きみと指揮する青の時間

​昼休みが始まってすぐ、理都は机の中の紙袋をそっと取り出した。
​借りたハンカチはちゃんと洗って乾かした。
皺もできるだけ伸ばしたし、変なにおいが残っていないかまで確認した。
やれることはやった。
​あとは返すだけだ。
返すだけ。
​それだけなのに、朝からずっとこの紙袋の存在が気になって仕方がない。
​前の方では駒咲紬が、いつも通り誰かと話していた。
今日は瀬尾蓮(せおれん)が何か大げさに身振りを交えて喋っていて、紬が笑っている。
その少し横で、有馬一景(ありまいっけい)が呆れたような顔をしていた。

​(あっちの空気、眩しすぎるだろ……)

​しかも今からそこに行って、ハンカチを返す?
普通に?
無理じゃないか?
​理都は紙袋を握ったまま固まった。

​「理都、また止まってる」

​後ろから眠たそうな声がして、理都はびくっと肩を揺らした。
振り向くと、深也が頬杖をついたまま、ぼんやりこちらを見ている。

​「別に」
「その紙袋、今朝から気にしてるやつ?」
「……見てたのかよ」
「見えるし」

​深也はそれだけ言って、小さく欠伸をした。

​「返しに行けば」
「簡単に言うなよ」
「借りたんでしょ」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ返した方がいいじゃん」

​正論すぎる。
理都は紙袋の端を指でつまみながら、小さく息を吐いた。
​そうだ。返さない方が不自然だ。
借りたものは返す。それだけの話だ。
相手が駒咲紬で、周囲に人がいて、自分にとってあの辺の空気が若干酸素薄いだけで、本質的には何も難しくない。
​……たぶん。
​理都は意を決して立ち上がった。
教室の前方へ向かうだけなのに、やけに足が重い。
視線なんて誰も気にしていないはずなのに、勝手に落ち着かなくなる。

​「駒咲」

​声が小さかったかと思ったが、紬はすぐに振り向いた。
その一瞬で、理都の心臓が変な音を立てる。

​「あ、白嶺」
「これ」

​理都は紙袋を差し出した。
それ以上の言葉がうまく出てこない。
​紬は目を丸くしてから、中を覗き込んで、ふっと笑った。

​「ハンカチ?」
「洗った」
「ほんとに洗ってくれたんだ」
「そのまま返すの無理だろ」
「そこまでしなくてよかったのに」
「気になるから」

​一昨日も似たようなことを言った気がする。
紬はやっぱり少し笑って、でも嬉しそうに紙袋を受け取った。

​「ありがと。助かる」
「……うん」

​これで終わりだ。
終わりのはずだった。

​「白嶺、今から時間ある?」

​理都は瞬きをした。
意味を理解するまで一拍遅れる。

​「は?」
「今日さ、読書月間の展示、図書館でやってるんだって」
「読書月間?」
「知らない? おすすめ本のコーナーとか作ってるやつ」

​知らないわけではない。ポスターで見た覚えはある。
でも理都にとっては、読書月間だろうがそうでなかろうが、図書館はいつもの図書館だ。

​「……それが」
「白嶺、本好きそうだし。一冊、選んでほしいんだよね」

​理都は固まった。

​「俺が?」
「うん」

​(なんで)

口から出かかった言葉を、理都はぎりぎりで飲み込んだ。
​紬はいつも通りのやわらかい顔で理都を見ている。
変にからかっている感じではない。本気で言っているらしい。
それが余計に意味が分からない。

​「いや、俺が選ぶ意味ある?」
「あるよ。白嶺、詳しそうだし」
「詳しいっていうか……」
「だめ?」
「……だめではないけど」

​断ればいいだけなのに、その一言が出てこない。
紬の頼み方はずるい。
押しつけがましくないくせに、断られる前提でもなさそうな顔をする。

​「じゃ、行こ」

​そう言って歩き出した紬の背を、理都は一瞬、呆然と見送った。
いや待て、決定事項か?
​でも今さら「やっぱ無理」とも言えず、理都は半歩遅れてそのあとを追った。
​図書館は、昼休みのわりに静かだった。
​入口近くの展示棚にはおすすめ本が並べられていて、手書きのポップまでついている。
紬はそれを眺めながら「へえ」と小さく声を漏らした。

