放課後の理科室は、今日も少しだけひんやりしていた。
窓際の水槽ではメダカが光を受けてきらきらと向きを変え、棚の下ではリクガメがのそのそと餌皿のまわりを歩いている。水槽のモーター音は相変わらず小さくて、教室のざわつきとは別の世界みたいに静かだった。
理都はいつものように飼育ケースの前にしゃがみこんで、餌の減り具合を見ていた。
合唱コンクールが終わって、焼肉バイキングも終わって、水族館デートも終わった。 終わったはずなのに、なぜか落ち着かない日はまだ続いている。
理由は分かっていた。
部室の扉が、こんこん、と軽く鳴る。
「入るよ」
返事をする前に扉が開いて、紬が顔を出した。
「……また来たのか」 「また来た」 「最近、普通に入ってくるな」 「もう何回も来てるし」 「そういう問題かよ」
そう返しながらも、理都は前みたいに本気で驚かなくなった自分に気づく。 気づいて、少しだけ複雑になる。 でも嫌ではない。
紬は部室の中を見回して、それからメダカの水槽の前で足を止めた。
「これ、みゆき?」 「違う。そっちはサファイア」 「え、じゃあみゆきは?」 「奥の白っぽいやつ」 「へえ」
紬がガラスに近づく。 理都は立ち上がって、水槽の横に並んだ。
「じゃあ、こっちが夜桜?」 「そう」 「で、あの黒っぽいのがブラックダイヤか」 「……分かってきたな」 「何回か聞いてるし」
ごく普通にそんな会話をする。 あまりにも普通で、でも理都にとっては未だに少しだけ変な感じがする。
付き合っている。 その事実は、まだときどき現実感が薄い。 薄いくせに、紬がこんなふうに当たり前みたいに隣にいると、心臓だけはちゃんと反応するからたちが悪かった。
「白嶺、今日ちょっと寝癖ついてる」 「え」 理都が反射で後頭部を押さえる。 紬が吹き出した。
「やっぱ気にするんだ」 「お前が水族館で変なこと言うからだろ」 「変なことって?」 「……寝癖とか学校かばんとか」 「だって事実だったし」 「うるさい」
そのとき、また部室の扉が開いた。
「理都、まだいたんだ」
深也だった。 いつもの眠そうな顔のまま、中へ入ってくる。
「いるだろ、普通に」 「うん。紬が理科室の方行くの見えたから」 「……は?」
嫌な予感がした瞬間、その予感通りに蓮が顔を出した。
「お、やっぱいた」 「やっぱ、じゃねえよ」 「いや、浅葉がついてったから」 「お前もついてくるなよ」 「ひどくね?」
そう言いながら蓮は普通に中へ入ってきて、深也のすぐ近くに立つ。 もう隠す気あるのかないのか分からない距離感だった。
さらにその後ろから、一景まで現れた。
「……なんで全員いるんだ」 理都が言う。 「それはこっちの台詞なんだけど」 一景は呆れたように眼鏡を押し上げた。 「なんでこの部室、最近たまり場みたいになってるんだ」 「別にたまり場では」 「なってるだろ」
紬がそこで一景を見る。 その視線が、理都に向けるものより一段遠慮がない。
「一景、お前が最初に白嶺のこと気にして入り浸り始めたんだろ」 「入り浸ってはない」 「保護者気取りだったくせに」 「気取りじゃない。実質そうだろ」 「幼なじみ面が強いんだよ」 「幼なじみだからな」 「それ言えば通ると思うなよ」
そのやり取りが妙に自然で、理都は少しだけ目を瞬いた。 そうだ、この二人は幼なじみだった。 だから紬も一景に対してだけは遠慮なく言うし、一景も紬相手だと一段ぞんざいになる。
蓮がその横から口を挟む。
「でも実際、一景が一番気にしてるだろ」 「お前にだけは言われたくない」 「俺は別に隠してないし」 「隠せてない、の間違いだろ」 「深也、何か言って」
