夏が囁く



朝方、雨は上がった。

今朝はテレビもついていない。山鳩がどこか遠くで鳴いている。雨露で濡れた草木を、縁側に座って婆ちゃんは静かに見つめていた。
どこか頼りなげで、またどこかへ消えてしまいそうな不安から、俺は婆ちゃんの隣に付き添っていた。

「宗介くん、ちょっといい?」

居間にいる笹木が、ちょいちょいと手招きをした。ちらりと婆ちゃんを見て、俺は笹木の方へ行った。
ちゃぶ台の上には例の手帳が開かれていた。書き込まれている文字が、以前見た時より増えている。

N町=人柱伝説
・赤いワンピースの女=母→「よいこはかえろうね」
・白い顔の子ども=自宅・宗介くんの声・お婆ちゃんの手→「置いてかないで、いい子にするから」「お母さん」
・死ねと連呼する蛾の群れ=同級生、黒木龍也の自宅→「死ね」「産むんじゃなかった」など
・GSの白い首と女の頭=海の帰り・宗介くんとの関連が謎→「あんたなんかいらないのに」 

昨日現れた四つ目の怪異について新たに書き加えられていた。
強く掴まれた感触はまだ首に残り、目を見開いた女の凶相は脳裏に焼き付いていた。

「『仮説1』の検証……『怪異はN町に関係している』……立証されたな」

四つの怪異は全てN町で出現している。俺の言葉に、笹木は頷きながら手帳を指さした。

「うん。でも『仮説2』も間違ってるとは言えないな。……いや?というか、こっち『も』正解かな?」

笹木が指さした矢印のマークには、それぞれの怪異が発した言葉が並んでいる。俺が覚えている限り、笹木に話したものだ。

「わざわざ宗介くんが一人の時を狙い、宗介くんに言葉を発している……」

笹木はボールペンをグルグル回しながら、呟いた。

「俺にはコレが、なんらかのメッセージに見えるな。化け物達から宗介くんへの」

「よいこはかえろうね」「置いてかないで、いい子にするから」「お母さん」「死ね」「産むんじゃなかった」「あんたなんかいらないのに」。

黙り込む俺を、笹木はじっと見ている。何か思い当たることはないのか、と聞きたいのだろう。

「……母さんの記憶はほとんどないけど」

俺は口を開いた。「暴力やひどいことを言われたことはない。関心がない、って感じで見向きもされなかったし」

「ネグレクトってやつだね」

笹木は聞き慣れない言葉を口にした。

「子どもを無視したり、ほったらかしたりして精神的に追い詰めることを『育児放棄』、ネグレクトって言うんだ。暴力はなくても、心に深い傷を残す立派な虐待だよ」

普段チャラチャラしているくせに、随分物知りだ。しかも「民俗学」とは随分かけ離れた分野な気がする。

「それも、あんたの『実践的民俗学』ってやつなのか?」

「え?あ、あぁ……そうだね」

一瞬驚いた顔をした笹木は、こめかみを指でかいた。

「確かに『人柱』で犠牲になった子ども達と『虐待』で犠牲になる子ども達には共通点があるのかもしれない。例えば『社会』から見捨てられている……とかね」

笹木は考えを深めていくように、こめかみをゆっくり指で押した。

「橋や城を作るために犠牲になっていいと思われた子ども達。家庭のしつけや、貧困を理由に虐待を受ける子ども達。
ともに『社会』から疎外された存在といえるね」

俺はふとあの丘の石灯籠の話を思い出した。彼女の命を奪われたことを抗議した人がいたとしても、歴史にその事実は残っていない。

「社会の歪み」が「悲しみ」を生み、「怪異」として現れる。

あの時、石灯籠を前に笹木が言っていたことだ。

母から愛されず、町から孤立している俺と、社会から見捨てられた魂が眠る土地。

「町」と「怪異」と「俺」が、奇妙な糸で結ばれていく。

「もしかして、『自分たち』とよく似た俺を」

その時、家のチャイムが鳴った。
笹木が「お婆ちゃん、見てていいから」と言って玄関に向かった。俺は柱から顔だけ出して、訪問客を覗き見た。

「こんにちは、今日からお世話になります、伊藤と申します」

ふくよかな40台ぐらいの女が立っていた。胸元の名札や、その顔つきに見覚えがあった。

(……家族の問題って複雑ですからね……特にご高齢の方お一人だと)

