二学期に入ってしばらくすると、教室の空気は妙に落ち着かなくなる。
文化祭だの進路だの、そういう学校行事の話が増えてくるせいだ。
白嶺理都にとって、その手の話題はだいたい面倒くさい分類に入る。
教室全体で何かをやるとなると、声の大きいやつが仕切って、目立つやつが盛り上がって、そうじゃないやつは波に飲まれる。理都はいつもその外側にいる。別にそれで困らないし、むしろその方が楽だった。
昼休み明けのホームルーム。
担任の音楽教師が、出席簿を机に置いたあと、やけに機嫌のいい顔で教室を見渡した時点で、理都は嫌な予感がしていた。
「はい、二年三組。そろそろ合唱コンクールの話を進めるぞ」
来た。
理都は心の中でだけそう呟いて、机の上に視線を落とした。
前の方の席では、もう何人かが小さくざわついている。面倒だなと思う側と、何が起きるのかちょっと楽しみにしている側。そのどちらの気配も、理都にはなんとなく分かった。
「今年は学年全体で力入ってるからな。どうせ出るなら中途半端じゃなく、ちゃんと仕上げてほしい」
担任がそう言って黒板に大きく「合唱コンクール」と書く。
白いチョークの粉が少し舞った。
「で、やるからには目標があった方がいいだろ?」
そこで一拍置いた担任は、わざとらしく口元を持ち上げた。
「うちのクラスが金賞取ったら、焼肉バイキング連れてってやる」
一瞬、教室が静まり返った。
それから、次の瞬間には爆発したみたいにざわめいた。
「え、マジで?」 「やば、最高じゃん」 「え、絶対取ろうよ!」
特に前列の女子グループが一気に沸く。
カースト上位の、いつも教室の空気を軽やかに持っていく連中だ。声が明るい。反応が早い。楽しそうだと思った瞬間にはもう空気を支配している。
「先生、それほんとに言いましたよね?」 「言った言った。録音しとけばよかった」 「絶対勝ちたいんだけど!」
男子の何人かも乗っかって笑っている。
瀬尾蓮なんかは机に頬杖をついたまま「焼肉は普通にアツいだろ」と言っていて、その横の誰かが「お前それしか見てねーじゃん」と笑っていた。
理都は視線を上げず、小さく息を吐いた。
焼肉バイキング。たしかに嫌いではない。けれど、それのためにクラス全員で本気になれるかと言われると、話は別だ。
後ろの席で、浅葉深也が眠そうに呟く。
「焼肉……重いね」 「そこ?」 「だって、いっぱい食べるんでしょ」 「そこじゃないだろ」
小声で返すと、深也はのろく首を傾げた。
「理都は行きたくない?」 「……別に」 「行きたくなさそう」 「お前な」
そのやりとりの間にも、前方の盛り上がりはどんどん大きくなっていく。
「せっかくなら本気でやろうよ」 「どうせなら優勝したくない?」 「二年三組、けっこういけそうじゃない?」
誰かがそう言って、女子たちがうんうんと頷く。
声の大きい連中が中心になって、もう勝つ前提みたいな空気ができ始めている。
理都はその勢いをぼんやり見ながら、やっぱりこういう流れになるよな、と思った。
誰かが盛り上がると、それに乗る方が楽なやつらが集まる。そうして空気ができると、乗れない側はだんだん息がしづらくなる。
教室の端の方では、理都みたいに静かにしている連中が顔を見合わせていた。
その中のひとりが、前の盛り上がりに聞こえないような声でぼそっと言う。
「いや、焼肉でそんな本気になる?」 「分かる」 「喜ぶのあいつらだけだろ」 「適当に歌っとけばよくね」
小さな笑いが起きる。
理都は何も言わなかったけれど、内心ではかなり頷いていた。
ほんとにそれな、と思う。
放課後まで残って、練習して、前に立って、目立って、焼肉のために? 意味が分からない。
「はいはい、静かに」
担任が手を叩く。
ざわつきは完全には収まらないまま、それでも話は次に進んだ。
「まずは曲と役割決めだな。曲は候補を絞ってから決めるとして、先に伴奏者と指揮者を決めたい。立候補いるか?」
教室の空気が少し変わる。
さっきまであれだけ盛り上がっていたくせに、こういうときだけみんな露骨に目を逸らす。理都はそれを見て、少しだけ冷めた気持ちになった。