深也は水槽の前まで来て、ガラスを少し覗き込んだ。
「これ、みゆき」 「そう」 理都が答える。 「で、こっちがブラックダイヤ」 「うん」 「夜桜は体色の出方がもっとやわらかい方か」 「そうそう」
蓮がそこで目を丸くした。
「浅葉、分かるの?」 「そこそこ」 「そこそこ、で今の会話できるのすごくね?」 「理都が前に言ってたし、自分でも少し調べた」 「何で」 「気になったから」
その返しがあまりにも自然で、理都は少しだけうれしくなる。 深也は理都ほどではないけれど、生き物の話になるとちゃんと分かる側だ。 そこへ蓮が無邪気に食いつく。
「じゃあ浅葉、今度俺にも教えてよ」 「メダカ?」 「それも」 「それも、って何」 「いろいろ?」 「雑だな」 「だって浅葉、説明うまそうだし」 「たぶん理都の方がうまい」 「理都は好きな話になると急に早口になるから、初心者向けではないかも」 紬がさらっと言う。 「お前、そういうとこよく見てるよな」 理都が言う。 「見てるよ」 紬は平然と返した。
一景はそのやり取りを見て、今日何度目か分からないため息をついた。
「お前ら、もうちょっと隠す努力しろ」 「何を」 理都が言う。 「全部だよ」 「一景、それもう今さらだろ」 紬が笑う。 「今さらではあるけどな」 「じゃあいいじゃん」 「よくない」 「でも理都、前よりちゃんと混ざってる」 深也が言った。
その一言で、部室の空気がほんの少しだけ静かになった。
理都は一瞬、何を言われたのか分からなかった。 深也はいつもの眠そうな顔のまま、水槽の中を見ている。
「前は、こういうときすぐ端行ってたし」 「……」 「今はちゃんと会話してる」 「してるな」 蓮が言う。 「つっこみも増えた」 紬が続ける。 「それは言えてるな」 一景まで頷いた。
理都は何か言い返そうとして、でもうまく言葉が出なかった。 代わりに、小さく息を吐く。
「……うるさい」 「否定しないんだ」 紬が少しだけ目を細めた。
理都は水槽の中のメダカを見る。 みゆきの白っぽい光がふっと流れて、サファイアの青いラメがそのあとを追う。夜桜は少しやわらかい色で揺れて、ブラックダイヤは影みたいに静かに泳いでいた。
隣には紬がいて、少し離れたところでは蓮が深也に話しかけていて、一景が呆れながらも帰らない。
少し騒がしい。 少し落ち着かない。 でも、ちゃんと居心地がいい。
あのハンカチを返そうと紙袋を握りしめていた頃には、こんなふうになるなんて思っていなかった。
今の理都は、まだ相変わらず不器用で、声も小さいし、たまに変なタイミングで固まる。 それでも、隣にいてくれるやつがいて、気づけばまわりに人がいて、その輪の中に自分も少しだけ立っている。
それはたぶん、悪くなかった。
理都は小さく咳払いして、水槽を指さした。
「……だから、それはみゆきじゃなくてサファイア」 「え、また間違えた?」 紬が笑う。 「ブラックダイヤと見分けつきにくいんだよな」 一景が言う。 「いや、ブラックダイヤはもっと体色重いだろ」 理都が返す。 「夜桜はラメの出方が違うし」 深也が続ける。 「お前ら、会話のレベル急に上がってない?」 蓮が言う。 「蓮はまず普通の黒メダカから覚えろ」 理都が言う。 「そこから?」 「そこから」 「ハードル高くね?」 「低いだろ」 「理都、今ちょっと楽しそう」 紬が言った。
理都は一瞬だけ黙って、それから小さく答える。
「……まあな」
その声に、部室の中の空気がまた少しやわらかくなる。 窓の外では、夕方の光が少しずつ色を変え始めていた。
たぶん、この先も簡単なことばかりじゃない。 でも今は、この少し騒がしくて、少しだけあたたかい放課後を、ちゃんと好きだと思っていた。
