昼休みが始まってすぐ、理都は机の中の紙袋をそっと取り出した。
借りたハンカチはちゃんと洗って乾かした。皺もできるだけ伸ばしたし、変なにおいが残っていないかまで確認した。やれることはやった。あとは返すだけだ。
返すだけ。
それだけなのに、朝からずっとその紙袋の存在が気になって仕方がない。
前の方では駒咲紬が、いつも通り誰かと話していた。今日は瀬尾蓮が何か大げさに身振りを交えて喋っていて、紬が笑っている。その少し横で、有馬一景が呆れたような顔をしていた。
あっちの空気、眩しすぎるだろ。
しかも今からそこに行って、ハンカチを返す? 普通に? 無理じゃないか?
理都は紙袋を握ったまま固まった。
「理都、また止まってる」
後ろから眠たそうな声がして、理都はびくっと肩を揺らした。
振り向くと、深也が頬杖をついたまま、ぼんやり理都を見ている。
「別に」
「その紙袋、昨日から気にしてるやつ?」
「……見てたのかよ」
「見えるし」
深也はそれだけ言って、小さく欠伸をした。
理都は眉を寄せる。
「返しに行けば」
「簡単に言うなよ」
「借りたんでしょ」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ返した方がいいじゃん」
正論すぎる。
理都は紙袋の端を指でつまみながら、小さく息を吐いた。
そうだ。返さない方が不自然だ。借りたものは返す。それだけの話だ。相手が駒咲紬で、周囲に人がいて、理都にとってあの辺の空気が若干酸素薄いだけで、本質的には何も難しくない。
たぶん。
理都は意を決して立ち上がった。
教室の前の方へ向かうだけなのに、やけに足が重い。視線なんて誰も気にしていないはずなのに、勝手に落ち着かなくなる。
「駒咲」
声が小さかったかと思ったが、紬はすぐに振り向いた。
その一瞬で理都の心臓が変な音を立てる。
「あ、白嶺」
「これ」
理都は紙袋を差し出した。
それ以上の言葉がうまく出てこない。
紬は目を丸くしてから、中を覗き込んで、ふっと笑った。
「ハンカチ?」
「洗った」
「ほんとに洗ってくれたんだ」
「そのまま返すの無理だろ」
「そこまでしなくてよかったのに」
「気になるから」
一昨日も似たようなことを言った気がする。
紬はやっぱり少し笑って、でも嬉しそうに紙袋を受け取った。
「ありがと。助かる」
「……うん」
これで終わりだ。
終わりのはずだった。
「白嶺、今から時間ある?」
理都は瞬きをした。
意味を理解するまで一拍遅れる。
「は?」
「今日さ、読書月間の展示、図書館でやってるんだって」
「読書月間?」
「知らない? おすすめ本のコーナーとか作ってるやつ」
知らないわけではない。廊下に貼ってあったポスターで見た覚えはある。でも理都にとっては、読書月間だろうがそうじゃなかろうが図書館はいつもの図書館だ。
「……それが」
「白嶺、本好きそうだし」
「そうだけど」
「一冊、選んでほしいんだよね」
理都は固まった。
「俺が?」
「うん」
なんで。
口から出かかった言葉を理都はぎりぎりで飲み込んだ。
紬はいつも通りのやわらかい顔で理都を見ている。変にからかっている感じではない。本気で言っているらしい。それが余計に意味が分からない。
「いや、俺が選ぶ意味ある?」
「あるよ。白嶺、詳しそうだし」
「詳しいっていうか……」
「だめ?」
「……だめではないけど」
断ればいいだけなのに、その一言が出てこない。
紬の頼み方がずるい。押しつけがましくないくせに、断られる前提でもなさそうな顔をする。
「じゃ、行こ」
そう言って歩き出した紬の背を、理都は一瞬呆然と見送った。
いや待て、決定事項か?