そりゃそうだ。
焼肉には乗れる。でも自分が責任ある位置に立つのは別問題。
目立つし、失敗したら気まずいし、面倒だ。
「ピアノ弾ける人、いないか?」
担任がそう言った瞬間、前列の女子たちがほとんど同時に顔を上げた。
「駒咲くんじゃない?」 「え、分かる」 「できそう!」
理都もつられて視線を上げる。
教室の中央寄りの席で、駒咲紬が少しだけ目を丸くしていた。
「僕?」 「だってピアノやってたって言ってなかった?」 「演劇部の発声の時もリズム感いいし」 「駒咲くんなら絶対うまいって」
次々飛んでくる推薦の声に、紬は困ったように笑った。
誰にでもやわらかく応じるあの表情だ。けれど今日はほんの少しだけ、本気で戸惑っているようにも見える。
「いや、昔ちょっとやってただけだよ」 「でも弾けるんでしょ?」 「伴奏できる人、他にいる?」
誰も手を挙げない。
そうなると、空気はもう決まったみたいなものだった。
担任が紬を見る。
「駒咲、どうだ」 「……ちゃんと練習すれば、たぶん」 「じゃあ決まりだな」
教室のあちこちから歓声が上がる。
女子グループなんてすでに「やった」と言わんばかりの顔だ。
理都はその様子を見ながら、やっぱり駒咲はそういう位置のやつなんだなと思った。
目立つ場所に置かれても自然で、期待されても妙に絵になる。
同じ教室にいるのに、やっぱり少し遠い。
紬は完全に嬉しそうというより、引き受けた以上はやるしかない、という顔で小さく頷いていた。
そこだけは少し意外だった。
もっと気楽に「いいよ」と言うタイプかと思っていたからだ。
「よし。じゃあ次、指揮者」
その一言で、教室の空気が露骨に鈍る。
伴奏よりさらにやりたがる人間が少ない役だ。
前に立つ。目立つ。責任がある。面倒くさい。理都ですら、それくらいは分かる。
「誰かいないか?」 「……」 「立候補なし?」 「……」
見事なくらい誰も声を出さなかった。
担任は少しだけ腕を組んで、教室を見回した。
その時間、理都は完全に傍観者のつもりでいた。
視線を落として、どうかこのまま適当なやつが押しつけられて終わりますように、とだけ願っていた。
だから次の瞬間、自分の名前が出るなんてまったく思っていなかった。
「ああ、そうだ。白嶺」
理都は反射で顔を上げた。
担任がこっちを見ている。
「前に音楽の授業でグループワークやったとき、お前、指揮やってただろ。あれ結構よかったぞ」
教室の視線が、いっせいに理都へ向いた。
終わった。
心の中でそう思うより先に、喉がひゅっと細くなる。
「あれ、見やすかったし、リズムの取り方も悪くなかった。白嶺、向いてるんじゃないか」
は?
理都の頭はそれしか出てこなかった。
たしかに、少し前の音楽の授業で、班ごとに簡単な曲を合わせる活動はあった。
じゃんけんで負けて、仕方なく前に立たされただけだ。別にやりたくてやったわけじゃないし、褒められていたとしても、そんなの社交辞令みたいなものだと思っていた。
なのに今、そのどうでもいいはずの一コマが最悪の形で拾われている。
「え、白嶺?」 「意外」 「そんなことできるんだ」
あちこちから好き勝手な声が飛んでくる。
やめてくれ。ほんとにやめてほしい。
「いや、無理です」
理都はできるだけ小さく、でもはっきり言った。
担任が眉を上げる。
「なんで」 「いや……無理なんで」 「理由になってないぞ」 「人前とか無理です」 「でも授業ではできてたじゃん」
あれは班だけだっただろ。
クラス全員の前とは規模が違う。何もかも違う。
理都はそう言いたかったのに、急に全員の視線を受けると頭が回らない。
後ろの方で、さっきまで陰で愚痴っていた連中が妙な顔をしてこっちを見ている。
前の女子グループは、「じゃあ白嶺くんでいいんじゃない?」みたいな空気になりかけている。
逃げ場がない。
「白嶺くん、嫌じゃなければお願いしたいかも」 「先生もそう言ってるし」 「伴奏と指揮ちゃんとしてたら強そうじゃない?」