​「白嶺、いつも図書館来る?」
「たまに」
「たまに、のわりには慣れてる感じする」
「本の場所、だいたい分かるし」
「やっぱ詳しいじゃん」

​そう言われると居心地が悪い。
でも嫌ではないのが、さらに落ち着かない。

​「で、どんなのがいいの」
「んー……おもしろいやつ」
「ざっくりしすぎ」
「じゃあ、白嶺が好きそうなの」
「それだと俺向けになるだろ」
「それでいいよ」

​理都は紬の顔を見た。
紬は棚の端に指をかけたまま、こっちを見ている。
ごく自然な顔で言うから困る。

​「俺が好きでも、駒咲が読むとは限らない」
「読んでみたいんだよ。白嶺が選ぶ本」
「なんで」
「なんでって……この前、虫追いかけてるときすごい真剣だったし」
「それ関係ある?」
「ある気がする」
「気がするで選ばれるの困るんだけど」

​思わずそう返すと、紬が肩を揺らして笑った。
まただ。
この笑い方をされると、会話の調子が少し狂う。
​理都は諦めて棚の間を歩いた。
紬もついてくる。
図書館の静かな空気の中で、二人分の足音だけが小さく響くのが妙に意識される。
​何を選ぶか。
読みやすくて、でも薄すぎなくて、紬が途中で飽きなさそうで。
できれば、自分の好きな要素も少し入っていて。
​考え始めると意外と難しい。
理都は本棚の前で立ち止まり、背表紙を目で追った。
​最終的に理都が手に取ったのは、少し不思議な空気のある青春小説だった。
派手さはない。でも、何でもない会話がちゃんと刺さる話で、読み終わってからじわじわくるタイプだ。

​「これ」
「決まった?」
「読みやすいし、たぶん嫌いではないと思う」
「たぶん、なんだ」
「好み外したら悪いし」

​紬は本を受け取って、表紙を見つめた。
それから裏表紙のあらすじを読んで、ぱっと顔を上げる。

​「なんか、好きかも」
「まだ読んでないだろ」
「でも雰囲気、好き」
「ならいいけど」

​紬はそのまま、本を胸の前に抱えた。
まるで本当に大事なものみたいに、少しだけ腕に力を入れて。

​「ありがとう、白嶺」

​その言い方が、思っていたよりずっと嬉しそうだった。
​目元がやわらかくほどけていて、インナーの明るい髪が頬の近くで揺れている。
図書館の窓から入る薄い光の中で、その姿だけが妙に鮮やかに見えた。
​理都はほんの一瞬、見惚れた。
​(あ、)と思ったときにはもう遅い。
胸の奥が変に熱くなって、理都は慌てて視線を逸らした。
​いやいや、調子に乗るな俺。
何をどう勘違いしかけてるんだ。
ただ本を選んだだけだろ。相手が嬉しそうだっただけで浮かれるとか、意味が分からない。落ち着け。

​「白嶺?」
「……なんでもない」
「変なの」

​紬がまた笑う。
理都はそれ以上まともに顔を見られなくて、適当に別の棚を見たふりをした。
​結局そのあとも少しだけ図書館を回って、二人で教室へ戻った。
廊下を歩く間、紬は「今日ちょっと読んでみる」とか「感想言っていい?」とか、嬉しそうに話していた。
理都はそのたびに短く返すだけだったが、内心は思ったよりずっと忙しかった。

​その数日後。
理都は朝の教室で、後ろの席の深也と小さく話していた。
​深也が机に突っ伏したまま「眠い」と言い、理都が「朝からそれ言うなよ」と返す。
いつも通りの、なんてことない時間。
​そこへ、不意に影が落ちた。

​「白嶺ってさ」

​理都はびくっとして顔を上げた。
そこには、瀬尾蓮がいた。

​(終わった)

