きみと指揮する青の時間

​ 待ち合わせの十五分前に着いたというのに、白嶺理都(しらねりと)はすでに落ち着かなかった。
​ 駅前の時計を見て、スマホの画面を点け、また時計を見る。
 そんなことをしても時間は進まない。十分前になろうが五分前になろうが、駒咲紬(こまさきつむぎ)の姿を捉えるまで、この心臓の騒ぎは収まりそうになかった。
​ 私服は、一応かなり考えたつもりだ。
 黒っぽいパーカーに、無難なシルエットのパンツ。派手すぎず、変でもない。はずだった。
 けれど、鏡の前で何度直しても後頭部の頑固な寝癖がひとつだけ、どうしても言うことを聞かなかった。格闘の末、最後は時間がなくて諦めた。
​ おまけに、家を出る直前まで気づかなかった最大のミスがある。
 今、肩にかけているのは、紛れもない「学校指定のかばん」だった。
​ 駅前についてから鏡代わりのウィンドウに映る自分を見て、本気で一度帰宅するか迷った。
 けれど、今から戻れば確実に遅刻する。遅れるよりはマシだと言い聞かせてそのまま踏みとどまった結果、理都は私服に学校かばんという、なんとも形容しがたい格好で待ち合わせ場所に立っていた。

​(……終わってる。詰んだ)

​ 絶望の淵に沈んでいた、その時。

「おはよう」

 聞き慣れた、けれど今日はどこか特別に響く声がした。
​ 理都は反射的にそちらを向き、無意識に猫背を伸ばした。
 伸ばしたつもりだったが、緊張のせいで大して変わっていない。

​「……おはよ」
「早いな」
「……お前もだろ」
「僕はちょうど今。……白嶺?」

​ 紬は理都の前で足を止めると、不思議そうにその全身を眺めた。理都はその視線を浴びるだけで、背中に変な汗が流れるのを感じる。

​「……なんだよ」
「いや」

 紬は少しだけ口元を押さえた。

「白嶺、そのかばん……学校のやつじゃない?」
「……だめか?」
「だめじゃないけど、そう来るんだなって思って」
「気づいたの、駅に着いてからだったんだよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「それでそのまま来たんだ。……真面目だなあ」

​ くすくすと笑った紬の視線が、今度は理都の頭頂部に止まった。

「あと、寝癖」
「……マジで?」
「マジ。ちょっと待って」

​ 紬がそっと手を伸ばす。理都の後頭部に指先が触れた瞬間、理都の肩がびくっと跳ねた。

「うわ」
「そんな驚く?」
「……急に触るな」
「寝癖直してるだけだよ。……よし、たぶんマシになった」
「たぶん?」
「さっきよりは」

​ 楽しそうに笑う紬を直視できず、理都は耳を熱くしながら視線を逸らした。
​ 少し離れた柱の陰で、その光景を凝視している影があった。

​「開始二分でこの破壊力か……」

 一景が低く呟く。

「白嶺、寝癖つけたまま来たの強すぎん? かばんも学校のだし!」

 蓮が必死に笑いを堪えて肩を震わせる。

「見れば分かる」

 深也が眠そうな声で、淡々と応じた。

​「いやあまりにも白嶺」

 蓮が思わず声を大きくしかけた瞬間、一景が即座にその口を塞いだ。その拍子に、深也が一景の背中に軽くぶつかり、柱にパンフレット棚が当たる鈍い音が響いた。
​ 理都がびくりとして振り返る。

「……何か音しなかったか?」
「え? 気のせいじゃないかな」

 紬がさらりと受け流し、理都は不審そうにしながらも再び前を向いた。
​ 柱の陰では、三人が小声で火花を散らしていた。

「一景、息ができん……!」
「お前が声を出すからだろ」
「蓮、うるさい」
「深也までそれ言う!?」
「今日は静かにしろ。本当に」

 一景の深い溜息が、水族館への道中に重く溶けていった。
​ 水族館までの道のり、理都の挙動は不審そのものだった。
 信号待ちで紬に話しかけられるたびに肩が跳ね、スタッフの案内には過剰にビクつき、券売機の前では財布からもたついてカードの束をぶちまけた。