でも今さら「やっぱ無理」とも言えず、理都は半歩遅れてそのあとを追った。
図書館は昼休みのわりに静かだった。
読書月間だからか、入口近くの展示棚にはおすすめ本が並べられていて、手書きのポップまでついている。紬はそれを眺めながら「へえ」と小さく声を漏らした。
「白嶺、いつも図書館来る?」
「たまに」
「たまに、のわりには慣れてる感じする」
「本の場所、だいたい分かるし」
「やっぱ詳しいじゃん」
そう言われると居心地が悪い。
でも嫌ではないのが、さらに落ち着かない。
「で、どんなのがいいの」
「んー……おもしろいやつ」
「ざっくりしすぎ」
「じゃあ、白嶺が好きそうなの」
「それだと俺向けになるだろ」
「それでいいよ」
理都は紬の顔を見た。
紬は棚の端に指をかけたまま、こっちを見ている。ごく自然な顔で言うから困る。
「俺が好きでも、駒咲が読むとは限らない」
「読んでみたいんだよ。白嶺が選ぶ本」
「なんで」
「なんでって……この前、虫追いかけてるときすごい真剣だったし」
「それ関係ある?」
「ある気がする」
「気がするで選ばれるの困るんだけど」
思わずそう返すと、紬が肩を揺らして笑った。
まただ。
この笑い方をされると、会話の調子が少し狂う。
理都は諦めて棚の間を歩いた。
紬もついてくる。図書館の静かな空気の中で、二人分の足音だけが小さく響くのが妙に意識される。
何を選ぶか。
読みやすくて、でも薄すぎなくて、紬が途中で飽きなさそうで、できれば理都が好きな要素も少し入っていて。
考え始めると意外と難しい。
理都は本棚の前で立ち止まり、背表紙を目で追った。
派手な冒険ものは違う。専門っぽすぎるのも違う。紬の顔をちらりと見ると、紬は口を挟まず静かに待っていた。そういうところは助かる。
最終的に理都が手に取ったのは、少し不思議な空気のある青春小説だった。派手さはない。でも、何でもない会話がちゃんと刺さる話で、前に読んだときも、読み終わってからじわじわくるタイプだなと思ったのを覚えている。
「これ」
「決まった?」
「読みやすいし、たぶん嫌いではないと思う」
「たぶん、なんだ」
「好み外したら悪いし」
「へえ」
紬は本を受け取って、表紙を見つめた。
それから裏表紙のあらすじを読んで、ぱっと顔を上げる。
「なんか、好きかも」
「まだ読んでないだろ」
「でも雰囲気、好き」
「ならいいけど」
紬はそのまま本を胸の前に抱えた。
まるで本当に大事なものみたいに、少しだけ腕に力を入れて。
「ありがとう、白嶺」
その言い方が、思っていたよりずっと嬉しそうだった。
目元がやわらかくほどけていて、インナーの明るい髪が頬の近くで揺れている。図書館の窓から入る薄い光の中で、その姿だけ妙に鮮やかに見えた。
理都はほんの一瞬、見惚れた。
あ、と思ったときにはもう遅い。
胸の奥が変に熱くなって、理都は慌てて視線を逸らした。
いやいや、調子に乗るな俺。
何をどう勘違いしかけてるんだ。
ただ本を選んだだけだろ。相手が嬉しそうだっただけで浮かれるとか、意味が分からない。落ち着け。
「白嶺?」
「……なんでもない」
「変なの」
紬がまた笑う。
理都はそれ以上まともに顔を見られなくて、適当に別の棚を見たふりをした。
結局そのあとも少しだけ図書館を回って、昼休みが終わるころに二人で教室へ戻った。
廊下を歩く間、紬は借りた本のことを嬉しそうに話していた。「今日ちょっと読んでみる」とか、「面白かったら感想言っていい?」とか。理都はそのたびに短く返すだけだったが、内心は思ったよりずっと忙しかった。
その数日後。
理都は朝の教室で、いつも通り深也とだけ小さく話していた。 と言っても、会話らしい会話ではない。深也が後ろの席で机に突っ伏したまま「眠い」と言っていて、理都が「朝からそれ言うなよ」と返していただけだ。
そこへ、不意に影が落ちた。
「白嶺ってさ」
理都はびくっとした。
顔を上げると、瀬尾蓮がいた。
終わった。
なんで。
いや、何も終わってはいないが、理都の精神的にはわりと終わりに近かった。
蓮はいつもの軽い調子で机の横に立っている。茶髪が朝の光で少し明るく見えて、笑うと八重歯がのぞいた。あっちの世界の人間だ。しかも駒咲の近くによくいるやつ。理都の脳内で警戒アラートが一気に鳴る。
「な、なに」 「そんな固くなんなくてもよくね?」 「いや別に」 「別に、って顔じゃなくね?」
無理だろ。
理都は喉が詰まる感じを覚えた。
ただ話しかけられただけだ。分かっている。分かっているのに、声量も距離感も何もかもが急に近くて、体が勝手に萎縮する。
完全に借りてきた猫みたいになっている自覚があった。
「この前、駒咲と図書館行ってたじゃん」 「……っ」
見られてたのかよ。
理都は一瞬で呼吸を見失った。
「いや、別に変な意味じゃなくてさ」 「変な意味って何」 「いやだからそういうんじゃなくて。本、選んだんだろ?」 「……まあ」 「駒咲、珍しくめっちゃ嬉しそうに話してたからさ。白嶺が選んだ本、すげーよかったって」
蓮は屈託なくそう言った。
理都は返事に詰まる。
紬がそんなふうに話していたのか。しかも蓮に? なんで?