いや、強そうって何だよ。
他人事みたいに言うな。
理都は机の縁を掴みたくなる衝動をこらえた。
そのとき、不意にやわらかい声が混ざった。
「白嶺なら、できると思う」
駒咲紬だった。
理都は思わずそっちを見る。
紬は大きな声で言ったわけではない。けれど変に茶化す感じもなく、本当にそう思っているみたいな顔でこちらを見ていた。
「前の授業、ちゃんと見やすかったし」 「……」 「僕、白嶺が指揮なら合わせやすいと思う」
その言葉で、教室の空気が決まってしまった。
女子たちが「ほら、駒咲くんもこう言ってるし」と言い始め、担任も「じゃあそうしよう」と当然みたいに頷く。
理都は置いていかれる感覚のまま、何も言えなかった。
いや、言おうとはした。たぶん。
でも、その一瞬で言葉が間に合わなかった。
「よし、決まりだな。伴奏、駒咲。指揮、白嶺」
ぱちぱちと拍手が起きる。
何がめでたいんだ。理都には本当に分からなかった。
ホームルームが終わると同時に、教室はまたざわざわし始めた。
焼肉の話をしている連中と、曲予想を始める連中と、もう役割が決まったことに満足して雑談へ戻る連中。人の気持ちも知らないで、みんな勝手だ。
理都は机に突っ伏したかったが、それをやると本当に終わってるやつみたいなので、ぎりぎりでこらえた。
「理都、死んでる」
後ろから深也の声がする。
理都は振り向く気力もなく、小さく答えた。
「死ぬだろ、これ」 「まだ生きてるよ」 「そういう話じゃない」 「指揮、がんばって」 「お前も他人事すぎんだろ」 「他人事だし」
深也は悪びれずにそう言って、のんびり瞬きをした。
理都は深くため息をつく。
「ほんと、引き受けなきゃよかった」 「理都、引き受けたっけ」 「引き受けてねえよ。押しつけられたんだよ」 「それはそう」
そこへ、机の横に影が落ちた。
理都は嫌な予感とともに顔を上げる。
紬だった。
「白嶺」 「……なに」 「ごめん、勝手に言っちゃったかな」 「……いや」
本当は、いやじゃないとは言えない。
かなり困っている。というか、めちゃくちゃ困っている。
でも、目の前で素直に責められるほど器用でもなかった。
紬は少しだけ申し訳なさそうに笑って、それから小さく首を傾げた。
「でも、ほんとに向いてると思ったんだ」 「……」 「一緒に練習、がんばろう」
それは、なんでもない言い方だった。
誰にでも向けるような、やわらかい声。
なのに理都の中では、その一言だけが妙に重く残った。
やめたい。
無理だ。
ほんとに詰んでる。
そう思っていたはずなのに、紬がまっすぐそう言うから、もうそこで「いや無理だから降りる」とは言えなくなってしまう。
理都は少しだけ視線を逸らして、ぼそっと返した。
「……努力はする」
「うん」
紬はそれで満足したみたいに笑って、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送ってから、理都はゆっくり机に突っ伏した。
深也が頭上からぼんやりした声を落とす。
「もうだめそう」 「だめだろ」 「でも断れなかったね」 「……」
返せない。
ほんとにその通りだった。
理都は机に額を押しつけたまま、小さく息を吐く。
引き受けなきゃよかった。
押しつけられた時点で全力で拒否すればよかった。
焼肉なんてどうでもいいし、クラスのやる気もどうでもいいし、目立つ位置に立つなんて最悪だ。
それなのに、紬が「がんばろう」と言ったせいで、完全に投げ出すこともできない。
意味が分からない。ほんとに。
教室の前の方では、もう女子グループが「曲どうする?」だの「絶対金賞取りたい」だの騒いでいる。
後ろの方では、「いや勝ったって喜ぶのあいつらだけだろ」「適度に手ェ抜こうぜ」とひそひそ声がしていた。
その真ん中に、自分がいる。
どっちにも完全には入れないまま、指揮者なんて役だけ押しつけられて。
詰みだろ。
理都は心の中でそう呟いて、机に顔を埋めたまま動けなくなった。
それでも、さっきの紬の声だけは、どうしても耳から離れてくれなかった。
