きみと指揮する青の時間

 本番当日の朝、理都は目が覚めた瞬間から胃が重かった。
 眠れなかったわけではない。何度か目が覚めたし、夢もろくでもなかった気がするけれど、一応は寝た。寝たはずなのに、体の芯にずっと緊張が残っている。布団の中で天井を見上げたまま、今日が来てしまったのかと思った。
 合唱コンクール当日。
 逃げるつもりは、もうない。  昨日、部室で紬にあれだけ言われて、それでも逃げたら本当に終わる。  分かっている。  分かっているけれど、分かったからといって急に平気になれるわけじゃない。
 学校へ向かう道の途中でも、理都は何度も息を整えた。  吸って、吐いて、また吸う。  意味があるのか分からないくらい浅い呼吸だったけれど、それでも何もしないよりはましだった。
 教室に入ると、いつもより早い時間なのに人が多かった。  女子たちは髪型がいつもより整っていて、男子もなんとなくそわそわしている。蓮なんかは朝から元気で、「今日マジでいける気する」と大声で言っていた。その声に誰かが笑って、一景が「朝からうるさい」と淡々と返す。
 深也はというと、席で眠そうにしながらも、いつもよりはちゃんと起きていた。  理都が席につくと、深也がちらりと見る。
「顔色悪いね」 「うるさい」 「大丈夫?」 「大丈夫じゃない」 「正直でいい」 「今日は嘘つける余裕もない」 「じゃあ仕方ない」
 そこで会話が終わるのが、深也らしい。  理都は少しだけ肩の力を抜いた。
 しばらくして、紬が教室へ入ってきた。  手には伴奏用の楽譜ファイルがある。いつも通りちゃんと整えられた髪と、少しだけ引き締まった顔。教室の何人かが「駒咲くん今日頼むね」とか「伴奏ほんとすごいよね」と話しかけていたが、紬はやわらかく返しながらも、どこか少しだけ集中した空気をまとっていた。
 紬の視線が、ふと理都を見つける。  それだけで理都の胸が小さく跳ねた。
 紬は人の波を抜けて、理都の席まで来た。
「おはよう」 「……おはよ」 「顔、緊張してる」 「そりゃするだろ」 「うん、してる」
 紬はそう言って、少しだけ笑った。  笑われたのに、変な居心地の悪さはない。
「でも、大丈夫」 「何の根拠で」 「僕が弾くから」 「それ、昨日も聞いた」 「じゃあ、もう一回聞いとけ」
 理都は思わず少しだけ口元をゆるめた。  それを見て、紬も少しだけ安心したように目を細める。
「白嶺」 「なに」 「ちゃんと見るから」 「……うん」
 それだけで十分だった。  たぶん今日の理都には、長い励ましなんていらなかった。
 会場へ移動してからは、あっという間に時間が過ぎた。  他のクラスの歌声。ざわめく客席。ステージ袖の独特の匂い。譜面を確認する教師の足音。  全部が現実感のないまま、でもやけにはっきり耳に入ってくる。
 二年三組の出番が近づくにつれて、クラスの空気も静かに張っていった。  女子たちは互いに服装の乱れを直し合い、男子もそれぞれ無言になる時間が増える。蓮だけは最後まで落ち着きがなく、「いやでもマジで今日いけるって」と言っていたが、その声も少しだけ乾いていた。
 整列の直前、深也が理都のそばまで来る。
「理都」 「……なに」 「今さらだけど」 「うん」 「たぶん、ちゃんと大丈夫」 「お前のたぶんは精度低い」 「でも今のはいつもより高い」 「……なら、まあ」 「うん」
 短い会話だった。  でも、理都の指先の震えは少しだけましになった。
 舞台袖からステージへ出る瞬間、客席の広さが一気に目に入った。  理都は一瞬だけ呼吸を止める。  無理だ、と思いかける。  そのとき、ピアノの前に向かう紬がほんの少しだけ振り返った。
 目が合う。
 言葉はない。  でも、その一瞬で理都は息を吸い直した。
 立つ。  前に出る。  振る。
 もう、それだけをやるしかない。
 理都は指揮台の前に立った。  客席は見ない。  見ると無理になる。  目に入るのはクラスの顔と、ピアノの前に座る紬の横顔だけでいい。
 伴奏の最初の音が鳴る。
 紬のピアノは、何度も合わせたときと同じ音だった。  だから理都は、その音に背中を押されるように手を上げた。
 歌が入る。