「だから俺にも選んで」 「は?」 「本」 「なんで」 「いや、なんでって。駒咲があんな嬉しそうなら気になるだろ」 「意味分かんない」 「えー、いいじゃん一冊くらい」 「いや無理」 「なんで無理なんだよ」 「俺の趣味だし」 「それでいいって。むしろその方がよくね?」
会話のテンポが速い。
蓮の言葉がどんどん飛んできて、理都はうまく捌けない。紬と話すときは、向こうがちゃんと待ってくれる。理都の間の悪さも、不器用さも、そのまま置いておいてくれる感じがある。
でも蓮は違う。
悪気がないのは分かる。むしろ普通に話しかけているだけだ。なのに理都は、陽の圧みたいなものに勝手に押されてしまう。
「り、理由がないだろ」 「理由ならあるじゃん。本読みたい」 「図書館行けばいい」 「いやそうじゃなくて、白嶺セレクトがいいんだって」 「なんだよそれ」 「駒咲が喜んでたから」 「それを俺に言われても困る」
ようやくそこまで言ったとき、蓮が一瞬だけ目を丸くした。
しまった、少し強く言いすぎたかと思ったが、蓮はすぐに「そっか」と肩をすくめた。
「じゃあ気が向いたらでいいわ」 「……最初からそう言えよ」 「お、今のちょっと普通に喋ったじゃん」
その一言でまた理都は固まった。
蓮は面白そうに笑って、「じゃ、また」と軽く手を振って離れていく。
理都は数秒その場で動けなかった。 それからようやく、少しだけ後ろを振り返る。
「……無理」
やっと絞り出した声は、たぶんかなり小さかった。
後ろの席の深也が、頬杖をついたまま理都を見ている。
「どうかしたの?」
声色はいつも通り、半分寝ているみたいにのんびりしていた。
「瀬尾が来た」 「うん」 「話しかけられた」 「うん」 「死ぬかと思った」 「大げさだね」
深也はそう言って、机に伏せかけた顔を少しだけ上げた。
「でも理都、今ちゃんと喋ってたじゃん」 「喋ってない。ほぼ詰んでた」 「そう?」 「そうだよ。途中から呼吸の仕方分かんなくなったし」 「それはちょっと分かる」 「分かるのかよ」
理都はようやく少しだけ息を整えた。
深也はそれ以上深く聞いてこない。ただ理都の机の上を見て、「本の話?」とだけ言う。
「……そう」 「ふうん」
本当にそれだけだった。
深也はまた眠そうに目を細めて、次の瞬間には別のことを考えていそうな顔になる。
その適当さがありがたい。
理都は椅子に座り直して、小さく息を吐いた。
紬とは普通に話せた。 いや、普通かどうかは怪しいけど、少なくとも理都の中では会話として成立していた。図書館も行ったし、本も選んだし、ありがとうと言われて変に動揺したりもした。
でもやっぱり、陽キャは無理だ。
瀬尾みたいに距離感が近くて、言葉のテンポが速くて、悪意なくぐいぐい来るタイプは本当に心臓に悪い。
同じクラスで、同じ年で、ただ話しかけられただけなのに、どうしてああなるんだ。
理都は机に額をつけたくなるのをなんとか耐えた。
前の方で、紬が誰かと話して笑っている声がする。 あれだけで、少しだけ気持ちが落ち着くのも意味が分からない。
ほんとに意味が分からない。
分からないまま、理都はノートの端に小さく爪を立てた。
次に紬に話しかけられたら、今度はもう少しましに返せるだろうか。
そんなことを考えてしまう時点で、たぶんもうだいぶだめだった。
借りたハンカチはちゃんと洗って乾かした。皺もできるだけ伸ばしたし、変なにおいが残っていないかまで確認した。やれることはやった。あとは返すだけだ。
返すだけ。
それだけなのに、朝からずっとその紙袋の存在が気になって仕方がない。
前の方では駒咲紬が、いつも通り誰かと話していた。今日は瀬尾蓮が何か大げさに身振りを交えて喋っていて、紬が笑っている。その少し横で、有馬一景が呆れたような顔をしていた。
あっちの空気、眩しすぎるだろ。
しかも今からそこに行って、ハンカチを返す? 普通に? 無理じゃないか?
