きみと指揮する青の時間

 待ち合わせの十五分前に着いたのに、白嶺理都はすでに落ち着かなかった。
 駅前の時計を見て、スマホを見て、また時計を見る。  意味はない。十分前になろうが五分前になろうが、駒咲紬が来るまで落ち着かないことに変わりはなかった。
 私服は、一応かなり考えた。  黒っぽいパーカーに、無難なパンツ。派手すぎず、変でもない、はず。  ただ、鏡の前で何度直しても後頭部の寝癖がひとつだけ言うことを聞かなかった。時間がなくて、最後は諦めた。  それから、出る直前まで気づかなかったのだが、肩にかけているのは学校指定のかばんだった。
 駅前まで来てから気づいて、本気で一回帰るか迷った。  でも帰ったら遅れる。遅れる方がだめだろと思ってそのまま来た。  結果、理都は私服に学校かばんという、なんとも言えない格好で待ち合わせ場所に立っていた。
 終わってる。
 そう思っていたところへ、紬が来た。
「おはよう」
 理都は反射でそちらを向く。  そして、向いた瞬間に自分の猫背を少しだけ伸ばした。  伸ばしたつもりだったが、たぶんそんなに変わっていない。
「……おはよ」 「早いな」 「お前も」 「僕はちょうど今」
 紬は理都の前で足を止めて、それから理都の全身を見た。  理都はその視線だけで変な汗をかく。
「なに」 「いや」
 紬は少しだけ口元を押さえた。
「白嶺、そのかばん学校のやつじゃない?」 「……だめか?」 「だめじゃないけど、そう来るんだなって思って」 「気づいたの、駅着いてからだから」 「ほんとに?」 「ほんとに」 「それでそのまま来たんだ」 「帰ったら遅れるだろ」 「真面目だなあ」
 そう言って笑った紬が、理都の頭の上を見た。
「あと、寝癖」 「……マジで?」 「マジ」 「最悪」 「ちょっと待って」
 紬はそう言って、理都の後頭部にそっと手を伸ばした。  指先が髪に触れる。  それだけで理都の肩がびくっと跳ねた。
「うわ」 「そんな驚く?」 「急に触るなよ」 「寝癖直してるだけだろ」 「分かってるけど」 「よし、たぶんまし」 「たぶん?」 「さっきよりは」 「信用ならない」
 紬は笑う。  理都は耳が熱くなるのを感じながら、視線を逸らした。
 少し離れた柱の陰で、一景が小さく呟く。
「開始二分でこの破壊力か」 「白嶺、寝癖つけたまま来たの強すぎん?」  蓮が肩を震わせる。 「学校のかばんも持ってる」  深也が眠そうな声で言う。 「見れば分かる」  一景が低く返した。
 そこで蓮がつい、「いやあまりにも白嶺」と少し大きめに漏らしかけた。  一景が即座に蓮の口を塞ぐ。  その拍子に深也が一景の背中に軽くぶつかった。
 ごとっ、と柱に当たる音がした。
 理都がびくっとして後ろを振り返る。
「……何か音しなかった?」 「え?」  紬も振り返りかける。
 一景はとっさに柱の横の観光パンフレット棚を手に取り、蓮の顔面に押しつけた。  深也は意味が分からないまま、一景の陰に収まる。
「気のせいじゃない?」  紬が言う。 「……ならいいけど」  理都は少しだけ不審そうな顔をしたが、結局そのまま前を向いた。
 柱の陰で、蓮が小声で抗議する。
「一景、息できん」 「お前が声出すからだろ」 「いや今のはだいぶ危なかった」 「蓮、うるさい」  深也がぼそっと言う。 「浅葉までそれ言う?」 「言う」  一景は深くため息をついた。
「今日は静かにしろ。本当に」 「はいはい」 「たぶん無理」 「お前もだ、浅葉」
 水族館に着くまでの道でも、理都は何度か変な挙動をした。