 最初の数小節は、ほとんど記憶がない。  ただ、振って、呼吸して、耳を澄ませる。  途中で少しだけ男子の入りが遅れそうになって、理都は無意識に左手を少し大きく使った。  ちゃんとついてくる。  サビ前、一拍だけ溜める。  女子がその意図を汲んで、入りがそろう。
 今まで何度も崩れかけたところが、今日は崩れない。
 理都はそこでようやく、自分の手がクラスに届いている感覚を知った。
 紬のピアノが後ろから押してくる。  深也の低音が思ったよりまっすぐ通る。  蓮も、少し危ういところはありながら、今日はちゃんと声を乗せている。  一景の安定した音が男子パートを支えて、女子たちもそれぞれの強さをちゃんと曲にしていた。
 みんなの声が、ひとつの流れになっていく。
 その中心にいるのが、自分だということが信じられなかった。
 怖さは最後まで消えなかった。  でも、怖いまま振っていた。  それでも曲は進む。  進んでしまう。  そして気づいたときには、最後の和音だった。
 理都は最後の動きをしっかり止める。  音が消える。  数秒の静寂のあと、客席から拍手が湧いた。
 その音を聞いた瞬間、理都の胸の奥がじわっと熱くなる。  うまくいったのかどうか、まだ客観的には分からない。  でも、今までで一番ちゃんと歌えたことだけは分かった。
 舞台袖へ戻った途端、クラスの空気が一気にほどけた。
「やば、今のめっちゃよくなかった?」 「え、普通に感動したんだけど」 「男子ちゃんと声出てた!」
 女子たちが一気に喋り出す。  蓮は「俺、今日わりとやれたくね?」と胸を張り、一景に「自己評価だけ高いな」と切られていた。  深也は深也で、少しだけ眠そうな顔のまま拍手をしている。
 理都はそこから少し遅れて、ピアノから立ち上がった紬を見る。  紬も理都を見た。  その目が、うれしそうに少しだけ細くなる。
「白嶺」 「……なに」 「ちゃんとできたじゃん」 「お前も」 「うん」
 そこでまた言葉が途切れる。  でも、もうそれで十分だった。
 結果発表は、他のクラスの合唱が終わってからだった。  待ち時間が一番しんどかった。歌い終わった直後の熱が少しずつ冷めていって、その代わりに別の緊張が戻ってくる。
 理都は自分の膝に手を置いたまま、下を向いていた。  蓮はまだ喋っている。  一景は呆れながらもちゃんと相手をしている。  紬は静かに前を見ていた。  深也は途中で一回ほんとに舟を漕ぎかけて、理都に肘でつつかれていた。
 やがて、司会の声が会場に響く。
「金賞、二年三組」
 一瞬、何が起きたのか分からなかった。  会場が沸いて、クラスが立ち上がって、蓮が「うわ、マジか!」と叫んで、その声でようやく現実になる。
「やった!」 「嘘、うれしい!」 「先生、焼肉!」
 女子たちが笑いながら騒ぎ、担任が「約束だからな!」と無駄に誇らしげな顔をしている。  理都はただ呆然としていた。
「理都」    深也が小さく袖を引く。
「金賞」 「……らしいな」 「よかったね」 「……うん」
 自分の声が少しだけ震えているのが分かった。

 焼肉バイキングは、その日の放課後だった。  担任が「言った以上はすぐ連れてく」と本当に予約していたらしい。  クラス全員で店に流れ込むみたいに入っていく。
 理都は正直、かなり疲れていた。  でも今日は、前みたいに完全に場違いではなかった。  それが少し不思議だった。
「白嶺、肉取る?」    蓮がトングを片手に聞いてくる。  理都は少しだけ目を丸くした。
「……自分で行ける」 「いや、ついで」 「じゃあカルビ」 「了解。浅葉、お前は?」 「んー、適当で」 「適当が一番困るんだけど」 「じゃあ、蓮が好きそうなの」 「それもう俺の好みじゃん」
 そう言いながら、蓮はちゃんと深也の分も取ってくる。  一景がそれを見て、静かに言った。
「お前、浅葉にだけ世話焼きすぎだろ」 「は?」 「見てれば分かる」 「別に普通だけど」 「普通ではないな」 「白嶺まで何でそっちつくんだよ」 「いや、見てれば分かるし」 「浅葉、お前なんとか言って」 「蓮、焼くのうまいね」 「……え」
 蓮が一瞬、止まった。  その間が分かりやすすぎて、一景が小さく吹きそうになる。
「ほら」 「うるさいな」 「いや、今のはお前が分かりやすすぎる」 「何の話だよ」 「別に」
