きみと指揮する青の時間

​中庭は、昼休みの終わりに近づくほど静かになる。
​購買帰りの生徒も、ベンチで喋っていた連中も、授業再開が近づくと少しずつ校舎の中へ戻っていく。
残るのは、日向で眠そうに羽を休める虫とか、植え込みの奥に隠れて動く小さな生き物とか。
​そういう、人間に見つからない方が平和な連中だけだ。
​理都は、そういう時間の中庭が好きだった。
端のほうにしゃがみこんで、植え込みの根元をじっと見る。
​この時期は、目を凝らせば意外といろいろいる。
メダカや亀やトカゲほど飼育向きじゃなくても、少し観察してから逃がすだけで十分面白い。
​何も見つからない日でも、土の匂いとか、葉の影の揺れ方とか。
そういうものを見ているだけで、頭の中が静かになる。
​教室は、うるさい。
​悪い意味ばかりじゃない。
騒いでいるやつらが嫌いなわけでもないし、クラスに馴染めていない自覚もある。
ただ、理都は人の多い場所だと、どこに視線を置けばいいのか分からなくなるだけだ。
​その点、生き物はいい。
変に気を遣わなくていいし、観察しても嫌な顔をされない。
突然話しかけてくることもない。
逃げるか、じっとしているか。理都にはその方がずっと分かりやすい。
​葉の陰がわずかに揺れた。
理都は息を潜めて、草の隙間に目を凝らす。
​いた。
​緑褐色の小さな影が、細い脚をたたんだまま葉先にしがみついている。
体の色は周囲にうまく馴染んでいて、一度見失うと面倒なやつだ。
バッタの仲間。種類まではまだ断定できないが、動き方を見る限り悪くない。
​理都はそっと体勢を低くした。
急に手を伸ばすと逃げる。飛ぶ方向を読んで、逃げ道を塞ぐ方が早い。
​そのときだった。

​「届かない想いなんて、笑ってごまかせばいいって、ずっとそう思ってた。でも――」

​声がして、理都はぴたりと止まった。
​少し離れた中庭のベンチのあたりに、人がいる。
今まで気配に気づかなかったのは、自分が草むらに集中しすぎていたせいだ。
​低くよく通る声。台詞だろうか。
演劇部の発声練習みたいなやつかもしれない。
​ちらりと視線を向けて、理都はすぐに目を逸らした。
​駒咲紬だった。
やっぱり。
​教室の中でも目立つやつは、離れていても妙に目につく。
インナーだけ明るく染めた髪が風に揺れて、横顔がやけに綺麗に見えた。
ベンチの背に手をかけて、何かの台詞を口の中で反復している。
​正直、理都には関係ない。
向こうもこっちに気づいていないだろうし、気づかれたくもない。
​理都は気持ちを切り替えて、草むらに意識を戻した。
バッタはまだいる。
けれどさっきより位置が悪い。
ちょうど駒咲の立っている方向へ逃げそうな角度だ。

​(やめろ、そっち行くな)

​心の中でだけそう念じた次の瞬間、草が大きく揺れた。
ぱっと飛び出した影に、駒咲が小さく声を上げる。

​「わっ」

​反射で、理都の体が動いた。

​「動かないで!」

​自分でも驚くくらい大きな声が出た。
理都は植え込みの陰から飛び出して、駒咲のすぐ横にしゃがみこむ。
​視界の端で、駒咲が目を見開いてこっちを見たのが分かった。
けれど構っていられない。
バッタは今にももう一度飛びそうな位置で、足場を失って草の上をもたついている。
​逃がすな。
今、左。そこだろ。
​理都は膝をついたまま、片手で進路を塞いだ。
もう片方の手をそっと伸ばして、羽を傷つけないように角度をつける。
勢い任せに掴むと脚を取る。焦るな。落ち着け。
​逃げ道だけ読めばいい。
​駒咲が何か言いかけた気配がしたが、理都の頭には入らなかった。
目の前の小さな動きだけを追う。
葉の先、石の影、草の根元。
跳ぶ方向をひとつ外した瞬間、もう終わりだ。

​「……よし」

​最後はほとんど地面すれすれで、理都は両手を閉じた。
​手の中で小さく跳ねる感触に、胸の奥の緊張が一気に解ける。
捕まえた。
​理都はゆっくり指を開いた。
掌の中で、バッタがぴんと脚を張っている。
翅の色も体の線もきれいだ。悪くない。かなりいい。
​思わず顔を近づけて見ていると、不意に横から息を飲むような音がして、それから小さな笑い声が漏れた。