 信号待ちで紬に急に話しかけられるたびに少し肩が跳ねる。  道案内のスタッフに「本日の整理券はこちらです」と言われて本気でビクッとする。  券売機の前で財布を出すのにもたつく。  もたついたあげく、ポイントカードの束を一回全部落とす。
「白嶺、落ち着けって」 「落ち着いてる」 「今それ言う?」 「……落ち着いてない」 「うん、知ってる」
 そう言いながら紬が一緒にカードを拾ってくれるので、理都は余計にいたたまれなくなる。
 ゲートをくぐって薄暗い館内に入ると、ようやく少しだけ呼吸がしやすくなった。  青い水槽の光と、低いアナウンスの音が人の視線を散らしてくれる。
「白嶺、分かりやすいな」  紬が言う。 「何が」 「ちょっと落ち着いた」 「……まあ」 「水族館でよかった?」 「まあ」 「それ便利だな、最近の返事」 「うるさい」
 最初の大水槽の前で二人は並んで立ち止まる。  魚の群れが光を返しながら頭上を流れていく。  理都はそれを見上げて、小さく息を吐いた。
「これは普通にすごい」 「うん」 「ずっと見てられる」 「白嶺、こういうの好きそうだと思った」 「生き物だから?」 「それもある」 「それも、って何」 「静かなとこで、ぼーっと見るの好きそう」 「……当たってる」 「やっぱり」
 後ろの柱の陰では、三人もその大水槽を見ていた。  見ていたというより、一応隠れているつもりだった。
「普通に水族館楽しんでるな、あの二人」  蓮が言う。 「お前も楽しそうだけど」  一景が返す。 「いや、これはちょっとすごいだろ」 「クラゲいる?」  深也が別方向を見ながら言う。 「今そっち行くな」  一景が制する。 「まだここ?」 「まだここだ」
 そのやりとりの最中、深也が本当にクラゲの展示の方へふらっと歩き出した。  蓮が慌てて肩を掴む。  その勢いで足元の案内ロープに引っかかって、蓮が少しよろけた。
「うわ」  小さく声が漏れる。
 理都がまた振り返りかける。
「白嶺、見て」  紬がすぐに水槽の右上を指さした。 「エイ、上通る」 「……ああ」
 理都の視線がそちらに戻る。  一景は本気で冷や汗をかきながら、蓮の襟首を引っ張った。
「お前、何回危ないことするんだ」 「今のはロープが悪いだろ」 「案内ロープに負けるな」 「一景、怒ってるね」  深也がぼそっと言う。 「そりゃ怒る」 「ごめんって」  蓮が小声で謝った。
 展示を進む途中、紬は理都にいろいろ話しかける。  理都も、水槽の前だと少しだけ言葉が増えた。
「これ、なんて魚?」 「チンアナゴ」 「それは分かる」 「じゃあ何で聞くんだよ」 「確認」 「確認するな」 「じゃあ、こっち」 「それは……」 「ん?」 「……別に」 「いや、今絶対説明しかけたよな?」 「聞こえなかったならいい」 「よくない。そこまで言ったなら最後まで聞かせて」 「……ハタタテダイ」 「おお」 「たぶん」 「今のはたぶん付けるんだ」 「うるさい」
 ボソボソ喋ったせいで何度も紬に聞き返され、そのたびに理都は少し不機嫌になる。  でも紬はそれを面白がるばかりで、嫌がる様子はない。
「白嶺、歩くときちょっと丸くなるよな」 「は?」 「姿勢」 「普通だろ」 「全然普通じゃない。今ちょっと警戒してる猫みたい」 「お前、その例え好きだな」 「合ってるし」 「合ってない」 「じゃあ、もうちょい肩開いて」 「無理」 「なんで」 「意識すると余計変になる」 「それはちょっと分かる」 「分かるなら言うなよ」
 タッチプールの前では、二人とも結局触らなかった。  理都は最初から拒否で、紬も「白嶺がやらないならいいや」とすぐに引いた。
「白嶺」 「なに」 「せっかくだし、写真一枚撮る?」 「……は?」 「いや、普通に記念」 「別に記念するほどでも」 「初デートだろ」 「言うなよそういうの」 「なんで」 「意識するから」