 深也は意味が分かっているのかいないのか、普通に肉を受け取って食べている。  蓮だけが妙に落ち着かなくなっていて、それが少し可笑しかった。
 女子たちは女子で、向こうの席でにぎやかに盛り上がっていた。  誰が泣きそうになっていたとか、どのクラスの歌がすごかったとか、先生に何を食べさせるかとか、話題が次々飛ぶ。  担任は「食べ放題だからって元取る気で来るな」と言いながら、自分もかなり肉を取っていた。
 紬は理都の向かいの席に座っていた。  たまに目が合う。  そのたびに軽く笑う。  ただそれだけなのに、理都は変に落ち着かなくなる。
「白嶺、全然食べてなくない?」 「食ってる」 「さっきから野菜しか見えない」 「最初に野菜から行く派」 「そんな健康志向だった?」 「違う」 「じゃあ何」 「……肉焼けるまでのつなぎ」 「素直だな」
 紬はそう言って笑った。  理都は視線を逸らしながら、焼けた肉を一枚皿に移す。
 うるさい店内。  クラスの笑い声。  肉の匂い。  いつもなら確実に疲れるはずの空間なのに、今日はそこまで息苦しくなかった。
 むしろ、終わったんだ、という実感が少しずつ広がっていく。
 合唱コンクールが終わった。  もう練習しなくていい。  昼休みに合わせなくていい。  放課後にあれこれ考えなくていい。
 その事実にほっとする気持ちと、なぜか胸の奥が少しだけ空く感じが、同時にあった。
 理都はそこで、自分が何に寂しさを感じているのか、ようやく分かりかけた。
 練習がなくなる。  つまり、紬とああやって自然に一緒にいる理由も、もうなくなる。
 そのことを考えた瞬間、妙に息が詰まった。
「白嶺?」    紬の声で、理都は我に返る。
「……なに」 「ぼーっとしてた」 「肉見てた」 「それにしては深刻な顔だったけど」 「気のせい」 「今日、それ多いな」
 紬は少し不思議そうに笑った。  その顔を見て、理都はますますどうしていいか分からなくなる。
 少しして、理都は席を立った。
「どこ行く?」  一景が聞く。 「……ちょっと外」 「逃げるなよ」 「逃げない」 「ならいい」
 店の外に出ると、夜風が少し冷たかった。  焼肉の匂いが服に染みついている気がする。店内の騒がしさが扉一枚で少し遠くなって、理都はようやくまともに息を吐けた。
 どうする。  何をする。  別に、最初から何か言うつもりで出てきたわけじゃない。  ただ、あの空気の中にいたら、変なまま息ができなくなりそうだっただけだ。
「白嶺」
 後ろから声がして、理都は振り返る。
 紬だった。  やっぱり、と思う自分がいる。  来てほしかったのかもしれない。
「なんだよ」 「なんだよ、はひどくない?」 「別に」 「またそれ」    紬は店の壁にもたれるみたいに立って、理都を見た。
「一人で大丈夫かと思って」 「子どもじゃない」 「分かってる」
 それから少しだけ間があく。  店の中から、クラスメイトの笑い声が漏れてくる。
「終わったな」    理都が先に言った。  紬は少しだけ目を細める。
「うん」 「合唱」 「そうだな」 「……もう、練習しなくていいんだな」 「まあ、そうなる」
 紬の返事は軽かった。  でもその声の端に、少しだけ寂しさみたいなものが混じった気がした。
 理都はそれを聞いて、胸の奥が少しだけ強く痛む。  自分だけじゃないのかもしれない。  そんな期待をしてしまう自分が、もうだめだと思った。
「白嶺?」 「……俺」 「うん」 「お前がいたから、できた」
 言ったあとで、理都は自分の喉が熱くなるのを感じた。  紬は何も言わずに聞いている。
「最初はほんとに無理だったし、今もたぶんそんな得意じゃないし」 「うん」 「でも、お前がいたから、逃げずに済んだ」 「……」 「お前が弾くって言うから、逃げたら終わると思ったし」 「うん」 「それに、隣にいるのが」    そこで理都は一度言葉を切った。  やめろ、と思う。  ここで止めればまだ引き返せる。  でも、もうここまで言ってしまったら、たぶん無理だった。
「……当たり前みたいになってた」
 紬の目が少しだけ揺れる。
「合唱が終わったら、もうこういうのないんだって思ったら」 「……」 「なんか、無理だった」
