本番当日の朝、理都は目が覚めた瞬間から胃の重さを感じていた。
眠れなかったわけではない。何度か中途半端に目は覚めたし、夢もろくでもない内容だった気がするけれど、一応は寝た。
寝たはずなのに、体の芯には逃げ場のない緊張が澱のように沈んでいる。布団の中で天井を見上げたまま、とうとう今日が来てしまったのだと、他人事のように思った。
合唱コンクール、当日。
逃げるつもりは、もうない。
昨日、部室であれだけ紬に言われて、それで逃げ出したら自分は一生自分を許せないだろう。
分かっている。理屈では、痛いほど分かっている。
けれど、分かったからといって急に心臓が鋼になるわけじゃない。
学校へ向かう道の途中でも、理都は何度も深呼吸を繰り返した。
吸って、吐いて、また吸い込む。
意味があるのか分からないほど浅い呼吸だったけれど、それでも何もしないよりはましだった。
教室に入ると、いつもより早い時間なのに人の熱気が充満していた。
女子たちは髪型を念入りに整え、男子もどこかそわそわと落ち着かない。蓮などは朝からフルスロットルで、「今日マジでいける気がする!」と騒ぎ立てていた。その声に誰かが笑い、一景が「朝からうるさい」と淡々とたしなめる。
深也はというと、席で眠そうにしながらも、いつもよりは幾分まともに目を開けていた。
理都が席につくと、深也がちらりと視線を寄越す。
「顔色、悪いね」
「……うるさい」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「急に正直」
「今日は、嘘をつく余裕すらないだけ」
「じゃあ、仕方ないね」
そこで会話が途切れるのが、いかにも深也らしかった。
理都はほんの少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
しばらくして、紬が教室に入ってきた。
手には伴奏用の楽譜ファイル。いつも通り整えられた髪と、わずかに引き締まった横顔。
クラスの何人かが「駒咲くん、今日頼むね」「伴奏、マジですごいもんね」と声をかけていた。紬はやわらかく応じながらも、どこか静かに研ぎ澄まされた空気をまとっている。
不意に、紬の視線が理都を捉えた。
それだけで、理都の胸がトクンと小さく跳ねる。
紬は人の波を器用に抜けて、理都の席まで歩み寄ってきた。
「おはよう」
「……おはよ」
「顔、緊張してるね」
「……そりゃ、するだろ」
「うん、してる」
紬はそう言って、悪戯っぽく少しだけ笑った。
笑われたのに、不思議と嫌な気はしない。
「でも、大丈夫だよ」
「何の根拠があって言ってるんだよ」
「僕が弾くから」
「……それ、昨日も聞いた」
「じゃあ、もう一回聞いといて」
理都は思わず、わずかに口元を緩めた。
それを見て、紬も安心したように目を細める。
「白嶺」
「なに」
「ちゃんと見てるから」
「……ん」
それだけで十分だった。
今の理都には、どんな美辞麗句よりもその一言が、何よりの道標だった。
会場へ移動してからは、瞬く間に時間が過ぎ去った。
他クラスの歌声、ざわめく客席、ステージ袖に漂う独特の埃とワックスの匂い。
すべてが現実感のないまま、けれど鼓膜にはやけに鮮明に突き刺さる。
二年三組の出番が近づくにつれ、クラスの空気は冷たく張り詰めていった。
女子たちは互いの襟元を直し合い、男子も無言になる時間が増える。蓮だけは最後まで「いけるって!」と鼓舞していたが、その声も少しだけ乾いて響いた。
整列の直前、深也が理都のそばに寄ってきた。
「理都」
「……なに」
「今さらだけど」
「うん」
「たぶん、大丈夫」
「お前の『たぶん』は、普段は精度が低いんだよ」
「でも、今のはいつもより高い気がする」
「……なら、まあ、信じてやる」
「うん」
短いやり取り。
けれど、理都の指先の震えは、確実に小さくなっていた。
舞台袖からステージへ足を踏み出した瞬間、視界がぶわっと開け、客席の広さが目に飛び込んできた。
理都は一瞬、息を止める。
(無理だ――)
そう思いかけた、その時。
ピアノの前に向かう紬が、ほんの一瞬だけ、肩越しに振り返った。
目が合う。
言葉なんてなかった。けれど、その一瞬で理都は肺いっぱいに空気を吸い直した。
立つ。前に出る。振る。
もう、それだけだ。
理都は指揮台の上に立った。
客席は見ない。見れば飲み込まれる。
視界に入れていいのは、クラスメイトたちの顔と、ピアノの前に座る紬の横顔。それだけでいい。
伴奏の、最初の一音が鳴り響く。
