で見るときよりずっと輪郭がはっきりして見えた。
声が通る。動きに迷いがない。視線の流し方も立ち方も、全部が自然で、でもきちんと人に見せる形になっている。
客席の前方で、小さく息を呑む気配がした。
理都はそれを聞きながら、ぼんやり思った。
すごい、と思う前に、圧倒される、の方が近かった。
同じクラスで、普通に話して、図書館で本を選んで、ハンカチを貸してくれたやつが、今はこういう場所にいる。
舞台の上で、たくさんの人に見られていて、それでも少しも怯んでいない。
理都には到底無理だ。
音楽室でクラスの前に立つだけで、あんなに息が詰まりそうだったのに。
でも、だからといって遠いだけじゃなかった。
紬は最初からこうだったんだろうか、と理都はふと思う。
最初から人前に立てて、最初からこんなふうに声を出せて、最初から何も怖くなかったんだろうか。
たぶん違う。
そんなことはない気がした。
何度も練習したんだろうな、と、なんとなく思う。
台詞を繰り返して、立ち位置を覚えて、失敗して、また直して。
そうやって積み重ねたものがあるから、今ここに立っている。
その当たり前のことが、なぜか理都の胸の奥に静かに落ちてきた。
舞台の上の紬は、理都の知らない顔をしていた。
教室で笑っているときとも、図書館で本を抱えていたときとも違う。
でも、知らない顔なのに、知らない人には見えなかった。
紬の声が、ホールの空気をきれいに切っていく。
言葉の端に迷いがなくて、聞いているだけで少しだけ背筋が伸びる。
理都は客席の最後列近くで、しばらくそのまま立っていた。
気づけば、一場面ぶんくらいはちゃんと見てしまっていた。
そろそろ戻るか、と頭では思うのに、紬が話し始めるたびに足が動かない。
やがて場面が切り替わって、舞台が暗くなる。
その拍手の音で、理都はようやく我に返った。
見すぎた。
何してんだ、俺。
理都は誰にも見つからないうちにと、足早にホールを出た。
廊下に出ると、急に明るくて目が痛い。
図書館へ戻る気分にもなれず、そのまま自販機の前まで歩いて立ち止まる。
胸の奥が少しだけざわついていた。
うまく言葉にできない。
ただ、音楽室で指揮をしていたときの最悪な感じとは違うものが、じわじわ残っている。
紬はああいう場所に立てる。
人前で声を出して、自分の役目をちゃんと果たせる。
だからすごい。
それはそうだ。
でも同時に、あいつだってたぶん、最初から全部できたわけじゃない。
練習して、慣れて、何度もやったからあそこに立っている。
そう思うと、ほんの少しだけ、自分の中の何かが静かになった。
理都は自販機の冷たいボタンに指を置いて、すぐに離した。
別に喉は渇いていない。
次の練習も、たぶんしんどい。
前に立つのも怖いし、うまく振れる自信もない。
それでも、始まる前から全部投げるのは、なんか違う気がした。
理都は小さく息を吐いて、文化会館の出口へ向かった。
声をかけるつもりはなかった。
見ていたことを知られるのも、なんだか妙に気まずい。
だからこのまま帰ればいい。それで終わりだ。
自動ドアを抜けたところで、後ろから誰かが「あ」と小さく声を上げた。
理都の肩が跳ねる。
「白嶺?」
振り返ると、そこには紬がいた。
制服ではなく、舞台用の衣装の上に薄い上着を羽織っている。さっきまで照明の下にいたせいか、廊下の光の中でも少しだけ空気が違って見えた。
理都は一瞬、完全に固まった。
終わった、と思った。
逃げたい。でも今さら不自然すぎる。
「……駒咲」 「え、なんでここに」 「図書館」 「文化会館の?」 「……ここ、文化会館だろ」
意味のない返しをしてしまった。
紬は少しだけ目を丸くして、それからふっと笑う。
「それはそう」 「……」 「じゃあ、本借りに来たんだ」 「まあ」