 店の明かりが、紬の横顔をやわらかく照らしていた。  理都はもう視線を逸らせなかった。
「俺、たぶん」    違う。  たぶんじゃない。
 理都は一度だけ息を吸った。
「……いや、たぶんじゃなくて」 「うん」 「お前のこと、好きだ」
 言ってしまった。  言った瞬間、理都の頭の中は真っ白になった。  逃げたい。  でももう遅い。
 紬はしばらく何も言わなかった。  その数秒で、理都の心臓はありえないくらい音を立てる。
 やばい。  終わった。  何か言え。  でも何を。
 そんなふうに理都が勝手に追い詰められているうちに、紬はゆっくりと息を吐いた。  それから、少しだけ泣きそうな、でもすごくやわらかい顔で笑った。
「遅い」 「……は?」 「気づくの、遅い」
 理都は呆然とする。  紬はそのまま、少しだけ顔を近づけた。
「僕も好きだよ」 「……」 「ずっと、って言うと重いかもしれないけど」 「……」 「かなり前から、たぶんそうだった」
 理都は何も言えなかった。  言葉が出ない。  出るわけがない。
「白嶺が中庭で虫追いかけてたときから、ちょっと変だったし」 「それ最初だろ」 「うん」 「早すぎるだろ」 「自分でも思う」
 紬は少し笑った。  その笑い方が嬉しそうで、理都の胸の奥がじわじわ熱くなる。
「ほんとに?」 「何回言わせるんだよ」 「だって、白嶺、今すごい信じてなさそう」 「……信じきれてない」 「じゃあ、もっと言う?」 「……」 「好きだよ、白嶺」
 そんなふうに真っ直ぐ言われると、理都の方が耐えられない。  理都は思わず顔を手で覆いそうになって、ぎりぎりで止めた。
「やめろ」 「なんで」 「心臓に悪い」 「知らないよ」 「お前だろ原因」 「それはそうかも」
 また笑う。  その声すら今は甘く聞こえてしまうのが悔しい。
 少しだけ沈黙が落ちる。  でも、さっきまでの沈黙とはまるで違った。  気まずくない。むしろ、変にやさしい。
 理都はおそるおそる手を伸ばした。  自分でも何をするつもりかよく分からないまま、紬の手の甲に指先が触れる。  紬は少しだけ目を丸くして、それからそのまま指を絡めてきた。
 手、つながれた。  その事実に理都の思考が少し止まる。
「白嶺」 「……なに」 「今、顔やばい」 「うるさい」 「照れてる」 「うるさい」 「かわいい」 「黙れ」
 でも、手は離せなかった。  紬も離さない。  そのまま、二人で少しだけ笑った。
 店の扉が開いて、遠くから蓮の声が聞こえる。
「おーい、二人とも何してんのー!」
 理都はびくっとした。  紬は吹き出す。
「戻るか」 「……戻るのか」 「戻らないと、あいつ絶対来る」 「最悪」 「でも、ちょっと面白い」 「俺は面白くない」
 そう言いながらも、理都の口元は少しだけゆるんでいた。
 扉の前まで戻って、つないでいた手を離す。  その瞬間、少しだけ名残惜しいと思ってしまって、理都はまた自分で驚いた。
 紬がその顔を見て、小さく笑う。
「あとで連絡する」 「……うん」 「今度は合唱の連絡じゃなくて」 「……うん」
 理都はそれだけ返すのが精いっぱいだった。
 店の中へ戻ると、蓮がにやにやした顔でこっちを見る。  一景は半分呆れたような顔で焼き網を見ていて、深也は肉を食べながらぼんやりしていた。
「遅くね?」  蓮が言う。 「外の空気吸ってただけ」  紬が平然と返す。 「二人で?」 「たまたま一緒だった」 「へえー」 「瀬尾」  一景が低い声を出す。 「分かった分かった、今は言わないって」 「今は、って付けるな」
 そのやりとりを聞きながら、理都は自分の席に戻った。  席について、箸を持って、目の前の肉を見る。  全部いつも通りの動作のはずなのに、何もかもが少し違って見えた。
 ふと顔を上げると、紬が向かいで笑っていた。  今までと同じ顔なのに、もう全然同じには見えない。
 理都は小さく息を吐いて、それから少しだけ目を逸らした。
 合唱コンクールは終わった。  焼肉バイキングも、たぶんもうすぐ終わる。  でも、ここから先は終わりじゃない。
 むしろ、やっと始まるのかもしれない。
 そのことを思うだけで、胸の奥がまた少しだけ熱くなった。