紬の奏でる音は、何度も合わせたあの時と、寸分違わぬ信頼の音だった。
理都は、その音に背中を押されるようにして、ゆっくりと両手を上げた。
歌が入る。
最初の数小節の記憶は、ほとんどない。
ただ、振り、呼吸し、音の粒子を全身で受け止める。
途中で男子の入りがわずかに遅れそうになった瞬間、理都は無意識に左手で大きく合図を送った。
吸い寄せられるように、声がついてくる。
サビ前、一拍のタメ。
女子がその意図を完璧に汲み取り、入りが鋭く揃った。
練習で何度も崩れかけた場所が、今日は崩れない。
理都はそこで初めて、自分の指先が、意志が、クラス全員に届いている感覚を、肌で知った。
背後から紬のピアノが力強く押し上げてくる。
深也の低音が、驚くほどまっすぐに芯を貫く。
蓮も、危ういながらも必死に声を乗せていた。一景がその土台を支え、女子たちの歌声が鮮やかな色彩を添えていく。
みんなの声が、一つのうねりになって、教室を飛び出し、ホールを満たしていく。
その奔流の中心に、自分がいる。
怖さは最後まで消えなかった。けれど、怖いまま振ることはできた。
そして気づいたときには、最後の和音がホールに溶け込んでいた。
理都は、最後の残響を断ち切るように、手の動きを止めた。
音が消える。
数秒の、真空のような静寂。
その後、割れんばかりの拍手が客席から湧き上がった。
その音を浴びた瞬間、理都の胸の奥が、じわっと熱く震えた。
客観的な良し悪しなんて、今はどうでもよかった。
ただ、今までで一番、自分たちの歌を歌えた。その確信だけがあった。
舞台袖へ戻った途端、クラスの空気は一気に弛緩した。
「やばい、今のめっちゃ良くなかった!?」
「え、普通に感動して泣きそう……」
「男子、めっちゃ声出てたじゃん!」
女子たちが堰を切ったように喋り出し、蓮は「俺、今日かなりやれたよな!?」と胸を張って一景に「自己評価だけは一丁前だな」と一蹴されている。
深也はといえば、眠そうな目のまま、パチパチと控えめに拍手を送っていた。
理都はそこから少し遅れて、ピアノから立ち上がった紬に目を向けた。
紬も、理都を見ていた。
その目が、嬉しそうに細められる。
「白嶺」
「……なに」
「ちゃんと、できたじゃん」
「……お前もな」
「うん」
また、言葉が途切れる。
けれど、もう、言葉なんていらないほどに通じ合っていた。
結果発表。司会の声が、静まり返った会場に響き渡る。
「金賞――二年三組」
一瞬、思考が停止した。
会場がどよめき、クラスが総立ちになる。蓮が「うわ、マジか!」と絶叫し、その声でようやく現実が理都の全身を駆け抜けた。
「やったぁぁぁ!」
「嘘、うれしい、どうしよう!」
「先生、焼肉! 焼肉確定!」
歓喜に沸くクラスメイトたち。担任も「約束だからな!」と感極まった顔をしている。
理都はただ、その喧騒の中で呆然と立ち尽くしていた。
「理都」
深也が、小さく袖を引く。
「金賞、だってさ」
「……らしいな」
「よかったね」
「……ん、ああ……」
返した声が、自分でも驚くほど震えていた。
焼肉バイキングは、その日の放課後だった。
担任が「言った以上は、熱いうちに連れていく」と、本当に強行で予約をねじ込んだらしい。
クラス全員が、勝利の凱旋のように店へとなだれ込む。
理都は、正直に言えば限界まで疲れていた。
けれど今日は、以前のような「場違い感」はどこにもなかった。それが不思議で、少しだけ可笑しかった。
「白嶺、肉取ってくるけどいる?」
蓮がトングを片手に聞いてくる。理都は意表を突かれた。
「……自分で行くよ」
「いいって、ついでだし」
「じゃあ……カルビ」
「おっけー。浅葉、お前は?」
「んー、適当でいいよ」
「適当が一番困るんだよ! 全種類持ってくればいいのか?」
「じゃあ、蓮が好きそうなやつ」
「それもう俺の好みじゃねーか!」
文句を言いながら、蓮はせっせと深也の分まで肉を運んでくる。
一景がその様子を眺めて、ぼそりと呟いた。
「お前、浅葉にだけ世話焼きすぎだろ」
「はあ? んなことねーし」
「いや、見てれば誰でも分かる」
「普通だよ、普通!」
「普通ではないな」
「白嶺まで、何でそっちに加勢してんだよ!」
「いや……実際、見てれば分かるだろ」
「浅葉! お前からもなんか言ってくれよ!」
「蓮、焼くの上手だね」
「…………えっ」
蓮が、金縛りにあったようにフリーズした。
その反応があまりにも分かりやすすぎて、一景がたまらず吹き出す。
「ほらな」
「うるせーよ!」
「いや、今のはお前が素直すぎだろ」
「何の話だよ……!」