窓際の水槽ではメダカが光を受けてきらきらと向きを変え、棚の下ではリクガメがのそのそと餌皿のまわりを歩いている。水槽のモーター音は相変わらず小さくて、教室のざわつきとは別の世界みたいに静かだった。
理都はいつものように飼育ケースの前にしゃがみこんで、餌の減り具合を見ていた。
合唱コンクールが終わって、焼肉バイキングも終わって、水族館デートも終わった。 終わったはずなのに、なぜか落ち着かない日はまだ続いている。
理由は分かっていた。
部室の扉が、こんこん、と軽く鳴る。
「入るよ」
返事をする前に扉が開いて、紬が顔を出した。
「……また来たのか」 「また来た」 「最近、普通に入ってくるな」 「もう何回も来てるし」 「そういう問題かよ」
そう返しながらも、理都は前みたいに本気で驚かなくなった自分に気づく。 気づいて、少しだけ複雑になる。 でも嫌ではない。
紬は部室の中を見回して、それからメダカの水槽の前で足を止めた。
「これ、みゆき?」 「違う。そっちはサファイア」 「え、じゃあみゆきは?」 「奥の白っぽいやつ」 「へえ」
紬がガラスに近づく。 理都は立ち上がって、水槽の横に並んだ。
「じゃあ、こっちが夜桜?」 「そう」 「で、あの黒っぽいのがブラックダイヤか」 「……分かってきたな」 「何回か聞いてるし」
ごく普通にそんな会話をする。 あまりにも普通で、でも理都にとっては未だに少しだけ変な感じがする。
付き合っている。 その事実は、まだときどき現実感が薄い。 薄いくせに、紬がこんなふうに当たり前みたいに隣にいると、心臓だけはちゃんと反応するからたちが悪かった。
「白嶺、今日ちょっと寝癖ついてる」 「え」 理都が反射で後頭部を押さえる。 紬が吹き出した。
「やっぱ気にするんだ」 「お前が水族館で変なこと言うからだろ」 「変なことって?」 「……寝癖とか学校かばんとか」 「だって事実だったし」 「うるさい」
そのとき、また部室の扉が開いた。
「理都、まだいたんだ」
深也だった。 いつもの眠そうな顔のまま、中へ入ってくる。
「いるだろ、普通に」 「うん。紬が理科室の方行くの見えたから」 「……は?」
嫌な予感がした瞬間、その予感通りに蓮が顔を出した。
「お、やっぱいた」 「やっぱ、じゃねえよ」 「いや、浅葉がついてったから」 「お前もついてくるなよ」 「ひどくね?」
そう言いながら蓮は普通に中へ入ってきて、深也のすぐ近くに立つ。 もう隠す気あるのかないのか分からない距離感だった。
さらにその後ろから、一景まで現れた。
「……なんで全員いるんだ」 理都が言う。 「それはこっちの台詞なんだけど」 一景は呆れたように眼鏡を押し上げた。 「なんでこの部室、最近たまり場みたいになってるんだ」 「別にたまり場では」 「なってるだろ」
紬がそこで一景を見る。 その視線が、理都に向けるものより一段遠慮がない。
「一景、お前が最初に白嶺のこと気にして入り浸り始めたんだろ」 「入り浸ってはない」 「保護者気取りだったくせに」 「気取りじゃない。実質そうだろ」 「幼なじみ面が強いんだよ」 「幼なじみだからな」 「それ言えば通ると思うなよ」
そのやり取りが妙に自然で、理都は少しだけ目を瞬いた。 そうだ、この二人は幼なじみだった。 だから紬も一景に対してだけは遠慮なく言うし、一景も紬相手だと一段ぞんざいになる。
蓮がその横から口を挟む。
「でも実際、一景が一番気にしてるだろ」 「お前にだけは言われたくない」 「俺は別に隠してないし」 「隠せてない、の間違いだろ」 「深也、何か言って」
深也は水槽の前まで来て、ガラスを少し覗き込んだ。