そこで会話を終わらせるつもりだったのに、紬がじっとこちらを見る。
目が合って、理都は居心地が悪くなる。
「もしかして」 「……なに」 「見てた?」
心臓が一瞬、変な音を立てた。
ごまかせるかと思ったが、紬の顔は変に探る感じではなくて、ただ少しだけ期待しているように見えた。
その表情のせいで、理都は嘘をつけなかった。
「……少しだけ」
紬の目が、ぱっとやわらかくなる。
「ほんとに?」 「でも見てくれたんだ」 「……まあ」 「それは嬉しい」
そんなふうに言われると思っていなかった。
理都は言葉に詰まって、視線を逸らす。
「別に、大したことは」 「大したことあるよ」
紬はそう言って、小さく笑った。
その顔が舞台の上の紬とはまた違って見えて、理都は少しだけ混乱する。
「どうだった?」 「……よかった」 「ざっくりだな」 「語彙を期待するなよ」 「白嶺、慣れると喋るのに」 「今日は慣れてない」 「そっか」
紬は楽しそうに言う。
理都はますます顔を上げにくくなった。
「でも、ちゃんと見てくれたなら十分」 「……」 「ありがとう」
ありがとう、とまた言われた。
理都はなんとなく喉の奥が詰まる。
「別に」 「白嶺、合唱の練習、落ち込んでたでしょ」 「は?」
紬が急にそんなことを言うので、理都は反射で顔を上げた。
紬は責めるでもなく、やっぱりやわらかい顔をしていた。
「なんとなく分かるよ」 「……顔に出てた?」 「ちょっと」 「終わってる」 「そんなことないだろ」
紬は少しだけ間を置いてから、静かな声で続けた。
「僕も舞台、毎回平気ってわけじゃないよ」 「……え」 「緊張する。普通に」 「いや、でも」 「でもじゃなくて」
紬は廊下の窓の方へ視線を流す。
その横顔は、教室で笑っているときより少し大人っぽく見えた。
「慣れた部分はあるけど、それでも毎回ちゃんと怖い」 「……そうなのか」 「うん。だから、白嶺が無理って思うのも分かる」
理都は少し黙った。
さっき舞台を見ていたとき、自分が勝手に考えていたことを、そのまま紬が言った気がした。
「でも、やるって決まったなら、少しずつでもやるしかないだろ」 「……」 「白嶺、ちゃんとやろうとしてるし」
その言葉は、励ましというより確認みたいだった。
理都が逃げたいと思っていることも、でも全部を投げるつもりではないことも、見抜かれている感じがする。
理都はしばらく黙ってから、小さく言った。
「次は、もう少しましにやる」 「うん」 「たぶん」 「たぶんでも十分だよ」
紬はそう言って笑った。
その笑顔を見たとき、理都の中で何かが少しだけ軽くなる。
劇的ではない。明日から急に自信満々になれるわけでもない。
でも、月曜の練習を想像したときの最悪さが、少しだけ薄くなっていた。
「じゃあ、俺帰る」 「うん。気をつけて」 「駒咲も」 「また月曜」 「……うん」
理都はそれだけ返して、自動ドアの向こうへ出た。
外の空気は少し冷たくて、さっきまでのホールの熱を少しずつ冷ましていく。
駐輪場まで歩きながら、理都はぼんやり思った。
舞台の上の紬は、やっぱりすごかった。
同時に、あいつも最初から何でもできるわけじゃないんだと知れたのは、思っていたより大きかった。
自転車にまたがる。
まだ、指揮が向いているとは思えない。
次の練習もたぶんしんどい。
でも、始まる前から全部諦めるのは、今日は少しだけ違う気がした。
ペダルを踏み込む足に、前より少しだけ力が入る。
たぶんそれだけで、今は十分だった。
音楽室に移動した二年三組は、並び方の時点でもうばらばらだった。
前に詰めろと言われても動かないやつがいる。勝手に友達同士で固まるやつがいる。焼肉の話をまだしているやつもいる。担任が「はいはい、私語やめる」と手を叩いても、空気が完全に締まるまでにやたら時間がかかった。