「あ……」

思い出した。笹木が商店街で話していた女だ。
笹木がその女に頭を下げている。

「こんなに早く来ていただけて助かります。今日はよろしくお願いいたします」

「あの時、笹木さんから綾川さんの状態をお聞きして、事前に準備も進められてましたからね。お怪我がなくて本当によかったです」

笹木と女が談笑しながら居間にやってきた。俺は思わず笹木の背中に隠れたが、伊藤と名乗った女は俺に気づかない様子で、縁側に座る婆ちゃんの隣にしゃがんだ。

「おばあちゃん、今日は初めてですから、施設での過ごし方を簡単にご説明しますね」

「はぁ」

婆ちゃんは気のない返事をしながら、まだ庭を眺めている。女は祖母でも俺でもなく、笹木に向かってファイルを取り出し、説明をしはじめた。

「デイサービス初日は午後4時までの利用です。その間、施設でゆっくり過ごしていただきます。お昼ご飯とおやつ、ちょっとしたレクリエーションもありますよ」

俺は笹木の顔をちらりと見た。

(……家族の問題って複雑ですからね……特にご高齢の方お一人だと)

あの時、笹木は婆ちゃんのことを相談していたのだ。そのあと、俺が笹木を疑ってこんなことを言っていたのを思い出す。

(婆ちゃんからもいろいろ聞き出してるだろ。何が目的だ)

伊藤はさっき、「笹木さんから綾川さんの状態をお聞きして」と言っていた。笹木がウチに来たばかりの頃、やたらと体調やら昔話やらを本人から聞き出そうとしていた。あれも婆ちゃんの状態を施設に伝えるためだったのか。

伊藤はなにかリストを見ながら笹木と確認をし始めた。ガキの俺にはわかるまい、ということなのか、全ての段取りを伊藤は笹木相手に話している。

「持ち物は、洗面用具と着替え、室内用のスリッパ、バスタオル、常用薬です。お気に入りの小物や写真もあれば安心材料になります。ご準備いただけましたか」

「それはもうこちらに」

花柄の大きな手提げ鞄を、笹木は持ち上げた。満足気に女は微笑む。

「あ、あと、オムツのご購入もご検討お願いします。今後、ショートステイとか入院とかも視野にいれて、前もってご用意されてると安心ですよ」

オムツ。たかがそれだけの単語が、俺にはショックだった。婆ちゃんはオムツが必要になるのか。笹木と女は、世間知らずの子供を無視して淡々とやりとりを進めていく。

「それじゃ、玄関に行きましょう」

伊藤が祖母の手を取り、優しく誘導する。雨上がりの庭に、ライトブルーのワンボックスが止まっていた。助手席のスライドドアを開けると、祖母は一瞬戸惑ったように目を見開いた。

「大丈夫です、私が一緒ですからね」

「でも、宗介が」

婆ちゃんは振り返り、俺の名を呼んだ。相変わらず視線が定まらないが、俺を探して、手が空を泳いだ。

「婆ちゃん」

胸が痛くなるほど淋しくなって、俺は婆ちゃんに駆け寄ろうとした。それを笹木が止めるように、肩に手を置かれた。

「大丈夫ですよ、綾川さん」

伊藤が婆ちゃんを励ますように、暖かい声で言った。婆ちゃんは俯いて、伊藤に支えられながらゆっくりと座席に腰を下ろした。笹木が荷物を後部座席に置き、最後に車のドアを閉める。