深也は意味が分かっているのか、はたまた天然なのか、平然と肉を頬張っている。蓮だけが顔を赤くして落ち着かなくなっているのが、見ていて飽きなかった。
紬は、理都の向かいの席に座っていた。
ふとした瞬間に目が合う。そのたびに、彼が小さく笑う。
ただそれだけのことなのに、理都の胸はじりじりと落ち着かなくなる。
「白嶺、全然食べてないじゃん」
「食ってるよ」
「さっきから皿の上に緑しか見えないけど」
「最初に野菜から食べる派なんだ」
「そんな健康志向だったっけ?」
「違う。……肉が焼けるまでの、つなぎ」
「素直でよろしい」
紬が愉快そうに笑う。理都はそっぽを向きながら、網の上でいい色になった肉を自分の皿へ避難させた。
喧騒。肉の焦げる匂い。弾ける笑い声。
いつもなら「疲れるだけ」の空間が、今日は驚くほどに息苦しくない。
むしろ、終わったんだという実感が、ゆっくりと体中に沁み渡っていく。
合唱コンクールが終わった。
もう、昼休みに無理をして合わせなくていい。放課後に神経を削らなくていい。
その解放感に安堵しながらも、なぜか胸の奥が、ぽっかりと空いたような感覚があった。
(……ああ、そうか)
理都は、自分が感じている寂しさの正体にようやく気づきかけていた。
練習がなくなるということは、紬と一緒にいる「正当な理由」も、同時になくなるということだ。
それを自覚した瞬間、喉の奥がキュッと締まった。
「白嶺?」
紬の声に、理都はハッと我に返った。
「……なに」
「ぼーっとしてたよ。肉、焦げてる」
「……見てただけだ」
「それにしては、随分と深刻な顔をしてたけど?」
「気のせいだ」
「今日はそれ、乱用しすぎじゃないかな」
紬は不思議そうに笑った。その顔を見ていると、理都はますます自分がどうしたいのか分からなくなる。
たまらず、理都は席を立った。
「どこ行くんだ?」
一景が尋ねる。
「……少し、外の空気を吸ってくる」
「逃げるなよ」
「逃げないって」
店を一歩出ると、夜風が冷たく頬を撫でた。
服に染み付いた焼肉の匂い。店内の喧騒が扉一枚で遠のき、理都はようやく、まともな呼吸を吐き出すことができた。
どうする。何を言う。
何かを決めて出てきたわけじゃない。けれど、あの空気の中にいたら、この得体の知れない感情に押し潰されそうだった。
「白嶺」
背後から響いたその声に、理都の肩が揺れる。
振り返らなくても分かった。紬だ。
「なんだよ」
「『なんだよ』は、ちょっと冷たいんじゃないかな」
「……別に」
「またそれだ」
紬は店の壁に軽く背を預け、理都を見つめた。
「一人で大丈夫かなって、思って」
「子供じゃないんだから、大丈夫に決まってるだろ」
「分かってるよ、そんなこと」
それから、わずかな沈黙が降りた。
扉の隙間から、クラスメイトたちの楽しげな笑い声が漏れてくる。
「終わったな」
理都が、先に口を開いた。
「うん」
「……合唱」
「そうだね」
「もう、練習しなくていいんだよな」
「まあ、そうなるね」
紬の返答は軽やかだった。
けれど、その声の端っこに、かすかな寂しさが混じったように聞こえた。
それは理都の勝手な期待かもしれない。けれど、その微かな揺らぎが、理都の胸を強く締め付けた。
(……自分だけじゃ、ないのかもしれない)
そんな予感に、理都は覚悟を決めた。
「白嶺?」
「……俺」
「うん」
「……お前がいたから、できたんだ」
言葉にした瞬間、喉の奥が熱くなった。紬は何も言わず、静かに聞き入っている。
「最初は本当に無理だと思ったし、今でも別に、人前に立つのは嫌いだけど」
「うん」
「でも、お前がいたから。お前が逃げずに隣で弾いてたから、俺も逃げられなかった」
「……」
「それに……隣にいるのが、いつの間にか、当たり前みたいになってて」
理都は一度、言葉を切った。
(やめろ、これ以上は――)
理性の声が聞こえる。けれど、一度溢れ出した感情は、もう止めることができなかった。
「……合唱が終わって、こういう時間がなくなるんだって思ったら……なんか、無理だったんだ」
店の街灯が、紬の横顔を柔らかな琥珀色に照らしている。
理都は、もう視線を逸らせなかった。
「俺、たぶん――」
違う。「たぶん」なんて言葉で濁したくない。
理都は深く、最後の一呼吸を吸い込んだ。
「……たぶんじゃなくて。お前のことが、好きだ」
言ってしまった。
放たれた言葉は、もう取り戻せない。
理都の頭の中は真っ白になり、心臓はありえない速さで警鐘を鳴らす。
(やばい、終わった。逃げたい。今すぐここから消えたい――!)
