二学期に入ってしばらくすると、教室の空気は妙に落ち着かなくなる。
文化祭だの進路だの、そういう学校行事の話が増えてくるせいだ。
白嶺理都にとって、その手の話題はだいたい「面倒くさい」に分類される。
教室全体で何かをやるとなると、声の大きいやつが仕切って、目立つやつが盛り上がって、そうじゃないやつは波に飲まれる。
理都はいつもその外側にいる。
別にそれで困らないし、むしろその方が楽だった。
昼休み明けのホームルーム。
担任の音楽教師が、出席簿を机に置いたあと、やけに機嫌のいい顔で教室を見渡した。
その時点で、理都は嫌な予感がしていた。
「はい、二年三組。そろそろ合唱コンクールの話を進めるぞ」
来た。
理都は心の中でだけそう呟いて、机の上に視線を落とした。
「今年は学年全体で力入ってるからな。どうせ出るなら中途半端じゃなく、ちゃんと仕上げてほしい」
担任が黒板に大きく『合唱コンクール』と書く。
白いチョークの粉が少し舞った。
「で、やるからには目標があった方がいいだろ?」
そこで一拍置いた担任は、わざとらしく口元を持ち上げた。
「うちのクラスが金賞取ったら、焼肉バイキング連れてってやる」
一瞬、教室が静まり返った。
そして次の瞬間、爆発したみたいにざわめきが起きた。
「え、マジで?」
「やば、最高じゃん」
「絶対取ろうよ!」
特に前列の女子グループが一気に沸く。
カースト上位の、いつも教室の空気を軽やかに持っていく連中だ。
声が明るい。反応が早い。楽しそうだと思った瞬間にはもう空気を支配している。
瀬尾蓮などは机に頬杖をついたまま「焼肉は普通にアツいだろ」と言い、その横で誰かが「お前それしか見てねーじゃん」と笑っていた。
理都は視線を上げず、小さく息を吐いた。
焼肉バイキング。たしかに嫌いではない。
けれど、それのためにクラス全員で本気になれるかと言われると、話は別だ。
後ろの席で、浅葉深也が眠そうに呟く。
「焼肉……重いね」
「そこ?」
「だって、いっぱい食べるんでしょ」
「そこじゃないだろ」
小声で返すと、深也はのろく首を傾げた。
「理都は行きたくない?」
「……別に」
「行きたくなさそう」
「お前な」
やりとりの間にも、前方の盛り上がりはどんどん大きくなっていく。
「せっかくなら本気でやろうよ」「優勝したくない?」
声の大きい連中が中心になって、もう勝つ前提みたいな空気ができ始めていた。
理都はその勢いをぼんやり見ながら、やっぱりこういう流れになるよな、と思った。
誰かが盛り上がると、それに乗る方が楽なやつらが集まる。
そうして空気が完成すると、乗れない側はだんだん息がしづらくなる。
教室の端の方では、理都と同じように静かにしている連中が顔を見合わせていた。
そのうちの一人が、前の盛り上がりに聞こえないような声でぼそっと零す。
「いや、焼肉でそんな本気になる?」
「分かる」
「喜ぶのあいつらだけだろ。適当に歌っとけばよくね」
小さな笑いが起きる。
理都は何も言わなかったけれど、内心では深く頷いていた。
本当に、それな、と思う。
放課後まで残って、練習して、前に立って、目立って、焼肉のために?
