中庭は、昼休みの終わりに近づくほど静かになる。
購買帰りの生徒も、ベンチで喋っていた連中も、授業再開が近づくと少しずつ校舎の中へ戻っていく。残るのは、日向で眠そうに羽を休める虫とか、植え込みの奥に隠れて動く小さな生き物とか、そういう、人間に見つからない方が平和な連中だけだ。
理都はそういう時間の中庭が好きだった。
端のほうにしゃがみこんで、植え込みの根元をじっと見る。
この時期は、目を凝らせば意外といろいろいる。メダカや亀やトカゲほど飼育向きじゃなくても、少し観察してから逃がすだけで十分面白い。
何も見つからない日でも、土の匂いとか、葉の影の揺れ方とか、そういうものを見ているだけで頭の中が静かになる。
教室はうるさい。
悪い意味ばかりじゃない。騒いでいるやつらが嫌いなわけでもないし、クラスに馴染めていない自覚もある。
ただ、理都は人の多い場所だと、どこに視線を置けばいいのか分からなくなるだけだ。
その点、生き物はいい。
変に気を遣わなくていいし、観察しても嫌な顔をされない。突然話しかけてくることもない。逃げるか、じっとしているか、そのどちらかだ。理都にはその方がずっと分かりやすい。
葉の陰がわずかに揺れた。
理都は息を潜めて、草の隙間に目を凝らす。
いた。
緑褐色の小さな影が、細い脚をたたんだまま葉先にしがみついている。体の色は周囲にうまく馴染んでいて、一度見失うと面倒なやつだ。バッタの仲間。種類まではまだ断定できないが、動き方を見る限り悪くない。
理都はそっと体勢を低くした。
急に手を伸ばすと逃げる。飛ぶ方向を読んで、逃げ道を塞ぐ方が早い。
そのときだった。
「届かない想いなんて、笑ってごまかせばいいって、ずっとそう思ってた。でも――」
声がして、理都はぴたりと止まった。
少し離れた中庭のベンチのあたりに、人がいる。
今まで気配に気づかなかったのは、自分が草むらに集中しすぎていたせいだ。低くよく通る声。台詞だろうか。演劇部の発声練習みたいなやつかもしれない。
ちらりと視線を向けて、理都はすぐに目を逸らした。
駒咲紬だった。
やっぱり。
教室の中でも目立つやつは、離れていても妙に目につく。インナーだけ明るく染めた髪が風に揺れて、横顔がやけに綺麗に見えた。ベンチの背に手をかけて、何かの台詞を口の中で反復している。
正直、理都には関係ない。
向こうもこっちに気づいていないだろうし、気づかれたくもない。
理都は気持ちを切り替えて、草むらに意識を戻した。
バッタはまだいる。けれどさっきより位置が悪い。ちょうど駒咲の立っている方向へ逃げそうな角度だ。
やめろ、そっち行くな。
心の中でだけそう念じた次の瞬間、草が大きく揺れた。
ぱっと飛び出した影に、駒咲が小さく声を上げる。
「わっ」
反射で理都の体が動いた。
「動かないで!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
理都は植え込みの陰から飛び出して、駒咲のすぐ横にしゃがみこむ。視界の端で、駒咲が目を見開いてこっちを見たのが分かった。けれど構っていられない。バッタは今にももう一度飛びそうな位置で、足場を失って草の上をもたついている。
逃がすな。
今、左。そこだろ。
理都は膝をついたまま、片手で進路を塞いだ。もう片方の手をそっと伸ばして、羽を傷つけないように角度をつける。勢い任せに掴むと脚を取る。焦るな。落ち着け。逃げ道だけ読めばいい。
駒咲が何か言いかけた気配がしたが、理都の頭には入らなかった。
目の前の小さな動きだけを追う。
葉の先、石の影、草の根元。跳ぶ方向をひとつ外した瞬間、もう終わりだ。
「……よし」
最後はほとんど地面すれすれで、理都は両手を閉じた。
手の中で小さく跳ねる感触に、胸の奥の緊張が一気に解ける。
捕まえた。
理都はゆっくり指を開いた。
掌の中で、バッタがぴんと脚を張っている。翅の色も体の線もきれいだ。悪くない。かなりいい。
思わず顔を近づけて見ていると、不意に横から息を飲むような音がして、それから小さな笑い声が漏れた。
「……ふっ」
理都は顔を上げた。
駒咲が口元を押さえながら、肩を震わせている。