紬は、しばらく何も言わなかった。
そのわずか数秒が、理都には永遠のような拷問に感じられた。
やがて。
紬は、ゆっくりと肺の空気を吐き出した。
それから、泣き出しそうなほどに優しく、やわらかい顔で笑った。
「遅いよ」
「…………は?」
「気づくの、遅すぎ」
理都は呆然と立ち尽くした。
紬はそのまま一歩踏み込み、理都の顔を覗き込む。
「僕だって、好きだよ」
「……」
「『ずっと』って言うと重いかもしれないけど……かなり前から、たぶんそうだったと思う」
今度は、理都が言葉を失う番だった。
「白嶺が中庭で、あんなに必死に虫を追いかけてた時から、もう、ちょっと変だなって思ってたし」
「それ……最初だろ」
「うん」
「早すぎるだろ、お前……」
「自分でもそう思うよ」
紬がくすくすと笑う。その明るい響きが、理都の胸に温かな灯をともしていく。
「……本当に?」
「何回言わせるの。白嶺、今すごい疑ってる顔してるけど」
「……信じきれてないから」
「じゃあ、何度でも言うよ。好きだよ、白嶺」
真っ直ぐすぎるその瞳。
理都は耐えきれなくなり、顔を手で覆いそうになって――けれど、途中でそれを止めた。
「やめろ……」
「なんでさ」
「心臓に悪い」
「知らないよ、そんなの」
「お前のせいだろ!」
「ふふ、そうかも」
また、彼が笑う。
少しだけ沈黙が落ちた。けれど、それはさっきまでの拒絶を恐れる沈黙ではなく、互いの存在を確かめ合うような、甘やかな沈黙だった。
理都はおそるおそる、震える手を伸ばした。
自分でも何をするつもりか分からないまま、紬の手の甲に指先を触れさせる。
紬は一瞬、目を丸くしたが、すぐにその指を絡め、理都の手をしっかりと握り返した。
(手……繋いでる)
熱い体温が伝わってくる。その事実だけで、理都の思考回路はショート寸前だった。
「白嶺」
「……なに」
「今、すごい顔してるよ」
「うるさい」
「照れてるでしょ」
「うるさいって!」
「かわいいね」
「黙れ……っ!」
けれど、繋いだ手は、どちらからも離さなかった。
「おーい! 二人とも、何してんのー!」
不意に、店の扉から蓮の野太い声が響いた。
理都はびくりと肩を揺らす。紬は堪えきれずに吹き出した。
「……戻るか」
「……戻るのかよ、これ」
「戻らないと、あいつら絶対こっちに来ちゃうから」
「最悪だ……」
「でも、ちょっと面白いよ」
「俺は、一ミリも面白くない」
口ではそう言いながらも、理都の口元はかすかに緩んでいた。
扉の前まで戻り、繋いでいた手を名残惜しく離す。その瞬間、不覚にも「離したくない」と思ってしまった自分に、理都はまた驚かされた。
紬が理都の顔を覗き込み、小さくささやく。
「あとで、連絡するよ」
「……ん、ああ」
「今度は、合唱の連絡じゃなくて――ね?」
「……分かったよ」
店の中に戻ると、蓮がニヤニヤとした卑しい笑みを浮かべていた。一景は半分呆れたように網を突つき、深也はマイペースに肉を頬張っている。
「遅かったじゃん?」
蓮が絡んでくる。
「外の空気を吸ってただけ」
紬が、何食わぬ顔で平然と返す。
「二人でー?」
「たまたま一緒になったんだ」
「へぇー、たまたまねぇー?」
「瀬尾」
一景が、釘を刺すような低い声を出す。
「分かった分かった! 今は言わないってば!」
「『今は』とかつけるな」
その喧騒の中、理都は自分の席に戻った。
箸を持ち、目の前の肉を見る。
いつも通りの動作のはずなのに、視界に入るすべてが、さっきまでとは全く違う色を帯びていた。
ふと視線を上げると、向かいの席で紬が楽しそうに笑っていた。
今までと同じ笑顔のはずなのに、もう、以前のように見ることはできない。
理都は小さく息を吐き、熱くなる頬を隠すように、少しだけ目を逸らした。
合唱コンクールは終わった。
祝勝会の焼肉も、もうすぐ終わるだろう。
けれど、これが終わりなんかじゃない。
むしろ、ここから、やっと始まるのだ。
その予感に胸を弾ませながら、理都は新しく網に乗せられた肉を、静かに見つめた。
眠れなかったわけではない。何度か中途半端に目は覚めたし、夢もろくでもない内容だった気がするけれど、一応は寝た。
寝たはずなのに、体の芯には逃げ場のない緊張が澱のように沈んでいる。布団の中で天井を見上げたまま、とうとう今日が来てしまったのだと、他人事のように思った。
合唱コンクール、当日。
逃げるつもりは、もうない。