意味が分からない。
「はいはい、静かに」
担任が手を叩く。
ざわつきは完全には収まらないまま、話は次に進んだ。
「まずは曲と役割決めだな。先に伴奏者と指揮者を決めたい。立候補いるか?」
教室の空気が少し変わる。
さっきまであれだけ盛り上がっていたくせに、こういうときだけみんな露骨に目を逸らす。
理都はそれを見て、少しだけ冷めた気持ちになった。
そりゃそうだ。焼肉には乗りたい。
でも、自分が責任ある位置に立つのは別問題。
目立つし、失敗したら気まずいし、何より面倒だ。
「ピアノ弾ける人、いないか?」
担任の言葉に、前列の女子たちがほとんど同時に顔を上げた。
「駒咲くんじゃない?」
「え、分かる。できそう!」
理都もつられて視線を上げる。
教室の中央寄りの席で、駒咲紬が少しだけ目を丸くしていた。
「僕?」
「だってピアノやってたって言ってなかった?」
「演劇部の発声の時もリズム感いいし、駒咲くんなら絶対うまいって」
次々飛んでくる推薦の声に、紬は困ったように笑った。
誰にでもやわらかく応じるあの表情だ。
けれど今日はほんの少しだけ、本気で戸惑っているようにも見える。
「いや、昔ちょっとやってただけだよ」
「でも弾けるんでしょ?」
「伴奏できる人、他にいる?」
誰も手を挙げない。
そうなると、空気はもう決まったも同然だった。
担任が紬を見る。
「駒咲、どうだ」
「……ちゃんと練習すれば、たぶん」
「よし、決まりだな」
教室のあちこちから歓声が上がる。
紬は完全に嬉しそうというより、「引き受けた以上はやるしかない」という顔で小さく頷いていた。
そこだけは少し意外だった。もっと気楽に「いいよ」と言うタイプかと思っていたからだ。
「よし。じゃあ次、指揮者」
その一言で、教室の空気が露骨に鈍る。
伴奏よりさらにやりたがる人間が少ない役だ。
前に立つ。目立つ。責任がある。
見事なくらい、誰も声を出さなかった。
担任は少しだけ腕を組んで、教室を見回した。
その時間、理都は完全に傍観者のつもりでいた。
視線を落として、どうか適当なやつが押しつけられて終わりますように、とだけ願っていた。
だから、自分の名前が出るなんて、微塵も思っていなかった。
「ああ、そうだ。白嶺」
反射で顔を上げた。担任がこっちを見ている。
「前に音楽の授業でグループワークやったとき、お前、指揮やってただろ。あれ結構よかったぞ。リズムの取り方も悪くなかった。白嶺、向いてるんじゃないか」
は?
理都の頭にはそれしか出てこなかった。
たしかに少し前の授業で、班ごとに曲を合わせる活動はあった。
じゃんけんで負けて、仕方なく前に立たされただけだ。
別にやりたくてやったわけじゃないし、褒められたとしても社交辞令だと思っていた。
なのに今、そのどうでもいいはずの一コマが最悪の形で拾われている。
「え、白嶺?」
「意外」
「そんなことできるんだ」
あちこちから好き勝手な声が飛んでくる。
やめてくれ。本当に、やめてほしい。
「いや、無理です」
理都はできるだけ小さく、でもはっきり言った。
担任が眉を上げる。
「なんで」
「いや……無理なんで。人前とか、無理です」
「でも授業ではできてたじゃん」
(あれは班だけだっただろ)
クラス全員の前とは規模が違う。何もかもが違う。
理都はそう言いたかったのに、急に全員の視線を受けると頭が回らない。
前の女子グループは、「じゃあ白嶺くんでいいんじゃない?」みたいな空気になりかけている。
逃げ場がない。
「白嶺くん、嫌じゃなければお願いしたいかも」
「先生もそう言ってるし。伴奏と指揮がちゃんとしてたら強そうじゃない?」
他人事みたいに言うな。
理都は机の縁を掴みたくなる衝動をこらえた。
そのとき。
不意に、やわらかい声が混ざった。
「白嶺なら、できると思う」
駒咲紬だった。
理都は思わずそっちを見る。
紬は大きな声で言ったわけではない。
けれど変に茶化す感じもなく、本当にそう思っているみたいな顔でこちらを見ていた。
「前の授業、ちゃんと見やすかったし。僕、白嶺が指揮なら合わせやすいと思う」
その言葉で、教室の空気が決まってしまった。
女子たちが「ほら、駒咲くんもこう言ってるし」と言い始め、担任も「じゃあそうしよう」と当然みたいに頷く。
理都は置いていかれる感覚のまま、何も言えなかった。
一瞬、言葉を返そうとしたけれど、間に合わなかった。
「よし、決まりだな。伴奏、駒咲。指揮、白嶺」
ぱちぱちと拍手が起きる。
何がめでたいんだ。理都には本当に分からなかった。
ホームルームが終わると同時に、教室はまたざわざわし始めた。
理都は机に突っ伏したかったが、ぎりぎりでこらえた。
「理都、死んでる」
後ろから深也の声がする。
「死ぬだろ、これ」
「まだ生きてるよ」
「そういう話じゃない」
「指揮、がんばって」
「お前も他人事すぎんだろ」
「他人事だし」
深也は悪びれずにそう言って、のんびり瞬きをした。
理都は深くため息をつく。
「ほんと、引き受けなきゃよかった……」
「理都、引き受けたっけ」