車は静かに家を離れた。

俺は庭先で立ち尽くしていた。車が段々と小さくなっていく。

「余所者が余計なことしちゃったね」

笹木がぽつりと言った。

俺はそれに答えずに、離れていく婆ちゃんの車をしばらく見続けた。

母親の背中を見つめていた、湯山と駅まで歩いたその道がまっすぐに伸びていた。

でも違うのは、婆ちゃんは、ちゃんとここに戻ってくるということだ。

「──買い物、行くんだろ。俺にもいろいろ教えてくれよ、これからどうしたらいいかも」

振り返った俺を見て、笹木が嬉しそうに微笑んだ。



婆ちゃんのいない間、掃除や家事、日用品や食料品を買ったりしていると、すっかり夕方近くになってしまった。

「いやぁ、買った買った。お家の中も随分綺麗になったね」

スーパーの袋を二つ、どさりと床に置いて笹木は笑った。腐った食品をあらかた捨て、掃除の行き届かない所を掃除し、婆ちゃんが転ばないように部屋も模様替えをした。体はすっかり疲れているが、充足感に満ちている。こんな気持ちになったのは生まれて初めてかも知れない。

「さてと、じゃあ、お婆ちゃんが帰ってくる前に、これからの話をしようか」

笹木は手帳の1ページを破り、ペンを握った。

「怪異に襲われる前に、まず生活が崩れたらどうにもならないもんね」

婆ちゃん愛用の座布団を中に取り込んで、俺は笹木の傍らに座った。

「……婆ちゃん、俺が守っていかなきゃだもんな」

少しの沈黙のあと、笹木はあっさりと言った。

「正直、それは難しいと思う」

胸の奥が、わずかに軋んだ。

「だからさっきの『デイサービス』なんだけど」

笹木は指を一本立てた。

「介護保険って制度を使ってる」

「かいご……?」

聞き慣れない言葉に、思わず聞き返す。

「最近、始まった制度なんだけどね。まァ、簡単に言えば、『家族だけで介護を背負い込まないための仕組み』ってこと」

笹木は紙の中央に三角屋根の、シンプルな「家」のマークを描いた。そして線を引き、「市役所」の文字を書き加える。

「まずやることは、市役所に行って「要介護認定」を申請すること」

「認定?」

「うん。役所の人が家に来て、お婆ちゃんの状態を確認する。どれくらい手助けが必要か見て、「要支援」とか「要介護」って区分がつく」

笹木はスラスラと喋りながら、紙に言葉をまとめていく。俺は笹木の手元を覗き込んで、頭の中で要点を整理する。

「その区分によって、使えるサービスの量が決まる。デイサービスとか、ヘルパーとかね」

「……さっきの女の人は」

「ケアマネージャー」

即答だった。

「あの人が中心になって、どういうサービスをどれくらい使うか計画を立てる。家の状況も含めてね」

俺は少しだけ視線を落とした。サービスといっても気がかりな問題があった。

「金は……かかるんだろ」

「かかるけど、全部じゃない。基本は1割負担。まぁ、最近は申請者も増えてちょっとした問題になってるけど」

笹木は肩をすくめる。

「お婆ちゃん、年金あるんでしょ?なら、やり方次第でなんとか回る可能性は高い。
……大丈夫、未成年の君に負担はかけさせない。この説明は、一応、宗介くんにも知っといてもらいたかっただけだから」

まだろくに働くことのできない俺を不安にさせないためにか、笹木の口調は明るい。それでも、難しい単語や、金銭に関する現実的な問題が俺の体に重くのしかかるようだった。

「……やっぱり似てるな」

不意に、笹木がそんなことを呟いた。

「何がだよ」

「人柱伝説と、今の話」

現実的な話に伝説の話がうまく繋がらない。笹木が言おうとする意味が分からず、俺は顔をしかめた。

笹木は手帳を開き、ペン先で軽く叩いた。
笹木の声が、少しだけ低くなる。

「前に宗介くんに教えたよね。人柱に選ばれるのは子どもや若い女性なんだ。その中でも、身寄りがない子どもとか、貧しい家の子とか……いなくなっても問題になりにくい存在」

胸の奥がざわついた。

「つまり、『社会から見えにくい人間』」

笹木は一度言葉を切り、静かになった部屋を見渡した。さっきまで婆ちゃんがいた場所が、妙に広く感じる。

「で、現代の話なんだけど」

笹木はペンをくるくると回した。

「介護も、構造は少し似てる」

不安そうに見つめる俺に、笹木は微笑んだ。

「もちろん制度はある。昔よりずっといい。でもね、『申請しないと存在しない』のと同じなんだよ」

「存在しない……?」

「書類に載って、認定されて、初めて『支援対象』になる。それまでは、『なんとかやれてる家庭』扱い」

(……家族の問題って複雑ですからね……特にご高齢の方お一人だと)

