夏が囁く



初めてのデイサービスから2日後、婆ちゃんは機嫌がよかった。

笹木が簡単に作ってくれた朝ごはんを3人で食べ、婆ちゃんの身支度を整える。暖かいタオルで顔を拭いてあげると、気持ちよさそうに婆ちゃんは目を細めた。

「宗介」

「ん?なに、婆ちゃん」

「帰ってきたら、宗介の好きなきんぴら作ってあげるからね」

「……ありがとう。楽しみにしてる」

今日の婆ちゃんはしっかりしている方の日だ。婆ちゃんの状態は一進一退で、不安を完全に拭い去ることはもうできないだろう。でも、もう一人きりで不安に囚われることはないのだ。
婆ちゃんが俺の手を優しくさする。その手の上に俺も手を重ねた。

「綾川さーん!おはようございます!伊藤です」

玄関で元気な声が響き渡る。今日は2度目のデイサービスの日だ。ライトブルーのワンボックスが家の前に止まっている。婆ちゃんは軽い足取りで玄関へ向かった。戸口のところで振り返り、俺を見て、ふにゃりと笑う。

「宗介、また、折り紙折ってくるね」

「ああ、いってらっしゃい」

初めての朝はあんなに不安そうだったのに、今日はまるで遠足にでも行くみたいだ。婆ちゃんは初日にして気のあう仲間ができたようだった。伊藤さんに手を引かれながら車に乗り込む婆ちゃんを見送っていると、胸の奥にあった重たいものが、ほどけていく気がした。

車が見えなくなるまで見送ってから、俺は家に戻った。

台所には、朝食の片付けが残っている。茶碗を洗いながら、ふと気づいた。

こうやって誰かのために何かをするのが、こんなに自然にできるようになったのは、たぶん笹木のおかげだ。

水を止めて振り返ると、居間で洗濯物を畳んでいた笹木が、何かを言いたげにこちらを見ていた。

「ねぇ、宗介くん」

「ん?」

「思い出の作り直し、また、しない?」

何を言い出すかと思えば、そんなことだった。

「……なんだよ、それ」

呆れたように言うと、笹木は駄々をこねるように、足を投げ出して言った。

「いいじゃん。ここ最近、役所で手続きしたりさ、なんやかんや頑張ったんだし、海の時みたいに思い出作ろうよー!」

それから、どこから手に入れたのか、小さなビラをバッと出した。

「商店街でさ!夏祭りやってるんだって。行こうよ」

小さな田舎町のあんな寂れた商店街の祭りなんかたかが知れてる。それなのに笹木は目をキラキラと輝かせて俺を見つめる。

夏祭り。楽しそうな響きの言葉が、なんだか随分懐かしくも感じた。だが、針で刺したような痛みも心に生まれた。

もうすぐ、笹木はいなくなる。

あと少しで、東京に帰ってしまう。

思い出作りという言葉が、否が応でもその現実を突きつけてきて、俺は黙って皿についた泡を流し始めた。

「……どうしたの?」

不意に後ろから覗き込まれて、俺は慌てて目を逸らした。

「いや、別に。行きたいんだろ、行くよ」

「よし決まり!」

ぱん、と手を叩いて、笹木は笑った。



まだ日は高く、祭りは始まったばかりなのに、商店街は人でごった返していた。

食欲をそそるソース焼きそばやたこ焼きの匂い。華やかな浴衣姿が通りを彩り、山車に乗った法被姿の人々が笛や太鼓で奏でるお囃子が、熱気と高揚感を加速させる。

「うわー、いいねぇ」

笹木が楽しそうに辺りを見回す。

「ほら、宗介くんもなんか買いなよ。俺が奢ったげる」

「別にいいよ。見てるだけでいい」

射的をやったり、かき氷を食べたり、金魚すくいしたり、友達同士で、家族と連れ立って、どこもかしこも笑顔だらけだ。

俺と笹木も端から見たら兄弟か、年の離れた友達に見えるんだろう。でももう、それも今日で終わりだ、と思うと、せっかくの祭りなのに、はしゃぎきれない。

「どうしたの、宗介くん?」

寂しさから無口になってしまう俺を、笹木は心配して覗き込んだ。誰かが落としてしまった、かき氷の赤いシロップが排水口に流れていくのを、俺は見ている。自分の気持ちをうまく伝えるのが下手で、いつも誰かを傷つけてしまう。

カラカラカラ……と、俺たちの前の屋台で、色とりどりの風車が回り始める。くるくる渦を巻くそれは、赤、青、金、と色の迷路のように人々の目を楽しませる。

ざわ、と空気が変わった気がした。

人混みの向こう。お祭りで売られているのか、お面をつけた浴衣姿の子どもたちがいた。人混みの中で、その子供たちがいるところだけ、ぽかりと穴が開いたように避けられている。狐やひょっとこ、それから天狗。仮面の子供たちがこちらをじっと見ている。