 紬が小さく笑う。
「じゃあ余計に撮ろう」 「なんでそうなる」 「嫌?」 「嫌っていうか」 「じゃあ、はい」
 紬は近くを通ったスタッフに頼んでしまった。  理都は本気で固まる。
 水槽を背景に並ばされる。  立ち位置が分からない。  距離感も分からない。  しかも学校指定のかばんを肩から下げたままだと、紬が小さく言った。
「白嶺、かばん」 「……あ」
 理都は慌てて肩から下ろした。  その動きがあまりにもぎこちなくて、紬が吹きそうになる。
「もうちょい普通に立てる?」 「普通って何だよ」 「今かなり固い」 「無理言うな」 「じゃあせめて笑って」 「もっと無理」
 結局、理都はぎりぎり引きつっていない程度の顔で写った。  紬はあとで見返して「思ってたよりちゃんと写ってる」と笑い、理都は「二度とやらない」と本気で言った。
 それを少し離れた売店の影から見ていた蓮が、思わず「うわ、初デート感つよ」と漏らした。
 理都がぴくっとして振り返る。  深也がそのタイミングで普通に手を上げかけた。
 蓮が慌ててその手首を掴む。
「なんで止めるの」  深也が小声で言う。 「今のはだめ」 「知り合いなら手振ってもいいでしょ」 「だめ。今はだめ」 「意味分かんない」 「俺も意味分かんないけどだめ」 「お前ら」  一景が低い声を出す。 「次見つかったら本気で帰るからな」 「はい」 「たぶん」 「浅葉、お前もはいって言え」
 アシカショーではさらに危なかった。
 二人が前から数列目に座り、その少し後ろに三人も座る。  距離としては安全圏のはずだった。
 はずなのに、ショーが始まる前に蓮が深也に渡そうとした飲み物の蓋がずれて、少しこぼれた。
「冷た」  深也が言う。 「ごめん、ごめん、待って」  蓮が慌ててハンカチを出す。 「今こぼす?」  一景が小声で言う。 「しょうがないだろ」 「しょうがなくない」
 そのバタつきで座席が少し鳴った。  紬が「なんか後ろ騒がしくない?」と振り向きかける。  理都もつられて後ろを見る。
 一景はとっさにパンフレットを広げて顔を隠した。  蓮は深也にハンカチを押しつけたまま固まる。  深也だけが「今の、見つかった?」と本気で訊いていた。
「……気のせいか」  理都が前を向く。 「だな」  紬もそれ以上は気にしなかった。
 三人は一斉に息を吐く。
「次やったら帰る」  一景が本気で言う。 「はい」  蓮が小さく返す。 「アシカかわいいね」  深也はまったく違う方向を見ていた。 「お前だけ楽しみ方が普通なんだよ」  蓮が思わず突っ込む。 「だって普通に見たいし」 「だからって声出すな」  一景が言う。 「一景、今日ずっと怒ってる」 「お前らのせいだ」
 アシカショー自体は思った以上に楽しかった。  理都も紬も、演技とか芸とかに素直に見入っていた。  最後に水しぶきが飛んで、紬が少しだけ身を引いた拍子に肩が触れる。  理都はまた心臓を跳ねさせる。
「ごめん」 「……別に」 「今ちょっと固まった?」 「固まってない」 「固まってた」 「うるさい」 「でも、そういうとこ好き」 「そういうの平然と言うな」
 ショーが終わって、五人はそれぞれ少し立ち上がるタイミングがずれた。  理都と紬が通路側へ出ようとしたとき、後ろから蓮が深也の腕を軽く引いた。
「浅葉、そっちじゃなくてこっち」 「え、なんで」 「出口逆」 「どっちでもいいから騒ぐなよ」  一景が言う。 「一景、今それ言う?」 「事実だろ」 「もういい、行くぞ」
 そこで深也が、前にいる理都を見て何の気なしに言った。
「理都」