理都は紙袋を握ったまま固まった。
「理都、また止まってる」
後ろから眠たそうな声がして、理都はびくっと肩を揺らした。
振り向くと、深也が頬杖をついたまま、ぼんやり理都を見ている。
「別に」
「その紙袋、昨日から気にしてるやつ?」
「……見てたのかよ」
「見えるし」
深也はそれだけ言って、小さく欠伸をした。
理都は眉を寄せる。
「返しに行けば」
「簡単に言うなよ」
「借りたんでしょ」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ返した方がいいじゃん」
正論すぎる。
理都は紙袋の端を指でつまみながら、小さく息を吐いた。
そうだ。返さない方が不自然だ。借りたものは返す。それだけの話だ。相手が駒咲紬で、周囲に人がいて、理都にとってあの辺の空気が若干酸素薄いだけで、本質的には何も難しくない。
たぶん。
理都は意を決して立ち上がった。
教室の前の方へ向かうだけなのに、やけに足が重い。視線なんて誰も気にしていないはずなのに、勝手に落ち着かなくなる。
「駒咲」
声が小さかったかと思ったが、紬はすぐに振り向いた。
その一瞬で理都の心臓が変な音を立てる。
「あ、白嶺」
「これ」
理都は紙袋を差し出した。
それ以上の言葉がうまく出てこない。
紬は目を丸くしてから、中を覗き込んで、ふっと笑った。
「ハンカチ?」
「洗った」
「ほんとに洗ってくれたんだ」
「そのまま返すの無理だろ」
「そこまでしなくてよかったのに」
「気になるから」
一昨日も似たようなことを言った気がする。
紬はやっぱり少し笑って、でも嬉しそうに紙袋を受け取った。
「ありがと。助かる」
「……うん」
これで終わりだ。
終わりのはずだった。
「白嶺、今から時間ある?」
理都は瞬きをした。
意味を理解するまで一拍遅れる。
「は?」
「今日さ、読書月間の展示、図書館でやってるんだって」
「読書月間?」
「知らない? おすすめ本のコーナーとか作ってるやつ」
知らないわけではない。廊下に貼ってあったポスターで見た覚えはある。でも理都にとっては、読書月間だろうがそうじゃなかろうが図書館はいつもの図書館だ。
「……それが」
「白嶺、本好きそうだし」
「そうだけど」
「一冊、選んでほしいんだよね」
理都は固まった。
「俺が?」
「うん」
なんで。
口から出かかった言葉を理都はぎりぎりで飲み込んだ。
紬はいつも通りのやわらかい顔で理都を見ている。変にからかっている感じではない。本気で言っているらしい。それが余計に意味が分からない。
「いや、俺が選ぶ意味ある?」
「あるよ。白嶺、詳しそうだし」
「詳しいっていうか……」
「だめ?」
「……だめではないけど」
断ればいいだけなのに、その一言が出てこない。
紬の頼み方がずるい。押しつけがましくないくせに、断られる前提でもなさそうな顔をする。
「じゃ、行こ」
そう言って歩き出した紬の背を、理都は一瞬呆然と見送った。
いや待て、決定事項か?