理都は指揮者の位置に立たされたまま、内心で何度目か分からない後悔をしていた。
なんでここにいるんだろう。
ほんとに意味が分からない。
前に立つだけで、背中がむず痒い。
視線が集まっている気がする。いや、実際たぶん集まっている。
クラス全員の顔が見える位置なんて、理都にとってはそれだけで罰ゲームだった。
「白嶺くん、もうちょい前かな」 「そうそう、そのへん」 「指揮棒ないんだっけ?」
女子の声が前方から飛んでくる。
悪意がないのは分かる。分かるけれど、その“普通に話しかけていい相手”みたいな距離感がもうしんどい。
「……いいです、別に」 「え、何?」 「なんでもないです」
声が小さすぎて自分でも笑いそうになった。
いや笑えない。普通に終わってる。
ピアノの前では、紬が椅子の高さを調整していた。
蓋の向こうに見える横顔は教室にいるときより少し真剣で、軽く楽譜をめくる手つきまで妙に手慣れている。あいつはこういう場所でもちゃんとしているんだな、と理都は他人事みたいに思った。
担任が全体を見回す。
「じゃあ一回、音取りも兼ねて通すぞ。完璧じゃなくていいから、今どんな感じか見たい」
どんな感じか。
最悪に決まってるだろ。
理都は息を吸って、手を上げた。
その瞬間、何人かがこっちを見るのが分かる。あ、やっぱ無理、と思ったが、もう下ろせない。
紬のピアノが鳴った。
最初の和音だけで空気が少し変わる。ざわついていた音楽室が、その音を境に少しだけまともな場所になる。
なのに、歌が入った瞬間、それは簡単に崩れた。
テンポが微妙にずれる。
男子の低音が弱い。
ソプラノが先走る。
途中で笑うやつまでいる。
理都は必死に拍を取ろうとしたが、自分の手がちゃんと見えているのかも分からない。
大きく振ればいいのか、細かく見せればいいのか、その判断すら曖昧だった。前の授業で少人数相手にやったのとはまるで違う。人数が多いだけでこんなに無理ゲーになるのか。
「ちょ、待ってそこ早い」 「男子もっと声出してー」 「え、今どこ?」
前列の女子たちが歌いながら勝手に修正を始める。
いや、それを本来やるのはたぶん指揮だろ。
分かっているのに、理都の喉はまったく動かなかった。
結果、曲は中途半端なところで止まった。
止まったというより、止めてもらったに近い。担任がピアノの横まで来て、「はい、一回やめよう」と言ってくれなければ、もっとぐだぐだになっていたはずだ。
「うーん、まあ、最初だしな」
担任はそう言ったけれど、フォローになっていないことくらい理都にも分かった。
クラスの空気も微妙にぬるい。盛り上がっていたやつらも、さすがに“これでいける”とは思っていない顔をしている。
「白嶺くん、もう少し大きく振った方が見やすいかも」 「あとテンポ遅れると歌いづらい」 「そうそう、出だし分かりにくかった」
前の方からまた声が飛ぶ。
正論だ。正論だからこそきつい。
「……すみません」 「いや謝るっていうか、次こうしよって感じ!」
女子のひとりが明るく笑う。
その切り替えの早さがすごい。理都にはとても真似できない。
後ろの方では、練習が止まった途端に小声の雑談が復活していた。
もう疲れた、と理都は思った。まだ一回目なのに。
結局その日の練習は、まとまりきらないまま終わった。
担任は「焦らなくていい」と言ったけれど、焦るなという方が無理だろと思う。自分が指揮をしているせいでぐだぐだになった、という感覚だけがはっきり残った。
理都は音楽室を出てからも、しばらく無言で歩いていた。
廊下の窓から差す午後の光がやけに白くて、目が疲れる。
「白嶺」
横から声がして、理都は肩を揺らした。
紬だった。楽譜を抱えたまま、少し小走りで追いついてきたらしい。
「……なに」 「今日、お疲れ」 「疲れた」 「うん、だよな」
紬は苦笑する。