​「……ふっ」

​理都は顔を上げた。
駒咲が口元を押さえながら、肩を震わせている。
​笑われた意味が分からなくて、理都はきょとんとした。

​「なに」
「ごめん、いや……」

​駒咲は笑いを堪えきれないように目を細めた。
近くで見ると、思っていたよりずっと柔らかい顔をしている。
教室で見かけるときは、周囲に人がいるせいか、もっと隙がない印象だった。

​「助けてくれたのかと思ったら、僕じゃなくて虫の方に全力すぎて」
「……そりゃ、逃げるから」
「うん、すごかった。めちゃくちゃ真剣だったな」
「真剣じゃないと捕まえられないし」

​言ってから、少しだけ間が空いた。
​やばい、と理都は思う。
普通こういうとき、もう少し気の利いた返しをするんじゃないのか。
助けようとしたわけじゃないにしても、せめて大丈夫だったかくらい聞くべきだろ。
なのに口から出たのは完全に虫側の意見だった。
​終わった。
変なやつ認定された。
​そう思ったのに、駒咲はまた笑った。

​「白嶺って、そんな感じなんだ」
「……同じクラスだから名前は知ってるのか」
「知ってるよ。白嶺理都でしょ。科学研究部」

​当たり前みたいに言われて、理都は少しだけ目を瞬かせた。
向こうは目立つ。こっちも顔と名前を知っている。
でも、向こうが自分のことまで把握しているとは思っていなかった。

​「駒咲も、演劇部」
「うん。駒咲紬」

​知ってる、とは言わなかった。
そんなことを言ったら、なぜか余計に意識しているみたいで落ち着かない。
​理都は掌の中のバッタを見下ろして、小さく息を吐いた。
このままずっと持っているわけにもいかない。

​「逃がすから」
「うん」

​理都が少しだけ手を開くと、バッタはためらいなく跳んで、すぐそばの植え込みに消えた。
その軌道を最後まで目で追ってから、理都はようやく立ち上がる。
膝に土がついているのに気づいて、軽く払った。

​「じゃ」

​それだけ言って去ろうとすると、駒咲が「あ、待って」と声をかけた。
理都の肩がびくりと揺れる。

​「なに」
「さっきの台詞、聞こえてた?」
「……ちょっと」
「そっか」

​嫌そうには見えなかった。
けれど駒咲は一瞬だけ目を伏せて、それからすぐにいつもの柔らかい顔に戻った。

​「変なの聞かれたな」
「別に。練習だろ」
「まあ、そうなんだけど」

​その返事が合っていたのかは分からない。
けれど駒咲は少しだけ目を丸くしてから、ふっと笑った。

​「白嶺って、案外やさしいね」
「は?」
「変に茶化さないから」
「……茶化すほど興味ないだけ」
「そういうとこだよ」

​何がどういうところなのか分からない。
分からないまま、理都は居心地の悪さを誤魔化すように視線を逸らした。
​授業の予鈴が遠くで鳴る。そろそろ戻らないといけない。

​「遅れる」
「だな」

​並んで校舎に戻るほどの距離ではないはずなのに、なぜか二人は同じ方向へ歩き出した。
​中庭から校舎へ入るまでの短い通路が、妙に長く感じる。
理都は何を話せばいいか分からず、結局ずっと無言だった。
駒咲はそんな空気を気にした様子もなく、ふと空を見上げたり、廊下の窓に映る自分の髪を整えたりしていた。
​同じクラスの前で足を止めた瞬間、理都はようやく現実に引き戻される。
そうだ、こいつ、同じ教室に戻るんだった。

​「じゃあ、また」
「……うん」

​理都は小さく答えて、自分の席に向かった。
​午後の授業はほとんど頭に入らなかった。
黒板の文字を写していても、気づくと中庭で笑っていた駒咲の顔を思い出す。
​バッタを見失わないように集中していたときの、自分の間抜けなくらい真剣な姿も一緒に思い出してしまって、じわじわ恥ずかしくなる。
​何なんだよ。
ただの同じクラスのやつだろ。
​心の中でそう言い聞かせても、教室のどこかで駒咲が笑うたびに、その声だけ妙に耳に入った。
​放課後、中庭の端で理都はまたしゃがみこんでいた。
​別に駒咲を探していたわけではない。本当だ。
科学研究部の飼育ケースに入れるための落ち葉を少し見ておきたかっただけだし、ついでに昼間逃がしたバッタのあたりも気になっただけだ。
​そう、自分では思っていた。
​けれど頭の上から「またいる」と声が落ちてきた瞬間、心臓が妙に跳ねた。
​顔を上げると、駒咲が立っていた。
制服の上から光が落ちて、インナーの明るい色が夕方の影の中で少しだけ目立つ。