文化祭だの進路だの、そういう学校行事の話が増えてくるせいだ。
白嶺理都にとって、その手の話題はだいたい面倒くさい分類に入る。
教室全体で何かをやるとなると、声の大きいやつが仕切って、目立つやつが盛り上がって、そうじゃないやつは波に飲まれる。理都はいつもその外側にいる。別にそれで困らないし、むしろその方が楽だった。
昼休み明けのホームルーム。
担任の音楽教師が、出席簿を机に置いたあと、やけに機嫌のいい顔で教室を見渡した時点で、理都は嫌な予感がしていた。
「はい、二年三組。そろそろ合唱コンクールの話を進めるぞ」
来た。
理都は心の中でだけそう呟いて、机の上に視線を落とした。
前の方の席では、もう何人かが小さくざわついている。面倒だなと思う側と、何が起きるのかちょっと楽しみにしている側。そのどちらの気配も、理都にはなんとなく分かった。
「今年は学年全体で力入ってるからな。どうせ出るなら中途半端じゃなく、ちゃんと仕上げてほしい」
担任がそう言って黒板に大きく「合唱コンクール」と書く。
白いチョークの粉が少し舞った。
「で、やるからには目標があった方がいいだろ?」
そこで一拍置いた担任は、わざとらしく口元を持ち上げた。
「うちのクラスが金賞取ったら、焼肉バイキング連れてってやる」
一瞬、教室が静まり返った。
それから、次の瞬間には爆発したみたいにざわめいた。
「え、マジで?」 「やば、最高じゃん」 「え、絶対取ろうよ!」
特に前列の女子グループが一気に沸く。
カースト上位の、いつも教室の空気を軽やかに持っていく連中だ。声が明るい。反応が早い。楽しそうだと思った瞬間にはもう空気を支配している。
「先生、それほんとに言いましたよね?」 「言った言った。録音しとけばよかった」 「絶対勝ちたいんだけど!」
男子の何人かも乗っかって笑っている。
瀬尾蓮なんかは机に頬杖をついたまま「焼肉は普通にアツいだろ」と言っていて、その横の誰かが「お前それしか見てねーじゃん」と笑っていた。
理都は視線を上げず、小さく息を吐いた。
焼肉バイキング。たしかに嫌いではない。けれど、それのためにクラス全員で本気になれるかと言われると、話は別だ。
後ろの席で、浅葉深也が眠そうに呟く。
「焼肉……重いね」 「そこ?」 「だって、いっぱい食べるんでしょ」 「そこじゃないだろ」
小声で返すと、深也はのろく首を傾げた。
「理都は行きたくない?」 「……別に」 「行きたくなさそう」 「お前な」
そのやりとりの間にも、前方の盛り上がりはどんどん大きくなっていく。
「せっかくなら本気でやろうよ」 「どうせなら優勝したくない?」 「二年三組、けっこういけそうじゃない?」
誰かがそう言って、女子たちがうんうんと頷く。
声の大きい連中が中心になって、もう勝つ前提みたいな空気ができ始めている。
理都はその勢いをぼんやり見ながら、やっぱりこういう流れになるよな、と思った。
誰かが盛り上がると、それに乗る方が楽なやつらが集まる。そうして空気ができると、乗れない側はだんだん息がしづらくなる。
教室の端の方では、理都みたいに静かにしている連中が顔を見合わせていた。
その中のひとりが、前の盛り上がりに聞こえないような声でぼそっと言う。
「いや、焼肉でそんな本気になる?」 「分かる」 「喜ぶのあいつらだけだろ」 「適当に歌っとけばよくね」
小さな笑いが起きる。
理都は何も言わなかったけれど、内心ではかなり頷いていた。
ほんとにそれな、と思う。
放課後まで残って、練習して、前に立って、目立って、焼肉のために? 意味が分からない。
「はいはい、静かに」
担任が手を叩く。
ざわつきは完全には収まらないまま、それでも話は次に進んだ。
「まずは曲と役割決めだな。曲は候補を絞ってから決めるとして、先に伴奏者と指揮者を決めたい。立候補いるか?」
教室の空気が少し変わる。
さっきまであれだけ盛り上がっていたくせに、こういうときだけみんな露骨に目を逸らす。理都はそれを見て、少しだけ冷めた気持ちになった。