 理都が振り返る。  その横で紬も振り返る。
 数秒、沈黙が落ちた。
 理都の目の前には、通路の途中で固まった一景、気まずそうに口を閉じた蓮、何も分かっていない顔の深也がいた。
「……何してんだお前ら」  理都が低く言う。
 終わった。  一景はそう思った。  蓮は「いやこれ違くて」と口を開きかける。  深也だけが普通に手を上げた。
「見つかったね」 「見つかったね、じゃないんだよ!」  蓮が小声でつっこむ。
 紬が少しだけ目を見開いて、それから肩を震わせた。
「え、もしかして」 「違う」  一景が即答した。 「何が」 「たまたま同じ水族館にいただけだ」 「今それ通ると思ってんのか」  理都が言う。 「通らないな」  一景は静かに認めた。
 蓮が観念したように頭をかく。
「……まあ、その、ちょっと見守り?」 「何で疑問形なんだよ」 「いや一景が心配しすぎて」 「お前も面白がってただろ」 「それは否定しない」 「深也」  理都が向く。 「お前も知ってたのか」 「途中から」 「止めろよ」 「蓮が楽しそうだったから」
 そこまで言われて、理都は本気でしゃがみこみたくなった。  紬の方を見るのも恥ずかしい。  終わった。いろんな意味で終わった。
 なのに紬は笑っていた。  最初は呆れたように、それから完全に面白くなってしまったみたいに。
「一景、何それ」 「見守りだ」 「保護者みたいなこと言うなよ」 「俺もそう思ってる」  蓮が言う。 「なら来るな」 「それはそう」 「じゃあ帰れ」 「そこまで言う?」 「言うだろ!」
 理都が珍しく声を大きくすると、紬がまた笑った。
「まあまあ」 「まあまあじゃない」 「ここまで来たなら、もう一緒に回ればいいじゃん」 「は?」 「え、いいの?」  蓮が食いつく。 「だめだろ」  理都が即答する。 「でも、今さら隠れられても余計やりにくいし」  紬が言う。 「それは……そうかも」  一景が珍しく同意した。 「理都、一人だけ帰る方が目立つよ」  深也がぼそっと言う。 「お前も今日は敵か」 「敵ではない」 「蓮もいるし」  紬が続ける。 「何その雑なまとめ」 「楽しい方がいいだろ」 「……」
 理都は反論しかけて、でも結局言葉が続かなかった。  たしかに、ここで自分だけ本気で怒って帰るのも違う気がする。  何より、紬が本気で嫌がっていない。  むしろ少し面白がっている。
「……好きにしろ」 「よし」  蓮がすぐに言う。 「今の、だいぶ雑に許したな」  一景が言う。 「許してない」 「でも一緒に回るんだろ」 「……うるさい」
 そこから先の水族館は、妙に賑やかだった。
 五人で売店を見て、五人でクラゲの展示を眺めて、五人で次どこ行くかを決める。  理都は最初こそかなりいたたまれなかったが、途中からもう開き直るしかなくなった。
「白嶺、この魚の名前分かる?」  紬が聞く。 「それはコリドラス」 「へえ」 「理都、ほんと生き物のことになると喋るな」  蓮が言う。 「うるさい」 「でも助かる」  深也が言う。 「お前らまで乗るな」 「理都、今日つっこみ多いね」  紬が笑う。
 蓮は蓮で、相変わらず深也の隣を自然に確保していた。  深也が眠そうに立ち止まると、「次あっちだぞ」と軽く袖を引く。  飲み物を買えば、深也の分も何となく一緒に持ってくる。  一景はその様子を見るたびに小さくため息をついていた。
「蓮、お前、浅葉にだけ親切すぎるだろ」 「は?」 「分かりやすい」 「いや、普通」 「普通ではない」 「深也、何か言って」 「蓮、今日テンションちょっとやわらかいよね」 「お前もそっちつくの?」 「ついてない。思っただけ」 「一番だめなやつだろ」