笑われた意味が分からなくて、理都はきょとんとした。
「なに」
「ごめん、いや……」
駒咲は笑いを堪えきれないように目を細めた。
近くで見ると、思っていたよりずっと柔らかい顔をしている。教室で見かけるときは、周囲に人がいるせいか、もっと隙がない印象だった。
「助けてくれたのかと思ったら、僕じゃなくて虫の方に全力すぎて」
「……そりゃ、逃げるから」
「うん、すごかった。めちゃくちゃ真剣だったな」
「真剣じゃないと捕まえられないし」
言ってから、少しだけ間が空いた。
やばい、と理都は思う。普通こういうとき、もう少し気の利いた返しをするんじゃないのか。助けようとしたわけじゃないにしても、せめて大丈夫だったかくらい聞くべきだろ。なのに口から出たのは完全に虫側の意見だった。
終わった。
変なやつ認定された。
そう思ったのに、駒咲はまた笑った。
「白嶺って、そんな感じなんだ」
「……同じクラスだから名前は知ってるのか」
「知ってるよ。白嶺理都でしょ。科学研究部」
当たり前みたいに言われて、理都は少しだけ目を瞬かせた。
向こうは目立つ。こっちも顔と名前を知っている。でも、向こうが自分のことまで把握しているとは思っていなかった。
「駒咲も、演劇部」
「うん。駒咲紬」
知ってる、とは言わなかった。
そんなことを言ったら、なぜか余計に意識しているみたいで落ち着かない。
理都は掌の中のバッタを見下ろして、小さく息を吐いた。
このままずっと持っているわけにもいかない。観察したい気持ちはあるが、授業前だし、そもそも今は駒咲がいる。
「逃がすから」
「うん」
理都が少しだけ手を開くと、バッタはためらいなく跳んで、すぐそばの植え込みに消えた。
その軌道を最後まで目で追ってから、理都はようやく立ち上がる。膝に土がついているのに気づいて、軽く払った。
「じゃ」
それだけ言って去ろうとすると、駒咲が「あ、待って」と声をかけた。
理都の肩がびくりと揺れる。
「なに」
「さっきの台詞、聞こえてた?」
「……ちょっと」
「そっか」
嫌そうには見えなかった。けれど駒咲は一瞬だけ目を伏せて、それからすぐにいつもの柔らかい顔に戻った。
「変なの聞かれたな」
「別に。練習だろ」
「まあ、そうなんだけど」
その返事が合っていたのかは分からない。
けれど駒咲は少しだけ目を丸くしてから、ふっと笑った。
「白嶺って、案外やさしいね」
「は?」
「変に茶化さないから」
「……茶化すほど興味ないだけ」
「そういうとこだよ」
何がどういうところなのか分からない。
分からないまま、理都は居心地の悪さを誤魔化すように視線を逸らした。
授業の予鈴が遠くで鳴る。そろそろ戻らないといけない。
「遅れる」
「だな」
並んで校舎に戻るほどの距離ではないはずなのに、なぜか二人は同じ方向へ歩き出した。
中庭から校舎へ入るまでの短い通路が、妙に長く感じる。理都は何を話せばいいか分からず、結局ずっと無言だった。駒咲はそんな空気を気にした様子もなく、ふと空を見上げたり、廊下の窓に映る自分の髪を整えたりしていた。
同じクラスの前で足を止めた瞬間、理都はようやく現実に引き戻される。
そうだ、こいつ、同じ教室に戻るんだった。
「じゃあ、また」
「……うん」
理都は小さく答えて、自分の席に向かった。
午後の授業はほとんど頭に入らなかった。
黒板の文字を写していても、気づくと中庭で笑っていた駒咲の顔を思い出す。バッタを見失わないように集中していたときの、自分の間抜けなくらい真剣な姿も一緒に思い出してしまって、じわじわ恥ずかしくなる。
何なんだよ。
ただの同じクラスのやつだろ。
心の中でそう言い聞かせても、教室のどこかで駒咲が笑うたびに、その声だけ妙に耳に入った。
放課後、中庭の端で理都はまたしゃがみこんでいた。
別に駒咲を探していたわけではない。本当だ。科学研究部の飼育ケースに入れるための落ち葉を少し見ておきたかっただけだし、ついでに昼間逃がしたバッタのあたりも気になっただけだ。
そう、自分では思っていた。
けれど頭の上から「またいる」と声が落ちてきた瞬間、心臓が妙に跳ねた。
顔を上げると、駒咲が立っていた。
制服の上から光が落ちて、インナーの明るい色が夕方の影の中で少しだけ目立つ。