一人、二人じゃない。何人も。

最近、笹木と一緒に行動してたから油断してた。奴らだ。

「……なぁ」

俺は笹木のTシャツの裾を掴んだ。奴らにバレないようにそちらに目をやると、笹木も俺の視線を追って、仮面の子供たちの方を見た。

そして、珍しく表情をこわばらせた。

「……あれ、ヤバい感じ?」

「は?」

「俺にも見えてるんだけど」

背筋が冷たくなる。

今まで「怪異」たちは笹木には見えていなかったはずだ。

なのに。

「なんで……」

思わず呟くと、笹木は困ったように笑った。

「もしかしたらさ、宗介くんと一緒にいすぎて、俺にも見えるようになったのかもね」

笹木は冗談みたいな口調でおどけた。だがすぐにぎゅっと俺の手を掴んだ。

次の瞬間。

仮面の子どもたちが、一斉にこちらへ走り出した。

「……来た!」

人混みをかき分けて俺たちは走り出した。逆回転する風車。跳ねる金魚。後ろから、足音。笑い声。いや、それは本当に笑い声なのか分からない。ノイズのような、羽音のような、耳障りな声が俺たちを追いかける。

「こっち!」

笹木が俺の手を掴んで、路地に飛び込む。

心臓がうるさい。息が苦しい。振り返ると、面の子どもたちはぴったりと追いかけてきている。

怪異たちは、おそらく、社会に見捨てられかけている俺を新たな仲間に迎え入れようとしている。

その為に、母親や、婆ちゃんや、俺にまつわる記憶や感情の姿で襲いかかってきた。

じゃあ、この仮面の子供たちは何を現しているんだ。

だが、その心を探る前にとにかくこの状況を打開しなければいけない。殺意をこめて首を絞められた記憶が、また生々しく蘇った。

「……っ、どうすんだよ!」

不安と恐怖から叫ぶと、笹木がふっと息を吐き、突然立ち止まった。俺は軽く、笹木の背中に軽くぶつかった。

「ねぇ、宗介くん」

こんな状況なのに、妙に落ち着いた声だった。

「見えないって、思い込んでみようよ」

「は?」

「見えない、見えない、って。本気で思うの」

無茶苦茶だと思った。でも、他に手はない。

俺は笹木の手をぎゅっと握り返した。

「……見えない」

息を整えながら、呟く。

「見えない、見えない……」

頭の中で繰り返す。恐怖から叫び出したい衝動を、必死で押さえ込む。

「そう、それでいい」

笹木の声だけを頼りに、薄暗い路地を、来た道を戻るようにゆっくりと歩き始めた。

仮面の子供たちが立ち止まって、俺たちが来るのを待ち構えている。表情は見えずとも、幼い手足や、俺たちを見上げる仕草が、遊んでほしそうな無垢な子供のそれで心が揺らぐ。それでも、俺は心の中で繰り返した。