「引き受けてねえよ。押しつけられたんだよ」
そこへ、机の横に影が落ちた。
「白嶺」
紬だった。
「……なに」
「ごめん、勝手に言っちゃったかな」
「……いや」
本当は、いやじゃないとは言えない。
めちゃくちゃ困っている。
でも、目の前で素直に責められるほど器用でもなかった。
紬は少しだけ申し訳なさそうに笑って、それから小さく首を傾げた。
「でも、ほんとに向いてると思ったんだ。……一緒に練習、がんばろう」
それは、なんでもない言い方だった。
誰にでも向けるような、やわらかい声。
なのに理都の中では、その一言だけが妙に重く残った。
やめたい。無理だ。
そう思っていたはずなのに、紬がまっすぐそう言うから、もうそこで「いや無理だから降りる」とは言えなくなってしまう。
理都は少しだけ視線を逸らして、ぼそっと返した。
「……努力はする」
「うん」
紬はそれで満足したみたいに笑って、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送ってから、理都はゆっくり机に突っ伏した。
「もうだめそう」
「だめだろ」
「でも断れなかったね」
「……」
返せない。本当にその通りだった。
理都は机に額を押しつけたまま、小さく息を吐く。
焼肉なんてどうでもいいし、クラスのやる気もどうでもいい。
目立つ位置に立つなんて最悪だ。
それなのに、紬が「がんばろう」と言ったせいで、完全に投げ出すこともできない。
意味が分からない。本当に。
教室の前方では、女子グループが「絶対金賞取りたい」とはしゃいでいる。
後方では、「適度に手ェ抜こうぜ」とひそひそ声がしている。
その真ん中に、自分がいる。
どっちにも完全には入れないまま、指揮者なんて役だけ押しつけられて。
詰みだろ。
理都は心の中でそう呟いて、机に顔を埋めたまま動けなくなった。
それでも、さっきの紬の声だけは、どうしても耳から離れてくれなかった。
文化祭だの進路だの、そういう学校行事の話が増えてくるせいだ。
白嶺理都にとって、その手の話題はだいたい「面倒くさい」に分類される。
教室全体で何かをやるとなると、声の大きいやつが仕切って、目立つやつが盛り上がって、そうじゃないやつは波に飲まれる。
理都はいつもその外側にいる。
別にそれで困らないし、むしろその方が楽だった。
昼休み明けのホームルーム。
担任の音楽教師が、出席簿を机に置いたあと、やけに機嫌のいい顔で教室を見渡した。
その時点で、理都は嫌な予感がしていた。
「はい、二年三組。そろそろ合唱コンクールの話を進めるぞ」
来た。
理都は心の中でだけそう呟いて、机の上に視線を落とした。
「今年は学年全体で力入ってるからな。どうせ出るなら中途半端じゃなく、ちゃんと仕上げてほしい」
担任が黒板に大きく『合唱コンクール』と書く。
白いチョークの粉が少し舞った。
「で、やるからには目標があった方がいいだろ?」
そこで一拍置いた担任は、わざとらしく口元を持ち上げた。
「うちのクラスが金賞取ったら、焼肉バイキング連れてってやる」
一瞬、教室が静まり返った。
そして次の瞬間、爆発したみたいにざわめきが起きた。
「え、マジで?」
「やば、最高じゃん」
「絶対取ろうよ!」
特に前列の女子グループが一気に沸く。
カースト上位の、いつも教室の空気を軽やかに持っていく連中だ。
声が明るい。反応が早い。楽しそうだと思った瞬間にはもう空気を支配している。
瀬尾蓮などは机に頬杖をついたまま「焼肉は普通にアツいだろ」と言い、その横で誰かが「お前それしか見てねーじゃん」と笑っていた。
理都は視線を上げず、小さく息を吐いた。
焼肉バイキング。たしかに嫌いではない。
けれど、それのためにクラス全員で本気になれるかと言われると、話は別だ。
後ろの席で、浅葉深也が眠そうに呟く。
「焼肉……重いね」
「そこ?」
「だって、いっぱい食べるんでしょ」
「そこじゃないだろ」
小声で返すと、深也はのろく首を傾げた。
「理都は行きたくない?」
「……別に」
「行きたくなさそう」
「お前な」
やりとりの間にも、前方の盛り上がりはどんどん大きくなっていく。
「せっかくなら本気でやろうよ」「優勝したくない?」
声の大きい連中が中心になって、もう勝つ前提みたいな空気ができ始めていた。
理都はその勢いをぼんやり見ながら、やっぱりこういう流れになるよな、と思った。
誰かが盛り上がると、それに乗る方が楽なやつらが集まる。
そうして空気が完成すると、乗れない側はだんだん息がしづらくなる。
教室の端の方では、理都と同じように静かにしている連中が顔を見合わせていた。
そのうちの一人が、前の盛り上がりに聞こえないような声でぼそっと零す。
「いや、焼肉でそんな本気になる?」
「分かる」
「喜ぶのあいつらだけだろ。適当に歌っとけばよくね」
小さな笑いが起きる。
理都は何も言わなかったけれど、内心では深く頷いていた。
本当に、それな、と思う。
放課後まで残って、練習して、前に立って、目立って、焼肉のために?