「白嶺、中庭好きなの?」
「……まあ」
「僕も今日はこっち通って帰ろうと思って」
「ふうん」
会話が下手すぎる。
理都は内心で頭を抱えた。もっとまともに返せないのか、自分は。
なのに駒咲は気にした様子もなく、近くのベンチに軽く腰をかけた。
「何見てるの」
「アリ」
「また虫」
「またってなんだよ」
「白嶺、ほんとに好きなんだなって」
笑いを含んだ言い方に、理都は思わず口を閉ざした。
好きなのは事実だ。好きだから見ているし、好きだから捕まえる。そこを笑われるのは昔から少しだけ苦手だった。子どもっぽいとか、気持ち悪いとか、そういう目で見られることは珍しくない。
でも駒咲の言い方には、そういう嫌なものが混じっていない。
ただ、本当にそう思っているみたいだった。
「……好きだけど」
「いいじゃん。好きなものあるの、羨ましい」
「駒咲は演劇あるだろ」
「あるけどさ。好きって、時々少し厄介じゃない?」
「意味分かんない」
「分かんなくていいよ」
その言い方が少しだけ変だった。
理都は顔を上げかけて、でもやめた。変に踏み込むのは違う気がする。中庭で台詞を練習していたときもそうだった。駒咲は誰にでも愛想がいいくせに、どこか一枚薄い膜を張っているようなところがある。
沈黙が落ちる。
気まずいわけじゃない。ただ、理都はこういうときの言葉の置き方を知らない。
そのままベンチの近くを通ろうとしたとき、足元の土に小さく滑った。
雨の名残でぬかるんでいたらしい。派手に転ぶほどではなかったが、体勢を崩した拍子に指先がざらりと地面を擦る。
「いた……」
しまった、と思った。
独り言のつもりだったのに、駒咲に聞かれていたらしい。すぐに立ち上がろうとした理都の前に、白いものが差し出される。
「使う?」
ハンカチだった。
理都は一瞬、それと駒咲の顔を交互に見た。
「別にいい」
「血、出てるよ」
「大したことないし」
「いや、普通に痛いやつだろ」
そう言って、駒咲は理都の返事を待たずにしゃがみこんだ。
距離が急に近くなって、理都は息を止める。
メイクの匂いなのか、シャンプーなのか、よく分からないけれど清潔な香りがした。近くで見ると睫毛が思ったより長い。そういう情報が勝手に頭に入ってきて困る。
「ほら、手」
「……自分で拭ける」
「分かってる。貸すだけ」
理都は黙ってハンカチを受け取った。
柔らかい布が、少しひんやりしている。白地に細い刺繍が入っていて、理都が普段使う無地のタオルハンカチとは全然違った。
「ありがと」
「どういたしまして」
理都は小さく指先を拭いた。
確かに少し血がにじんでいて、土もついていた。借りて正解だったかもしれない。でも、だからといってこの状況に慣れるわけではない。
「洗って返す」
「え、そこまでしなくていいよ」
「いや、そのままは無理だろ」
「律儀だね、白嶺」
「普通」
「そういうとこ、ちょっと好きかも」
軽く言われた一言に、理都の手が止まった。
顔を上げると、駒咲は冗談めかすでもなく、ただ柔らかく笑っていた。
好き、という言葉に特別な意味がないことくらい分かる。分かるのに、心臓が一瞬だけ変な跳ね方をした。
「……そういうの、気軽に言うなよ」
「ん?」
「なんでもない」
声が少しだけ掠れた。
駒咲は不思議そうに瞬いたけれど、追及はしなかった。
校舎の方から部活に向かう生徒たちの足音が聞こえる。
空は少しずつ色を薄めていて、昼間より風が冷たくなっていた。
「じゃあ、返してくれるの待ってる」
「……うん」
「ちゃんと洗わなくてもいいのに」
「気になるから」
理都がそう言うと、駒咲はふっと目を細めた。
「ほんと、真面目だね」
また笑われた。
でも昼の中庭で笑われたときみたいな居心地の悪さは、もうなかった。
理都は借りたハンカチを丁寧に畳んで、制服のポケットにしまう。
薄い布一枚の重さしかないはずなのに、なぜかそこだけやけに意識してしまう。
ただ借りただけだ。
洗って返すだけ。
それで終わる話のはずだ。
なのにその日の帰り道、理都はポケットの中の感触を何度も確かめてしまった。
どうしてこんなことになったんだろう、と。