見えない。見えない。

見えなければ、いないのと同じ。

「……ほら」

笹木の声に、恐る恐る路地を振り返った。

そこには、もう何もいなかった。夢から覚めたみたいに、祭りの喧騒が耳に響き出す。

「……消えた」

「ね、なんとかなったでしょ」

笹木が、いつもの調子で笑った。

「俺、ここにきて遂に、霊能力、目覚めちゃったかもね!」

笹木の喜んでる顔を見て、全身から力が抜けた。

「……もう、なんかよくわかんなくなってきた」

俺は思わずその場にしゃがみ込んだ。時間を問わずに突然現れて、とうとう「笹木がいる時には現れない」「笹木には見えない」というルールも崩されてしまった。

そもそも、人知の及ばない災害のような理不尽な存在なのだ。ルールも何もあったもんじゃない。

俺の心を模しているのも関係ないのかもしれないな……と考えていると、俺はふと思った。

小さな仮面の子供。攻撃も一切してこなかった。ただ、俺たちと遊びたがって追いかけてきたようにも見えた。

もしかして、俺が笹木に対して考える寂しさとか、未練とかを体現しているのだろうか。

遊んでほしい。もっともっと一緒にいたい。

笹木の考察癖が俺にもうつったせいで、最悪な結論に辿り着いてしまった。

それはそれですごく……嫌だ。秘めておきたい自分の心を勝手に見られて、弄ばれてるみたいで。

「宗介くん?」

笹木の心配そうな声が頭上に振ってくる。怪異に別の怒りを感じながら、俺は笹木を睨んだ。

「この怪異は調査しなくていいからな」

「えっ?あ……うん、そうだね」

笹木は少し驚いた顔をして、気まずそうに笑った。怪異たちを調査していたことなんて失念していた、そんな顔だ。あれほど事細かく書いていたのに。

一瞬違和感を感じたが、婆ちゃんのことで忙しかったもんな、と俺は納得した。病院や役場へ提出する書類も笹木が俺に代わって仕上げてくれている。

「……うーん、なんか気が削がれちゃったね」

笹木はすっかり祭りへの興味をなくしたようだった。俺も同意して、祭り囃子が響く中、家に帰ることにした。

その帰路で笹木は何も喋らなかった。バスに揺られながら、考え込むような横顔がガラスに映っていた。



あと一時間もしたら、婆ちゃんが帰ってくる。きっと疲れてるだろうから、ゆっくり休ませてあげたい。
祭りから帰り、縁側で日干ししていた座布団や、洗濯物を俺は慌てて取り込み始めた。

笹木は風呂を掃除していた。水音に紛れて、調子はずれの口笛が聞こえる。

ふと、ちゃぶ台に置かれた手帳が目についた。いつも、笹木がページを開いて見せるそれが、閉じられている。

(この怪異は調査しなくていいからな)

(えっ?あ……うん、そうだね)

1時間前にしたそんな会話を思い出す。笹木はやはり、あの子供たちの怪異は書き込まないつもりだろうか。自分で調査するなと指示しておきながら、それでいいのか、と疑問にも思った。

笹木がいつも肌身はなさず持ち歩いている手帳は、深いダークグリーンの革表紙が美しい。いろいろと書き込むようなのか、割と大きく分厚い。
今まで気にしたことはなかったが、案外、高級品なのかも知れない。

その表紙をまじまじと見ていると、俺は、違和感に気付いた。

──あれ、これ……おかしくないか。

「宗介くーん!麦茶、用意したから、運んでー!休憩しよー!」

台所から俺を呼ぶ笹木の声がして、俺はハッとした。慌てて返事をし、俺はそちらへ向かった。

ちゃぶ台に、麦茶の入ったグラスを置く。氷がカランと鳴った。笹木が俺の隣へ座る。

しばらく静寂が部屋を包んだ。笹木がお茶を飲み、俺は外を眺める。

闇に染まる直前の夕日は、赤々と山裾を染めていく。縁側から差し込むそれが眩しくて俺は目を細めた。
  
笹木もその風景を見ながら、ぽつりと呟いた。

「まだまだ暑いけど、夏も終わるね」

「……そうだな」

俺は畳の目に視線を落とした。

「お婆ちゃんも伊藤さんの施設を気に入ってくれたみたいでよかったよ。これで田辺先輩にいい報告ができる」

笹木は満足げに微笑んだ。

婆ちゃんが壊れていくのを、俺一人で見る必要はもう無くなった。
冷蔵庫に貼った介護事業所の電話番号。整理整頓された部屋。すでにあらかた埋まった書類たち。

きっと婆ちゃんの異変に気付いた田辺に頼まれ、笹木はここに来たのだ。

社会が俺たちに気付いてくれるよう、社会と俺たちを繋ぎとるために、笹木が動いてくれた。

見なくていいものと、見えなくてはいけないものがある、と俺に教えてくれた。

ガキの俺には思いつかなかった。こんな方法があることさえも知らなかったから。

「あんたってすごいな」

「どうしたの、急に」

思わず漏れた言葉に、笹木が笑った。

「だって、あんたのおかげでなんとかなりそうな気がしてきたから」

「普通に暮らせたらそれでいいって宗介くんがいったろ?だから、オトナとしてそれを守りたかっただけ。大したことはしてないよ」

俺はその言葉になにも言えなくなってしまう。

行かないで、とか、またここに来てくれよ、とか、或いはあんたと一緒にいきたい、とか、そんな甘ったれた言葉が脳をぐるぐると回る。

笹木にとって俺は、大学の先輩の親戚で、田舎の可哀想な子供で、東京へ帰ってしまえばもう関係なくなる存在なのだ。そう思うと、言葉は鉛のように沈殿し、喉から吐き出すことさえできない。