意味が分からない。
「はいはい、静かに」
担任が手を叩く。
ざわつきは完全には収まらないまま、話は次に進んだ。
「まずは曲と役割決めだな。先に伴奏者と指揮者を決めたい。立候補いるか?」
教室の空気が少し変わる。
さっきまであれだけ盛り上がっていたくせに、こういうときだけみんな露骨に目を逸らす。
理都はそれを見て、少しだけ冷めた気持ちになった。
そりゃそうだ。焼肉には乗りたい。
でも、自分が責任ある位置に立つのは別問題。
目立つし、失敗したら気まずいし、何より面倒だ。
「ピアノ弾ける人、いないか?」
担任の言葉に、前列の女子たちがほとんど同時に顔を上げた。
「駒咲くんじゃない?」
「え、分かる。できそう!」
理都もつられて視線を上げる。
教室の中央寄りの席で、駒咲紬が少しだけ目を丸くしていた。
「僕?」
「だってピアノやってたって言ってなかった?」
「演劇部の発声の時もリズム感いいし、駒咲くんなら絶対うまいって」
次々飛んでくる推薦の声に、紬は困ったように笑った。
誰にでもやわらかく応じるあの表情だ。
けれど今日はほんの少しだけ、本気で戸惑っているようにも見える。
「いや、昔ちょっとやってただけだよ」
「でも弾けるんでしょ?」
「伴奏できる人、他にいる?」
誰も手を挙げない。
そうなると、空気はもう決まったも同然だった。
担任が紬を見る。
「駒咲、どうだ」
「……ちゃんと練習すれば、たぶん」
「よし、決まりだな」
教室のあちこちから歓声が上がる。
紬は完全に嬉しそうというより、「引き受けた以上はやるしかない」という顔で小さく頷いていた。
そこだけは少し意外だった。もっと気楽に「いいよ」と言うタイプかと思っていたからだ。
「よし。じゃあ次、指揮者」
その一言で、教室の空気が露骨に鈍る。
伴奏よりさらにやりたがる人間が少ない役だ。
前に立つ。目立つ。責任がある。
見事なくらい、誰も声を出さなかった。
担任は少しだけ腕を組んで、教室を見回した。
その時間、理都は完全に傍観者のつもりでいた。
視線を落として、どうか適当なやつが押しつけられて終わりますように、とだけ願っていた。
だから、自分の名前が出るなんて、微塵も思っていなかった。
「ああ、そうだ。白嶺」
反射で顔を上げた。担任がこっちを見ている。
「前に音楽の授業でグループワークやったとき、お前、指揮やってただろ。あれ結構よかったぞ。リズムの取り方も悪くなかった。白嶺、向いてるんじゃないか」
は?