その笑い方が変にやさしくて、理都は余計に気まずくなった。
「でも、最初だし。あんなもんじゃない?」 「……いや」 「ん?」 「俺、向いてないだろ、普通に」
言ったあとで、少しだけ後悔した。
愚痴みたいだったかもしれない。紬に言うことじゃなかったかもしれない。
でも紬は笑わなかった。
軽く励ますでもなく、すぐに否定するでもなく、少しだけ考えるように目を伏せる。
「向いてないっていうより」 「……」 「慣れてないだけじゃない?」
その言い方は、たぶん紬なりに気を遣っていた。
押しつけがましくなくて、でも完全に放っておくわけでもない。
理都はそれが少しだけありがたくて、でも素直に頷くほど元気ではなかった。
「とりあえず、次も練習がんばろう」 「……うん」
また、それを言うのか。
そう思ったくせに、結局理都は短く返してしまった。
紬は「じゃあまた月曜」と言って、反対側の階段へ向かう。
その背中を見送りながら、理都は小さく息を吐いた。
がんばろう。
簡単に言うなよ、と思う。
でも、あいつが伴奏を引き受けてるのに、自分だけ「やっぱ無理」と逃げるのも違う気がする。
その感覚がもう面倒だった。
教室に戻ると、深也が席で半分寝ていた。
理都が椅子を引く音で片目だけ開ける。
「おかえり」 「ただいま」 「死んでるね」 「死ぬだろ、あれ」 「そんなに?」 「そんなに」
理都は椅子に座って、机に突っ伏した。
木の冷たさが額に心地いい。
「やっぱ向いてない」 「指揮?」 「うん」 「でも先生は向いてるって言ってた」 「先生の見る目がおかしい」 「それは先生に失礼」
深也はそう言って、ふわっと欠伸をした。
理都は机に顔を埋めたまま、小さく唸る。
「前に立つだけで無理なんだよ。みんな見てくるし。女子は普通に注文飛ばしてくるし。勝手に話進むし」 「うん」 「しかも歌もまとまんないし。俺いる意味ある?」 「指揮者だからじゃない」 「そういうことじゃないだろ」
深也は返事の代わりみたいに、机に頬杖をついた。
その力の抜けた顔を見ていると、ちょっとだけ呼吸が戻る。
「じゃあ、次はもう少し大きく振れば」 「簡単に言うな」 「簡単じゃない?」 「お前な」
でも、その雑さに少しだけ笑いそうになった。
理都は顔を上げて、窓の外を見る。空は中途半端な曇りで、何をするにもやる気が出なさそうな色だった。
週末、理都は文化会館の図書館に来ていた。
学校の図書室でもよかったが、今日はなんとなく、いつもと違う場所に行きたかった。
静かで、人が少なくて、合唱コンクールのことを少しだけ忘れられるところ。そう考えた結果、自然と足が向いたのがここだった。
自転車を停めて中へ入ると、土曜の文化会館は思ったより人が多かった。
ホールの方から明るい声が聞こえる。受付の近くには花が飾られていて、「地区高校合同発表会」と書かれた立て看板が出ていた。
理都は一度だけそちらを見てから、別に興味はありません、みたいな顔で図書館へ向かった。
本当に、最初はそのつもりだった。
返却棚のあたりを回って、新刊のコーナーを眺めて、なんとなく背表紙を追っていく。
静かな空気に少し落ち着いてきた頃、ふと、さっき見た看板の文字が頭に浮かんだ。
合同発表会。
文化会館のホール。
土曜。
演劇部。
そこでようやく、理都は小さく立ち止まった。
まさか。
いや、でも。
別に確認する必要はない。
ないはずなのに、気づいたら理都は借りる予定だった本を棚に戻して、図書館の外へ出ていた。
ホール前には制服姿の生徒が何人もいた。
パンフレットを持っている保護者らしい大人もいる。
その中に、見覚えのある校章がちらほら混じっていた。
やっぱり、と思った。
理都は少しだけ逡巡して、それから人の流れの端に沿ってホールの入口へ近づいた。