居間の壁掛け時計が、カチカチカチ……と小刻みに秒針を走らせていく。

「あんたさ」

「ん?」

俺に呼びかけられ、笹木は微笑んだままこちらを見た。セミロングの茶髪を後ろに結って、ピアスが夕日にきらりと光った。
鳶色の瞳が優しく俺を見つめている。

行かないでほしい。俺と一緒にいてほしい。

思わず口にしてしまいそうな言葉を飲み込んで、俺は膝を抱えた腕を強くぎゅっと結び、笹木に尋ねた。

「あんた、どうしてここまでしてくれるんだよ」

笹木は微笑んでいる。美術館の一番奥に飾られた、美女の微笑みのように謎めいていた。 

笹木は俺といると、時々この顔をする。

そういう時は決まって、俺をからかって、試している。それで、「どうしてだと思う?」とか言って、大人びた口調で俺の反応を楽しむつもりなのだ。

そう、思ったのに。

「宗介くんは、何歳だっけ」

笹木の唇がゆっくりと開いた。初めて会った時と同じ質問を、笹木は何故か口にした。

知ってるだろ。前言ったじゃないか。そう思うのに、笹木の瞳から目をそらせずに、何かに操られたように俺の口が動いた。

「15歳だよ」

「そっか。今が一番楽しい時期だったね」

それも聞いた。既視感は違和感になり、小さな亀裂から、正体の分からぬ不安を呼び起こす。戸惑う俺を前に、笹木は相変わらず楽しそうだ。

「じゃあさ、『今年の冬』は雪が降るのかい」

カナカナカナ……と蜩の声が遠くに聞こえる。婆ちゃん、何時に帰ってくるんだっけ。そんなことがふと気になった。

喉が渇き始める。掠れた声で俺は笹木の問いに答える。

「……毎年降ってる、すごい大雪が」

「あはは、違うよ宗介くん!俺は『今年の冬』の話をしてるの!」

俺が変な冗談を言ったみたいに、笹木は大きな口を開けて笑っている。オレンジ色の夕日が闇と混ざり合って、境界線を曖昧にしていく。

今年の冬の雪なんて……わかるはずない。俺の脳は混乱する。だって今は夏だ。1999年の8月だ。これから訪れる、冬の雪の話なんてできるはずがない。

じゃあ、なんで。

──なんで、笹木の手帳の表紙に「2004」と書かれていたんだろう。

「学校の話ならできるかな、宗介くん」

黙り込む俺に、笹木はさらに問いかけた。まるで尋問のように、笑顔のカウンセラーは問いかける。

「新学期が始まるのは『嫌だった』ろう。湯山くんもいないし、黒木の暴力はきっと『ひどくなった』んじゃない?宿題はちゃんと『やった』?どのくらい『できた』の?風邪とか『引かなかった』?調べたら随分こっちは夏が『終わって』から『寒かった』みたいだからね。そうそう、雪も例年以上の『大雪だった』そうだね」

笹木は『未来の話』を『過去形』で語っている。

俺は後ろずさった。さっきまで赤々と燃えていた庭は暗く、夕日は完全に溶けてなくなってしまった。逆光で男の顔は黒く塗りつぶされている。薄闇の中で、三日月の切っ先のような目だけが見える。

「なに、いって」

その時玄関に車のエンジン音が聞こえた。

婆ちゃんだ、と思った。しかし、急ブレーキのような激しい音に、違う、と、脳がサイレンを回し始める。違う。逃げなきゃ。ドアを激しく狂ったように叩く音。目の前の笹木は笑っている。逃げられない。ドンドンドン!!ドアを叩き破ろうとする音とともに、男の野太い叫び声が聞こえた。動かない。動けない。指の先まで縫い止められて俺の体はぴくりとも動かない。

やがて扉を壊す、派手な破壊音がした。襲撃犯が部屋に駆け込んでくる。全身が脂肪の塊なのに、頬がげっそりとしている。血走った目はぐるぐると黒目を動かしていて、口や鼻から唾液や鼻水を豚のように垂れ流しながら、男は荒い呼吸を繰り返している。右手には、鈍く光る手斧が握られていた。

「黒木の……」

(な、なんでお前、こんなところにい、いるんだ…?!く、来るな来るな!俺のとこに来るなァ!)

白昼の住宅街で響き渡った、男の叫び声が蘇る。
あの蛾の怪異に襲われていた、黒木家の男だ。

俺の声に、恐れおののいた男は「イィィ」と短く叫び、斧を床に落とした。

黒く汚れた己の爪をたるんだ頬に食い込ませて、目を見開き、体を震わせながら叫びだした。

「や、やっぱりだ……なんで、なんんで、どうひて、『宗介』、今更……!!」

見てはいけない者を見たように、狂った目が、俺を見つめて揺れる。

キィー、カタん、トん、キィー、カタん、トん……

鉄が錆びるような音。何かが落ちる音。

あの時も、男は「怪異」ではなく、「俺」を見ていたのではないか。

「『あの冬』に死んだくせに、どうして今更、戻ってきたんだよ、そうすけぇえええええええ!!!!」

恐怖に染まった叫びが木霊した。床に刺さった斧を掴み、男は力いっぱい振り上げた。

殺される。血が吹き出て、それで、痛くて、「冬」に死ぬ。「2004」の表紙。雪が傷に染みて冷たかった。──いや、「死んだ」くせに?

誰が?