​「白嶺、落ち着けって」
「……落ち着いてる」
「今、それ言う?」
「……落ち着いてない」
「うん、知ってる」

​ 紬が当然のように一緒にカードを拾ってくれるので、理都は余計にいたたまれなくなる。
 ゲートをくぐり、薄暗い館内に入ってようやく、理都は少しだけ呼吸を整えることができた。青い水槽の光と、静かなアナウンスの音が、周囲の視線を散らしてくれる気がした。

​「白嶺、わかりやすいね」
「何が」
「ちょっと落ち着いた」
「……まあ」
「水族館でよかった?」
「……まあな」

​ 最初の大水槽の前で、二人は並んで立ち止まった。
 光を反射させながら銀色の群れが頭上を流れていく。理都はそれを見上げて、小さく息を吐いた。

​「これは、普通にすごい」
「うん」
「ずっと見てられるな」
「白嶺、こういうの好きそうだと思ったよ。静かなところで、ぼーっと見るの」
「……当たってる」
「やっぱり」

​ 二人の穏やかな空気の後ろで、三人もまた、水槽を隠れ蓑にしていた。

「普通に水族館楽しんでるな、あの二人」
「お前も楽しそうだけどな、蓮」
「クラゲ、いる?」

 深也がふらふらと別方向へ歩き出し、蓮が慌ててその肩を掴む。その勢いで案内ロープに引っかかった蓮がよろけ、小さく声を漏らした。
​ 理都が振り返りかけりそうになったタイミングで、紬が水槽を指さした。

「白嶺、見て。エイが上を通るよ」
「……ああ」

​ 理都の視線が水槽に戻る。一景は本気で冷や汗をかきながら、蓮の襟首を掴んで引き戻した。

「お前ら、何回危ない橋を渡れば気が済むんだ」
「今のはロープが悪いって!」
「一景、怒ってるね」
「そりゃ怒るわ!」

​ 展示が進むにつれ、理都の口数も少しずつ増えていった。

​「これ、なんて魚だ?」
「チンアナゴ」
「それは知ってる」
「じゃあなんで聞くのさ」
「……確認」
「ふふ、確認ね。じゃあ、こっちは?」
「それは……」
「ん?」
「……ハタタテダイ。たぶん」
「おお、詳しいな。でも最後は『たぶん』なんだ」
「うるさい」

​ ボソボソと聞き返されるたびに理都は不機嫌そうな顔をしたが、紬はそれを面白がるだけで、終始楽しげだった。

​「白嶺、歩くときちょっと丸くなるよね。警戒してる猫みたい」
「お前、その例え好きだな」
「合ってるもん。ほら、もうちょい肩開いて」
「無理だ。意識すると余計変になる」
「それはちょっと、わかるかも」
「わかるなら言うな」

​ タッチプールの前では、理都が「絶対無理」と拒否し、紬も「白嶺がやらないならいいや」とすぐに引いた。そんな些細なやり取りのひとつひとつが、どこかやわらかい熱を帯びていく。

​「白嶺」
「なに」
「せっかくだし、写真一枚撮らない?」
「……は?」
「いや、普通に記念だよ。初デートだろ」
「……言うな、そういうの。意識するだろ」

​ 紬が小さく笑う。

「じゃあ、余計に撮ろう」

​ 結局、近くを通ったスタッフに頼まれてしまい、理都は本気で固まった。
 水槽を背景に並ばされ、距離感も立ち位置も分からなくなる。おまけに肩には「学校かばん」。

​「白嶺、かばん」
「……あ」

 慌てて下ろす動きすらぎこちない理都を見て、紬が吹き出しそうになる。

「もうちょい普通に立てる?」
「普通ってなんだよ」
「今かなり固いよ。せめて笑って」
「もっと無理だ」

​ 出来上がった写真は、引きつっていないのが不思議なほどの理都の顔と、満面の笑みの紬だった。

「思ってたよりちゃんと写ってるよ」
「……二度とやらない」

​ 売店の陰からそれを覗き見ていた蓮が、思わず「うわ、初デート感つよ……」と漏らした。
 理都がぴくっとして振り返るのと、深也が普通に手を上げかけたのは同時だった。