まだこのときの理都は、本気でそう思っていた。
購買帰りの生徒も、ベンチで喋っていた連中も、授業再開が近づくと少しずつ校舎の中へ戻っていく。残るのは、日向で眠そうに羽を休める虫とか、植え込みの奥に隠れて動く小さな生き物とか、そういう、人間に見つからない方が平和な連中だけだ。
理都はそういう時間の中庭が好きだった。
端のほうにしゃがみこんで、植え込みの根元をじっと見る。
この時期は、目を凝らせば意外といろいろいる。メダカや亀やトカゲほど飼育向きじゃなくても、少し観察してから逃がすだけで十分面白い。
何も見つからない日でも、土の匂いとか、葉の影の揺れ方とか、そういうものを見ているだけで頭の中が静かになる。
教室はうるさい。
悪い意味ばかりじゃない。騒いでいるやつらが嫌いなわけでもないし、クラスに馴染めていない自覚もある。
ただ、理都は人の多い場所だと、どこに視線を置けばいいのか分からなくなるだけだ。
その点、生き物はいい。
変に気を遣わなくていいし、観察しても嫌な顔をされない。突然話しかけてくることもない。逃げるか、じっとしているか、そのどちらかだ。理都にはその方がずっと分かりやすい。
葉の陰がわずかに揺れた。
理都は息を潜めて、草の隙間に目を凝らす。
いた。
緑褐色の小さな影が、細い脚をたたんだまま葉先にしがみついている。体の色は周囲にうまく馴染んでいて、一度見失うと面倒なやつだ。バッタの仲間。種類まではまだ断定できないが、動き方を見る限り悪くない。
理都はそっと体勢を低くした。
急に手を伸ばすと逃げる。飛ぶ方向を読んで、逃げ道を塞ぐ方が早い。
そのときだった。
「届かない想いなんて、笑ってごまかせばいいって、ずっとそう思ってた。でも――」
声がして、理都はぴたりと止まった。
少し離れた中庭のベンチのあたりに、人がいる。
今まで気配に気づかなかったのは、自分が草むらに集中しすぎていたせいだ。低くよく通る声。台詞だろうか。演劇部の発声練習みたいなやつかもしれない。
ちらりと視線を向けて、理都はすぐに目を逸らした。
駒咲紬だった。
やっぱり。
教室の中でも目立つやつは、離れていても妙に目につく。インナーだけ明るく染めた髪が風に揺れて、横顔がやけに綺麗に見えた。ベンチの背に手をかけて、何かの台詞を口の中で反復している。
正直、理都には関係ない。
向こうもこっちに気づいていないだろうし、気づかれたくもない。
理都は気持ちを切り替えて、草むらに意識を戻した。
バッタはまだいる。けれどさっきより位置が悪い。ちょうど駒咲の立っている方向へ逃げそうな角度だ。
やめろ、そっち行くな。
心の中でだけそう念じた次の瞬間、草が大きく揺れた。
ぱっと飛び出した影に、駒咲が小さく声を上げる。
「わっ」
反射で理都の体が動いた。
「動かないで!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
理都は植え込みの陰から飛び出して、駒咲のすぐ横にしゃがみこむ。視界の端で、駒咲が目を見開いてこっちを見たのが分かった。けれど構っていられない。バッタは今にももう一度飛びそうな位置で、足場を失って草の上をもたついている。
逃がすな。
今、左。そこだろ。
理都は膝をついたまま、片手で進路を塞いだ。もう片方の手をそっと伸ばして、羽を傷つけないように角度をつける。勢い任せに掴むと脚を取る。焦るな。落ち着け。逃げ道だけ読めばいい。
駒咲が何か言いかけた気配がしたが、理都の頭には入らなかった。
目の前の小さな動きだけを追う。
葉の先、石の影、草の根元。跳ぶ方向をひとつ外した瞬間、もう終わりだ。
「……よし」
最後はほとんど地面すれすれで、理都は両手を閉じた。
手の中で小さく跳ねる感触に、胸の奥の緊張が一気に解ける。
捕まえた。
理都はゆっくり指を開いた。
掌の中で、バッタがぴんと脚を張っている。翅の色も体の線もきれいだ。悪くない。かなりいい。
思わず顔を近づけて見ていると、不意に横から息を飲むような音がして、それから小さな笑い声が漏れた。
「……ふっ」
理都は顔を上げた。
駒咲が口元を押さえながら、肩を震わせている。
笑われた意味が分からなくて、理都はきょとんとした。