 五人でわちゃわちゃしているうちに、夕方が近づいてきた。  出口のあたりでは、さすがにみんな少し疲れた空気になる。
「じゃ、俺らはこのへんで」  一景が言う。 「だな」  蓮がうなずく。 「浅葉、このあとどうする?」 「眠い」 「それは知ってる」 「帰る途中で寝るかも」 「危ないからやめろ」 「じゃあ蓮、起こして」 「……おう」
 その返事だけで、蓮はちょっと嬉しそうだった。  一景はそれを見て、また何も言わずに小さく息を吐く。
「今日はありがと」  紬が言う。 「見守りという名のストーキングだったけどな」  理都がぼそっと返す。 「言い方」  一景が眉を寄せる。 「でもまあ、白嶺が思ったより普通に回れてたからよかった」 「お前、ほんと保護者目線だな」  蓮が笑う。 「うるさい」 「一景、今日はありがと」  深也まで普通に言う。 「……お前らに礼を言われる筋合いはない」 「でもうれしそう」 「蓮」 「はいはい」
 そこで自然に三人は別れかけた。  理都も「じゃあ」と言いかけたとき、紬がこちらを見た。
「白嶺」 「なに」 「まだ時間ある?」 「……少しなら」 「じゃあ、もう少しいたい」
 その言い方があまりにも自然で、でも少しだけやわらかくて、理都は返事に一瞬詰まった。
「……どこ行く」 「近くの公園、寄らない?」 「公園?」 「嫌?」 「嫌じゃない」
 嫌なわけがない。  理都は小さく喉を鳴らした。
「じゃあ、ちょっとだけ」 「うん」
 三人はそのやりとりを見て、今度こそちゃんと空気を読んだ。  蓮が一景を見てにやっとする。  一景は何も言わず、ただ「もう本当に行くぞ」とだけ言った。  深也は「じゃあまた」と眠そうに手を振る。
 三人と別れて、理都と紬は夕暮れの公園へ向かった。
 水族館から少し歩いた先にある、小さな公園だった。  遊具は少なくて、ベンチと木があって、夕方の光がやわらかく差している。子どもたちが帰ったあとの静けさが、なんとなく心地よかった。
「座る?」  紬が言う。 「……その前に」 「ん?」 「飲み物、買ってくる」 「あ、じゃあ僕も行く」 「いい。座ってろ」 「何で」 「……何かしてないと落ち着かない」    理都が正直に言うと、紬は少しだけ笑った。
「分かった。じゃあ待ってる」
 理都は公園の端にある自販機まで行った。  何を買うかで無駄に迷う。  コーヒーは苦いかもしれない。炭酸は落ち着かない。甘いのは子どもっぽい気がする。  結局、無難なお茶と、少し甘めのミルクティーを買った。
 戻ると、紬はベンチに座って夕焼けの空を見ていた。  その横顔を見た瞬間、理都は少しだけ息を止める。
「ほら」 「あ、ありがと」 「どっちがいい」 「じゃあ、こっち」  紬はミルクティーを選んだ。
 二人でベンチに座る。  さっきまでのにぎやかさが嘘みたいに静かだった。
 缶を開ける音が、小さく響く。  遠くで車の音がして、木の葉が少しだけ揺れる。  空はオレンジと薄い青が混ざっていて、今日が終わりに近づいているのが分かった。
「今日は楽しかったな」  紬が言う。 「……思ったより、ちゃんとデートだった」 「思ったよりって何だよ」 「いや、最初の時点で終わったと思ったし」 「学校かばん?」 「それも」 「寝癖も?」 「それも」 「あと、びくびくしすぎ」 「お前が急に触るからだろ」 「直してあげただけなのに」 「分かってる」 「でも、ちゃんと来てくれたし」 「……来るだろ」 「うん。それ、うれしかった」
 またそういうふうに言う。  理都は缶を持ったまま、少しだけ下を向いた。
「五人になった時は本気で帰りたかったけど」 「知ってる」 「笑うな」 「でも、後半も楽しかったろ」 「……まあ」 「僕も楽しかった」 「それならいい」