別に最初から見るつもりじゃなかった。ほんの少し、確認するだけだ。駒咲が出ているのか、そうじゃないのか。たぶんそれだけ。
でも、薄暗い客席の後方から舞台を見た瞬間、理都は完全に足を止めた。
紬がいた。
舞台の中央に立っていたわけではない。何人かいる役者のうちの一人だった。
なのに、なぜか目がそっちへ吸い寄せられる。
照明の下の紬は、教室で見るときよりずっと輪郭がはっきりして見えた。
声が通る。動きに迷いがない。視線の流し方も立ち方も、全部が自然で、でもきちんと人に見せる形になっている。
客席の前方で、小さく息を呑む気配がした。
理都はそれを聞きながら、ぼんやり思った。
すごい、と思う前に、圧倒される、の方が近かった。
同じクラスで、普通に話して、図書館で本を選んで、ハンカチを貸してくれたやつが、今はこういう場所にいる。
舞台の上で、たくさんの人に見られていて、それでも少しも怯んでいない。
理都には到底無理だ。
音楽室でクラスの前に立つだけで、あんなに息が詰まりそうだったのに。
でも、だからといって遠いだけじゃなかった。
紬は最初からこうだったんだろうか、と理都はふと思う。
最初から人前に立てて、最初からこんなふうに声を出せて、最初から何も怖くなかったんだろうか。
たぶん違う。
そんなことはない気がした。
何度も練習したんだろうな、と、なんとなく思う。
台詞を繰り返して、立ち位置を覚えて、失敗して、また直して。
そうやって積み重ねたものがあるから、今ここに立っている。
その当たり前のことが、なぜか理都の胸の奥に静かに落ちてきた。
舞台の上の紬は、理都の知らない顔をしていた。
教室で笑っているときとも、図書館で本を抱えていたときとも違う。
でも、知らない顔なのに、知らない人には見えなかった。
紬の声が、ホールの空気をきれいに切っていく。
言葉の端に迷いがなくて、聞いているだけで少しだけ背筋が伸びる。
理都は客席の最後列近くで、しばらくそのまま立っていた。
気づけば、一場面ぶんくらいはちゃんと見てしまっていた。
そろそろ戻るか、と頭では思うのに、紬が話し始めるたびに足が動かない。
やがて場面が切り替わって、舞台が暗くなる。
その拍手の音で、理都はようやく我に返った。
見すぎた。
何してんだ、俺。
理都は誰にも見つからないうちにと、足早にホールを出た。
廊下に出ると、急に明るくて目が痛い。
図書館へ戻る気分にもなれず、そのまま自販機の前まで歩いて立ち止まる。
胸の奥が少しだけざわついていた。
うまく言葉にできない。
ただ、音楽室で指揮をしていたときの最悪な感じとは違うものが、じわじわ残っている。
紬はああいう場所に立てる。
人前で声を出して、自分の役目をちゃんと果たせる。
だからすごい。
それはそうだ。
でも同時に、あいつだってたぶん、最初から全部できたわけじゃない。
練習して、慣れて、何度もやったからあそこに立っている。
そう思うと、ほんの少しだけ、自分の中の何かが静かになった。
理都は自販機の冷たいボタンに指を置いて、すぐに離した。
別に喉は渇いていない。
次の練習も、たぶんしんどい。
前に立つのも怖いし、うまく振れる自信もない。
それでも、始まる前から全部投げるのは、なんか違う気がした。
理都は小さく息を吐いて、文化会館の出口へ向かった。
声をかけるつもりはなかった。
見ていたことを知られるのも、なんだか妙に気まずい。
だからこのまま帰ればいい。それで終わりだ。
自動ドアを抜けたところで、後ろから誰かが「あ」と小さく声を上げた。
理都の肩が跳ねる。
「白嶺?」
振り返ると、そこには紬がいた。
制服ではなく、舞台用の衣装の上に薄い上着を羽織っている。さっきまで照明の下にいたせいか、廊下の光の中でも少しだけ空気が違って見えた。
理都は一瞬、完全に固まった。
終わった、と思った。