でも今さら「やっぱ無理」とも言えず、理都は半歩遅れてそのあとを追った。
図書館は昼休みのわりに静かだった。
読書月間だからか、入口近くの展示棚にはおすすめ本が並べられていて、手書きのポップまでついている。紬はそれを眺めながら「へえ」と小さく声を漏らした。
「白嶺、いつも図書館来る?」
「たまに」
「たまに、のわりには慣れてる感じする」
「本の場所、だいたい分かるし」
「やっぱ詳しいじゃん」
そう言われると居心地が悪い。
でも嫌ではないのが、さらに落ち着かない。
「で、どんなのがいいの」
「んー……おもしろいやつ」
「ざっくりしすぎ」
「じゃあ、白嶺が好きそうなの」
「それだと俺向けになるだろ」
「それでいいよ」
理都は紬の顔を見た。
紬は棚の端に指をかけたまま、こっちを見ている。ごく自然な顔で言うから困る。
「俺が好きでも、駒咲が読むとは限らない」
「読んでみたいんだよ。白嶺が選ぶ本」
「なんで」
「なんでって……この前、虫追いかけてるときすごい真剣だったし」
「それ関係ある?」
「ある気がする」
「気がするで選ばれるの困るんだけど」
思わずそう返すと、紬が肩を揺らして笑った。
まただ。
この笑い方をされると、会話の調子が少し狂う。
理都は諦めて棚の間を歩いた。
紬もついてくる。図書館の静かな空気の中で、二人分の足音だけが小さく響くのが妙に意識される。
何を選ぶか。
読みやすくて、でも薄すぎなくて、紬が途中で飽きなさそうで、できれば理都が好きな要素も少し入っていて。
考え始めると意外と難しい。
理都は本棚の前で立ち止まり、背表紙を目で追った。
派手な冒険ものは違う。専門っぽすぎるのも違う。紬の顔をちらりと見ると、紬は口を挟まず静かに待っていた。そういうところは助かる。
最終的に理都が手に取ったのは、少し不思議な空気のある青春小説だった。派手さはない。でも、何でもない会話がちゃんと刺さる話で、前に読んだときも、読み終わってからじわじわくるタイプだなと思ったのを覚えている。
「これ」
「決まった?」
「読みやすいし、たぶん嫌いではないと思う」
「たぶん、なんだ」
「好み外したら悪いし」
「へえ」
紬は本を受け取って、表紙を見つめた。
それから裏表紙のあらすじを読んで、ぱっと顔を上げる。
「なんか、好きかも」
「まだ読んでないだろ」
「でも雰囲気、好き」
「ならいいけど」
紬はそのまま本を胸の前に抱えた。
まるで本当に大事なものみたいに、少しだけ腕に力を入れて。
「ありがとう、白嶺」
その言い方が、思っていたよりずっと嬉しそうだった。
目元がやわらかくほどけていて、インナーの明るい髪が頬の近くで揺れている。図書館の窓から入る薄い光の中で、その姿だけ妙に鮮やかに見えた。
理都はほんの一瞬、見惚れた。
あ、と思ったときにはもう遅い。
胸の奥が変に熱くなって、理都は慌てて視線を逸らした。
いやいや、調子に乗るな俺。
何をどう勘違いしかけてるんだ。
ただ本を選んだだけだろ。相手が嬉しそうだっただけで浮かれるとか、意味が分からない。落ち着け。
「白嶺?」
「……なんでもない」
「変なの」
紬がまた笑う。
理都はそれ以上まともに顔を見られなくて、適当に別の棚を見たふりをした。
結局そのあとも少しだけ図書館を回って、昼休みが終わるころに二人で教室へ戻った。
廊下を歩く間、紬は借りた本のことを嬉しそうに話していた。「今日ちょっと読んでみる」とか、「面白かったら感想言っていい?」とか。理都はそのたびに短く返すだけだったが、内心は思ったよりずっと忙しかった。
その数日後。
理都は朝の教室で、いつも通り深也とだけ小さく話していた。 と言っても、会話らしい会話ではない。深也が後ろの席で机に突っ伏したまま「眠い」と言っていて、理都が「朝からそれ言うなよ」と返していただけだ。
そこへ、不意に影が落ちた。
「白嶺ってさ」
理都はびくっとした。
顔を上げると、瀬尾蓮がいた。
終わった。
なんで。
いや、何も終わってはいないが、理都の精神的にはわりと終わりに近かった。
蓮はいつもの軽い調子で机の横に立っている。茶髪が朝の光で少し明るく見えて、笑うと八重歯がのぞいた。あっちの世界の人間だ。しかも駒咲の近くによくいるやつ。理都の脳内で警戒アラートが一気に鳴る。
「な、なに」 「そんな固くなんなくてもよくね?」 「いや別に」 「別に、って顔じゃなくね?」
無理だろ。
理都は喉が詰まる感じを覚えた。
ただ話しかけられただけだ。分かっている。分かっているのに、声量も距離感も何もかもが急に近くて、体が勝手に萎縮する。
完全に借りてきた猫みたいになっている自覚があった。
「この前、駒咲と図書館行ってたじゃん」 「……っ」
見られてたのかよ。
理都は一瞬で呼吸を見失った。
「いや、別に変な意味じゃなくてさ」 「変な意味って何」 「いやだからそういうんじゃなくて。本、選んだんだろ?」 「……まあ」 「駒咲、珍しくめっちゃ嬉しそうに話してたからさ。白嶺が選んだ本、すげーよかったって」
蓮は屈託なくそう言った。
理都は返事に詰まる。
紬がそんなふうに話していたのか。しかも蓮に? なんで?