そりゃそうだ。
焼肉には乗れる。でも自分が責任ある位置に立つのは別問題。
目立つし、失敗したら気まずいし、面倒だ。
「ピアノ弾ける人、いないか?」
担任がそう言った瞬間、前列の女子たちがほとんど同時に顔を上げた。
「駒咲くんじゃない?」 「え、分かる」 「できそう!」
理都もつられて視線を上げる。
教室の中央寄りの席で、駒咲紬が少しだけ目を丸くしていた。
「僕?」 「だってピアノやってたって言ってなかった?」 「演劇部の発声の時もリズム感いいし」 「駒咲くんなら絶対うまいって」
次々飛んでくる推薦の声に、紬は困ったように笑った。
誰にでもやわらかく応じるあの表情だ。けれど今日はほんの少しだけ、本気で戸惑っているようにも見える。
「いや、昔ちょっとやってただけだよ」 「でも弾けるんでしょ?」 「伴奏できる人、他にいる?」
誰も手を挙げない。
そうなると、空気はもう決まったみたいなものだった。
担任が紬を見る。
「駒咲、どうだ」 「……ちゃんと練習すれば、たぶん」 「じゃあ決まりだな」
教室のあちこちから歓声が上がる。
女子グループなんてすでに「やった」と言わんばかりの顔だ。
理都はその様子を見ながら、やっぱり駒咲はそういう位置のやつなんだなと思った。
目立つ場所に置かれても自然で、期待されても妙に絵になる。
同じ教室にいるのに、やっぱり少し遠い。
紬は完全に嬉しそうというより、引き受けた以上はやるしかない、という顔で小さく頷いていた。
そこだけは少し意外だった。
もっと気楽に「いいよ」と言うタイプかと思っていたからだ。
「よし。じゃあ次、指揮者」
その一言で、教室の空気が露骨に鈍る。
伴奏よりさらにやりたがる人間が少ない役だ。
前に立つ。目立つ。責任がある。面倒くさい。理都ですら、それくらいは分かる。
「誰かいないか?」 「……」 「立候補なし?」 「……」
見事なくらい誰も声を出さなかった。
担任は少しだけ腕を組んで、教室を見回した。
その時間、理都は完全に傍観者のつもりでいた。
視線を落として、どうかこのまま適当なやつが押しつけられて終わりますように、とだけ願っていた。
だから次の瞬間、自分の名前が出るなんてまったく思っていなかった。
「ああ、そうだ。白嶺」
理都は反射で顔を上げた。
担任がこっちを見ている。
「前に音楽の授業でグループワークやったとき、お前、指揮やってただろ。あれ結構よかったぞ」
教室の視線が、いっせいに理都へ向いた。
終わった。
心の中でそう思うより先に、喉がひゅっと細くなる。
「あれ、見やすかったし、リズムの取り方も悪くなかった。白嶺、向いてるんじゃないか」
は?
理都の頭はそれしか出てこなかった。
たしかに、少し前の音楽の授業で、班ごとに簡単な曲を合わせる活動はあった。
じゃんけんで負けて、仕方なく前に立たされただけだ。別にやりたくてやったわけじゃないし、褒められていたとしても、そんなの社交辞令みたいなものだと思っていた。
なのに今、そのどうでもいいはずの一コマが最悪の形で拾われている。
「え、白嶺?」 「意外」 「そんなことできるんだ」
あちこちから好き勝手な声が飛んでくる。
やめてくれ。ほんとにやめてほしい。
「いや、無理です」
理都はできるだけ小さく、でもはっきり言った。
担任が眉を上げる。
「なんで」 「いや……無理なんで」 「理由になってないぞ」 「人前とか無理です」 「でも授業ではできてたじゃん」
あれは班だけだっただろ。
クラス全員の前とは規模が違う。何もかも違う。
理都はそう言いたかったのに、急に全員の視線を受けると頭が回らない。
後ろの方で、さっきまで陰で愚痴っていた連中が妙な顔をしてこっちを見ている。
前の女子グループは、「じゃあ白嶺くんでいいんじゃない?」みたいな空気になりかけている。
逃げ場がない。
「白嶺くん、嫌じゃなければお願いしたいかも」 「先生もそう言ってるし」 「伴奏と指揮ちゃんとしてたら強そうじゃない?」
いや、強そうって何だよ。