逃げたい。でも今さら不自然すぎる。
「……駒咲」 「え、なんでここに」 「図書館」 「文化会館の?」 「……ここ、文化会館だろ」
意味のない返しをしてしまった。
紬は少しだけ目を丸くして、それからふっと笑う。
「それはそう」 「……」 「じゃあ、本借りに来たんだ」 「まあ」
そこで会話を終わらせるつもりだったのに、紬がじっとこちらを見る。
目が合って、理都は居心地が悪くなる。
「もしかして」 「……なに」 「見てた?」
心臓が一瞬、変な音を立てた。
ごまかせるかと思ったが、紬の顔は変に探る感じではなくて、ただ少しだけ期待しているように見えた。
その表情のせいで、理都は嘘をつけなかった。
「……少しだけ」
紬の目が、ぱっとやわらかくなる。
「ほんとに?」 「でも見てくれたんだ」 「……まあ」 「それは嬉しい」
そんなふうに言われると思っていなかった。
理都は言葉に詰まって、視線を逸らす。
「別に、大したことは」 「大したことあるよ」
紬はそう言って、小さく笑った。
その顔が舞台の上の紬とはまた違って見えて、理都は少しだけ混乱する。
「どうだった?」 「……よかった」 「ざっくりだな」 「語彙を期待するなよ」 「白嶺、慣れると喋るのに」 「今日は慣れてない」 「そっか」
紬は楽しそうに言う。
理都はますます顔を上げにくくなった。
「でも、ちゃんと見てくれたなら十分」 「……」 「ありがとう」
ありがとう、とまた言われた。
理都はなんとなく喉の奥が詰まる。
「別に」 「白嶺、合唱の練習、落ち込んでたでしょ」 「は?」
紬が急にそんなことを言うので、理都は反射で顔を上げた。
紬は責めるでもなく、やっぱりやわらかい顔をしていた。
「なんとなく分かるよ」 「……顔に出てた?」 「ちょっと」 「終わってる」 「そんなことないだろ」
紬は少しだけ間を置いてから、静かな声で続けた。
「僕も舞台、毎回平気ってわけじゃないよ」 「……え」 「緊張する。普通に」 「いや、でも」 「でもじゃなくて」
紬は廊下の窓の方へ視線を流す。
その横顔は、教室で笑っているときより少し大人っぽく見えた。
「慣れた部分はあるけど、それでも毎回ちゃんと怖い」 「……そうなのか」 「うん。だから、白嶺が無理って思うのも分かる」
理都は少し黙った。
さっき舞台を見ていたとき、自分が勝手に考えていたことを、そのまま紬が言った気がした。
「でも、やるって決まったなら、少しずつでもやるしかないだろ」 「……」 「白嶺、ちゃんとやろうとしてるし」
その言葉は、励ましというより確認みたいだった。
理都が逃げたいと思っていることも、でも全部を投げるつもりではないことも、見抜かれている感じがする。
理都はしばらく黙ってから、小さく言った。
「次は、もう少しましにやる」 「うん」 「たぶん」 「たぶんでも十分だよ」
紬はそう言って笑った。
その笑顔を見たとき、理都の中で何かが少しだけ軽くなる。
劇的ではない。明日から急に自信満々になれるわけでもない。
でも、月曜の練習を想像したときの最悪さが、少しだけ薄くなっていた。
「じゃあ、俺帰る」 「うん。気をつけて」 「駒咲も」 「また月曜」 「……うん」
理都はそれだけ返して、自動ドアの向こうへ出た。
外の空気は少し冷たくて、さっきまでのホールの熱を少しずつ冷ましていく。
駐輪場まで歩きながら、理都はぼんやり思った。
舞台の上の紬は、やっぱりすごかった。
同時に、あいつも最初から何でもできるわけじゃないんだと知れたのは、思っていたより大きかった。
自転車にまたがる。
まだ、指揮が向いているとは思えない。
次の練習もたぶんしんどい。
でも、始まる前から全部諦めるのは、今日は少しだけ違う気がした。
ペダルを踏み込む足に、前より少しだけ力が入る。
たぶんそれだけで、今は十分だった。