昨日、部室であれだけ紬に言われて、それで逃げ出したら自分は一生自分を許せないだろう。
分かっている。理屈では、痛いほど分かっている。
けれど、分かったからといって急に心臓が鋼になるわけじゃない。
学校へ向かう道の途中でも、理都は何度も深呼吸を繰り返した。
吸って、吐いて、また吸い込む。
意味があるのか分からないほど浅い呼吸だったけれど、それでも何もしないよりはましだった。
教室に入ると、いつもより早い時間なのに人の熱気が充満していた。
女子たちは髪型を念入りに整え、男子もどこかそわそわと落ち着かない。蓮などは朝からフルスロットルで、「今日マジでいける気がする!」と騒ぎ立てていた。その声に誰かが笑い、一景が「朝からうるさい」と淡々とたしなめる。
深也はというと、席で眠そうにしながらも、いつもよりは幾分まともに目を開けていた。
理都が席につくと、深也がちらりと視線を寄越す。
「顔色、悪いね」
「……うるさい」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「急に正直」
「今日は、嘘をつく余裕すらないだけ」
「じゃあ、仕方ないね」
そこで会話が途切れるのが、いかにも深也らしかった。
理都はほんの少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
しばらくして、紬が教室に入ってきた。
手には伴奏用の楽譜ファイル。いつも通り整えられた髪と、わずかに引き締まった横顔。
クラスの何人かが「駒咲くん、今日頼むね」「伴奏、マジですごいもんね」と声をかけていた。紬はやわらかく応じながらも、どこか静かに研ぎ澄まされた空気をまとっている。
不意に、紬の視線が理都を捉えた。
それだけで、理都の胸がトクンと小さく跳ねる。
紬は人の波を器用に抜けて、理都の席まで歩み寄ってきた。
「おはよう」
「……おはよ」
「顔、緊張してるね」
「……そりゃ、するだろ」
「うん、してる」
紬はそう言って、悪戯っぽく少しだけ笑った。
笑われたのに、不思議と嫌な気はしない。
「でも、大丈夫だよ」
「何の根拠があって言ってるんだよ」
「僕が弾くから」
「……それ、昨日も聞いた」
「じゃあ、もう一回聞いといて」
理都は思わず、わずかに口元を緩めた。
それを見て、紬も安心したように目を細める。
「白嶺」
「なに」
「ちゃんと見てるから」
「……ん」
それだけで十分だった。
今の理都には、どんな美辞麗句よりもその一言が、何よりの道標だった。
会場へ移動してからは、瞬く間に時間が過ぎ去った。
他クラスの歌声、ざわめく客席、ステージ袖に漂う独特の埃とワックスの匂い。
すべてが現実感のないまま、けれど鼓膜にはやけに鮮明に突き刺さる。
二年三組の出番が近づくにつれ、クラスの空気は冷たく張り詰めていった。
女子たちは互いの襟元を直し合い、男子も無言になる時間が増える。蓮だけは最後まで「いけるって!」と鼓舞していたが、その声も少しだけ乾いて響いた。
整列の直前、深也が理都のそばに寄ってきた。
「理都」
「……なに」
「今さらだけど」
「うん」
「たぶん、大丈夫」
「お前の『たぶん』は、普段は精度が低いんだよ」
「でも、今のはいつもより高い気がする」
「……なら、まあ、信じてやる」
「うん」
短いやり取り。
けれど、理都の指先の震えは、確実に小さくなっていた。
舞台袖からステージへ足を踏み出した瞬間、視界がぶわっと開け、客席の広さが目に飛び込んできた。
理都は一瞬、息を止める。
(無理だ――)
そう思いかけた、その時。
ピアノの前に向かう紬が、ほんの一瞬だけ、肩越しに振り返った。
目が合う。
言葉なんてなかった。けれど、その一瞬で理都は肺いっぱいに空気を吸い直した。
立つ。前に出る。振る。
もう、それだけだ。
理都は指揮台の上に立った。
客席は見ない。見れば飲み込まれる。
視界に入れていいのは、クラスメイトたちの顔と、ピアノの前に座る紬の横顔。それだけでいい。
伴奏の、最初の一音が鳴り響く。
紬の奏でる音は、何度も合わせたあの時と、寸分違わぬ信頼の音だった。
理都は、その音に背中を押されるようにして、ゆっくりと両手を上げた。
歌が入る。
最初の数小節の記憶は、ほとんどない。
ただ、振り、呼吸し、音の粒子を全身で受け止める。