「なに」
「ごめん、いや……」
駒咲は笑いを堪えきれないように目を細めた。
近くで見ると、思っていたよりずっと柔らかい顔をしている。教室で見かけるときは、周囲に人がいるせいか、もっと隙がない印象だった。
「助けてくれたのかと思ったら、僕じゃなくて虫の方に全力すぎて」
「……そりゃ、逃げるから」
「うん、すごかった。めちゃくちゃ真剣だったな」
「真剣じゃないと捕まえられないし」
言ってから、少しだけ間が空いた。
やばい、と理都は思う。普通こういうとき、もう少し気の利いた返しをするんじゃないのか。助けようとしたわけじゃないにしても、せめて大丈夫だったかくらい聞くべきだろ。なのに口から出たのは完全に虫側の意見だった。
終わった。
変なやつ認定された。
そう思ったのに、駒咲はまた笑った。
「白嶺って、そんな感じなんだ」
「……同じクラスだから名前は知ってるのか」
「知ってるよ。白嶺理都でしょ。科学研究部」
当たり前みたいに言われて、理都は少しだけ目を瞬かせた。
向こうは目立つ。こっちも顔と名前を知っている。でも、向こうが自分のことまで把握しているとは思っていなかった。
「駒咲も、演劇部」
「うん。駒咲紬」
知ってる、とは言わなかった。
そんなことを言ったら、なぜか余計に意識しているみたいで落ち着かない。
理都は掌の中のバッタを見下ろして、小さく息を吐いた。
このままずっと持っているわけにもいかない。観察したい気持ちはあるが、授業前だし、そもそも今は駒咲がいる。
「逃がすから」
「うん」
理都が少しだけ手を開くと、バッタはためらいなく跳んで、すぐそばの植え込みに消えた。
その軌道を最後まで目で追ってから、理都はようやく立ち上がる。膝に土がついているのに気づいて、軽く払った。
「じゃ」
それだけ言って去ろうとすると、駒咲が「あ、待って」と声をかけた。
理都の肩がびくりと揺れる。
「なに」
「さっきの台詞、聞こえてた?」
「……ちょっと」
「そっか」
嫌そうには見えなかった。けれど駒咲は一瞬だけ目を伏せて、それからすぐにいつもの柔らかい顔に戻った。
「変なの聞かれたな」
「別に。練習だろ」
「まあ、そうなんだけど」
その返事が合っていたのかは分からない。
けれど駒咲は少しだけ目を丸くしてから、ふっと笑った。
「白嶺って、案外やさしいね」
「は?」
「変に茶化さないから」
「……茶化すほど興味ないだけ」
「そういうとこだよ」
何がどういうところなのか分からない。
分からないまま、理都は居心地の悪さを誤魔化すように視線を逸らした。
授業の予鈴が遠くで鳴る。そろそろ戻らないといけない。
「遅れる」
「だな」
並んで校舎に戻るほどの距離ではないはずなのに、なぜか二人は同じ方向へ歩き出した。
中庭から校舎へ入るまでの短い通路が、妙に長く感じる。理都は何を話せばいいか分からず、結局ずっと無言だった。駒咲はそんな空気を気にした様子もなく、ふと空を見上げたり、廊下の窓に映る自分の髪を整えたりしていた。
同じクラスの前で足を止めた瞬間、理都はようやく現実に引き戻される。
そうだ、こいつ、同じ教室に戻るんだった。
「じゃあ、また」
「……うん」
理都は小さく答えて、自分の席に向かった。
午後の授業はほとんど頭に入らなかった。
黒板の文字を写していても、気づくと中庭で笑っていた駒咲の顔を思い出す。バッタを見失わないように集中していたときの、自分の間抜けなくらい真剣な姿も一緒に思い出してしまって、じわじわ恥ずかしくなる。
何なんだよ。
ただの同じクラスのやつだろ。
心の中でそう言い聞かせても、教室のどこかで駒咲が笑うたびに、その声だけ妙に耳に入った。
放課後、中庭の端で理都はまたしゃがみこんでいた。
別に駒咲を探していたわけではない。本当だ。科学研究部の飼育ケースに入れるための落ち葉を少し見ておきたかっただけだし、ついでに昼間逃がしたバッタのあたりも気になっただけだ。
そう、自分では思っていた。
けれど頭の上から「またいる」と声が落ちてきた瞬間、心臓が妙に跳ねた。
顔を上げると、駒咲が立っていた。
制服の上から光が落ちて、インナーの明るい色が夕方の影の中で少しだけ目立つ。