​「なんで止めるの」
「今のはだめだって!」

 蓮が必死に深也の手首を掴む。

「次見つかったら、本気で帰るからな」

 一景の低い声が、今度こそ本気だった。


​ アシカショーでは、さらに綱渡りの展開となった。
 理都たちが前方、三人が少し後ろ。安全圏のはずが、蓮が深也に渡そうとした飲み物をこぼした。

​「冷た」
「ごめん、待って、ハンカチ!」
「今こぼすか?」
「しょうがないだろ!」

​ 座席がガタついた音に、紬が「後ろ、騒がしくない?」と振り向きかける。
​ 一景はとっさにパンフレットを広げて顔を隠し、蓮は深也にハンカチを押しつけたまま硬直した。深也だけが「今の、見つかったかな」と暢気に構えている。

​「……気のせいか」

 理都が前を向く。

「だね」

 紬もそれ以上は追及しなかった。
​ 三人は一斉に安堵の息を吐く。

「アシカ、かわいいね」

 深也だけが普通にショーを楽しんでおり、蓮に「お前だけ楽しみ方が真っ当なんだよ」と突っ込まれていた。


​ ショーが終わる頃、一瞬の油断が命取りになった。
 退場通路で深也が、何の気なしに声をかけたのだ。

​「理都」

​ 理都が振り返り、その横で紬も足を止める。
 数秒、重い沈黙が落ちた。
​ 理都の視線の先には、通路の途中で固まった一景、気まずそうに口を閉ざした蓮、そして無垢な顔で手を挙げる深也がいた。