他人事みたいに言うな。
理都は机の縁を掴みたくなる衝動をこらえた。
そのとき、不意にやわらかい声が混ざった。
「白嶺なら、できると思う」
駒咲紬だった。
理都は思わずそっちを見る。
紬は大きな声で言ったわけではない。けれど変に茶化す感じもなく、本当にそう思っているみたいな顔でこちらを見ていた。
「前の授業、ちゃんと見やすかったし」 「……」 「僕、白嶺が指揮なら合わせやすいと思う」
その言葉で、教室の空気が決まってしまった。
女子たちが「ほら、駒咲くんもこう言ってるし」と言い始め、担任も「じゃあそうしよう」と当然みたいに頷く。
理都は置いていかれる感覚のまま、何も言えなかった。
いや、言おうとはした。たぶん。
でも、その一瞬で言葉が間に合わなかった。
「よし、決まりだな。伴奏、駒咲。指揮、白嶺」
ぱちぱちと拍手が起きる。
何がめでたいんだ。理都には本当に分からなかった。
ホームルームが終わると同時に、教室はまたざわざわし始めた。
焼肉の話をしている連中と、曲予想を始める連中と、もう役割が決まったことに満足して雑談へ戻る連中。人の気持ちも知らないで、みんな勝手だ。
理都は机に突っ伏したかったが、それをやると本当に終わってるやつみたいなので、ぎりぎりでこらえた。
「理都、死んでる」
後ろから深也の声がする。
理都は振り向く気力もなく、小さく答えた。
「死ぬだろ、これ」 「まだ生きてるよ」 「そういう話じゃない」 「指揮、がんばって」 「お前も他人事すぎんだろ」 「他人事だし」
深也は悪びれずにそう言って、のんびり瞬きをした。
理都は深くため息をつく。
「ほんと、引き受けなきゃよかった」 「理都、引き受けたっけ」 「引き受けてねえよ。押しつけられたんだよ」 「それはそう」
そこへ、机の横に影が落ちた。
理都は嫌な予感とともに顔を上げる。
紬だった。
「白嶺」 「……なに」 「ごめん、勝手に言っちゃったかな」 「……いや」
本当は、いやじゃないとは言えない。
かなり困っている。というか、めちゃくちゃ困っている。
でも、目の前で素直に責められるほど器用でもなかった。
紬は少しだけ申し訳なさそうに笑って、それから小さく首を傾げた。
「でも、ほんとに向いてると思ったんだ」 「……」 「一緒に練習、がんばろう」
それは、なんでもない言い方だった。
誰にでも向けるような、やわらかい声。
なのに理都の中では、その一言だけが妙に重く残った。
やめたい。
無理だ。
ほんとに詰んでる。
そう思っていたはずなのに、紬がまっすぐそう言うから、もうそこで「いや無理だから降りる」とは言えなくなってしまう。
理都は少しだけ視線を逸らして、ぼそっと返した。
「……努力はする」
「うん」
紬はそれで満足したみたいに笑って、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送ってから、理都はゆっくり机に突っ伏した。
深也が頭上からぼんやりした声を落とす。
「もうだめそう」 「だめだろ」 「でも断れなかったね」 「……」
返せない。
ほんとにその通りだった。
理都は机に額を押しつけたまま、小さく息を吐く。
引き受けなきゃよかった。
押しつけられた時点で全力で拒否すればよかった。
焼肉なんてどうでもいいし、クラスのやる気もどうでもいいし、目立つ位置に立つなんて最悪だ。
それなのに、紬が「がんばろう」と言ったせいで、完全に投げ出すこともできない。
意味が分からない。ほんとに。
教室の前の方では、もう女子グループが「曲どうする?」だの「絶対金賞取りたい」だの騒いでいる。
後ろの方では、「いや勝ったって喜ぶのあいつらだけだろ」「適度に手ェ抜こうぜ」とひそひそ声がしていた。
その真ん中に、自分がいる。
どっちにも完全には入れないまま、指揮者なんて役だけ押しつけられて。
詰みだろ。
理都は心の中でそう呟いて、机に顔を埋めたまま動けなくなった。
それでも、さっきの紬の声だけは、どうしても耳から離れてくれなかった。

