きみと指揮する青の時間

​どうしてこんなことになったんだろう。
白嶺理都(しらねりと)は朝の教室でひとり、そんなことを考えていた。
正確に言えば、右手に持った小さな紙袋のせいだ。
​中には昨日の夜に洗って、きちんと乾かして、できるだけ皺を伸ばしたハンカチが入っている。
​返すだけなら簡単なはずだった。
借りたものを返す。それだけだ。
人として当然の行為だし、常識的にも何もおかしくない。
​なのに、朝からずっと心臓のあたりが落ち着かない。
​教室の前方、窓から差し込む光の近くで、駒咲紬(こまさきつむぎ)が笑っているのが見えた。
​誰にでも愛想がよくて、目立つくせに嫌味がなくて、女子とも男子とも自然に話せるやつ。
演劇部所属で、インナーだけ少し明るく染めた髪が動くたびにちらりと見える。
​朝からちゃんと顔を整えているのにやりすぎには見えなくて、そういうところまで、理都とは住んでいる世界が違う。
​同じクラスなのに、今までちゃんと話したことなんてほとんどなかった。
顔と名前くらいは知っている。向こうもたぶんその程度だったはずだ。
​なのに今、理都の机の中には、駒咲紬に借りたハンカチを入れた紙袋がある。
​返したい。返さないのは落ち着かない。
でも返すために声をかけるのが、あまりにも落ち着かなすぎる。
​意味が分からない。
なんで借りたんだよ、そもそも。
​いや、借りたというか、半ば勝手に押しつけられたというか。
でも結果的に借りたのは事実だし、洗って返そうと思ったのも自分だし、誰のせいにもできない。
​隣の席ではない。前後でもない。
教室の端と端というほどではないが、気軽に紙くずを投げて渡せる距離でもない。
​しかも駒咲のまわりには、朝から人がいる。
瀬尾蓮(せおれん)が笑いながら何か言って、駒咲が肩を揺らして笑い返し、その少し後ろで有馬一景(ありまいっけい)が呆れたような顔をしている。
​見慣れた光景だ。
あっちはあっちで、ちゃんとクラスの空気の中にいる。
​理都は視線を落として、自分の机の端に指先を置いた。
机の木目を辿っていると、少しだけ気持ちが落ち着く。
​ハンカチなんて、昼休みにでもさっと返せばいい。
借りた礼を言って、洗っておいたからって渡せば、それで終わる。
​たぶん向こうも、そんなに気にしていない。
むしろ返された瞬間に、「そんなこともあったっけ」くらいで終わるかもしれない。
​それならそれでいいはずなのに、理都は何度も紙袋の感触を確かめてしまう。
​昨日のことを思い出すと、耳の奥が少し熱くなる。
中庭で、あいつが笑った顔とか。
自分が思っていたより近くで声を聞いたこととか。
手渡された白いハンカチの、柔らかい布の感触とか。
​浅葉深也(あさばみや)が、理都の後ろの席で大きく欠伸をした。
そののんびりした音で、理都は少しだけ現実に引き戻される。

​「理都、朝から固まってる」

​眠たそうな声がして、理都は肩を揺らした。
振り向くと、深也が机に頬杖をついたままこちらを見ている。
というより、半分寝ているような顔でぼんやり眺めている。

​「別に」
「別にって顔じゃない」
「うるさい」
「珍しく落ち着きないね」

​小声でそう言われて、理都は眉を寄せた。
落ち着きがない自覚はある。あるから困っている。

​「……紙袋、なに」
「関係ないだろ」
「誰かに渡すやつ?」
「だから関係ないって」
「ふうん」

​深也はそれ以上追及しなかった。
そういうところは助かる。
でも、その気の抜けた相槌のせいで、逆に意識してしまう。
​理都は前を見た。
駒咲紬が、ちょうどこっちを向いた気がして、慌てて視線を逸らす。
​たぶん見られてない。たぶん。
なのに自分だけが勝手に動揺しているのが、ものすごくダサい。
​どうしてこんなことになったんだろう。
​ほんの少し前までは、あいつは同じクラスの、目立つやつでしかなかった。
自分とは関係のない、明るい場所の人間だった。
​バッタ一匹捕まえたくらいで、何がどうしてこうなったのか、本当に意味が分からない。
​理都は机の中の紙袋をもう一度押し込んで、小さく息を吐いた。
​とりあえず、返す。
今日こそちゃんと返す。それだけだ。
​そう決めたはずなのに、胸の奥のざわつきは、まるで言うことを聞かなかった。