途中で男子の入りがわずかに遅れそうになった瞬間、理都は無意識に左手で大きく合図を送った。
吸い寄せられるように、声がついてくる。
サビ前、一拍のタメ。
女子がその意図を完璧に汲み取り、入りが鋭く揃った。
練習で何度も崩れかけた場所が、今日は崩れない。
理都はそこで初めて、自分の指先が、意志が、クラス全員に届いている感覚を、肌で知った。
背後から紬のピアノが力強く押し上げてくる。
深也の低音が、驚くほどまっすぐに芯を貫く。
蓮も、危ういながらも必死に声を乗せていた。一景がその土台を支え、女子たちの歌声が鮮やかな色彩を添えていく。
みんなの声が、一つのうねりになって、教室を飛び出し、ホールを満たしていく。
その奔流の中心に、自分がいる。
怖さは最後まで消えなかった。けれど、怖いまま振ることはできた。
そして気づいたときには、最後の和音がホールに溶け込んでいた。
理都は、最後の残響を断ち切るように、手の動きを止めた。
音が消える。
数秒の、真空のような静寂。
その後、割れんばかりの拍手が客席から湧き上がった。
その音を浴びた瞬間、理都の胸の奥が、じわっと熱く震えた。
客観的な良し悪しなんて、今はどうでもよかった。
ただ、今までで一番、自分たちの歌を歌えた。その確信だけがあった。
舞台袖へ戻った途端、クラスの空気は一気に弛緩した。
「やばい、今のめっちゃ良くなかった!?」
「え、普通に感動して泣きそう……」
「男子、めっちゃ声出てたじゃん!」
女子たちが堰を切ったように喋り出し、蓮は「俺、今日かなりやれたよな!?」と胸を張って一景に「自己評価だけは一丁前だな」と一蹴されている。
深也はといえば、眠そうな目のまま、パチパチと控えめに拍手を送っていた。
理都はそこから少し遅れて、ピアノから立ち上がった紬に目を向けた。
紬も、理都を見ていた。
その目が、嬉しそうに細められる。
「白嶺」
「……なに」
「ちゃんと、できたじゃん」
「……お前もな」
「うん」
また、言葉が途切れる。
けれど、もう、言葉なんていらないほどに通じ合っていた。
結果発表。司会の声が、静まり返った会場に響き渡る。
「金賞――二年三組」
一瞬、思考が停止した。
会場がどよめき、クラスが総立ちになる。蓮が「うわ、マジか!」と絶叫し、その声でようやく現実が理都の全身を駆け抜けた。
「やったぁぁぁ!」
「嘘、うれしい、どうしよう!」
「先生、焼肉! 焼肉確定!」
歓喜に沸くクラスメイトたち。担任も「約束だからな!」と感極まった顔をしている。
理都はただ、その喧騒の中で呆然と立ち尽くしていた。
「理都」
深也が、小さく袖を引く。
「金賞、だってさ」
「……らしいな」
「よかったね」
「……ん、ああ……」
返した声が、自分でも驚くほど震えていた。
焼肉バイキングは、その日の放課後だった。
担任が「言った以上は、熱いうちに連れていく」と、本当に強行で予約をねじ込んだらしい。
クラス全員が、勝利の凱旋のように店へとなだれ込む。
理都は、正直に言えば限界まで疲れていた。
けれど今日は、以前のような「場違い感」はどこにもなかった。それが不思議で、少しだけ可笑しかった。
「白嶺、肉取ってくるけどいる?」
蓮がトングを片手に聞いてくる。理都は意表を突かれた。
「……自分で行くよ」
「いいって、ついでだし」
「じゃあ……カルビ」
「おっけー。浅葉、お前は?」
「んー、適当でいいよ」
「適当が一番困るんだよ! 全種類持ってくればいいのか?」
「じゃあ、蓮が好きそうなやつ」
「それもう俺の好みじゃねーか!」
文句を言いながら、蓮はせっせと深也の分まで肉を運んでくる。
一景がその様子を眺めて、ぼそりと呟いた。
「お前、浅葉にだけ世話焼きすぎだろ」
「はあ? んなことねーし」
「いや、見てれば誰でも分かる」
「普通だよ、普通!」
「普通ではないな」
「白嶺まで、何でそっちに加勢してんだよ!」
「いや……実際、見てれば分かるだろ」
「浅葉! お前からもなんか言ってくれよ!」
「蓮、焼くの上手だね」
「…………えっ」
蓮が、金縛りにあったようにフリーズした。
その反応があまりにも分かりやすすぎて、一景がたまらず吹き出す。
「ほらな」
「うるせーよ!」
「いや、今のはお前が素直すぎだろ」
「何の話だよ……!」
深也は意味が分かっているのか、はたまた天然なのか、平然と肉を頬張っている。蓮だけが顔を赤くして落ち着かなくなっているのが、見ていて飽きなかった。