「白嶺、中庭好きなの?」
「……まあ」
「僕も今日はこっち通って帰ろうと思って」
「ふうん」
会話が下手すぎる。
理都は内心で頭を抱えた。もっとまともに返せないのか、自分は。
なのに駒咲は気にした様子もなく、近くのベンチに軽く腰をかけた。
「何見てるの」
「アリ」
「また虫」
「またってなんだよ」
「白嶺、ほんとに好きなんだなって」
笑いを含んだ言い方に、理都は思わず口を閉ざした。
好きなのは事実だ。好きだから見ているし、好きだから捕まえる。そこを笑われるのは昔から少しだけ苦手だった。子どもっぽいとか、気持ち悪いとか、そういう目で見られることは珍しくない。
でも駒咲の言い方には、そういう嫌なものが混じっていない。
ただ、本当にそう思っているみたいだった。
「……好きだけど」
「いいじゃん。好きなものあるの、羨ましい」
「駒咲は演劇あるだろ」
「あるけどさ。好きって、時々少し厄介じゃない?」
「意味分かんない」
「分かんなくていいよ」
その言い方が少しだけ変だった。
理都は顔を上げかけて、でもやめた。変に踏み込むのは違う気がする。中庭で台詞を練習していたときもそうだった。駒咲は誰にでも愛想がいいくせに、どこか一枚薄い膜を張っているようなところがある。
沈黙が落ちる。
気まずいわけじゃない。ただ、理都はこういうときの言葉の置き方を知らない。
そのままベンチの近くを通ろうとしたとき、足元の土に小さく滑った。
雨の名残でぬかるんでいたらしい。派手に転ぶほどではなかったが、体勢を崩した拍子に指先がざらりと地面を擦る。
「いた……」
しまった、と思った。
独り言のつもりだったのに、駒咲に聞かれていたらしい。すぐに立ち上がろうとした理都の前に、白いものが差し出される。
「使う?」
ハンカチだった。
理都は一瞬、それと駒咲の顔を交互に見た。
「別にいい」
「血、出てるよ」
「大したことないし」
「いや、普通に痛いやつだろ」
そう言って、駒咲は理都の返事を待たずにしゃがみこんだ。
距離が急に近くなって、理都は息を止める。
メイクの匂いなのか、シャンプーなのか、よく分からないけれど清潔な香りがした。近くで見ると睫毛が思ったより長い。そういう情報が勝手に頭に入ってきて困る。
「ほら、手」
「……自分で拭ける」
「分かってる。貸すだけ」
理都は黙ってハンカチを受け取った。
柔らかい布が、少しひんやりしている。白地に細い刺繍が入っていて、理都が普段使う無地のタオルハンカチとは全然違った。
「ありがと」
「どういたしまして」
理都は小さく指先を拭いた。
確かに少し血がにじんでいて、土もついていた。借りて正解だったかもしれない。でも、だからといってこの状況に慣れるわけではない。
「洗って返す」
「え、そこまでしなくていいよ」
「いや、そのままは無理だろ」
「律儀だね、白嶺」
「普通」
「そういうとこ、ちょっと好きかも」
軽く言われた一言に、理都の手が止まった。
顔を上げると、駒咲は冗談めかすでもなく、ただ柔らかく笑っていた。
好き、という言葉に特別な意味がないことくらい分かる。分かるのに、心臓が一瞬だけ変な跳ね方をした。
「……そういうの、気軽に言うなよ」
「ん?」
「なんでもない」
声が少しだけ掠れた。
駒咲は不思議そうに瞬いたけれど、追及はしなかった。
校舎の方から部活に向かう生徒たちの足音が聞こえる。
空は少しずつ色を薄めていて、昼間より風が冷たくなっていた。
「じゃあ、返してくれるの待ってる」
「……うん」
「ちゃんと洗わなくてもいいのに」
「気になるから」
理都がそう言うと、駒咲はふっと目を細めた。
「ほんと、真面目だね」
また笑われた。
でも昼の中庭で笑われたときみたいな居心地の悪さは、もうなかった。
理都は借りたハンカチを丁寧に畳んで、制服のポケットにしまう。
薄い布一枚の重さしかないはずなのに、なぜかそこだけやけに意識してしまう。
ただ借りただけだ。
洗って返すだけ。
それで終わる話のはずだ。
なのにその日の帰り道、理都はポケットの中の感触を何度も確かめてしまった。
どうしてこんなことになったんだろう、と。
まだこのときの理都は、本気でそう思っていた。