伊藤というケアマネージャーが、笹木に話していた言葉が蘇った。

「特にこういうケース」

笹木は、まっすぐ俺を見た。

「高齢者と、若い家族の二人暮らし」

笹木が言わんとすることが分かる。社会的に弱い立場だということを、俺自身身、身に染みて感じていた。社会的に弱い人間を、社会は見ようとしない。

「宗介くん」

笹木の声が少しだけ柔らかくなる。

「君は孫だよね」

「ああ」

「法律的には、親ほど強い義務はない。でも現実には」

一瞬、言葉を選ぶように間があった。

「主な世話役になる可能性が高い」

胸の奥が重く沈んだ。金銭的な問題だけじゃない。時間や責任、いろいろな問題が突然のしかかってくる。

「学校は……」

婆ちゃんに不義理だと思いながらも、相手が笹木だからこそ、俺は素直に不安を口に出した。

笹木は笑ってはっきり言った。

「勿論、続けるべきだ」

「……でも」

「『全部自分でやる前提』は捨てること」

ぴしりと言い切る。

「介護はね、真面目な人間から壊れる。だから制度を使う。人に任せる。サボる」

「サボるって……」

あんまりな言い方に思わず顔を上げると、笹木は肩をすくめて笑った。

「いいんだよ、それで。そのくらいでちょうどいい。宗介くんに最も大事なことは、そういう考え方だよ」

外では、また山鳩が鳴いている。

「人柱伝承の石碑や記録を見ているとね」

沈黙を破って、笹木がぽつりと続ける。

「学術的に貴重な記録だと思う一方で、命を犠牲にして社会に貢献することを、どこか『美学』として讃えてる気がするんだよね。人柱にされた可哀想な娘さんがいましたー、尊い命の上にこの建物はありますー、ってどこか他人事な感じ……っていうのかな」

俺はあの石灯籠の説明文を思い出した。犠牲になった彼女がどんな風に生きて、本当はどんな夢をもっていたかとかそんなことはもう永久にわからない。

生きた証を語るのではなく、その魂を鎮めることを選ぶのは、ひどく残酷なような気がした。

「介護もそう。家庭の中だけで解決しようと、家族だけが自分の人生を犠牲にしようと考えてしまう」

その言葉が、妙に重く響いた。

「宗介くん」

俯く俺の肩にそっと手が置かれた。

「君がそれになる必要はないんだ」

顔を上げると、軽い笑みが浮かんでいた。

「そのための制度だし、君を助けるために俺みたいな余所者が口出ししてる。案外、外から来た人間がしゃしゃりでた方がうまくいくこともあるしね」

だからお婆ちゃんは大丈夫だよ、という言葉を聞いて、昨晩から感じていた不安がほんの少し軽くなった気がした。

「……大学生って、すごいんだな」

ぽつりと呟くと、笹木がニヤリと笑った。

「大学生っていうか、俺がすごいって言ってよ、宗介くん」

「いや、そうなんだけど、なんていうか、いろんなこと知ってるし、ちゃんと考えてるっていうか……」

自分でもうまく言葉にできないまま、頭をかいた。

「俺も、もうちょっと勉強してみようかなって思った」

言ったあとで、少し照れくさくなる。

笹木は一瞬だけ黙った。

だがすぐに、いつもの調子で笑った。

「いいんじゃない?勉強は、して損することないしねー!」

ま、俺は不真面目学生だけど、と最後におちゃらけて、笹木は立ち上がった。

俺は縁側に出た。いつも婆ちゃんが座っていた縁側は、妙に広く、空っぽに見える。でも、寂しいだけじゃない、別の気持ちが心に生まれていた。

昼の暑さはまだ残っているが、額を掠める風に、少しだけ秋の気配が混じっている。

庭の生い茂った草木が揺れる中、夕日が山裾に隠れていく。
干しっぱなしのタオルも風でゆらりと揺れる。

婆ちゃんを載せたライトブルーの車が家に帰ってくるのが見えた。