「これ、みゆき」 「そう」 理都が答える。 「で、こっちがブラックダイヤ」 「うん」 「夜桜は体色の出方がもっとやわらかい方か」 「そうそう」
蓮がそこで目を丸くした。
「浅葉、分かるの?」 「そこそこ」 「そこそこ、で今の会話できるのすごくね?」 「理都が前に言ってたし、自分でも少し調べた」 「何で」 「気になったから」
その返しがあまりにも自然で、理都は少しだけうれしくなる。 深也は理都ほどではないけれど、生き物の話になるとちゃんと分かる側だ。 そこへ蓮が無邪気に食いつく。
「じゃあ浅葉、今度俺にも教えてよ」 「メダカ?」 「それも」 「それも、って何」 「いろいろ?」 「雑だな」 「だって浅葉、説明うまそうだし」 「たぶん理都の方がうまい」 「理都は好きな話になると急に早口になるから、初心者向けではないかも」 紬がさらっと言う。 「お前、そういうとこよく見てるよな」 理都が言う。 「見てるよ」 紬は平然と返した。
一景はそのやり取りを見て、今日何度目か分からないため息をついた。
「お前ら、もうちょっと隠す努力しろ」 「何を」 理都が言う。 「全部だよ」 「一景、それもう今さらだろ」 紬が笑う。 「今さらではあるけどな」 「じゃあいいじゃん」 「よくない」 「でも理都、前よりちゃんと混ざってる」 深也が言った。
その一言で、部室の空気がほんの少しだけ静かになった。
理都は一瞬、何を言われたのか分からなかった。 深也はいつもの眠そうな顔のまま、水槽の中を見ている。
「前は、こういうときすぐ端行ってたし」 「……」 「今はちゃんと会話してる」 「してるな」 蓮が言う。 「つっこみも増えた」 紬が続ける。 「それは言えてるな」 一景まで頷いた。
理都は何か言い返そうとして、でもうまく言葉が出なかった。 代わりに、小さく息を吐く。
「……うるさい」 「否定しないんだ」 紬が少しだけ目を細めた。
理都は水槽の中のメダカを見る。 みゆきの白っぽい光がふっと流れて、サファイアの青いラメがそのあとを追う。夜桜は少しやわらかい色で揺れて、ブラックダイヤは影みたいに静かに泳いでいた。
隣には紬がいて、少し離れたところでは蓮が深也に話しかけていて、一景が呆れながらも帰らない。
少し騒がしい。 少し落ち着かない。 でも、ちゃんと居心地がいい。
あのハンカチを返そうと紙袋を握りしめていた頃には、こんなふうになるなんて思っていなかった。
今の理都は、まだ相変わらず不器用で、声も小さいし、たまに変なタイミングで固まる。 それでも、隣にいてくれるやつがいて、気づけばまわりに人がいて、その輪の中に自分も少しだけ立っている。
それはたぶん、悪くなかった。
理都は小さく咳払いして、水槽を指さした。
「……だから、それはみゆきじゃなくてサファイア」 「え、また間違えた?」 紬が笑う。 「ブラックダイヤと見分けつきにくいんだよな」 一景が言う。 「いや、ブラックダイヤはもっと体色重いだろ」 理都が返す。 「夜桜はラメの出方が違うし」 深也が続ける。 「お前ら、会話のレベル急に上がってない?」 蓮が言う。 「蓮はまず普通の黒メダカから覚えろ」 理都が言う。 「そこから?」 「そこから」 「ハードル高くね?」 「低いだろ」 「理都、今ちょっと楽しそう」 紬が言った。
理都は一瞬だけ黙って、それから小さく答える。
「……まあな」
その声に、部室の中の空気がまた少しやわらかくなる。 窓の外では、夕方の光が少しずつ色を変え始めていた。
たぶん、この先も簡単なことばかりじゃない。 でも今は、この少し騒がしくて、少しだけあたたかい放課後を、ちゃんと好きだと思っていた。