「だから俺にも選んで」 「は?」 「本」 「なんで」 「いや、なんでって。駒咲があんな嬉しそうなら気になるだろ」 「意味分かんない」 「えー、いいじゃん一冊くらい」 「いや無理」 「なんで無理なんだよ」 「俺の趣味だし」 「それでいいって。むしろその方がよくね?」
会話のテンポが速い。
蓮の言葉がどんどん飛んできて、理都はうまく捌けない。紬と話すときは、向こうがちゃんと待ってくれる。理都の間の悪さも、不器用さも、そのまま置いておいてくれる感じがある。
でも蓮は違う。
悪気がないのは分かる。むしろ普通に話しかけているだけだ。なのに理都は、陽の圧みたいなものに勝手に押されてしまう。
「り、理由がないだろ」 「理由ならあるじゃん。本読みたい」 「図書館行けばいい」 「いやそうじゃなくて、白嶺セレクトがいいんだって」 「なんだよそれ」 「駒咲が喜んでたから」 「それを俺に言われても困る」
ようやくそこまで言ったとき、蓮が一瞬だけ目を丸くした。
しまった、少し強く言いすぎたかと思ったが、蓮はすぐに「そっか」と肩をすくめた。
「じゃあ気が向いたらでいいわ」 「……最初からそう言えよ」 「お、今のちょっと普通に喋ったじゃん」
その一言でまた理都は固まった。
蓮は面白そうに笑って、「じゃ、また」と軽く手を振って離れていく。
理都は数秒その場で動けなかった。 それからようやく、少しだけ後ろを振り返る。
「……無理」
やっと絞り出した声は、たぶんかなり小さかった。
後ろの席の深也が、頬杖をついたまま理都を見ている。
「どうかしたの?」
声色はいつも通り、半分寝ているみたいにのんびりしていた。
「瀬尾が来た」 「うん」 「話しかけられた」 「うん」 「死ぬかと思った」 「大げさだね」
深也はそう言って、机に伏せかけた顔を少しだけ上げた。
「でも理都、今ちゃんと喋ってたじゃん」 「喋ってない。ほぼ詰んでた」 「そう?」 「そうだよ。途中から呼吸の仕方分かんなくなったし」 「それはちょっと分かる」 「分かるのかよ」
理都はようやく少しだけ息を整えた。
深也はそれ以上深く聞いてこない。ただ理都の机の上を見て、「本の話?」とだけ言う。
「……そう」 「ふうん」
本当にそれだけだった。
深也はまた眠そうに目を細めて、次の瞬間には別のことを考えていそうな顔になる。
その適当さがありがたい。
理都は椅子に座り直して、小さく息を吐いた。
紬とは普通に話せた。 いや、普通かどうかは怪しいけど、少なくとも理都の中では会話として成立していた。図書館も行ったし、本も選んだし、ありがとうと言われて変に動揺したりもした。
でもやっぱり、陽キャは無理だ。
瀬尾みたいに距離感が近くて、言葉のテンポが速くて、悪意なくぐいぐい来るタイプは本当に心臓に悪い。
同じクラスで、同じ年で、ただ話しかけられただけなのに、どうしてああなるんだ。
理都は机に額をつけたくなるのをなんとか耐えた。
前の方で、紬が誰かと話して笑っている声がする。 あれだけで、少しだけ気持ちが落ち着くのも意味が分からない。
ほんとに意味が分からない。
分からないまま、理都はノートの端に小さく爪を立てた。
次に紬に話しかけられたら、今度はもう少しましに返せるだろうか。
そんなことを考えてしまう時点で、たぶんもうだいぶだめだった。