紬は、理都の向かいの席に座っていた。
ふとした瞬間に目が合う。そのたびに、彼が小さく笑う。
ただそれだけのことなのに、理都の胸はじりじりと落ち着かなくなる。
「白嶺、全然食べてないじゃん」
「食ってるよ」
「さっきから皿の上に緑しか見えないけど」
「最初に野菜から食べる派なんだ」
「そんな健康志向だったっけ?」
「違う。……肉が焼けるまでの、つなぎ」
「素直でよろしい」
紬が愉快そうに笑う。理都はそっぽを向きながら、網の上でいい色になった肉を自分の皿へ避難させた。
喧騒。肉の焦げる匂い。弾ける笑い声。
いつもなら「疲れるだけ」の空間が、今日は驚くほどに息苦しくない。
むしろ、終わったんだという実感が、ゆっくりと体中に沁み渡っていく。
合唱コンクールが終わった。
もう、昼休みに無理をして合わせなくていい。放課後に神経を削らなくていい。
その解放感に安堵しながらも、なぜか胸の奥が、ぽっかりと空いたような感覚があった。
(……ああ、そうか)
理都は、自分が感じている寂しさの正体にようやく気づきかけていた。
練習がなくなるということは、紬と一緒にいる「正当な理由」も、同時になくなるということだ。
それを自覚した瞬間、喉の奥がキュッと締まった。
「白嶺?」
紬の声に、理都はハッと我に返った。
「……なに」
「ぼーっとしてたよ。肉、焦げてる」
「……見てただけだ」
「それにしては、随分と深刻な顔をしてたけど?」
「気のせいだ」
「今日はそれ、乱用しすぎじゃないかな」
紬は不思議そうに笑った。その顔を見ていると、理都はますます自分がどうしたいのか分からなくなる。
たまらず、理都は席を立った。
「どこ行くんだ?」
一景が尋ねる。
「……少し、外の空気を吸ってくる」
「逃げるなよ」
「逃げないって」
店を一歩出ると、夜風が冷たく頬を撫でた。
服に染み付いた焼肉の匂い。店内の喧騒が扉一枚で遠のき、理都はようやく、まともな呼吸を吐き出すことができた。
どうする。何を言う。
何かを決めて出てきたわけじゃない。けれど、あの空気の中にいたら、この得体の知れない感情に押し潰されそうだった。
「白嶺」
背後から響いたその声に、理都の肩が揺れる。
振り返らなくても分かった。紬だ。
「なんだよ」
「『なんだよ』は、ちょっと冷たいんじゃないかな」
「……別に」
「またそれだ」
紬は店の壁に軽く背を預け、理都を見つめた。
「一人で大丈夫かなって、思って」
「子供じゃないんだから、大丈夫に決まってるだろ」
「分かってるよ、そんなこと」
それから、わずかな沈黙が降りた。
扉の隙間から、クラスメイトたちの楽しげな笑い声が漏れてくる。
「終わったな」
理都が、先に口を開いた。
「うん」
「……合唱」
「そうだね」
「もう、練習しなくていいんだよな」
「まあ、そうなるね」
紬の返答は軽やかだった。
けれど、その声の端っこに、かすかな寂しさが混じったように聞こえた。
それは理都の勝手な期待かもしれない。けれど、その微かな揺らぎが、理都の胸を強く締め付けた。
(……自分だけじゃ、ないのかもしれない)
そんな予感に、理都は覚悟を決めた。
「白嶺?」
「……俺」
「うん」
「……お前がいたから、できたんだ」
言葉にした瞬間、喉の奥が熱くなった。紬は何も言わず、静かに聞き入っている。
「最初は本当に無理だと思ったし、今でも別に、人前に立つのは嫌いだけど」
「うん」
「でも、お前がいたから。お前が逃げずに隣で弾いてたから、俺も逃げられなかった」
「……」
「それに……隣にいるのが、いつの間にか、当たり前みたいになってて」
理都は一度、言葉を切った。
(やめろ、これ以上は――)
理性の声が聞こえる。けれど、一度溢れ出した感情は、もう止めることができなかった。
「……合唱が終わって、こういう時間がなくなるんだって思ったら……なんか、無理だったんだ」
店の街灯が、紬の横顔を柔らかな琥珀色に照らしている。
理都は、もう視線を逸らせなかった。
「俺、たぶん――」
違う。「たぶん」なんて言葉で濁したくない。
理都は深く、最後の一呼吸を吸い込んだ。
「……たぶんじゃなくて。お前のことが、好きだ」
言ってしまった。
放たれた言葉は、もう取り戻せない。
理都の頭の中は真っ白になり、心臓はありえない速さで警鐘を鳴らす。
(やばい、終わった。逃げたい。今すぐここから消えたい――!)