理都の頭にはそれしか出てこなかった。
たしかに少し前の授業で、班ごとに曲を合わせる活動はあった。
じゃんけんで負けて、仕方なく前に立たされただけだ。
別にやりたくてやったわけじゃないし、褒められたとしても社交辞令だと思っていた。
なのに今、そのどうでもいいはずの一コマが最悪の形で拾われている。
「え、白嶺?」
「意外」
「そんなことできるんだ」
あちこちから好き勝手な声が飛んでくる。
やめてくれ。本当に、やめてほしい。
「いや、無理です」
理都はできるだけ小さく、でもはっきり言った。
担任が眉を上げる。
「なんで」
「いや……無理なんで。人前とか、無理です」
「でも授業ではできてたじゃん」
(あれは班だけだっただろ)
クラス全員の前とは規模が違う。何もかもが違う。
理都はそう言いたかったのに、急に全員の視線を受けると頭が回らない。
前の女子グループは、「じゃあ白嶺くんでいいんじゃない?」みたいな空気になりかけている。
逃げ場がない。
「白嶺くん、嫌じゃなければお願いしたいかも」
「先生もそう言ってるし。伴奏と指揮がちゃんとしてたら強そうじゃない?」
他人事みたいに言うな。
理都は机の縁を掴みたくなる衝動をこらえた。
そのとき。
不意に、やわらかい声が混ざった。
「白嶺なら、できると思う」
駒咲紬だった。
理都は思わずそっちを見る。
紬は大きな声で言ったわけではない。
けれど変に茶化す感じもなく、本当にそう思っているみたいな顔でこちらを見ていた。
「前の授業、ちゃんと見やすかったし。僕、白嶺が指揮なら合わせやすいと思う」
その言葉で、教室の空気が決まってしまった。
女子たちが「ほら、駒咲くんもこう言ってるし」と言い始め、担任も「じゃあそうしよう」と当然みたいに頷く。
理都は置いていかれる感覚のまま、何も言えなかった。
一瞬、言葉を返そうとしたけれど、間に合わなかった。
「よし、決まりだな。伴奏、駒咲。指揮、白嶺」
ぱちぱちと拍手が起きる。
何がめでたいんだ。理都には本当に分からなかった。
ホームルームが終わると同時に、教室はまたざわざわし始めた。
理都は机に突っ伏したかったが、ぎりぎりでこらえた。
「理都、死んでる」
後ろから深也の声がする。
「死ぬだろ、これ」
「まだ生きてるよ」
「そういう話じゃない」
「指揮、がんばって」
「お前も他人事すぎんだろ」
「他人事だし」
深也は悪びれずにそう言って、のんびり瞬きをした。
理都は深くため息をつく。
「ほんと、引き受けなきゃよかった……」
「理都、引き受けたっけ」
「引き受けてねえよ。押しつけられたんだよ」
そこへ、机の横に影が落ちた。
「白嶺」
紬だった。
「……なに」
「ごめん、勝手に言っちゃったかな」
「……いや」
本当は、いやじゃないとは言えない。
めちゃくちゃ困っている。
でも、目の前で素直に責められるほど器用でもなかった。
紬は少しだけ申し訳なさそうに笑って、それから小さく首を傾げた。
「でも、ほんとに向いてると思ったんだ。……一緒に練習、がんばろう」
それは、なんでもない言い方だった。
誰にでも向けるような、やわらかい声。
なのに理都の中では、その一言だけが妙に重く残った。
やめたい。無理だ。
そう思っていたはずなのに、紬がまっすぐそう言うから、もうそこで「いや無理だから降りる」とは言えなくなってしまう。
理都は少しだけ視線を逸らして、ぼそっと返した。
「……努力はする」
「うん」
紬はそれで満足したみたいに笑って、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送ってから、理都はゆっくり机に突っ伏した。
「もうだめそう」
「だめだろ」
「でも断れなかったね」
「……」
返せない。本当にその通りだった。
理都は机に額を押しつけたまま、小さく息を吐く。
焼肉なんてどうでもいいし、クラスのやる気もどうでもいい。
目立つ位置に立つなんて最悪だ。
それなのに、紬が「がんばろう」と言ったせいで、完全に投げ出すこともできない。
意味が分からない。本当に。
教室の前方では、女子グループが「絶対金賞取りたい」とはしゃいでいる。
後方では、「適度に手ェ抜こうぜ」とひそひそ声がしている。
その真ん中に、自分がいる。
どっちにも完全には入れないまま、指揮者なんて役だけ押しつけられて。
詰みだろ。
理都は心の中でそう呟いて、机に顔を埋めたまま動けなくなった。
それでも、さっきの紬の声だけは、どうしても耳から離れてくれなかった。