​「……何してんだ、お前ら」

​ 理都の低い声に、一景は「終わった」と悟った。

「見つかったね」
「見つかったね、じゃないんだよ!」

 蓮が小声で突っ込むが、もう遅い。
​ 紬が少しだけ目を見開いたあと、堪えきれずに肩を震わせた。

「え、もしかして……」
「違う」

 一景が即答した。

「たまたま同じ水族館にいただけだ」
「今さらそれが通ると思ってんのか」

 理都の至極真っ当な指摘に、一景は静かに認めた。「……通らないな」

​「まあ、その……ちょっと、見守り?」
「何で疑問形なんだよ、蓮」
「深也、お前も知ってたのか」
「途中から。蓮が楽しそうだったから」

​ 理都は本気で頭を抱えた。終わった。格好悪いにも程がある。
 なのに、紬は笑っていた。完全に面白くなってしまった様子で。

​「一景、なにそれ。保護者?」
「見守りだ」
「なら帰れ!」

 理都が珍しく声を大きくすると、紬がまた笑った。

​「まあまあ。ここまで来たなら、もう一緒に回ればいいじゃん」
「はあ? え、いいのか?」

 食いつく蓮を、理都が「だめだろ」と即答で遮る。

「でも、今さら隠れられても余計にやりにくいし」

 紬の言葉に、一景も「……それはそうかも」と同意してしまった。

​「理都、一人だけ帰る方が目立つよ」

 深也のぼそりとした一言が決定打となり、理都は観念した。

「……好きにしろ」
「よし!」


​ そこから先の水族館は、妙に賑やかになった。
 五人で売店を巡り、クラゲを眺め、次に行く場所を決める。

​「白嶺、この魚は?」
「それはコリドラス」
「理都、生き物のことになるとほんと喋るな」
「うるさい」
「理都、今日ツッコミ多いね」

 紬が楽しそうに笑う。
​ 蓮は相変わらず深也の隣をキープし、眠そうな彼を甲斐甲斐しく誘導していた。

「蓮、お前、浅葉にだけ親切すぎるだろ」
「はあ? 普通だろ」
「深也、何か言ってくれ」
「蓮、今日テンションがやわらかいよね」
「お前もそっちつくのかよ!」


​ わちゃわちゃと過ごすうちに、夕景が近づいてきた。
 出口付近では、さすがに全員に心地よい疲労が漂う。

​「じゃ、俺らはこのへんで」
「浅葉、帰る途中で寝るなよ。危ないから」
「じゃあ蓮、起こして」
「……おう」

​ その短い返事だけで、蓮は少し嬉しそうだった。

「今日はありがと、3人とも」

 紬が言うと、理都がぼそりと付け加えた。

「見守りという名のストーキングだったけどな」


​ 三人と別れ、理都と紬は夕暮れの公園へ向かった。
​ 小さな公園には、夕方の光がやわらかく差し込んでいた。子どもたちが帰ったあとの静けさが、今は心地よい。

​「座るか?」
「……その前に、飲み物買ってくる」
「あ、僕も行くよ」
「いい。座ってろ。……何かしてないと落ち着かないんだ」

​ 理都が正直に言うと、紬は少しだけ笑って「わかった」と頷いた。
 自販機の前で無駄に悩み、結局無難なお茶と、少し甘めのミルクティーを買う。
 戻ると、紬はベンチで夕焼け空を眺めていた。その横顔の美しさに、理都は一瞬だけ息を止める。

​「ほら」
「ありがと。じゃあ、こっち」

 紬はミルクティーを受け取った。
​ 隣に座る。缶を開ける音が、静かな公園に小さく響いた。

「今日は、楽しかったね」
「……思ったより、ちゃんとデートだった」
「『思ったより』って何さ」
「いや、最初の時点で終わったと思ったからな。学校かばんも、寝癖も」
「ふふ、あと、びくびくしすぎ」
「お前が急に触るからだろ」
「でも、ちゃんと来てくれた。それ、嬉しかったよ」

​ また、そういうことを平気で言う。
 理都は下を向いたまま、お茶を一口飲んだ。
​ 会話がいったん途切れた。けれど気まずくはない。ただ、妙に静かだった。
​ 紬は少しだけ笑って、それからゆっくりと目を閉じた。
 理都の思考が、その瞬間止まった。
​ え。
 いや、待て。
 今、そういうやつか。そういう流れなのか。
 いやでも目閉じてるし。これ、どう考えてもそういう意味だろ。
 しなかったら最悪では。でもしたらしたで死ぬ。
 無理だろ。いや無理じゃない。お前、付き合ってるだろ。
 隣にいるってもう決めたんだから。ここで逃げたら、それこそだめだろ。
​ 理都は無意識に息を止めていた。
 喉がからからになる。心臓の音がうるさい。
 でも紬は、静かに待っている。
​ 理都はほんの少しだけ身を乗り出した。
 距離が近づく。紬のまつ毛が見える。
 夕焼けの色が頬に落ちて、やわらかく染まっていた。
​ 行け。
 もう、行け。
​ 理都はぎりぎりで目を閉じ、そっと唇を重ねた。
 本当に触れるだけのような、一瞬のキス。
​ 離れたあと、理都はそのまま固まった。全身の熱が顔へ集まってくる。

「……したな」
「……うるさい」
「白嶺、顔真っ赤」
「言うな」
「でも、ちゃんとしてくれた。ありがとう」

​ その言葉は反則だ。理都はベンチの背にもたれ、ぎりぎりで耐えた。

「礼言うなよ。余計無理になる」
「ふふ、わがままだなあ」
「お前が平然としすぎなんだよ」
「してないよ。僕だって緊張した。でも、白嶺がしてくれるなら、ちゃんと待ちたかったんだ」

​ 理都はもう、返事ができなかった。胸の奥がずっと、痛いくらいに熱い。
​ 夕焼けの光が薄くなっていく。
 並んで座ったまま、二人はしばらく何も言わなかった。
 何も言わなくても、さっきまでよりずっと、近い場所で繋がっている気がした。

​「……帰るか」
「うん、そうだね」

​ 立ち上がって公園を出る。帰り道は行きより静かだった。けれどその静けさは、慈しむようなやさしいものだった。
​ 初デートは、事故だらけだった。
 寝癖、学校かばん、挙動不審、そして見守り3人組。完璧とは程遠い。
​ けれど、たぶんそれでよかったのだ。
 完璧じゃないままでも、こうして隣にいられる。
 そんな当たり前のようで、特別なことを、今日ひとつ知れた気がした。