​なんで。
いや、何も終わってはいないが、理都の精神的には終わりに近かった。
​蓮はいつもの軽い調子で机の横に立っている。
笑うと八重歯がのぞく、いかにも「あっち側」の人間だ。
理都の脳内で警戒アラートが一気に鳴り響く。

​「な、なに」
「そんな固くなんなくてもよくね?」
「いや別に」
「別に、って顔じゃなくね?」

​無理だ。
理都は喉が詰まる感じを覚えた。
ただ話しかけられただけなのに、声量も距離感も近すぎて、体が勝手に萎縮する。

​「この前、駒咲と図書館行ってたじゃん」
「……っ」

​見られてたのかよ。
理都は一瞬で呼吸を見失った。

​「いや、変な意味じゃなくてさ。本、選んだんだろ?」
「……まあ」
「駒咲、珍しくめっちゃ嬉しそうに話してたからさ。白嶺が選んだ本、すげーよかったって」

​蓮は屈託なくそう言った。
理都は返事に詰まる。
紬がそんなふうに話していたのか。しかも蓮に。

​「だから俺にも選んで」
「は?」
「本」
「なんで」
「いや、駒咲があんな嬉しそうなら気になるだろ」
「意味分かんない」
「えー、いいじゃん一冊くらい」
「いや無理」
「なんで無理なんだよ」
「俺の趣味だし」
「それでいいって。むしろその方がよくね?」

​会話のテンポが速い。
蓮の言葉がどんどん飛んできて、理都はうまく捌けない。
​紬と話すときは、向こうがちゃんと待ってくれる。
理都の間の悪さも、不器用さも、そのまま置いておいてくれる感じがある。
​でも蓮は違う。
悪気がないのは分かる。なのに、陽の圧みたいなものに勝手に押されてしまう。

​「り、理由がないだろ」
「理由ならあるじゃん。本読みたい」
「図書館行けばいい」
「いやそうじゃなくて、白嶺セレクトがいいんだって」
「なんだよそれ」
「駒咲が喜んでたから」
​「それを俺に言われても困る」

​ようやくそこまで言ったとき、蓮が一瞬だけ目を丸くした。
少し強く言いすぎたかと思ったが、蓮はすぐに「そっか」と肩をすくめた。

​「じゃあ気が向いたらでいいわ」
「……最初からそう言えよ」
「お、今のちょっと普通に喋ったじゃん」

​その一言でまた理都は固まった。
蓮は面白そうに笑って、「じゃ、また」と軽く手を振って離れていく。
​理都は数秒その場で動けなかった。
それからようやく、少しだけ後ろを振り返る。

​「……無理」

​絞り出した声は、ひどく小さかった。
深也が、頬杖をついたままこちらを見ている。

​「どうかしたの?」
「瀬尾が来た」
「うん」
「話しかけられた」
「うん」
「死ぬかと思った」
「大げさだね」

​深也はそう言って、机に伏せかけた顔を少しだけ上げた。

​「でも理都、今ちゃんと喋ってたじゃん」
「喋ってない。ほぼ詰んでた」
「そう?」
「そうだよ。途中から呼吸の仕方分かんなくなったし」
「それはちょっと分かる」
「分かるのかよ」

​理都はようやく息を整えた。
深也はそれ以上深く聞いてこない。その適当さがありがたかった。
​椅子に座り直して、小さく息を吐く。
​紬とは普通に話せた。
いや、普通かどうかは怪しいけれど、少なくとも会話として成立していた。
なのに瀬尾みたいに距離感が近くて、悪意なくぐいぐい来るタイプは本当に心臓に悪い。
​同じクラスで、同じ年で、ただ話しかけられただけなのに。
​前の方で、紬が誰かと話して笑っている声がする。
あれだけで、少しだけ気持ちが落ち着くのも意味が分からない。
​ほんとに意味が分からない。
​分からないまま、理都はノートの端に小さく爪を立てた。
次に紬に話しかけられたら、今度はもう少しましに返せるだろうか。
​そんなことを考えてしまう時点で、たぶんもうだいぶだめだった。