紬は、しばらく何も言わなかった。
そのわずか数秒が、理都には永遠のような拷問に感じられた。
やがて。
紬は、ゆっくりと肺の空気を吐き出した。
それから、泣き出しそうなほどに優しく、やわらかい顔で笑った。
「遅いよ」
「…………は?」
「気づくの、遅すぎ」
理都は呆然と立ち尽くした。
紬はそのまま一歩踏み込み、理都の顔を覗き込む。
「僕だって、好きだよ」
「……」
「『ずっと』って言うと重いかもしれないけど……かなり前から、たぶんそうだったと思う」
今度は、理都が言葉を失う番だった。
「白嶺が中庭で、あんなに必死に虫を追いかけてた時から、もう、ちょっと変だなって思ってたし」
「それ……最初だろ」
「うん」
「早すぎるだろ、お前……」
「自分でもそう思うよ」
紬がくすくすと笑う。その明るい響きが、理都の胸に温かな灯をともしていく。
「……本当に?」
「何回言わせるの。白嶺、今すごい疑ってる顔してるけど」
「……信じきれてないから」
「じゃあ、何度でも言うよ。好きだよ、白嶺」
真っ直ぐすぎるその瞳。
理都は耐えきれなくなり、顔を手で覆いそうになって――けれど、途中でそれを止めた。
「やめろ……」
「なんでさ」
「心臓に悪い」
「知らないよ、そんなの」
「お前のせいだろ!」
「ふふ、そうかも」
また、彼が笑う。
少しだけ沈黙が落ちた。けれど、それはさっきまでの拒絶を恐れる沈黙ではなく、互いの存在を確かめ合うような、甘やかな沈黙だった。
理都はおそるおそる、震える手を伸ばした。
自分でも何をするつもりか分からないまま、紬の手の甲に指先を触れさせる。
紬は一瞬、目を丸くしたが、すぐにその指を絡め、理都の手をしっかりと握り返した。
(手……繋いでる)
熱い体温が伝わってくる。その事実だけで、理都の思考回路はショート寸前だった。
「白嶺」
「……なに」
「今、すごい顔してるよ」
「うるさい」
「照れてるでしょ」
「うるさいって!」
「かわいいね」
「黙れ……っ!」
けれど、繋いだ手は、どちらからも離さなかった。
「おーい! 二人とも、何してんのー!」
不意に、店の扉から蓮の野太い声が響いた。
理都はびくりと肩を揺らす。紬は堪えきれずに吹き出した。
「……戻るか」
「……戻るのかよ、これ」
「戻らないと、あいつら絶対こっちに来ちゃうから」
「最悪だ……」
「でも、ちょっと面白いよ」
「俺は、一ミリも面白くない」
口ではそう言いながらも、理都の口元はかすかに緩んでいた。
扉の前まで戻り、繋いでいた手を名残惜しく離す。その瞬間、不覚にも「離したくない」と思ってしまった自分に、理都はまた驚かされた。
紬が理都の顔を覗き込み、小さくささやく。
「あとで、連絡するよ」
「……ん、ああ」
「今度は、合唱の連絡じゃなくて――ね?」
「……分かったよ」
店の中に戻ると、蓮がニヤニヤとした卑しい笑みを浮かべていた。一景は半分呆れたように網を突つき、深也はマイペースに肉を頬張っている。
「遅かったじゃん?」
蓮が絡んでくる。
「外の空気を吸ってただけ」
紬が、何食わぬ顔で平然と返す。
「二人でー?」
「たまたま一緒になったんだ」
「へぇー、たまたまねぇー?」
「瀬尾」
一景が、釘を刺すような低い声を出す。
「分かった分かった! 今は言わないってば!」
「『今は』とかつけるな」
その喧騒の中、理都は自分の席に戻った。
箸を持ち、目の前の肉を見る。
いつも通りの動作のはずなのに、視界に入るすべてが、さっきまでとは全く違う色を帯びていた。
ふと視線を上げると、向かいの席で紬が楽しそうに笑っていた。
今までと同じ笑顔のはずなのに、もう、以前のように見ることはできない。
理都は小さく息を吐き、熱くなる頬を隠すように、少しだけ目を逸らした。
合唱コンクールは終わった。
祝勝会の焼肉も、もうすぐ終わるだろう。
けれど、これが終わりなんかじゃない。
むしろ、ここから、やっと始まるのだ。
その予感に胸を弾ませながら、理都は新しく網に乗せられた肉を、静かに見つめた。