​「白嶺、中庭好きなの?」
「……まあ」
「僕も今日はこっち通って帰ろうと思って」
「ふうん」

​会話が下手すぎる。
理都は内心で頭を抱えた。
もっとまともに返せないのか、自分は。
​なのに駒咲は気にした様子もなく、近くのベンチに軽く腰をかけた。

​「何見てるの」
「アリ」
「また虫」
「またってなんだよ」
「白嶺、ほんとに好きなんだなって」

​笑いを含んだ言い方に、理都は思わず口を閉ざした。
好きなのは事実だ。
好きだから見ているし、好きだから捕まえる。
そこを笑われるのは昔から少しだけ苦手だった。
​子どもっぽいとか、気持ち悪いとか、そういう目で見られることは珍しくない。
でも駒咲の言い方には、そういう嫌なものが混じっていない。
ただ、本当にそう思っているみたいだった。

​「……好きだけど」
「いいじゃん。好きなものあるの、羨ましい」
「駒咲は演劇あるだろ」
「あるけどさ。好きって、時々少し厄介じゃない?」
「意味分かんない」
「分かんなくていいよ」

​その言い方が少しだけ変だった。
​理都は顔を上げかけて、でもやめた。
変に踏み込むのは違う気がする。
中庭で台詞を練習していたときもそうだった。
駒咲は誰にでも愛想がいいくせに、どこか一枚薄い膜を張っているようなところがある。
​沈黙が落ちる。
気まずいわけじゃない。
ただ、理都はこういうときの言葉の置き方を知らない。
​そのままベンチの近くを通ろうとしたとき、足元の土に小さく滑った。
​雨の名残でぬかるんでいたらしい。
派手に転ぶほどではなかったが、体勢を崩した拍子に指先がざらりと地面を擦る。

​「いた……」

​しまった、と思った。
独り言のつもりだったのに、駒咲に聞かれていたらしい。
すぐに立ち上がろうとした理都の前に、白いものが差し出される。

​「使う?」

​ハンカチだった。
​理都は一瞬、それと駒咲の顔を交互に見た。

​「別にいい」
「血、出てるよ」
「大したことないし」
「いや、普通に痛いやつだろ」

​そう言って、駒咲は理都の返事を待たずにしゃがみこんだ。
距離が急に近くなって、理都は息を止める。
​メイクの匂いなのか、シャンプーなのか、よく分からないけれど清潔な香りがした。
近くで見ると睫毛が思ったより長い。
そういう情報が勝手に頭に入ってきて困る。

​「ほら、手」
「……自分で拭ける」
「分かってる。貸すだけ」

​理都は黙ってハンカチを受け取った。
柔らかい布が、少しひんやりしている。
​白地に細い刺繍が入っていて、理都が普段使う無地のタオルハンカチとは全然違った。

​「ありがと」
「どういたしまして」

​理都は小さく指先を拭いた。
確かに少し血がにじんでいて、土もついていた。
借りて正解だったかもしれない。
​でも、だからといってこの状況に慣れるわけではない。

​「洗って返す」
「え、そこまでしなくていいよ」
「いや、そのままは無理だろ」
「律儀だね、白嶺」
「普通」
「そういうとこ、ちょっと好きかも」

​軽く言われた一言に、理都の手が止まった。
​顔を上げると、駒咲は冗談めかすでもなく、ただ柔らかく笑っていた。
好き、という言葉に特別な意味がないことくらい分かる。
分かるのに、心臓が一瞬だけ変な跳ね方をした。

​「……そういうの、気軽に言うなよ」
「ん?」
「なんでもない」

​声が少しだけ掠れた。
駒咲は不思議そうに瞬いたけれど、追及はしなかった。
​校舎の方から部活に向かう生徒たちの足音が聞こえる。
空は少しずつ色を薄めていて、昼間より風が冷たくなっていた。

​「じゃあ、返してくれるの待ってる」
「……うん」
「ちゃんと洗わなくてもいいのに」
「気になるから」

​理都がそう言うと、駒咲はふっと目を細めた。

​「ほんと、真面目だね」

​また笑われた。
でも昼の中庭で笑われたときみたいな居心地の悪さは、もうなかった。
​理都は借りたハンカチを丁寧に畳んで、制服のポケットにしまう。
薄い布一枚の重さしかないはずなのに、なぜかそこだけやけに意識してしまう。
​ただ借りただけだ。
洗って返すだけ。
それで終わる話のはずだ。
​なのにその日の帰り道、理都はポケットの中の感触を何度も確かめてしまった。
​どうしてこんなことになったんだろう、と。
​まだこのときの理都は、本気でそう思っていた。