 そう言ってから、理都は少しだけ隣を見る。  紬も同じタイミングでこちらを見た。
 視線が合う。
 会話がいったん途切れる。  でも気まずくはなかった。  ただ、妙に静かだった。
 紬は少しだけ笑って、それからゆっくりと目を閉じた。
 理都の思考が、その瞬間止まった。
 え。  いや、待て。  今、そういうやつか。  そういう流れなのか。  いやでも目閉じてるし。  これ、どう考えてもそういう意味だろ。  しなかったら最悪では。  でもしたらしたで死ぬ。  無理だろ。  いや無理じゃない。  お前、付き合ってるだろ。  隣にいるってもう決めたんだから。  ここで逃げたら、それこそだめだろ。
 理都は無意識に息を止めていた。  喉がからからになる。  心臓の音がうるさい。  でも紬は、静かに待っている。
 理都はほんの少しだけ身を乗り出した。  距離が近づく。  紬のまつ毛が見える。  夕焼けの色が頬に落ちて、やわらかく染まっていた。
 行け。  もう、行け。
 理都はぎりぎりで目を閉じて、そっと唇を重ねた。
 本当に触れるだけみたいな、短いキスだった。  自分でも、ちゃんとできたのか分からないくらい一瞬だった。
 離れたあと、理都はそのまま固まった。  全身の熱が一気に顔へ集まってくる。
 終わった。  いろんな意味で終わった。  ちゃんとできてたのか。  変じゃなかったか。  息、変じゃなかったか。  何も分からない。
 紬がゆっくり目を開ける。  それから、少しだけうれしそうに笑った。
「……したな」 「うるさい」 「白嶺、顔やばい」 「うるさい」 「真っ赤」 「言うな」 「でも、ちゃんとしてた」 「……」 「ありがとう」
 そのありがとうは反則だろ。  理都はベンチの背にもたれそうになって、ぎりぎり耐えた。
「礼言うなよ」 「なんで」 「余計無理になる」 「じゃあ、好きって言えばいい?」 「今それ言うのも無理」 「わがままだな」 「お前が平然としすぎなんだよ」 「平然としてるように見える?」 「見える」 「してないよ。僕だって緊張した」
 紬は少しだけ缶を握り直した。
「でも、白嶺がしてくれるなら、ちゃんと待ちたかった」 「……」 「してくれてよかった」
 理都はもう返事ができなかった。  ただ、胸の奥だけがずっと熱い。
 夕焼けの光が少しずつ薄くなっていく。  公園のベンチに並んだまま、二人はしばらく何も言わなかった。
 何も言わなくても、さっきまでよりずっと近い感じがした。
 理都は缶を持ったまま、小さく息を吐く。  それから、思い切ってもう一度だけ紬の方を見た。
「……今日は、ほんとに楽しかった」 「うん」 「最初はどうなるかと思ったけど」 「学校かばんの時点で?」 「それは忘れろ」 「無理」 「寝癖も忘れろ」 「もっと無理」 「最悪」 「でも、そういう白嶺ごと好きだから」
 またそういうことを言う。  理都は顔を覆いたくなったが、さっきより少しだけ、その言葉を受け止められる気がした。
「……帰るか」 「うん」 「遅くなるし」 「そうだな」
 立ち上がって、公園を出る。  帰り道は行きより静かだった。  でもその静けさは、前みたいな気まずさではない。
 駅へ戻る途中、理都は小さく思った。
 初デートは、思っていたよりずっと事故だらけだった。  寝癖もあったし、学校かばんも持ってきたし、びびるし、聞き返されるし、途中で見守り三人組に見つかるし、どう考えても完璧ではない。
 でも、たぶんそれでよかった。  完璧じゃないままでも、隣にいられる。  そういうことを、今日ひとつ知れた気がした。